現代社会は宗教教育を必要としているか?

 宗教教育に関する議論は、一九九五年のオウム真理教による地下鉄サリン事件以後、にわかに注目されるようになった。そして中央教育審議会(中教審)が教育基本法の見直しを行っているのに伴い、さらに広い範囲で意見が交わされるようになったという印象がある。すなわち、二〇〇〇年三月に内閣総理大臣のもとに設置された教育改革国民会議が、同年十二月の報告書で、「新しい時代にふさわしい教育基本法を」という提案をした。その中では「伝統・文化など次代に継承すべきものの尊重、発展」を含む三つの観点が示されていた。中教審は、これを受けて教育基本法の第九条の「宗教教育」の見直しを含めた基本法全般についての議論を行った。

このような動きをいくぶん意識する形で、ここ一、二年を見ても、さまざまな団体、学会等が、シンポジウムのテーマに宗教教育に関する問題をとりあげている。たとえば、二〇〇一年一〇月には、同志社大学神学部が、「『心の教育』の可能性を問う――公教育における宗教教育」と題するシンポジウムを開催した。二〇〇二年六月には、「宗教と社会」学会学術大会のワークショップで、「宗教教育の日韓比較――公教育において“宗教”をどう扱うか」という議論がなされた。また、本年三月には、(財)日本宗教者連盟が「いま、“宗教教育”を考える――教育基本法第9条の理念と現状」と題するシンポジウムを行った。

 このように、宗教教育を真剣に考えるべきときが来ているという認識は高まってはいる。だが具体的にどのようなことに着手すればいいのかとなると、見通しはきわめて漠としていると言わざるを得ない。その大きな理由の一つとして、現実が十分踏まえられていないということが挙げられる。今の若い世代の行動に憂いを抱く人は多い。とくに道徳や倫理規範の弱化、とくに公共心の低下はかなり深刻である。
 しかし、そうした問題点を宗教教育の導入、あるいは教育基本法の改正で解決していけるかというと、おそらく無理であろう。道徳や倫理規範を教えていく上で、親や教師の影響力がなぜ衰えたかのか。この点を真剣に考えるためには、現実に起こっていること、現実社会の仕組みをより的確に把握せねばならぬ。しかしながら、多くの議論はこの作業を怠っているとしか思えない。宗教教育を論じる仏教界もその例外ではない。

仮に今の学校教育において伝統的な道徳を教えるなど、宗教教育を導入したら、事態が改善するというなら、かなり自由に宗派教育を行える宗教系の学校が、すでにその効果をあげていなければ説得性が薄れる。しかし残念ながら、仏教系の学校に話を限っても、現状ではそのようには評価し難い。

宗教系の中学、高校における宗教教育の実態調査を十年以上行った結果見えてきたのは、教師の影響力の乏しさである。宗教の知識教育においてさえ、もはや教師は生徒に対して優位とは限らない。この情報時代に、その気になれば、生徒は新しいツールを手にさまざまな情報を入手できる。実は大学でも、宗教学が専門の教員がたじろぐほどの情報を集めている学生がいる。とりわけ現代宗教に関する知識に関しては、そうした傾向が強い。

また、宗教の情操教育は教師の資質に大きく依存するから、教師がどのような人間であるかによっては、まったくの逆効果となりかねない。情操教育が影響を与えうるのは、教える側に生徒たちがなるほどと思う理念と実践の双方がそなわっているときに限る。そしてそのような教師は少ない。

宗教系の学校におけるこのような現状が見えてくるときに、公立の学校でどんな宗教教育が可能であるのだろうか。そこでは宗派教育はできないなどの制約がある。それに、社会は「宗教教育」をさほど必要としてはいない。むろん生徒自身も必要性を感じていない。大多数はむしろ宗教教育など嫌がるであろう。一九九〇年代末に行った数千名の学生へのアンケート結果を見ても、宗教家の話を聞くよりは福祉などで活動している人の話を聞きたいというのが現実である。この点は、宗教系の学校でも大きな違いはない。

ここで、教育基本法の第九条(宗教教育)を確認しておこう。

 「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。

国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」

「特定の宗教のための宗教教育」はいわゆる宗派教育と解釈するのが、学界では一般的だが、これが宗教教育一般ととらえられがちなのが現状である。したがって、ここを「特定の宗教のための宗派教育」というふうに変えれば、より趣旨が明確となるが、もともとの条項にはそう問題があるとは思われない。問題があるのは現実の教育条件である。宗教について適切に教えられる教師が極端に少ない。生徒たちに必要な情報はなにかを真剣に考える人が少ない。そうしたことである。

宗教教育という観点からして、二一世紀において必要なことは、自分たちの伝統的宗教文化を学ぶとともに、世界のさまざまな宗教文化を知り、視点が広く、感性の豊かな人間を育てることである。これ以上の目標、たとえば宗教的情操の涵養とか、伝統文化の尊重というような目標は掲げたとしても実現が困難である。それは上に示した現状からして容易に導かれることである。また、宗教ということにあまり関心を抱いていない多くの親たちからの警戒感を招くであろう。

これからの世界に必要とされる知的な洗練をまずは心がければいい。つまり、日本人は伝統的にどのような価値観を育ててきたか、世界にはどのような価値観があるか、それぞれの宗教文化は具体的にどのような行動を勧め、どのような行動を嫌ってきたか。そうしたことを具体的事例を通して学ぶこと、そうした学びをしやすくすること。それが第一歩である。日本社会に宗教不信が強まっていることをいっこうに認識せず、非現実的な宗教教育論を展開する仏教関係者もまま見受けられるが、それでは話は一歩も進展しない。宗教文化は人間社会にとって重要な「資源」であるということを理解させることから始めなければならないのが現状である。そうした発想法が社会にある程度浸透したとき、次のステップが自ずと見えてくるのである。

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