研究室の思い出

(一)昭和四十九年
 文学部に進学したものの、さてどの学科にしようかと迷っていたとき、駒場時代に同級生だった寺田君から誘われ、結局宗教学科にしようと決めたのが昭和四十三年四月。六月十七日の機動隊導入を発火点として東大紛争が一挙に全学化する直前のことであった。以来十二年間を、最初の三年間は学部生として、次の三年間は大学院生として、そして以後の六年間を助手としてこの研究室に籍を置いていることになる。
 昭和四十九年六月に助手になったのだが、この年は、教養学部から宗教学科ヘの進学生が十六名を数え、東大紛争後次第に高まりつつあった宗教学の人気をことさらに印象づけた年であった。例年通り、三四郎池を眼下に眺める山上会議所で開かれた新入生歓迎会には、紅一点で文字通り才色兼備の鈴木陽子さん(現在三菱商事に勤務・以下( )内は現在の勤務先・所属等)を初め、自らジュリーと称してはばからなかった渡辺直樹君(平凡社)、「赤ほっぺ」の愛称で親しまれた斎藤修君(カネボウ化粧品)、酒乱として名を馳せた元村浩介君(東京食品)等々、多くのユニークな進学生が顔を見せて実に賑やかな雰囲気であった。ただし、柳川先生はこれを異常事態と捉え、紛争の残党組が拠点作りに宗教学研究室を選んだのではないかと、当初真剣に心を悩まされたそうである。
 いつ頃からのことなのか、わが研究室は野球に熱を入れるようになった。大正大学との定期戦もずいぶん長く続いている。昭和四十九年は、この野球に関しても絶頂期であった。学部生と大学院以上(助手や物好きなOBを含む)との間で、まがりなりにも対抗試合をやれたのもこの頃である。むろん所詮は草野球なのだが、各人の技術の全体的アンバランスぶりがことに面白かった。例えば佐々木陽太郎君(フランス留学中)は、思わぬ時に見事なファインプレーを見せたが、凡フライを平気でグラブから落とすのであった。また竹沢尚一郎君(フランス留学中)は、バッティングセンターに金をそそぎこんだ甲斐あって一時期よくヒットを打ったが、その鈍足ぶりはまるでスローモーションを見ているような感じを与えた。大学院は美学に進んだが当時は宗教学科の学生だった一色裕君は逆にその俊足で目を見張らせたのだが、しかし、自らの速さに魅せられてか、塁上の彼は次打者が内野フライを打ち上げても果てしなく走ってしまう癖があった。古くなるがロッテに入団した飯島の悲劇を見る思いであった。
 各人はこのようにそれぞれ容易には克服できない難点を抱えていたのだが、チームとしての結束はなかなかのもので、この年の十一月には、宿敵大正大学を撃破した勢いを借りて天理大学まで遠征し、全国宗教学野球大会で見事優勝し、姉崎杯を勝ちとった。当時、わが研究室は、エース月本昭男投手(ドイツ留学中)、三回位までならOKの柳川投手、試合を緊張させる点では抜群のリリーフ中牧弘允投手(国立民族学博物館)と堂々たる三本柱を容していた。この時の見せ場は柳川投手と愛知学院の赤池憲昭投手の投げ合いであった.両者共に全力をこめての快速球、ただし、はた目には超スローボールの応酬で、試合はいやが上にも盛り上がった。しかし、球の遅さでは甲乙つけ難い両者もコントロールの点では月とスッポン、提灯とつり鐘ほどの差があった。柳川投手の球がぎりぎりながらもストライクコースをよぎっていくのに対し、赤池投手の球は、ほとんどがホームベース上にボトンと落ちるのであった。かくして試合の主導権はたちまちにして我々が握った。
(二)お祭り
 野球の試合は一つのお祭りであった。宗教学研究室は、その研究対象の面からも、またそれ自身のあり方からもお祭りとは切っても切れない関係にある。研究室の定期的祝祭には五月の新入生歓迎会、六月の研究室旅行、十二月の忘年会、三月の予餞会があり、その他秋には日本宗教学会の学術大会を機に嘲風会が開かれる。
 学生諸君には学期末試験とか論文提出とかが時間のくぎり目となり、先生方には講義の初めと終りが一つのサイクルを成すのかも知れない。しかし、助手にとっては、こうした祝祭の時こそが時間の結び目なのである。新入生歓迎会では、学部や大学院への新たな仲間たちを心暖かく迎え入れ、忘年会では論文提出者を御苦労さまと慰め、予餞会では去りゆく人(むろん中には去りゆかず、次の新入生歓迎会で再びただ酒を飲む人もいる)と名残を惜しむ。こうした中でも、梅雨どきに行なわれる研究室旅行は、たいてい一泊二日の日程で行われ、心ゆくまで盃を交わす時間がもたれるだけに、最も印象深い行事である。研究室旅行に一度も参加せず卒業した人は、山までは見なかった仁和寺の法師の類であると言ったら、旅行の意義をちと持ちあげ過ぎの気もするが。
 四十九年の旅行は鎌倉見学であった。幹事役がこの近辺を縄張りとしていた植島君であったから、一部には手抜きだ、という声もあった。しかし宗教施設を見学するのは半分付け足しみたいなもので、大半の目的は夜の部にある。
 五十年には、熱海の世界救世教が一時休憩所であった。高台のすこぶる眺めの良い所で鮨をほおばると、早々に教団に暇を告げ、宿泊地の伊豆下田に向かった。そこには竹沢君の実家が経営する旅館があったのである。ここの露天風呂はなかなか味わいがあったが、百足もその湯気を楽しんでいるのはちょっと気になった。この夜、豪勢な生作りを平らげた後、林淳君が今では名物となった「エイトマン踊り」を初披露し、やんやの喝采を浴びた。片隅では中牧氏が神霊教の信者でもあった沖本健四郎君に向かって、あごに生やした髭を剃れと二時間以上も説教していた。酒乱元村君が色白の泊真二君(朝日出版)に夢うつつで迫っていたのはもうだいぶ夜も更けた頃であった。
 五十一年にはOBである国学院大学の薗田稔先生に御尽力を願って、秩父神社と三峰神社の見学を行なった。古来より山獄信仰の一中心地であった三峰の空気は清涼で、うすもやのかかった山あいにはどこか神の降りきたもう期待を抱かせるものがあった。にも拘らず、夜になるとやはり俗なる世界が花開いた。剣道部でいろんな鍛え方をされてきた宮崎賢太郎君(ミラノ在住)は、酔いが激しくなるときまって春歌を歌い出し、こうなると女性軍は一斉に聞こえないふりをするのであった。
 中沢新一君(ネパールで修行中)が念入りに下準備した五十二年の旅行では諏訪神社に訪れ、有名な御柱祭の十六ミリ映画を見せて貰った。この時は一般の宿泊所であったため比較的おとなしかった。ウイーンからの外国人研究生として在籍していたヴェスさんが、女性軍の中で一人最後まで頑張り、後片付けなどしたので、一挙に彼女の評判は上った。この年はもう一人の外国人研究生ジェニングス君も参加していた。彼は真面目な研究生という感じであったが、この旅行を境にがらっと趣味のあり方、興味を向ける対象が変ってしまった。一説には旅行中の丸二日間に中沢君に余りに強烈な刺激を受けてしまったからという。
 竹沢君が博士過程に進学した五十三年は再び伊豆の宿へと繰り出した。途中霊友会の聖地弥勒山を見学した。久保継成会長となってから「いんなあとりっぷ」路線でヤング獲得に大張り切りの教団だが、タイミング悪く、研修期間ではなかったので、熱気溢れるミーティングの様子はこの目で確かめることはできなかった。しかし、若者たちが夜ゴーゴーを楽しむという風船みたいな形のドームも、誰もいないと虚しい感じである。新宗教の生命は、やはり信者の発するエネルギーであることがあらためて実感された。伊豆に来ると土地柄のせいか宿での乱れ方も激しくなる。野球ではこのところエースとしての貫禄を見せている市川裕君がその酔態ぶりを晒したのもこの時である。彼は酔うとまるで記憶を失なうそうであるが、宴会の席で、年の頃六十近いおばさんにべったりはりついていたので、一夜にして「大年増好み」というラベルが貼られてしまった。しかし、彼の名誉のために敢えて言うが、翌朝しらふに戻った彼が「どうせならちゃんと人を選べばよかった」と小声でぼやいたのを私は確かに聞いた。また、この年あたりから、脇本先生が浴衣の袖をまくり上げ、毛臑を露わにして自らの歌に酔われる度合が次第に強くなってきたように思えるのである。
 昨年つまり五十四年の研究旅行は当初東北大学と合同でやる予定であった。林君がその打合せに東北大学と密に連絡をとり用意を整えたのであるが、東北大学の主任教官楠教授が病気になったとのことで折角の試みも虚しく潰えた。だが、急拠切り替えた那須での紅白ソフトボール大会が実に楽しかった。あの田丸先生がピッチャーをかって出て、柳川先生も驚く超超スローボール。しかし御当人は「よく落ちるでしょう」とすまし顔。しかしよく落ちても、ベースの手前二、三メートルや、打者の後方に落ちてはバッターもお手上げであった。私と金井君がホームランを打ったので、やっぱり助手は日頃相当抑圧されている、ということになった。学部生の小沼優子さんがセンターに飛んだライナーを両手と胸とでがっしりと受け止めたり、イスラム専攻の野口順子さん(アラブ諸国歴遊中)が見事なセーブポイントを稼いだときは万雷の拍手がわき起こった。ところでこの旅行の帰り、黒磯の駅で、電車を待つ時間に喫茶店にはいり当時流行のインベーダーゲームを何人かでやったのだが、これ以来病みつきになってしまったのが「十字架のヨハネ」を研究対象としている鶴岡賀雄君である。何でも、高得点をあげると神秘的エクスタシーに達するそうである。 今年は高島淳君と松村一男君が幹事で鹿島、香取両神宮に詣で、ついでに潮来の水郷巡りを楽しんだ。諏訪の場合に続いて、鹿島でも神主さんから十六ミリの映画を見せられた。しかし、ちゃんと見ていたのは三分の一足らずの人たちで、あとはあちこちでこっくりこっくりやっていた。私もうとうとしたり、学術的探究心から画面に目を凝らしたりの繰り返しであったが、はっと目が覚めて目に映る場面はほとんどその前のものと変りがなかった。その夜は山本智恵美さんがアンコールに応え次々と美声を披露して皆を楽しませてくれた。こうしたプロの味のBGMがあったせいか、東京女子大から今年大学院にはいった西村祐子さんを除いて突飛な酔い方をする人は出なかった。しかし、西村さんとて別段異常だったのではなく、市川君とちょうど一対を成す性癖を示しただけである。
 研究室旅行が祝祭なら、祭神は何だろう。主任教官?−否。東北大学と違って、たとえ主任教官が病気になったりぎっくり腰になったからとて祭りは中止とならない。デュルケム風に「宗教学研究室という社会」が聖化されていると考えたら良いのか?それとも祭神あっての祭りという考え方自体がおかしくて、むしろターナー先生唱えるところのコムニタス状況が追求されているのであろうか。しかしどのみち上等な神様は祀られていないのであって、祭りのあとには、各人が口は出さぬまでも己れの業の深さをしみじみ感じる仕組になっている。
 (3)OB
 新入生歓迎会や忘年会の折にOBの方々が何人か見える。よくいらっしゃる方やたまにか来られない方がいるが、こうした機会に直接いろんな話を伺えるのは楽しい。大畠清先生、佐木秋夫先生、竹中信常先生、村上重良先生などはよく来て頂く。ライオン丸こと田口貞夫先輩、冨倉光雄先輩、洗建先輩、スィンゲドー先輩は時たま顔を出して下さる。 世の常として、たまに顔を出しても大きな顔のできるのがOBのいいところだ。その代り金はふんだくられる。ちゃんと交換システムが成立している。大きな顔というより大きな声の代表格が窪徳忠先生である。自己紹介の席で何も知らぬ三年生が大胆な台詞でも吐こうものなら、「何も分っとらんくせに」とどなられる。もっとも御本人の意識としては小声でそっとつぶやいたつもりなのだが、残念ながら基本的にひそひそ話の不可能な声量なのである。かくして心臓を弱めた学生が何人かいる。
 若さの雰囲気が特に好きな方もいる。藤田富雄先生や安斎伸先生がそうである。安斎先生はまたその語り口が絶妙なことでに夙に名高い。同じ話を何度聞かされても飽きがこない。「あなた方だから特別にお話ししますけど、ここだけの話ですよ」という前置で同じ話を三回拝聴したことがあるが、三回目でもやはり話にひきこまれてしまう。名人芸と言わざるを得ないであろう。
 今年の四月十七日にお亡くなりになった前田護郎先生も以前は割合出席されていたが、真面目なクリスチャンの半面、駄洒落の好きな方でもあった。そんなときは御自慢のドイツ製の丸い眼鏡の奥で、眼鏡よりもっと丸い目がいつもより激しくくるくる動き回った。傑作の一つに、「悪い訳でもエエ訳(英訳)、変に訳してもフツウ訳(仏訳)、二人で訳しても独訳、東で訳しても西訳、秘かに訳しても露訳、そもそもいい加減に訳しているのにホン訳(翻訳)というのが良くない。」というのがある。「ことば」の問題に終生関心を持たれた先生であったから、言葉の遊びにも熟達されていたのであろう。
 (四)現地調査
 実態調査は東大宗教学の伝統の一つである。岸本先生の時代には「山の会」なるものがあってあちこちの山嶽信仰を調査されたらしいが、最近は専ら柳川先生が学生を引き連れて調査を行う役を引き受けておられる。私は大学院時代、福島県の会津田島祇園祭の調査が初めての参加であった。スィンゲドーさん、野村文子さん、山崎美恵さん(在インドネシア)、本田英夫氏(高校教諭)、小林正佳氏(天理大学)、中原真澄君(YMCA)などにぎやかな面々が揃って楽しい調査だった。柳川ゼミの調査では、事前のトレーニングがほとんど無しでなされるが通常であり、従って、初めての参加者はあちこち激しく動き回るものの、実はどうやっていいのか余り分っていないのである。私の場合は、身欠き鰊を肴にどぶろくに酔い痴れているうち、いつの間にやら調査は終了していた。
 五十年三月には北海道常呂での調査に参加した。この時には、中牧切り込み隊長の他、月本君、島薗進君(筑波大学)、堀美佐子さん、長谷川(中崎)仲子さん(在米)、中沢君、鈴木康之君(モラロジー研究所)などのメンバーであった。サロマ湖にはまだ氷が張りつめていた頃、あちこちの家を訪ねて回り面談調査を行なったのだが、この時も何かを明らかにしたいという記憶は薄く、調査の合い間の断片的場面の方がすぐ脳裡に浮かぶ。 常呂駅の待合室で電車を待っていたとき、突然一人の女性が倒れた。貧血を起こしたらしい。そばにいた中牧氏がとっさに支えたので、その女性は頭を打たずに済んだのだが、皆からは、彼女が倒れたのは中牧氏の顔をまともに見て失神したせいだ、といわれなき非難を受けてしっまた。調査何日目かの朝、長谷川さんがサロマ湖を見に行きましょうと言うので行くとエスキモーみたいな先客がいて、近ずいてみたら島薗君と堀さんだった。宿舎に帰る道すがら、島薗君が、ぼくは高校時代バスケット部にいたから足には自信がある、競走をやろう、と言うので二人でドタバタ駆けたら、一馬身の差で私が勝った。これは決して彼の地元の金沢のバスケット部のレベルが低いのではなく、彼はその頃最高に腹が出っ張っていたという、そういう事情によるものである。夜になって、同室の月本君としみじみ話した。どうも世の研究者には、調査型の人間と非調査型の人間がいる。中牧氏は前者の典型だが、われわれはどうも後者らしい。月本君は、本当だな、と頷いた。その彼も、しばらくすると、後藤先生と共にイスラエルの発掘調査に喜々として出かけ、「イスラエルの女性の目は射るように鋭いけれども魅力的だね」などと余裕をもって帰国談を語れるようになっていった。
 ところで、この調査終了後、柳川先生と中牧氏はNHKテレビの北見放送に出演し、十五分程度、常呂調査について談じた。残念ながら、この放映はモハメッド・アリのタイトルマッチ中継とぶつかってしまい、地元といえども視聴率は極めて低かったらしい。それはさておき、このとき柳川先生は「次はハワイの調査をやりたいと思っています」と、その場の雰囲気でつい口に出されてしまったのだが、これがなんと瓢箪から駒で、二年後に実現してしまったのである。
 ハワイ日系人の宗教調査は、柳川先生を研究代表者として、昭和五十二年と五十四年の夏に、それぞれ約二ヶ月ずつ行なわれた。初年次は、東大の研究室関係では、中牧氏、小林氏それに私が研究分担者となり、学部から島崎孝夫君と藤井健志君がボランティアとしてついてきてくれた。島崎君はこれを学部時代の良き想い出として翌年電通に就職していったが、藤井君は、このときの調査がきっかけで天照皇大神宮教に魅せられることになり、今は「内在的理解」の見本みたいな研究方法を続けている。二年次は藤井君の他、青木繁樹君と石井研士君がボランティアになった。石井君はマイクロカセットテープを面白がって盛んに利用していた。一方、青木君は、自らも一応天理教信者ということで専ら天理教の教会を訪ねたが、教会長との面談調査ではその人に娘が何人いるかを確認し、首尾よくその娘たちとの深層面談調査が実現すると、彼女らが見目麗しいかどうか、趣味は何かを事細かく観察・調査してくるのであった。
 共同調査というのはしかし仲々難しいものである。互いの個性の相違を我慢できるのもせいぜい一週間程度であり、それ以上になると多少の差はあれいろいろ問題が起こるものである。かつて宗教学のある調査で、歯ぎしりの激しい人が皆から蒲団蒸しにあったという。被害者(加害者?)のS氏(R大学)はそれ以降共同調査は一切やらないと聞く。しかし、柳川先生率いる調査は大体においてうまくいく。これはやはり人間管理の面で細かな神経を備えておられる先生の配慮の賜物であろうと思う。
 こうした大規模な調査は別として、大学院のゼミ単位で、近辺の地域なり教団なりを調査する機会はもっとあってよいように思う。宗教学はさまざまな分野に亘るから、実態調査とは縁もゆかりもないところで研究を続けている人も大勢いる。しかし、直接当地へ足を運び、人々の生の声を聞くという経験を持つことは、専門領域での知識の積み重ねとはまた異なった次元での意義を有するように思う。調査者と被調査者という意識でなく、互いに対等な存在という意識で、会話を交すと、かえってインフォーマントとの間に何らかの壁を感じてしまうのがふつうである。こうした経験もなく、ただ理論的に「間主観的」認識の必要性など吹聴している研究者は、まるで信用できぬ気がしたりする。
 (五)教典講読会                               
 教典講読会なるものの発足を思いたったのは、助手になって間もなくのことである。余りに一人一人の研究分野が異なるので、共通の素材で大いに論議してみたら、という発想であった。発会式を昭和四十九年十二月七日(土)午後六時から本郷のとんかつ屋「永井」でやった。初めての試みだったので、かなり無茶苦茶なやり方をした。参考のために誰がどんなものを取り上げたか記そう。−井上「バラモン教典」、野村「立正安国論」、島薗「浄土三部経」、月本「古事記」、堀「共観福音書」、宇野正人(成城大学より特別参加)「原理講論」、中牧「モルモン経」、関「おふでさき」、鎌田「コーラン」、井上「天国の礎」、山崎「イザヤ書」、井桁碧「唯識二十論」、野村「教行信証」、島薗「法華経」、宇野「金光教典」、堀「黙示録」、中牧「諏訪縁起」、山崎「生書」、関「ガンジー自伝」、日隈威徳(春秋社より特別参加)「折伏教典」、井上「易経」、宇野「粉河寺縁起」、井桁「ジャイナ教綱要」
 これだけを五十年の一月から五十一年の五月までにやった。一つ一つの分量が多かったことと、各人がなるべく専門外のものを選ぶようにしたことによって、論議がどうしても上すべりがちになった。
 少しだらけたところで、褌を締め直し、五十一年十一月からっ再出発した。今度は市川君、島田裕巳君、鶴岡君、林君、宮崎君などヤングパワーも加わった。また、中牧氏は、当時KJ法にかぶれていたので、教典論の問題点をKJ法で整理しようと提案し、皆でカルタとりみたいなことをやった。
 にも拘らず再び腰くだけになったのは、一つには私がハワイ調査の準備・実施で忙しくなったことがあり、一つには、初期のメンバーの多くが留学したり、他大学へ就職したりしたからである。何かの形で成果をまとめようと意気込んでいたのだが実らなかった。残念に思う。しかし、教典一般に対する認識の度合いは皆それぞれに深まったと思う。現在は金井君を中心に独語文献の読書会が行われている。独語の先生をしている長井英子さんがいるので他の院生は心強いらしい。こうした形の研究会は、かつ消え、かつ結ぶうたかたのものであってもよいから常に何か存在していて欲しいものだ。
 (六)水曜ゼミ                                
 水曜ゼミ、脇本ゼミ、総合ゼミといった名で呼ばれている大学院の演習がある。水曜日の二限目に行なわれ、一応脇本先生の担当であるが、原則としてスタッフと大学院生の全員が出席して総合的になされるので、それぞれの名称が慣用的にでき上ったのである。この演習には、助手は出席する義務はないのだが、嫌味な問を発するので迷惑がられているのはじゅうじゅう承知の上で、毎回出席している。
 発表内容は東大宗教学の伝統でいずれも極端なまでに個性に富んでいる。関一敏君がデュルケムの宗教社会学について解読してくれた翌週は、鎌田繁君(カナダ留学中)がイスラムの神秘主義について語る。その次は堀さんの蓮如論かと思うと、続いては渡辺和子さん(ドイツ留学中)の旧約申命記に関する蘊蓄が披露されるといった具合で、一週ごとに頭の完全なる切り換えを要する。
 しかし、研究対象というか興味のあり方に少しずつ推移が感じられるのも確かなようである。最近は体験の世界にもっと踏み込んでみたいという欲求、また未だ把握されない心の深底に蠢くものへの好奇心が次第にはっきり表に出てきているようだ。例えば、松本高志君は密教の世界を肌で知りたいと願っているし、井桁碧さんや河東仁君はユング理論の泥沼に足をつっこんでしまった。松本光正君はフロイトで対抗している。他方オーソドックスな宗教史のスタイルで古代ローマやヘレニズム文化を研究対象としている松村一男君など、他大学・他学科の卒業の人にそうした傾向が余り見られないことにつけても、何か、やはり東大の宗教学科は特殊な集団の醸造場という気がしないでもない。だがそうした人も油断禁物。朱に交われば赤くなるの例は過去にいくらでもあるのだ。
 このゼミでの先生方の質問にもパターンがあって面白い。脇本先生は、それぞれの発表が修士論文にどうつながるか、という点に対してはたいそう敏感である。柳川先生は時々むくっと顔を上げて論理不整合な点の指摘をされるが、最終的には慰めてもらえることが多い。田丸先生からは時にものすごく細かな質問が出る。ある時、付表の足し算が一だけ違っているという指摘がなされたときは一瞬皆言葉を失なった。後藤先生はふつう静かに聞いて(あるいは外見上眠って)いらっしゃるが、思わぬときに著しくユニークな発想法に基づく質問がなされる。現代の都市化と宗教をテーマに論じている最中、「都市化の問題は古代オリエントにもありまして」と切り出されると、発表者は蒼ざめてしまうのである。中村廣治郎先生は東洋文化研究所からの距離がこたえるらしく滅多に出席されない。たまに見えて、発表が少々延びると、「あと何分で終りますか」と語気鋭い言葉が飛ぶので、気の弱い学生はそこで発表を止めたりする。
 このゼミでは私はずいぶんか勝手なことを言い過ぎるといささか反省しているのだが、それでもこうやってずけずけ言い合う場は絶対に必要だと思っている。先輩方も時には文句つけにいらして欲しい。研究者はその気になれば、言い放し、書き放しで、批判には知らんぷりで通すことができる。だがそのような閉じた世界には、はいろうと思えばすぐにはいれるが、一旦はいると容易には抜け出られない。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、ではないが、連発銃の如く浴びせられる質問の中には問題の核心を捉えたものがあるかもしれない。それらを敏感に察知する能力を養って損はない。自己の意見はまさに他人の反論によって鍛えられるのではなかろうか。
                                        
付記
 研究室女性伝や研究室奇人伝も書きたかった。一貫して落ち着いた立ち居振る舞であった中川三子さん、その風格において男性に一歩もひけを取らなかった鳥井由紀子さん、一見もの静かな沢田(大竹)みよ子さん、漫画とポエムを愛する川口恵子さん、頑張る三児の母、山川令子さんなど多女済済だが、「美女伝」にするか「烈女伝」にするか、いろいろ迷ったので割愛した。また奇人伝も、誰までを奇人とするかに大いに疑問が生じたので止めた。予定枚数を遥かに越えてしまったが、助手在任年数が長いことと、金井君の分も合わせ書いたということで御容赦願いたい。

戻る