インターネットと宗教


 現在、あらゆる分野で、着実にインターネットが広まりつつあります。インターネットの広がりはこれまでにない全く新しい事態である、という認識を持つ人も多いのですが、宗教界での受けとめ方はさまざまのようです。ではインターネットの普及は、全く新しい事態を生み出すのでしょうか。近代社会では、いろいろな技術的展開が繰り返されてきました。自動車社会になったことやファクシミリが使えるようになったことなどもそうです。インターネットも技術的展開という意味では確かに新しい事態ではあります。

しかし、だからと言って根本的に何もかも変わるのかといえば、むろんそうではないわけです。宗教の活動といえば、教会、寺院、布教所などでの説法、法話、あるいは街頭での布教や、聖地や本部に信者が集まっての儀式といったものが思い浮かびます。人と人とが実際に向かい合う「対面状況」での、情報のやりとりや感情の確かめ合いが、宗教の日々の活動にとっての基本と言えるでしょう。近代になって、新聞、雑誌、ラジオ、ビデオと次々に新しい情報メディアが出現し、宗教団体が情報を伝える手段が多様化しましたが、宗教がその生命力を発揮していると感じられる場面としては、依然として「対面状況」が圧倒的な比重を占めていることに変わりはありません。宗教の活動の本来的な性格を考えても、インターネットによって技術的な変化が生じても、宗教が持つエネルギーや生命というものは別であり、宗教界にとってインターネットがあろうとなかろうとなさねばならない事柄が存在しているはずです。

そこでインターネットのどの部分を受け止めるべきか、どの部分がそれほど危惧することのないものなのかといった見極めをする必要があります。しかしながら、その見極めを抜きにして、一方では「インターネット時代だから」と何でも採り入れようとする全面受入派と、「そんなものを宗教に入れたらとんでもない」という拒否反応派とに二極化される傾向がしばしば見られます。インターネットに対する理解が不充分なため、不必要な恐怖心やアレルギー反応が起こることもあるようです。


社会システムの変化

宗教界がインターネット問題を考えるときに、忘れてならないのは、社会全体がいずれこの新しいシステムを使うようになる、ということです。宗教も(心の問題ということは別として)、教会があり教団がある以上、組織として活動します。互いに連絡を取り合う際には、当然、社会の通信手段や情報入手手段などを使わなくては成り立ちません。であれば、社会の通信手段や情報入手手段が変われば、手段を変えなければならなくなります。その対応がうまく移行していかなければ、社会の状況と少しずれが生じてくることになります。

一つ譬え話をすると、少し前までは、日本の都市間を結ぶのは主に鉄道でした。ですから駅を中心とした場所が繁華街となり、駅を中心に人々が動きました。しかし今は、自家用車の比重が非常に高くなったことにより、人々が動く拠点が必ずしも駅ではなく、駐車場がある所、車のアクセスが便利な所が選ばれるようになってきました。とくに大都市以外でその傾向が強くなっています。このことから言えるのは、人の行動の目的は同じでも、鉄道しかなかった時代と、多くの人が車を使い個人化された行動をするようになった今の時代とを比べると、駅の有無で交通手段を考える必要が少なくなったということです。これは一つの譬えではありますが、社会のシステムが変わるときには、それに伴って方法や手段が必然的に変わっていくということの分かりやすい例と言えるでしょう。

 鉄道に自家用車が加わった変化を、情報手段にインターネットが加わったことの変化になぞらえて考えれば、これを社会全体のシステムの変化というように考えることができます。社会全体のシステムが変わっていくなかに、宗教教団も否応なく組み込まれている、という認識を持つことが、インターネット時代への対応を考える上での基本となります。

 これをふまえての具体的な対応手段ということについては、目下のところ各教団の対応はさまざまです。一〇〇パーセント採り入れて布教に使おうというところもあれば、単なる手紙のやりとりや告知を目的とする使用にとどめて、活動の本質的な部分には導入しないというところもあるでしょう。その選択は自由としか言いようがありません。それでも、社会のシステムの変化であるという認識を前提にしなければならないという点には変わりはないのです。

ある程度、量的に大きな変化があれば、それは質的に変わったことと同じであるという、つまり「質量転換」が情報社会の中でも行われるということだと思います。社会自体が導入の時期や方法が違うため変化の差はあるでしょうが、先程の譬えで言えば、車がある程度増えれば道路は拡張しなければならないし高速道路が必要になってくる。また鉄道から道路を中心とした町の構成に変える必要性がでてくる。こうしたことは、いいか悪いかというより、避け難いことだと考えたほうがいいでしょう。現実には、いつまでも駅が中心の町もあるかもしれないし、今までほとんど荒地だったところに突如として繁華街ができる場合もあるかもしれない。個々には違う現象がおきるわけですが、全体としては、構造が確実に変化しているわけです。

 インターネットに関しても、同じような転換時期はいずれやってくるだろうと思います。企業でも、早急にインターネットを導入して業務形態を変えた所もあれば、対応していない企業もあります。しかし、インターネットの普及がある段階に達すれば、個々の企業がどうするかの問題ではなくなってきます。百人のうち一人しか使わなかったものが、過半数が使うようになれば、その量的な変化は質的な転換を生みます。少し前までは一部の人のための道具だった電子メールが、今ではメール人口が増え、電子メールアドレスを持っていないと仕事の面でも支障が出てきている。今後、電子メールがないということだけで、最初から連絡網からはじかれてしまうことも考えられます。「電話もFAXもあります」と言っても「メールリストに流せないから」ということでメンバーから外れることは覚悟しなければならないことになるでしょう。以前には、家に電話がない相手への連絡に困った時代がありましたが、それが今度は電子メールになるだけの話ですが、そういう変化がマクロにはもう見えているのが現在の状況だと思います。

 携帯電話にしても、今までは電話番号というものは、自宅、会社、学校など場所に関連付けられていました。今はもう個人に付いているわけです。これもまたある意味での情報革命です。電子メディアの出現で、社会のシステムの座標軸が変わってきたということが言えると思います。


個人先行型

宗教界において、インターネットに対する反応が、組織の中枢より布教の現場の人たちから早く出たいうのは興味深い現象です。インターネットが出始めの頃は、ホームページを作るのは個々の信者や支部教会が大半でした。なかには何気なく自分の信じる教えをホームページに書き、そのサイトを見た人がその教団の公式的見解と誤解し、見た人が教団側へ問い合わせや苦情を言い、それをきっかえに教団がホームページを作るということもあったようです。それは教団側の対応よりも、多くの一信者や一布教所の方が早くリアクションを起こして、インターネット時代だからホームページでも作って発信しなければという発想になったという一例です。その動きに触発されて教団として公式ホームページを作り始めたというところが数多くありました

 しかしこれから二十一世紀は、企業も学校も官庁も積極的に公式ホームページを作り、Q&Aの手段を充実させ、データベースの公開についても組織として対応する時代にならざるを得ない状況であろうと思います。宗教界の場合、具体的な方法や形はその組織の特徴や特質があるので一定ではないでしょうが、少なくとも各宗教教団としての方向性をどうするかという選択はしておくべきだろうと思います。現段階では、発信内容を公式的な見解と基本的なニュースを主にしているケースが多くみられます。天理教のホームページもそれに近いものです。刻々と変わる天理教の本部・おぢばの風景が画像で見ることができて面白い企画だと思います。


手軽さ、個人化、双方向性

インターネットを理解する際の重要な点は、第一に、情報の発信と受信が今までと比べて非常に手軽になったということ。第二に、個人の持つ比重が強まったということ。第三に、双方向であるということ。これらの要素が複合してインターネットの普及を助長し、また同時に危険な面をも併せ持つようになってきています。これらは宗教教団にとって、いずれも大きな意味を持つと思われます。その中で、いくつかの現状を基に、インターネットによる影響を採り上げて考えてみたいと思います。

まず一つには、今までの宗教界の情報伝達の手段としては、多種多様の刊行物などの主に文字情報でした。その際には、印刷数を考えたり誤植に対して細心の注意を払いながらようやく一冊の本を作っていく。そこには大変な手間がかかってくる。まして機関誌を毎月発行するとなると、専従のスタッフが必要になり大変な作業です。ところが、インターネットでそれらの刊行物に代わるものを作る場合、ホームページなどは、小人数で簡単に作れます。印刷数も考える必要がなく、プロバイダーを決めるなどちょっとした手続きで大丈夫です。更新も非常に簡単で、間違いがあればすぐ訂正できます。また、音や映像も加えることができるので、発信内容が多様化され、小人数の努力と能力次第で多くのアクセスが得られることになります。これは今までの紙を媒体にした情報伝達手段に比べると大きな変化です。極端に言えば、新聞社でなければできなかったようなことが、ごく少数の人が結束すれば簡単に作ることが可能になるということです。記事の内容は別問題として、手段や方法として、ある種のニュースがどれだけの人たちに読まれるかということで言えば、印刷時代には個人と新聞社が競争することは考えられないことでした。しかしインターネットでは、個人が発した小さな情報の方にアクセスが殺到して、新聞への反応はあまりないということもあり得るわけです。そのような逆転現象は決して非現実なことではありません。

次に、今までとは決定のプロセスが大きく変わってきたということです。企業はインターネットをどんどん活用していますから、そこで起こっていることは、宗教界にも参考となるでしょう。かつては企業に対してある事柄への見解が求められれば、それに対する見解を会議で諮り、その答えを新聞や機関誌で発表するというプロセスでした。しかし、インターネットを通じての情報の受信、送信というものは基本的にリアルタイムに行われます。例えば、企業のホームページに問い合わせがあった場合、返信の内容は即決が迫られます。返答が遅延することで更に次の質問メールを呼んでしまう事態にもなりかねません。そこで組織の見解を決定するシステムを、場合によっては少数の人が決断しながら対応していくという形にしなければなりません。つまり、組織全体で行うという今までの組織原理では対応できない面が出てきたということが言えます。その意味で、情報を扱う側が、個人化、ダウンサイジング化しないと対応できない面が出てくるのではないかと思われます。

それから宗教にとって特に影響していくと思われることが双方向性です。基本的に入信して宗教とかかわりを持つケースは、いわゆる対面状況が始まりだと考えられます。それは双方向の意見交換ということであり、天理教の「にをいがけ」も対面状況でなされてきたわけです。宗教に限らず、商売でも個人商店の場合は客と売り手の双方向の対面状況です。しかし組織が大きくなると一人ひとりと対面状況において相手の反応に応じて意見を交換するということができにくくなります。それゆえ、一方的に情報を流すという機会が多くなってしまうわけです。組織から個人への情報伝達の手段は、圧倒的に機関誌・紙というのが現状です。その場合、逆に個人の意見は組織側へは届きにくい。それが電子メールその他を使えば、それこそ大統領とでもメールのやりとりができる時代ですから、少なくとも今までに比べてはるかにダイレクトに個人が組織の上層部へ情報を送ることが可能ではあります。そのことが良いか悪いかの問題ではなく、そういう双方向の情報伝達が可能であるということを条件として考える必要性が出てきたということです。

一対一の双方向の場合ですと、今までも電話やファクシミリ、手紙で双方向が行われていましたから、個人的なメールのやりとりだけを考えれば、時間が短縮されたり方法が簡便になっただけにも見えます。しかしホームページでの双方向は、一対多の双方向になります。この一対多の情報は、伝達先が二段階、三段階進めばねずみ算式に増えていく怖さがあります。悪い情報ほどその傾向が見られます。携帯電話を使ったメール情報にしても、その速さは驚くほどです。リレーメールなどというのがありますから、一人が数人に情報を流して、しばらくしてその数人がまた数人にその情報を流すということが何回か繰り返されれば、一時間経てば何十万という人にその情報が届くこともありうる。理論的には仕組み自体がそういう可能性を持っているものです。


有効な道具にするには

しかしながら、やはり前向きに取り組むことによって、信仰の活性化という面から言っても、使い方次第で非常に有効な道具にもなり得ます。天理教では、人と人が実際に接して行うにをいがけが基本であるとは思いますが、場合によっては情報だけを伝えればいいこともあるでしょう。たとえば、無医村などに一人の医者がやってきて往診することは大変ですが、インターネットの利用によって一定の情報を入手し、応急処置をしたりし、どうしても医者の診察が必要なときにだけ往診するというやり方によって、一人の医者でカバーできる範囲が広がるということも起こったりします。これは宗教に適用できる話であると思います。

また直接会わないから本音が話せるという面もあるようです。今、メールや携帯電話で知り合った人に自分の本当の悩みを打ち明ける人が多く見られます。この心理は若者に顕著です。これも宗教にとって見逃せない点です。今までとは違う形での、人と人のふれあいのきっかけや導入部が出てきたのです。まずはメールでやりとりしてから、その反応次第で会うかどうかを決める。これは新しい道具ができたことにより、人と人のコミュニケーションのプロセスも変わりつつあるということです。年輩の方であれば、手紙などが最初のアクセス方法であったでしょうが、今は電子メールや携帯電話になった。時代によって人付き合いの導入部が異なるわけです。

しかし入り口は違っても、本当に解決したいこと、自分が言いたいことに至ったときに従来の方法が使われることもあります。メールで九〇パーセントが解決されて、残り一〇パーセントのために直接会うということもあるでしょう。事柄によってはぜひとも会う必要のある場合もあるが、用件の大部分が基本的な知識を分け合うことにある場合には、メールを使うことによって時間は省略できます。例えば十分間あればある程度の文章は書けます。それを何度かやりとりすればお互いが考えていることはかなり分かるものです。それによって、一回遠い所へ足を運んだことにも劣らないぐらいの情報交換が可能になります。

路上で知らない人から「あなた悩みはありますか」と聞かれたり、いきなり軒先で教えを説かれることに抵抗を持っている人が多い世の中です。それは方法の良し悪しではなく、一般にそういう行為が日常的でないために、受け手側が違和感をもつからです。それゆえ、もはや日常的コミニュケーションの段階に入りつつあるインターネットなどの電子メディアを、最初の会話の口火として利用していくという考え方は、むしろ自然な発想です。布教面だけではなく信者同士の連絡や教会長さんと信者さんとの日頃のコミュニケーションなどにも有効です。その点では双方向性という性格は良い面が多いとも言えるでしょう。

この双方向性に対する姿勢も宗教によってさまざまです。世界的に見ると、イスラム圏ではインターネットの使用を見合わせたり、あるいは特定のプロバイダーに限って使用を許し、そこでチェックしようという動きをしているところもあります。

情報への対応
そのような要素が相互に影響しながら、インターネットの発想の一つである一から多、多から多へのお互いの情報を自由にやりとりする形が、いろいろな使い方の可能性を広げていきます。こうした特徴は、多かれ少なかれ宗教界にも及んでいきます。例えば、信者同士のフリートーキングにしてもそうです。また、天理教の人と他の宗教の人が話し合いをする場を持つことは、そういう付き合いのある人は別として、現実はなかなか難しいことです。ところがメール上とか、インターネットの掲示板上であれば、非常に気楽に会話が成立しうるのです。ただし、ここで注意しておくべきことは、当事者同士が私的に話し合っているつもりでも、一個人の意見が教団の見解に受け取られることが多々あるということです。それにとどまらず、その見解は、あっという間に何百、何千人の目に触れ、一人歩きを始めてしまう可能性があります。現実にそういうことが起こっています。同時に、それを規制するのもほとんど不可能です

そこで組織の側の選択が分かれるところです。インターネット上の意見交換には一切関知しないというのが一つの方策ではあります。自分たちの行動が正しいと自信を持って、どんな噂が流れようとそんなことはいちいち気にすることはないという立場もあり得ます。しかし、なかなかそう思い切るのは難しいし、反応しないことでかえって波紋が起こるから、きちんとした公式の見解なり方針を随時流していくという選択も出てきます。

宗教の活動の中では、受け手がある話に感銘し、今日は良い話を聞いたと感じることで、つながりが深まったりします。情報の伝達が活動の中で大きな部分を占めるという宗教の性質を考えたとき、今までとは違う手段で情報が発信され受信されるということは、宗教にとっては無視できないものであるのは明らかです。そのことを踏まえて、情報がランダムに交わされ偽りの情報も多く流れ、ある意味ではアナ―キーな現在の状態に、どういうスタンスで臨むのかということは、教団にとって、真剣に考える必要がある問題です。


インターネット布教の可能性

中国で話題になっている法輪功という集団がありますが、法輪功はいわば電子メディアを活用して、短期間に急速に大きくなった組織です。一九九二年に活動が開始され、九九年の四月に、北京・中南海に一万人の信者を集結させ、北京政府を驚愕させるに至りました。その組織の短期間の拡大には、インターネットが決定的な役割を果たしたようです。創始者の李洪志は、アメリカに居て、そこからインターネットを通じて中国の信者にも指令を出しているとされています。日本と社会的条件が異なるので、新宗教運動が起こりにくい中国で、こうした運動が起こり、短期間に多くの熱心な信者を生んだことは大変興味深いことです。それは中国の社会状況が産み出したものであると言えます。中国は日本に比べて宗教活動に大幅な制限があります。日本は世界的にも宗教活動が非常に自由な国に属しますから、組織を作ったり呼びかけたりするのにインターネットを使わなくても、従来の方法でたいていのことがやれます。ですから日本におけるインターネットは、現段階では、補助的な役割に過ぎません。日本の場合には現実の組織のインフラがしっかりしているので、バーチャル的なものをあまり構築する必要のない現在の状況があるからだと言えます。

 この状況が将来変化するとすれば、おそらく社会が世代交代したときでしょう。携帯電話を通して知り合うとかメル友になるという類の行動が、広い世代にわたって一般的になれば、それが布教手段にとりこまれ、インターネット布教ということも重視されるかもしれません。今はインターネットを布教に最大限利用しようとしている例が、いわゆる「カルト」と呼ばれるような組織に顕著に見られたりします。しかし、インターネット人口が増加してくれば、一般の教団にもインターネット利用の度合いを強める傾向が強まると思われます。まだ少ないですが、インターネットで情報を得て入信したという例があるところはもう幾つかあります。こうしたパターンは現実のものとなりつつあるけれども、一人二人出てくらいでも、騒いでいる段階ですから、パーセンテージから言えばきわめて低いです。ただ、ここ数年の間にその数値が一桁二桁変わってくるだろうということは、可能性としては高いと考えられます。

私は、宗教団体というものは、社会が宗教に何を期待し、逆にどんなことで警戒したりするのかということに対して敏感であってほしいと思っています。もちろん信念は信念、真理は真理として確固たるものを持つことは最も重要なことです。しかし一方で、社会からどう期待されているか、どう警戒心を持たれているのかという声に耳を傾けていくという姿勢もまた必要でしょう。そういうことを知る上で、インターネットは活用次第で大変便利な道具になり得ます。インターネット上での非難中傷を怖がる人もいますが、そもそも人間というのは多少匿名性が保証されると大胆な発言するもので、これは新聞や機関誌でも事情は似ています。それをあまり怖がらず、十件文句を言われた中の一つ二つに建設的な意見があったら、それを活かしていこうぐらいの姿勢がいいのではないでしょうか。

 企業でも、最近はクレーム処理を重視しています。そのときに常に例に出されるのが、有名な東芝問題です。一人のユーザーのインターネット上のクレームに対して無視もしくは間違った対応をして、何百万人もがその事件に関心をもった。最終的には東芝側が謝罪をしなければならなくなったという事件です。インターネット上で、一個人が企業に勝ったという、象徴的な話であります。宗教の場合には特に批判も受けやすいし、教団間に葛藤があるという場合もあります。今までは機関誌で批判するということはあったかもしれないけれども、そんなに露骨にはできませんでした。ところがインターネット上というのは名前を偽ることができるものですから、批判が過激になりがちです。しかし、こうしたことに、あまり一喜一憂する必要はないでしょう。むしろ問題が起こったときに基本的にどう対処するか、という原則をはっきりとさせておく方が肝要です。

 クレーム処理などの対応面での慎重さは大事ですが、おそらく発信される内容に関しては、規制はほとんどできません。また、インターネットの掲示板などは、だれが見るか分からないと思って書かなければいけません。メーリングリスト、掲示板、チャットといったものは、情報はどこからどこへ流れて行くか分かりません。こうした基本的なことについては、研修会や講習会を開いて、システムについての説明や注意を促すことを充分行った方がいいと思います。

 

便利さの落とし穴

 インターネットに限らず、便利なものには落とし穴があります。インターネットの場合、ここから発信される情報に、いろんな意味で過度に依存してしまうということがよくあります。若い人の中には、携帯電話によるチャット中毒、メール中毒と言われる人が増えています。彼らのなかには、日頃頻繁に電子メールでやりとりする人と実際に会ったら、ほとんど会話できなかったりする人がいるようです。つまり自分はだれかとコミュニケーションしていると思っているが、実はそれは仮想現実であり、そのバーチャルな世界に依存し過ぎている。その危険性について、宗教界はきちんと考えなくてはなりません。つまり最後は人と人が向き合うというところが外せないのであり、終始、仮想、バーチャルな世界にこもってしまう怖さ、この落とし穴にも留意しておくべきでしょう。入り口のところではインターネットの特性を充分活用してということはあるにしても、次のステップから、依存症になったり現実の人間と向き合いにくくなったりということのないように、もう少し体験を重視する場も、一方で確保しておく必要があるでしょう。

 インターネットに関しては、社会システムに関わるので、それを用いるということは、程度の差こそあれ、どの教団にもいずれごく普通のことになってくるでしょう。それゆえ、今の時点で大切なことは、その特性を十分認識し、自分たちの宗教活動によりよく活かすための議論に、かなりの時間を割くということです。

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