師 の 不 要 ―師についてのPART2

 『ぴあ』という雑誌の登場は、私には妙に世代の断絶を感じさせるできごとであった。最初にこの雑誌を書店で見付けて、何気なく手にとってパラパラと頁をめくっていたとき、「缶蹴りをする集い」とかいう記事が目にとまった。正確なタイトルや記事内容は覚えていないが、湘南かどこかの海岸で缶蹴りをやるから、やりたい人は集まって下さいというようなものであった。何と言うことはない記事であるが、当時の私にいささか複合的なショックをもたらした。それは、缶蹴りが大人の遊びになっていること、こうして雑誌でプレ−ヤ−を募集するようなものになっていること、そして何よりも、こうしたことを掲載した雑誌が商品として売れているということであった。

 『ぴあ』って何だろうと考え、やがて今は情報の商品化が急速に進んでいるのだ、そしてまず情報を集めないと、どうやって動いたらいいのか分からなくなっている世代が出現しつつあるのだ、という結論を導いたのは、それからしばらくたってからだった。そのような認識で世の中を眺めていくと、やがて情報量の急速な増加がもたらす不気味な影響に、目が向かざるを得なくなった。

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 芸事を始めるのだったら、基礎からちゃんとやり、できるだけ上手なお師匠さんにつきなさいというのは、これ世間の常識である。この常識は芸事に限らず、およそ何かを習得しようとするときの、一般的セオリ−であるといってよい。学問もたしなみの一種であると見るなら、まったくこのやり方をとるのが賢明であろう。基礎から学び、優秀な師につくにしくはない。

 これはしかし総論である。総論を作るのはたいていの場合、そう難しいことではない。例えば宗教の存在意義についてもそうである。皆を幸せにするのが宗教の使命であるという総論には、反対する人はあってもごく少数であろう。だが、その幸とはどういうことか、どうやって達成するか、といった各論部分となると、たちまち教学的対立、セクト的対立などが待ち受けている。だから、学問を習い事と捉えても、どのように習うかの各論部分になれば、途端に話はややこしくなる。

 学問に比べれば、武道、スポ−ツの類は、基礎が何であり、優秀な師は誰であるかが比較的分かりやすいといえる。しかし長い間当然と思われていた練習方法が、健康上からは不合理な面があることが指摘されることがあったり、相撲の名横綱や野球の名選手が、優れた親方や優れた監督になるとは限らないという現実を見やるなら、ここでも事情は複雑であると気付く。

 まして、学問の中でも方法論の確立されていない点では、トップクラスに属する宗教学となると、各論の展開は絶望的となる。宗教学の基礎とは具体的には何か。優秀な師とはどのような人を言うか。一歩踏み込んだが最後、底無し沼が待ち構えているのは、目に見えている。第一、宗教学の基礎が何かは、研究対象によってまちまちである。仮に語学の習得だ(ヘブライ語だ、ギリシア語だ、サンスクリット語だ、アラビア語だ、スワヒリ語だ、・・・)、先行研究の読破だ(ウェーバーだ、デュルケイムだ、エリア−デだ、・・・)、調査の体験だ(山に行け、教団に行け、外国に行け、参与観察だ、・・・)と列挙しても、どのようなステップをとるのが、宗教学として好ましいかとなれば、結局渾沌としたままである。たいていの人の場合、右往左往しているうちにいつしか年をとってしまって、まあ自分のやってきた方法を仕方なく追認する、というパタ−ンになっているようである。

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 基礎が何であるかが、単に研究対象によって左右されるだけでなく、誰を師として選ぶかにも大きく影響されるところが、これまた宗教学の厄介なところである。それに、誰が自分にとって良い師であるかは、実際教わってみなければなかなか分からないというのが、本当のところであろう。また、優れた師といえども得手不得手があるのは仕方がないから、一般的な評判としての「良い師」が、自分にとっても「良い師」であるとは限らない。ときとして逆も真であり得る。

 研究対象によって、基礎が何かにズレが生じるのは、まあ仕方のないことである。しかし、師によって最初の数歩の道筋が、大きく異なってしまうというのは、これも仕方ないとは言え、何か釈然としない思いが残るのも事実である。この先生について研究をすることになったのも、運命だ定めだと、急に宿命論者的になるのも、「人間を超越するもの」との、中途半端にして、かつ一方的な妥協に思える。

 こういう思考上の行き止まりは、闇雲に突いたり蹴ったりしても、活路が開かれるわけではない。さりとて袋小路に佇むのも嫌だとなれば、発想を変えるという手がある。ならば「宗教学においては、師という存在は不要である」と考えたらどうであろうか。教室で難しい顔をして講義をする先生を、師と捉えないとすると、どういう種類の人と理解すればいいのか。先生は「止まり木」であると考えればいいのである。止まり木とは何だ。ずいぶん馬鹿にした表現ではないか、と眉を逆立てないで欲しい。これも時代の流れだということを、以下私なりに説明したい。

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 一方で、嫌気がさすほど多様な研究対象と、それらが要求するこれまた多岐にわたる基礎訓練があり、他方で、先生の側が発信できる情報には限度があるという現実があるとすれば、どちらに対しても、しばらく試行錯誤的につきあうという方法が当然考えられる。試行錯誤的つきあいとは何か。

 まず、どのような研究を行うか、つまり何を対象にし、どのようなアプロ−チをするかを、対象と自分との相性を測りながら決めていくというのが、一方への対処である。何を自分の得物にするかを最初から決めないということである。同時に、たまたま学ぶこととなった先生(たち)を、自分の一生の研究の指導者(たち)と定めるのもリスクが大きいので、とりあえず、主たる情報と知識の入手ル−トとみなすというのが、他方への対処である。その有用性や信頼性に疑いが生じたら、執着する必要はあるまい。かりそめの止まり木にすればよい。これは得難い情報と知識の供給源であると判断したら、ながらくそこにとどまるのが賢明であろう。                          

 なんだ、そんなことなら、良い師を見付けろということと同じではないか、とがっかりする人もいるかもしれないが、ちょっと違うのである。情報化がもたらすこの激しい社会変動は、もはや、どんなに優秀な師でも、止まり木程度にしてしまう恐ろしい力をもっているということである。今までは、師の選び方の難しさを、もっぱら宗教学のせいにして話を進めてきたが、本当は、ほとんどの学問領域における師弟関係に、大きな構造変化が生じつつあるのではないか、という推測を裏に秘めているのである。これだけの量の情報が、世の中に流れ始めたら、個人で対処できる範囲は、もう情けないほどにちっぽけである。1988年版『通信白書』をもとに計算すると、1秒間に、133億語の情報が日本を駆けめぐっていることになるという。1冊の本を読むあいだに、何冊の本が新たに刊行されることか。1つの出来事の原因を確かめているあいだに、その出来事を契機とする新たな出来事についての話題がいくつ耳にはいることか。そうした環境のもとでは、1つの情報源を恒常的に信頼するという発想自体が、危機にさらされている。防衛策として、四方八方を感知できるアンテナが必要ということになる。当然のことに、今日の止まり木は、必ずしも明日の止まり木たり得ずということにもなる。

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 情報のパラドックスということが言われる。情報を多く知る人ほど、情報に基づいた知識への確かさは、減少するということである。極端な言い方をすれば、1つの情報しか得ていない人が、もっとも確かな知識を有するということになる。ただし、真面目な顔をしてこの言説をなしうる人がいたら、その境地はもはや宗教的な範疇にはいっている。世俗人は、蓄えた情報をつき合わせることで、情報の増加がもたらす不確かさの増加を、いくらかでも減らそうという、きわめて矛盾と哀愁に満ちた努力を重ねるしかない。

 このような事態において、絶えず先導役となる師は、もはや不要である。いや正確に言えば、そのような師は存在しえなくなりつつある。疑うべくもなく、われわれは、情報化され、大衆化された教育システムに移行しつつある。旧来のシステムにおける師のイメ−ジにこだわり続けると、新しいシステムの本質を見失うことになる。

 こうしたシステムの中では、いささかでも止まり木たり得る先達を見付けられるかどうかは、まったくその人の情報収集能力にかかっているということになる。

                           (19891213日記)

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