ウィーン大学立ち寄りの記

 ユーゴスラビアのアドリア海に面した町、ドゥブロブニクで開かれた国際シンポジウムに参加した帰途に、ウィーンに立ち寄った。ドゥブロブニクは、「アドリア海の真珠」という呼び名があるように、風光明媚なリゾート・タウンであるが、残念ながら、すでにシーズン・オフであった。

 また、シンポジウムは、打ち合わせを含むと四日間にわたり、テーマも「多様な文化的宗教的伝統と人権問題」という、やや肩の凝るものであった。そういうこともあって、せっかくヨーロッパまで足を運ぶのであるから、少しくつろごうと、ウィーンを選んだのである。

 ウィーン大学の日本語学科で助手をしているヴェスさんは、十年近く前に、東大の宗教学研究室に研究生として在籍していたことがあり、以来、ときどき情報の交換をしていた。

 今回、ウィーンを訪れる際、ウィーン大学を見学したいのだがと手紙を書いたら、すぐOKの返事が来た。そこまでは良かったのだが、追いかけてもう一通手紙が来て、日本語学科の生徒に日本の宗教について一時間講義をしてくれないかとのこと。初級者だから、日本語では駄目。ドイツ語であると私の学力が至らない。そういう事情を見込んで、英語でやってくれとの依頼である。

 少しばかり躊躇したけれども、すぐに、これはいい機会ではないかと思い直した。日本人のごくありふれた宗教生活、あるいは民俗信仰を紹介し、これに対する反応を知りたいものだと考えた。

 そんな訳で、ドゥブロブニクでのシンポジウムが終わっても、何となく落ち着かず、ベオグラードの市内見物もそこそこに、ウィーンに飛び立つ羽目となった。

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 十一月も半ばということで、ベオグラードもかなり寒く、吐く息は白く散っていたが、ウィーンは一層冷え込み、零下三度であった。着いた翌日、すなわち、十八日の夜には、雪が降り始め、朝になると、都心でもたちまち十センチほどの深さとなっていた。

 宿泊したのは、「レーラーハイム」という簡易宿泊施設。日本語に直せば、「教師の宿」という意味だが、ここは、一泊二千五百円と馬鹿安い代わりに、通常のホテルにあるような設備はほとんどなく、トイレすら共同であった。

 それもその筈で、この建物は、本来ホテル用に作られたものではなかった。一般の住居の各部屋を宿泊用に手直ししたものであった。こうして外来の客の便を図ろうとする心づかいと、そういうことが可能な、ウィーンの家の造りの大きさにうらやましさを覚えたものである。

 エレベーターは、ヨーロッパ映画のファンなら、すぐに思い浮かべる、例の鉄製の篭のようなやつである。ボタンを押すと、釣り合いを保つための重りと、持ち上げるワイヤーが動くのが見える。もちろん、ドアの開閉は手動である。エレベーターの周りを階段がぐるぐる巡っている。

 講義は、着いた日の翌日午前中ということであったので、宿に着いた夜に準備にかかった。ウィーンの夜を楽しむ余裕も、付近を散策する暇もなかった。それにその日は日曜日であったから、店はどこも閉まっていた。レストランでビールとシチューを喉に注ぎこむのが関の山であった。

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 講義のテーマは、現代日本の民俗信仰にしようと、出発前から決めていた。たとえば、日本の宗教史の概説とか、仏教宗派や神社の説明などは、いろんな入門書に書いてあるに違いない。とくに歴史的な事柄は、書物を読めばなんとかなる。だから、通常の日本宗教の紹介書では、なかなか知り得ないことを話してみようと考えたのである。

 学生は、四十人ほどであった。余り広くない教室にぎっしりであった。日本だと、あふれた学生は後に立つのが普通であるが(もっともそんなことは、あったとしても、最初の授業か試験前の最後の授業位であるが)、ここでは、学生たちは教壇のすぐ横に椅子を持ってきて腰掛けていた。

 冒頭の挨拶だけは、前夜必死になって作文したドイツ語で話し、それから本題にはいった。具体的に話を進めようと、六曜、すなわち、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の話とか、鬼門の話、あるいは姓名判断、手相の話などに時間を費やした。

 分かるかなと最初は不安であったが、雰囲気で大体理解していると感じた。講義中でも、疑問な点があると、質問してくる。それが聞きとれず、内心ちょっとあせったこともあったが、そこはあわてず「パードン」を繰り返す。何回か聞けば、なんと耳に馴染むものである。

 講義後の質問もかなり活発で楽しかった。方位のタブーと姓名判断の話とにひっかけて、「日本航空のジャンボ機の事件があったとき、姓名判断や、方位が悪かったなどという論議がでたのか」という、まことに本質をとらえた質問もあった。

 ヴェスさんが横で聞いていて、学生たちに、オーストリア、あるいはヨーロッパの民俗信仰と比較してみなさいとアドバイスしたこともあって、日本の民俗信仰を特異なものと考えず、比較考察する論議も出てきた。議論に慣れているという印象であった。

 年間を通じて質問が二、三回という日本の講義に慣れていた身にとっては、充実したひとときであった。是非またやってみたいと思ったものである。

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 民俗信仰の比較考察というのは、もっとまだまだ遅れている分野であると思う。ヨーロッパといえばキリスト教、一神教。日本のような多神教、シンクレチズムの世界とは、程遠いなどと思うのは、大きな間違いである。少なくとも、カトリック国においては、民衆の宗教は、日本と大差ない。マリア様に願をかけ、それが聞き届けられると、教会の壁に、「DANKE BITTE ○○」などと刻んであるのを見ると、やはり日本の絵馬と比較したくなる。

 近代合理主義の中にあっては、御利益信仰は、肩身が狭い。前近代的なものの名残として冷ややかに見られることが多い。けれども、民衆の宗教を支えているのは、御利益信仰である。御利益信仰という表現が悪いので、日常の幸せを願う心と言えば、もっと通りはよくなる。

 病気にならぬように、なったなら早く治るように、災いが降りかからないように、暮らしが楽になりますように、などというのは、きわめて通文化的祈願の内容である。祈願の対象には、マリア様、主イエス、釈迦如来、阿弥陀仏、アッラーの神、あるいは、お稲荷様に弁天様と、キャラクターには事欠かないが、祈りの言葉は、おそろしく似通っている。

 民俗信仰は、国際比較してこそ面白い。日本民俗学でなく、国際民俗学というのが早く生まれないかと思っている。

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 ウィーン大学は高校を卒業し、大学の受験資格を持つ者は、誰でも入学できる。外国人でも特別に難しくはない。日本の大学に入学した者であれば、大体はいれるようだ。希望があれば受けつけるというのが原則である。従ってときどき、箔つけに入学する日本人がいるようだ。しかし、卒業は難しい。二年生になる段階で、ほぼ二分の一になり、卒業段階では、四分の一以下になるのが通常であるという。

 だから、授業に熱心になるのは当たり前のこと。これはアメリカでも同じだ。合格通知を受け取ったら、それきり勉強しないという日本の大学生の方が異常であるに決まっている。それが異常と感じられていないところに、病める日本の大学の姿がある。

 翌日は、偶然にも、ウィーン大学の文学部の卒業式であった。卒業式は、学部ごとに、年に三回か四回かおこなわれるそうであるが、珍しいチャンスに恵まれたので、早速見にゆくことにした。

 式場は、きわめてカジュアルな感じ。特に指定された席があるわけでもなく、適当に座っている。卒業生が前に一列に並ぶ。学長、学部長が伝統的な衣装を着て現れたので、ようやく荘厳さが加わったというところ。何よりも来賓の祝辞とやらが一切ないところがいい。

 ところで、卒業証書では、卒業者の名前はラテン語になるという。ピーターもペテロと、ちょっと偉くなった感じである。日本人はどうなるのかとヴェスさんに聞いたら、日本名はそのままだという。それはそうだ。譲治がゲオルギウスになったら、たまったものではない。

 驚いたことに、当日の卒業生の中に、私が東大の大学院時代に教わったK先生の娘さんがいた。晴れ着を着ていた。K先生自身もきっと来ているに違いないと会場を探したら、会場をコの字型に取り囲んでいる見物席の一番前に、身を乗り出すようにしていた。

 肩をたたくと、振り返り、ちょっとびっくりし、それから一呼吸おいてから、ぎょっとしたような顔つきになった。何とも信じられないと言いたげである。「いやー、悪いことはできないもんだな。」と一言。別に悪いことではないと思うが、焦ったのであろう。まったく偶然とはおそろしいものである。

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 十一年振りのウィーンであったが、印象は変わらない。伝統の重みを相変わらず感じさせる。成熟した伝統である。成熟の故の悩みもまた抱えているのであるが、学ぶ必要のある成熟度である。

 ドゥブロブニクにおけるシンポジウムの際にも強く感じたことであるが、ヨーロッパでは、国境が日本的な感覚の国と国の境ではない。むしろ、県境に近いのではなかろうか。互いをひどく身近に感じているようだ。これは、異なる習慣、言葉、価値観を日常的に体験し、長い時間を過ごしてきた人々の自然の成行きであろうか。

 隣人に起こりつつあることは、遅からず自分たちにも関係してくる。とすれば、隣人の来し方、行く末に無関心ではいられない。強い個人主義は、この連帯意識と背中合わせであり、それゆえ、その個人主義が成熟したものと感じられるのであろう。

 アムステルダムの空港に降りるとき、最初に目にはいったのは、「ソニー」のネオンであった。今更言うまでもなく、日本の企業は、世界中で大きな顔をしている。まさか日本人に会うこともあるまいと思っていた、ドゥブロブニクでも、商社員とおぼしき日本人の姿を見掛けた。そんな経済界の発展ぶりに比べ、日本文化は、一体世界に何の貢献をするのだろうかと、雲の絨毯を眺めながら、いささか憂欝であった。         

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