庭野日敬氏と戦後の新宗教
立正佼成会開祖の庭野日敬氏が、去る十月四日に亡くなった。氏は娘の病気を契機に入会していた霊友会を、長沼妙佼氏とともに離脱して、一九三八年に大日本立正交成会を発会した。同会は、終戦時に約千三百世帯の信者がいたというが、一九五〇年前後から、中高年の女性層を中心に信者数を急激に伸ばした。六〇年に現在の教団名に改称し、やがて、新宗教の中では、創価学会に次ぐ信者数を有する大教団になった。
氏は教団内外の多くの人から、温厚な性格という評価を得ていた。信者の心を支配せんばかりに、カリスマ性を強く発揮するというのが、新宗教の教祖に対する一般のイメージとすると、それとはだいぶ異なるかもしれない。ただ、宗教界に身を投じてからの活動から判断して、氏は優れた指導力を有し、そして時代への感性も豊かであったと、言わざるを得ないであろう。
終戦直後の宗教的話題といえば、次々とあらわれる新宗教(新興宗教)の多様な活動ぶりであった。一般的にそれらへの評価は低く、戦前の淫祠邪教観は色濃く残っていた。事実、あやしげな運動も混じっていたから、余計そうなった。そうした中に急成長した立正佼成会が、マスコミや社会に一時期厳しい目で見られ、批判にさらされたのは、避けがたかった。活動に対する社会的批判が起こったとき、新宗教はさまざまな形の対処法をみせる。批判を無視する教団もあれば、それをむしろ運動の推進力に使おうとする教団もある。日敬氏は、ひたすら耐える道を選んだ。
一方で、氏はPL教団の創始者御木徳近氏らと図って、一九五一年に新日本宗教団体連合会(新宗連)を結成している。新宗連は、その正式名称からすれば、宗教団体の新しい連合会であるが、実質的には新宗教の連合会として機能している。この連合会の存在があったため、新宗教のいくつかの教団は、互いに議論する場をもった。また協力して活動する機会も増えた。これは、新宗教が日本社会において、いわば「市民権」を得ていく上で、少なからぬ意味をもった。なお日敬氏は六五年に、御木氏の死去のあとを受けて、新宗連の二代理事長となった。以後、九二年に辞任するまで、いわば「新宗連の顔」であった。
「市民権」が少しずつ得られ始めたとはいえ、新宗教の社会的評価は、高度成長期も一般に厳しいものであった。創価学会、立正佼成会、霊友会、世界救世教、PL教団といった大教団の増加も、なかなか新宗教の社会的是認にはつながらなかった。かえって、社会的脅威として受けとめられることの方が多かった。それはまた、伝統宗教側の危機感の反映という側面もあった。
まだそうした流れにあるとき、立正佼成会が六九年に開始した「明るい社会づくり運動」は、新宗教が社会に定着していくときの、一つの方向性になった。地域社会において、市民団体、他の宗教団体と協力して、各種の福祉・ボランティア活動を展開したのである。真如苑、天理教、妙智会などのように、この種の活動に力をいれる新宗教が、以後目立ってきた。それは社会全体の福祉・ボランティアへの関心への高まりと呼応していた。
日敬氏の後半生は、宗教協力というキイワードと深く結び付けられる。氏は一九六五年、カトリックの第二バチカン公会議の際に、当時のローマ法王パウロ六世と会見し、「宗教協力」の必要性を強く感じたという。七二年には、世界宗教者会議日本委員会委員長になっている。こうした宗教協力等への活動が評価され、七九年には、宗教界のノーベル賞と言われるテンプルトン賞を受賞した。
宗教協力は、実は新宗教と伝統宗教の協力という性格をも担っていた。伝統宗教は宗教に対する厳しい目が、自分たちにも向けられていることに気づき始めていた。一方、一部の新宗教は、信者を増やすことにばかりエネルギーを向けると、批判が強まることを自覚していた。八〇年代になると、教団離れが指摘され、そして新しいタイプの宗教運動の活動が、注目されるようになった。伝統宗教と、ある程度「社会化」した新宗教の間での協力関係は、自然な流れであったかもしれない。
それらの運動に立正佼成会が、かなり重要な役割を果たしていることは、宗教界の実情に詳しい人の間では周知の事実である。多くの宗教の協力という形をとりたいというのは、おそらく日敬氏の意志によったと思われる。宗教協力が具体的に何を成果として生んだのか、という点には厳しい評価も存在するが、一つの対話の土俵が用意されたことの意味は大きい。
戦後半世紀になり、新宗教教団の中にも、社会の中でどのような存在になるべきかを考える教団が増えてきた。一部に宗教への不信感を増幅する団体が絶えないだけに、これは実は宗教界全体の課題になっている。日敬氏もその点は強く感じていたに違いないのである。