師 の 不 滅 ―師についてのPART3

 

 「柳川先生のお弟子さんですか」というふうに聞かれると、少しばかり答えにくい気持ちになる。実質的には、柳川先生からずいぶんいろんなことを教わった。また、ワ−スト記録になってしまった私の長い助手時代には、先生が関わったいろんな仕事のお手伝いをすることも多かった。けれども、形式的には、柳川先生が私の指導教官であったことは一度もない。

 学部時代は、当初、堀一郎先生の指導を受け、堀先生が退官の後は、脇本先生の指導の下で卒論を書いた。大学院にはいってからは、なんと中村廣治郎先生が指導教官であった。そのときは、どちらも宗教思想が専門だからとか何とか、よく訳の分からない理由がつけられていたが、実は、私をイスラム研究者に仕立てようという柳川先生の深謀遠慮があったとは、後に聞かされたことである。当時、まったくその気の無かった私は、一種の謎かけに反応することなく、せっせと国学者の研究をしていた。(このことが関係したかどうか知らないが、やりたかった仏教研究の道を捨ててイスラム研究に転じることになった鎌田繁氏は、もっと強引にこの「転宗」を迫られたと聞く。)また、博士課程にはいってからは、再び脇本先生が指導教官となった。

 そんな形式的なことはどうでもよく、実質的に学問上の影響を受けたかどうかが問題であるというところから、弟子かどうか考えても、やはりちょっと分からない。実質的な影響と言うなら、研究室にいた先生方からは、大なり小なりそうしたものを受けた。ほとんど修士論文の相談に行かなかった中村先生からも、学んだことは少なくないし、声の大きい窪徳忠先生からの刺戟は体にしみた。

 ではもっとも影響を受けたのが柳川先生かと言われても、そうであるとは答えにくい。これまでの自分の書いた論文を眺めても、先生の薫陶を受け、と言えそうなものはほとんどない。要するに駄目な弟子だったんだ、と言われればそれまでで、返す言葉はない。ただ、自分の意識の問題として考えた場合、果たして柳川先生から学問上の影響が一番大きかったかと問い直すと、やはり分からないのである。

 しかし、逆に、柳川先生は師であったかと自問するなら、そうであったという答えの方が自分としてはすっきりする。このことはひょっとしたら、当時研究室にたむろしていた多くの人に当てはまるかもしれない。すなわち、柳川先生から学問的に何かを継承しているかどうかと問われれば躊躇する人であっても、振り返ってみるなら、やはり師としての感触を先生から得ていたということである。

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 「虎の威を借る狐」ということは、学問の世界でも珍しくない。これも悪質なものと、どちらかと言えば、微笑ましい表現すべきに近いものとがある。自分のやっていることは、師のやろうとしたことを踏襲しているのだと宣言することで、質の悪い研究の上塗りを図るのは、前者に当たる。大体、自分が師の正統な継承者だと声高に言い張る弟子に、ろくなのがいないというのは、私の個人的な経験則である。ついでに言えば、師の真似をする、あるいは師の弟子たることを殊更主張する者が、大抵師の一面のみ、しかもどちらかと言えば好ましくない一面を継承していることが少なくない。きわめて広い学識に支えられたユニークな発想法という師のあり方に対し、やたら発想法のみで勝負するタイプの人間が弟子を標榜するなどという類である。

 また、師の説を踏まえましてと、自分のやっているささいな研究の意義づけを図るのは、後者の一例である。もちろん、学問は、先学のやってきたことを検証したり、乗り越えようとしたりする試みであるから、それとの関連で自分の研究の意義付けを行うのは、当たり前であって、なんら非難さるべき筋合いのものではない。ここで言っているのは、あくまで師の「威」を借りるということである。

 誰が師の道を継承しているか、本当に薫陶を受けたかは、相当な年月が経ってから明確になるものかもしれない。不肖の弟子であると言ったり、弟子であることをことさら言いたてない人の中に、案外師の精神を継承としようと見えない努力をしている人もいたりする。また、師自体が、どのような流れの中に存在していた人物であるかと評価されるかによって、弟子の評価も変わってくるということもあろう。一見、師に敵対したかに見えた人や、追い出されたかに見えた人の中から、師につながる太い脈絡が発見されるやもしれない。こう想定してみると、話は楽しくなる。

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 さて、情報化が本格化してくると、学問の世界で、従来師というものがもっていた重みや存在意義は、急速に脅かされてきているのではないか、もはや、師を師として成り立たしめる構造そのものが、崩壊の危機に直面しているのではないか、というのが、私の前回のエッセイで言いたかったことである。

 今は、そうした過程がじわじわと進行しているので、この地殻変動にどう対処するのがいいのか、まだ道が見いだされていない段階であると、私は考えている。だから、起こっている現象の中には、情報化時代のマイナス面をあらわしたものも少なくない。例えば、「気侭な宗教学」の出現ということがある。これは情報過多の時代につけこんだやり方であって、自分の少々の体験をもとに、宗教学の研究方法や中心課題を云々しようというものである。これまでの研究史を適切にまとめうる人が少なくなっているのを承知の上で、身近で得られた適当な材料をアレンジして、宗教学風のものをでっちあげる人もいる。こんなことをされたら、これまでの学問的蓄積、あるいは先学の苦闘は何であったかということになる。

 また、古典的な議論があまり顧みられなくなったのをいいことに、陳腐な議論に新しい装いをこらして、人目を欺くというやり方もちらほらある。もっとも、情報化時代は、情報を消費する傾向を強めるので、研究成果も大衆への情報提供という性格が強まるに違いない。それを承知のパフォーマンスなら、こうした人々も時代を読んだエンターテイナーということになろうか。

 ともかくも、地道に研究を続けようとする人にとっては、この転換期の状態は、あまり居心地がよくないかもしれない。確固とした学問の伝統の上に、自分なりの何かを付け加えていくという安堵感が乏しいからである。師の基盤が危ういものになってきたということは、結局次の世代の基盤も保証されていないということでもある。

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 師の圧倒的存在感というものは、伝統芸能や伝統技術の世界においては、依然として確認できる。そこでは師の言葉は絶対であり、踏むべきステップは厳然としている。そのような継承の仕方もまた充分意義があることには、歴史が証明者となる。そこでは、中途半端な批判や反発は撥ねつけられる。学問の中にも、伝統芸能・技術のような性格のものもあるから、そうした分野の場合には、師の存在は、今なお光り輝いているに違いない。

 だが、宗教学のように、日を追うごとに新しい情報が山のように押し寄せてきて、それを考慮に入れた上での考察を迫られている学問分野では、伝統芸能と同じようには事は運ばない。師が知識と判断力で優位を保った上で、学問の伝統が継承されると期待するわけにいかないからである。師を経由しない情報の方が役立つかもしれないし、複数の人間が自由に討議する形で問題に対処した方が、ずっといい解決が得られる可能性がある。

 では宗教学のような分野では、師と呼ぶべき存在は本当に不要なのか。せいぜいコーチ役が数人いれば、事は足りるのだというふうに結論できるであろうか。そのように割り切ってしまう方が、学問に対しては誠実なのかもしれない。自然科学の一部の分野では、次のようなシステムが標準的なようだ。すなわち、その分野における世界中の最先端の研究成果には、コンピュータネットワークを用いてアクセスする。そして自分の研究に参考になりそうな論文をチェックしそれらの消化に努める。あとは、そこからどれ程早く自分なりの発見なり分析なりができるかである。従来の成果を踏まえて、新しい知見を出すという、科学の一つの道程が、味気ないまでにシステム化されている。

 学問の世界では、師資相承のような形での情報伝達形態が、どんどん隅に追いやられていく。代わって、研究のシステムの整い具合が大きな意味をもってくる。そのような状況の中で、師について考えることは、情緒的なつながりという領域での問題になってくるのであろうか。そこに逃げ道を見出すのもなんとなく能がないような気がするのだが。

 師という存在が内包しているものから、知識・技術・情報等の伝達機能を差し引くと、何が残るであろうか。それを行うことの意味の体現というのはどうだろうか。つまり、その研究がなぜなされなければならないか、ということについて、語らずして一つの回答を与え得る人ということである。そのような人が存在すれば、後進の者は大いに勇気づけられる。師は記号化しては伝達しにくい情報を発する存在であるとするなら、師は不滅と言ってもよいような気がしてくる。

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 このシリーズの第1回(「師の不在」)を書いたときには、柳川先生は存命中であった。関氏が最初のエッセイにいちゃもんをつけた(失礼!)ことで、急に3部作にする気になってしまった。「師の不在」に「師の不要」と続けたところで、柳川先生は他界された。今回の「師の不滅」論は、先生の歿後思いついたのではなく、「師の不要」論を書く時点で、すでに念頭にあった。先生が亡くなったあとで、これを執筆することになろうとは予想もしなかった。とくに柳川先生論であったわけではなく、今の研究者を取り巻く状況を自分なりに勝手に解釈したまでだが、師をめぐるテーマであれば、柳川先生論と無関係と宣言するのは、かえって欺瞞的となろう。

 柳川先生で印象深いのは、宗教学研究室とは直接関係がない人も、周りにたむろしていて、そこに優秀な人たち(おそらく中には先生よりも優秀な人)が、何人かいたことである。これは先生の包容性の故と理解するのが適切であろうが、そこから私なりに導き出した教訓がある。それは、もし敢えて師を求めるなら、そこにどんな人が集まっているかを観察しなさいということである。もし周りに自分を凌ぐ人をも集めている人なら、ある程度信頼するに価する。イエスマンや、遣い走り役のみを集めている人には、まず近寄らない方がいい。自分の能力以下の人しか吸引し得ないような人は、師としては最初から失格ではないか。情報化時代にはそうした厳しい基準がつきつけられている、というのも私の独断的見解である。            (1990年12月記)

 

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