一億総グルメは味気ない

                        

 うまいものを食いたいという欲求は人間の本能なのだろう。動物たちの食生活と比べれば、ずいぶん多様なものを口にしている。グルメ指向は豊かな社会の副産物であろうが、猫も杓子もグルメ自称はいささか滑稽な感じもしないではない。「グルメしてどうする?」とからかいたい気分にもなる。

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 ところで、うまいものには大きく二種類あるとは、某グルメの御託宣である。一つは新鮮さというものが直接訴えてくる味であり、もう一つはその社会の食文化の粋が醸し出す持ち味であるという。前者を求めるなら、とりたての果物や肉あるいは魚介類が最高ということになる。この点に関しては人間は動物とたいして変わらない次元をさまよう。今倒したばかりのシマウマの肉をほおばるライオンは、タルタル肉に舌鼓を打つ人間様よりずっとグルメである。

 一方、とっておきのフランス料理とか中華料理がグルメにとって垂涎の的となるのは、その食文化が高度に洗練されていると思われているからに他ならない。もっともこれらが本当にうまいかどうかは、議論の余地がおおいにある。なぜなら、あるものがうまいと感じられるのは、食べ物の出来具合だけに依拠するのではないからである。味覚には個体差があるし、さらに文化の影響というものもまた絶大である。個体差は日常経験するから容易に納得されようが、頭では分かっていてもいざ体験するとちょっとしたカルチャーショックを受けるのが、文化の違いによる味覚、あるいは食べ物の評価の差である。

 数年前、ハワイとカリフォルニアで日系人の宗教調査をしたことがあった。(何を調査したのかという変な関心を持つ人は、弘文堂から出版した拙著『海を渡った日本宗教』を御参照あれ)そのとき、日本宗教のアメリカ進出と共にわれわれの目を惹いたのは、日本食ブームであった。つい十数年前までは、例えば、味噌汁の匂いはアメリカ人にとっては腐臭であり、到底我慢のならないものであった。アパートに漂う味噌汁の匂いをかぎつけて、アメリカ人が日系人に文句をつけにきたというのは珍しい話ではなかったという。

 ところが今はどうだ。味噌汁は「ミソスープ」と正式に命名され、日本食のフルコースの最初に登場するスープの類となった。アメリカ人も平気な顔ですすっている。味もそっけもないと当初不評であった豆腐も、トーフバーガーとか、トーフテリヤキとして装いも新たに、ダイエット食品として人気上位の食べ物である。こんな事例を目のあたりにすると、一つの味覚文化もあんまりあてにはできないなという気がする。

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 さて少し話が横道にそれるが、カリフォルニアの調査では、調査団員の一人がロサンゼルスにあるゼンセンターの実態を調べにいった。ゼンセンターは一九六〇年代から急速にアメリカで増えはじめた。その背景はここでは述べている暇はないが、そのメンバーの多くは白人である。調査に行った彼の話では、そのゼンセンターの場合、メンバーの一五%は博士号の取得者であり、中には元大金持ちもいたという。アメリカの金持ちというのは日本の金持ちと違って桁違いの人がいる。フットボールチームを個人で抱えていたりする。テレビ局におんぶにだっこのタケシ軍団とはまるで訳が違う。そうした巨額の富を惜しげもなく捨てさってゼンセンターにはいるのである。

 かなりの元大金持ちに彼は聞いた。なぜゼンセンターに日系人が来ないと思うかと。その答えは、日系人がまだ富を極めていないからではないかというものであったそうだ。つまり究極の富を体験すれば、その虚しさに気付くはずであるというのがゼンセンターのメンバーとなった元大金持ちの解釈である。

 してみれば、この飽食の時代が極まるところ、「断食の奨め」とか、「麁食の奨め」を大衆に説くアンチグルメの一団がもっとも時代を先取りした人々として脚光を浴びるようになっていくのであろうか。

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 食欲のコントロールは基本的には個人の自由の範疇に属すると考えられている。しかし、世界にはいろんな文化があって、そうでない場合もある。アラブ諸国との付き合いが多くなるにつれ、ラマダーンという言葉は日本でも次第に馴染みの深い言葉となってきた。この月には、敬虔なイスラム教徒たちは、日の出から日没までの間、一切飲食を断つ。唾さえ呑み込むことを許されない。だから人々は路上に唾を吐き散らす。唾位は良いではないかとか、ひそかに呑みこんだって分からないだろうとかいうのは日本人の発想であって、宗教が心を支配している社会では、たとえ他人が見ていなくても、戒律は戒律である。もっとも日本にもかつては「天知る、地知る、己れ知る」という言葉があったが、当今は死語である。

 イスラム暦は世界で唯一の純粋な太陰暦である。だから、ラマダーン月がどの季節になるかは年によって異なる。ある年には冬であっても、少しずつずれ、やがて夏にラマダーン月を迎えることもある。真夏の日中に一切の飲料を摂取しないというのは、大変な苦行である。またラマダーン月には、性交も禁止される。人々の気持ちは落ち着かない。ラマダーン月にはアラブ圏を旅行するなと言われる所以である。

 ラマダーン月でも夜になれば、イスラム教徒も食事に向かう。まれにイスラム教徒は一ケ月断食すると思いこんでいる人がいるが、気軽にそう思い込んでしまう人というのは、おそらく断食の経験が一回もないのであろう。一日の戒律を守り、日没後に最初に呑む水はどのような味がするであろうか。一汗かいた後のビールのうまさから推測するなら、それは蜜よりも甘いかもしれない。いつもの食べ物を口に運んだ彼らは、恐らく絶品のフランス料理を口にしたグルメよりも、遥かに感激を味わえるに違いない。たんに、空腹が味をひきたてたということではない。戒律を守ったという精神的満足が、より深い味をもたらしているに違いないのである。

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 振り返ってみれば、われわれ日本人が愛するお茶の香は、やはり禅の心をそれとなくつけ加えたことによってかぐわしさをいや増したのである。そうした精神的な連れあいをもたないグルメブームは、たまたま経済的な幸運を手にした国民のおごりの象徴でしかなくなってしまうのだ。                          

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