師を見つめる心       

 一九九三年の暮れも押し詰まった頃、東大の赤門横にある学士会館分館で、岸本英夫をめぐるミニ・シンポジウムがあった。嘲風会の主催であった。嘲風会と言うのは、東京大学宗教学研究室に関わりのある人の集まりで、嘲風というのは、一九〇五年に東大に宗教学の講座が初めておかれたときの主任教官姉崎正治の号にちなむ。

 岸本英夫は姉崎正治の娘婿であり、アメリカの最新の理論を持ち込んで、戦後の宗教学研究室に新風を吹き込んだ人でもあった。一時日本文化研究所の所長を勤めたこともある。しかし、悪性の癌に苦しめられ、ついに六四年一月二十五日、定年を前にしてこの世を去ったのである。その闘病記『死を見つめる心』は、宗教学者が死を正面から見据えた本として話題になり、毎日出版文化賞を受賞した。その岸本の没後三〇年を記念してのシンポジウムであった。

 発題者は三人いた。私にとっては大先輩の久我光雲氏、やや後輩の島田裕巳氏、ずっと後輩で院生の飯田篤司氏である。私はコメンテーターを頼まれていたので、三人の話しをじっと聴いていたが、岸本とどのような距離にあるかということと、それぞれの研究姿勢とが絡まって、三人三様の特徴が、実に見事に浮き彫りになっていた。

 久我氏は、岸本から直接講義を聴いた世代に属する。どうしても身近に接した岸本の思い出に強く引きずられた発題であった。これに対し、島田氏は、幾分身近に感じられるにしても、間接的体験しかないという世代である。聴衆に退屈させずに時間を費やそうという意図があるのか、確かに聞いている分には枝葉の話で飽きないが、肝心のところは内容が乏しかった。飯田氏にとっては、岸本は学説上の存在であるので、その分冷静なアプローチであった。何を継承すべきか、論じようとした態度は快かったが、努力目標の整理という印象が強かった。それで私は、それぞれの発表に対し、「ノスタルジア宗教学」、「おしゃべり宗教学」、「お題目宗教学」とその場で命名して、コメントを行った。

 私も世代的には島田氏に近いので、学生時代に、岸本の思い出を当時の東大宗教学研究室の先生方から、幾度か聞いた。その人間味あふれるエピソードは、記憶に残るものが多かった。けれども、戦後の混乱期に遭遇したため、学問以外のことに余りに多く関わらざるを得なかった。このことにより、学説上はついに、後世に大きな影響を与えるものを築く余裕がなかったと私は感じている。でも、きっとそれ以上に大切な何かを弟子たちに残したのであろうことは、弟子に当たる世代の岸本への敬意から如実に分かるのである。

 三人の発題が、岸本との距離によって、見事に分かれたのは当然である。既に故人となっても、生き生きとしたイメージで思い起こせるような師。リアルな話は聞けても、所詮間接的なイメージしか築き得ない師の師という存在。ほとんど歴史上の人物というに近い先学。これらでは、議論も異なってくるのは当たり前であろう。

 三つの発題は、しかしながら、別の問題関心を刺戟するものであった。以前から私は東大の宗教学は、師の学説をどう扱うかという問題を、実はあまり真剣に考えてこなかったのではないかという印象をもっている。たまたまこのシンポジウムで立ちあらわれた師説に対する三つのパターンは、先学を俎上に乗せる際のいさぎの悪さが、にじみでている。

 ノスタルジア宗教学的な立場は、師の記憶を心情的に懐かしむことが優先され、師の説を本気で乗り越えようという意図に欠ける態度の象徴に思える。これがもっとも支配的である。おしゃべり宗教学は、秀でた雑学の最先端たらんとした宗教学の系譜(ゲリラ宗教学)が存在することに関係する。師説も摘み食いされて、すぐさまこの雑学的知識のごった煮の中にほうりこまれてしまう。お題目宗教学は、宗教学が解決すべき問題が何かを論じるのは熱心だが、それから先になかなか進まないという系譜(交通整理の宗教学)

の一環である。これはともすれば、永遠の唱題もしくは交通整理のみをやり続けることになりかねない。

 要するに、師説と本気でぶつかっているかという疑問なのだが、師に対するもっとも真摯な態度は、師説を叩きつぶすくらいの気持ちでぶつかっていくことだというのが私見である。はたから見れば蟷螂の斧というに等しくてもである。岸本はまさにそのことを望んだと読み取れるのだが、肝心な所を実践せねば、なにもならない。

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