21世紀へ残す本残る本
『明治改暦』岡田芳朗(大修館書店)

日本人がグレゴリオ暦という時の刻み方を採用したのは、明治六(一八七三)年のことである。それまでの暦であったなら、明治五年十二月三日となるべき日が、明治六年一月一日になったわけである。以後、閏月はなくなり、一年は十二ヶ月に固定された。
このできごとは、たんに従来の太陰太陽暦から太陽暦に変わったという暦法の変化にとどまらない。なぜなら、これは西洋によって構築された「近代」というリズムの中に、日本が参入していく上での避け難い出来事であったからである。
本書は、明治六年の改暦に焦点を当てながら、このまったく新しいシステムが短期間に受け入れられた背景をいくつかの角度から明らかにしている。すでに江戸時代から用意されていた暦へのさまざまな議論が検討されると同時に、改暦以後の社会の対応も紹介されている。暦と日本人の関わりを論じながら、近代化というものが、われわれの生活にもたらした影響の一端が浮かび上がってくるのである。
改暦にまつわるさまざまなエピソードには、なかなか興味深いものが多い。たとえば、改暦が明治五年後半にあわただしく決められた背景には、財政上の理由がからんでいたということなどはその例である。この話は一部には知られていたものであるが、大隈重信の回顧録などに基づいて説得的に論じてある。
年俸制から月給制に移行していた明治政府にとって、太陰太陽暦のもとで二、三年に一回やってくる閏月は厄介な存在になった。明治六年は閏月があることになっており、このままでは、政府は十三ケ月分を払わなければならない。ところが、改暦によって、明治五年十二月と明治六年の閏六月の、都合二ヶ月分の給料を支払わずにすんだのである。
太陰太陽暦は一ヶ月を月のリズムに、一年を太陽のリズムに合わせるものである。この暦のもとでは、晦日には月は出ず、十五日には満月になる。そのリズムが太陽暦によって大きく変わった。太陽暦は地球が太陽を一周する一年をほぼ等分して十二ヶ月を作る。当然、晦日に月が出たり、十五日に月がでなかったりする。しかし、この大変化を日本人はたいした反対もなく受け入れたようである。新しい暦の利点を説明する本もさっそく刊行されたという。
副題に〈「時」の文明開化〉とあるように、改暦はまぎれもなく文明開化の一つの象徴であった。このような具体的な話こそ、文化論には欠かせないテーマである。本書の刊行当時、「暦の会会長」であった著者は、長年にわたって暦の研究をおこなってきた。すでに卒業論文の時点で、明治の改暦に注目し、「グレゴリー暦とその改暦問題」が論文題目であったという。その後の長い暦研究の成果が本書に詰め込まれている。
旧暦と太陽暦との共存は、実は今も続いている。新しいものをすぐさま導入しながら、古いものもずっと保ってきた。なぜそのようなことをわれわれの社会はするのか、そのヒントが本書にはある。
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