情報リテラシーへの認識
一九九八年十一月に東京文京区に宗教情報リサーチセンター(略称ラーク)が開設され、私はセンター長を勤めることとなった。ラークでは、さまざまな宗教情報を収集・整理すると同時に、IT時代の宗教がどのような新しい動きを見せているかをなるべく早く察知できるよう、さまざまな努力をしている。そうした作業にかかわっている研究員とともに、昨年『IT時代の宗教を考える』(法蔵館)を刊行した。
同書ではインターネットを中心とするIT革命が、宗教に与えつつ影響や今後予想される問題などについて、多様なトピックが紹介されている。今あらためて考えると、やはり緊急の課題の一つは「情報リテラシー」についての認識を、もっと多くの人々が深めなければならないということである。
情報リテラシーとは、情報の発信・受信を含め、情報を扱う際の基本的な知識や能力のことを総称する。IT時代に、なぜ情報リテラシーがことさら問題になるか。それはインターネットに代表される新しい情報メディアが、従来とは大きく異なる性格をもっており、格段に便利な反面、恐ろしい事態をも招きかねないものだからである。これまでの新聞、雑誌、ラジオ、テレビといったメディアも、当然のことながら便利な面とマイナス面とがある。ただ、それらについては、すでに数多く論じられていて、とくに警戒すべきは何かという程度なら、おおよそ知られている。
これに対し、たとえばインターネットは、誰が情報を作り、どんなふうにアクセスされるのか、あるいはどのようなルートで情報が流れ、管理されているといった基本的なことの認識さえかなり不十分である。そもそも知りえないこともいくつかある。新聞の原稿がどこで作られ、印刷され、配送されるか、多くの人はプロセスを想像できる。テレビの番組の製作者も闇に包まれているわけではない。だが、コンピュータや携帯電話を通して発信した電子メールが、一体どのようなルートで相手に届くのか。あるいは迷惑メールが次々と自分のアドレスにやってくるのはどうしてか。日常的にこれらのツールを使っている人でも、よく理解していないことが多い。
インターネットを始めると、ホームページの閲覧は一つの楽しみとなりうる。居ながらにしてさまざまな情報に接することができる。ところが、その情報の信頼性は既存のメディアに比べると、大きな危うさを伴っている。端的に言うなら、正確な情報とでたらめな情報、善意の情報と悪意の情報、そうしたものが混在し、その見分けがすこぶる難しい。
よく問題になる「なりすまし」がある。たとえば「A寺へようこそ」というタイトルのホームページがあったとする。そのホームページが実際にA寺が作成したかどうかを直ちに判断できる人は限られている。誰かが悪意で巧妙になりすましたような場合、それに気づくのはきわめて難しい。あるいはインターネットには、誰もが書き込める掲示板という機能がある。たとえば「戒名」を話題にする掲示板があったとする。甲という名前で「戒名なんてくだらない」という書き込みがあり、乙という名前で、「俺は百万円払った」という書き込みがあり、その後異なった名前で延々と議論が続いたとする。しかし、これがすべて同一人物によって書き込まれた場合だってありうるのである。
新聞の投書欄にあるようなチェック機構は、ここでは通常働かない。掲示板の管理者があえてチェックしようとすると、それを嫌って書き込む人が激減するのが普通である。つまり匿名性を好み、記述の責任を逃れようとする意図があふれているのがネット空間なのである。この基本的性格は変わらないと考えられる。変えることで失われる利点も多々出てくる。
そうなると、求められるのは、より多くの人がその仕組みをできる限り性格に把握することである。情報をネット上に発信する動機一つを考えてみても、善意、悪意、遊び心、冗談、たんなる自己顕示、その他さまざまなものが混在する。宗教的な情報を含むサイトとなると、別種の複雑も加味される。自分たちの教団のホームページを見てもらいたいために、わざと刺激的な批判の文を掲示板に書き込むなどというのは、初歩的テクニックである。
それを見分ける能力をはじめ、情報リテラシーの習得はますます必要になってくる。学校はむろんのことであるが、実は活字媒体もこれに積極的に加わるべきと私は考えている。新聞等はもっと電子メディアについての情報を扱うべきであるし、情報リテラシーのため、活字媒体に何ができるかを考えるべきである。少しずつその傾向は出てきているが、私からするとテンポが遅すぎる。そんなのんびりとした話ではないですよと言いたいところである。人間が日頃は理性で心の底に押さえ込んでいる部分がどんどん解き放たれるのが、ネット空間の一つの特徴であるということは、残念ながら事実なのである。
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