<東京市民活動コンサルタントArco Iris 緊急資料コーナー>
 

日本のアフガン難民問題を知るために

            (緊急執筆 稲場 雅紀)



 
 
 <目次>  
  1.多様な歴史的・民族的・社会的背景を持つアフガニスタン難民たち 
  2.アフガニスタン難民申請者を迫害する日本政府  
  3.今こそアフガン難民に難民認定を!緊急に声を上げよう 
  4.関連資料:問題の根源・難民制度と日本の難民政策
 

1.多様な歴史的・民族的・社会的背景を持つアフガニスタン難民たち

 「9.11同時多発テロ」以降、日本政府が米国の報復戦争への協力を大きく打ち出す中で、「難民支援」ということがいわれ、「アフガニスタン難民」の存在が政策・メディア両面でクローズアップされています。ところが、政府の政策を見ても、メディアの報道を見ても、具体的な「アフガニスタン難民」像が見えてきません。それもそのはず、「難民支援」は、自衛隊の海外派兵に目くらましするための「人道支援」の仮面として使われているだけだからです。
 アフガニスタン難民、とひとくちにいっても、その歴史や背景は本当に複雑で多様です。アフガニスタン難民の具体的な像をつかむためには、私たちは、少しでもその歴史や背景に分け入る努力をする必要があります。

(1)ソ連軍の侵攻や内戦により、近隣諸国に避難した難民たち

 アフガニスタンは1973年のクーデターによって王制が打倒されたのち、親ソ派の社会主義政権が登場しましたが、この政権の基盤は弱く動揺しがちでした。1979年、ソ連軍が「兄弟的援助」の名目でアフガン侵略を開始、カブールを制圧してカルマルを首班とする傀儡政権を打ち立てます。これに対して、イスラーム原理主義者たちはソ連に抵抗するために各種の組織を作り、ムジャヒディン(義勇軍)を編成、米国とパキスタンから大量の支援を受けて、現在まで続く20年戦争が開始されました。
 ソ連は多大な犠牲を払って戦争を継続しますが、ペレストロイカ路線の中で撤退、カルマルの後継者たるナジブッラーも1992年、政権を放棄します。後継政権となったのはタジク人のラバニ大統領・マスード国防省を中心とするイスラーム協会(ジャミアティ・イスラーミ)でしたが、ソ連という共通の敵を失ったイスラーム原理主義者たちは、各民族や軍閥に四分五裂し、今度はお互いを敵とする内戦に突入します。
 ソ連への抵抗戦争と、それに続く内戦によって、民族を問わず、多くのアフガニスタンの人々が生活の根拠を失って難民化し、パキスタンやイランへと流出しました。パキスタンには200〜250万人、イランには150〜200万人のアフガン難民が入国し、両国は世界最大の難民受け入れ国へと変貌します。

(2)タリバーン政権の虐殺政策を逃れた難民たち

 ソ連撤退後、パキスタンはアフガン内戦において、アフガンの多数民族であるパシュトゥーン人の勢力の一つである、ヘクマティアル氏率いるイスラーム党(ヒズビ・イスラーミ)を支援しますが、イスラーム党はパシュトゥーン人をまとめることすらできず、アフガン南部は複数のウォーロードによる割拠の状況が続きます。
 業を煮やしたパキスタンは、国家情報局(ISI)の主導の下、80年代のズィア=ウル・ハック軍事政権時代の親イスラーム政策の中でアフガニスタンとの国境地帯などに多数創設された神学校の学生(タリブ)たちを組織化、パシュトゥーン人中心の組織タリバーンを創設。タリバーンはパキスタン軍の強力な援護を得てアフガニスタンに侵攻、長引く戦争やウォーロードたちの無法な支配に嫌気が差していたパシュトゥーン人たちの支援を得て1996年までにカーブルを制圧、国土の大部分を支配します。
 しかし、彼らの支配は、とくに少数民族や女性、同性愛者などの少数派には残虐でした。彼らは農村のパシュトゥーン人たちの習俗を、都市民や北部の少数民族たちに強制します。女性は全ての職から退いて自宅待機。同性愛者は石の壁の前に横たわらせた上、戦車で壁を突撃して破壊し、生き埋めにしたうえ戦車でひき殺すという残虐な方法で処刑。さらに、ハザラ人など、とくにイスラーム教シーア派を信仰する少数民族については、「パシュトゥーン人以外はアフガン人ではない」といったスローガンの下、ほとんど民族絶滅政策ともいうべき虐殺政策を展開しました。1998年、北部の都市マザーリ・シャリフが陥落した後に行われたハザラ人虐殺の犠牲者は6000人に及びました。さらに2001年1月、仏教遺跡のあるバーミヤンに近いヤカオラン渓谷がタリバーンの手に落ちた際にも、1000人のハザラ人が虐殺されました。生き残ったハザラ人たちは否応なしにパキスタンやイランに逃亡し、その一部が欧米やオーストラリア、日本などに逃れて難民申請を行っています。現在、大阪や東京など日本各地で難民申請を行っている人々は、タリバーン政権の虐殺政策にさらされたハザラ人たちなのです。

(3)干ばつ・内戦による生活破壊と米国の報復戦争によって生み出される難民たち

 一方、アフガニスタンはここ1〜2年、史上最悪ともいわれる干ばつに見舞われました。また、内戦による生活破壊もあり、国連は2000年から2001年3月までに、60万人の人々が生活の根拠を失い、国内避難民か難民となったと推測しています。
 さらに9月11日の米国同時多発テロ事件以降、米国のアフガニスタンへの報復戦争の発動により、民族を問わず、より多くの人々が生活基盤を失い、難民としてパキスタンへ移動しています。しかし、パキスタンやイランは、これ以上の難民の受け入れは難しいとして国境を封鎖、正規のヴィザを持つ人以外の入国を制限する措置に出ています。米国の軍事作戦が本格化すれば、電気などのライフラインの破壊などにより、より多くの人が生活基盤を奪われ、難民や国内避難民にさせられることになると予測されています。

 このように、アフガニスタンの難民は、様々な歴史的・民族的背景をもち、様々な理由によって難民とならざるを得なかった人々によって構成されています。また、たとえば(2)のタリバーンによる迫害によって難民となった人々についても、一人一人が固有の背景を背負っているのです。こうした個別的背景についての認識や情報の蓄積をもって、継続的に関わっていくことを抜きにして、「難民支援」はできません。継続的に地域と関わりを持つNGO/NPOの役割が、難民支援にとって決定的に重要なのはこのためです。「人道」の体裁を取り繕うための、金にものをいわせた泥縄式「難民支援」は、有効でないどころか、現地にとっても有害としかいいようがありません。



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2.アフガニスタン難民申請者を迫害する日本政府

 現在、日本に入国しているアフガニスタン難民の多くは、タリバーン政権の迫害・民族虐殺政策にさらされたハザラ人などの少数民族の人々です。ハザラ人は13世紀にイラン・アフガニスタンなどに侵入し、イランを中心にイル・ハーン国を建国したバトゥ率いるモンゴル人たちの末裔と言われていますが、イル・ハーン国がイスラーム化し、消滅して以降はインド・ヨーロッパ系の主流派民族による差別・迫害の犠牲となってきました。アフガンの主流派民族パシュトゥン人や、タジク人、ウズベク人などがイスラーム教スンナ派であるのに対し、彼らはシーア派を信仰しています。
 ソ連侵攻に始まる20年戦争においては、ハザラ人も他の民族同様、ソ連に抵抗する複数の党派を組織し、ムジャヒディンとして対ソ戦争を行いますが、ソ連撤退後、まずはタジク人中心のラバニ・マスード派から迫害され、さらにタリバーン政権によるアフガン制圧後は、民族虐殺とも呼べる恐るべき迫害に直面します。
 日本にハザラ人難民が渡航し始めたのは、98年に北部の都市マザーリ・シャリフが陥落し、6000人ともいわれるハザラ人がタリバーンによって虐殺されてから。ハザラ人の渡航は徐々に数を増し、1000人近くが殺害されたヤカオランの虐殺以降は、数十〜百名程度のハザラ人たちが日本に渡航、難民認定を申請しています。日本におけるアフガン難民問題は、彼らハザラ人たちを中心に展開しています。

(1)裁判闘争を闘うハザラ人難民たち:大阪

 大阪市中央区の「カトリック大阪大司教区国際協力委員会」では、大阪に在住するハザラ人などアフガン人少数民族の難民申請者の人々のサポートを続けてきました。国際協力委員会がハザラ人の支援を始めたのは、1999年12月末、ハザラ人の難民申請者グラム・フセインさんの来訪がきっかけでした。
 タリバーンによる殺害指示書が出たため帰国できなくなったフセインさんは、1999年10月、独力で日本政府に難民申請を行いました。しかし、12月までに一次審査、異議申請ともに不認定とされ、退去強制令書(強制退去の命令)を発付された上、翌年2月には、大阪府茨木市にある強制収容所に収容されてしまったのです。
 強制退去の手続を止めるには、裁判所の命令によってこれを執行停止し、行政訴訟(取消訴訟)によって命令を取り消させるしかありません。フセインさんは2000年2月の収容直後、大阪地裁に行政訴訟を提訴。その4ヶ月後、フセインさんは仮放免(一時的な釈放)を受け、強制収容所を出ることが出来ましたが、仮放免に要した保証金はなんと300万円でした。法務省は難民不認定の措置をいまだに撤回せず、裁判はまだ続いています。グラム・フセインさんのような形で難民申請を不認定とされ、国際協力委員会のサポートの下、現在裁判闘争を闘っているアフガン少数民族の人々は、グラム・フセインさんをあわせて4人います。
 難民条約は、難民の要件を(1)国外におり、(2)人種・民族・宗教・特定の社会的集団の構成員であること、政治的意見を理由に、(3)十分に理由のある迫害の恐れを抱いていること、と規定し、これを満たしたものを難民としています。この3点の基準から言えば、アフガニスタンでタリバーン政権の迫害に直面するハザラ人らアフガン少数民族ほど「難民」の定義にふさわしい人々はいません。実際、欧米やオーストラリア、ニュージーランドなどでは、彼らは当然のように難民として受け入れられています。法務省が彼らを難民不認定にする理由はまったくないのです。

(2)難民申請者たちに異例の強制収容:東京

 一方、2001年初頭、タリバーンによって制圧されたバーミヤン近くのヤカオラン地域では、タリバーンが1000人近くのハザラ人ら少数民族を虐殺するなどの迫害が行われ、数多くの少数民族がパキスタンやイランに脱出しました。しかしこれらの国々は、これ以上難民を受け入れる余裕はなく、徐々に難民締め出し政策へと移行しつつあります。また、民族差別や貧困などの問題にも直面するなかで、ハザラ人たちの一部は欧米や日本にさらに移動していくことを余儀なくされていきました。昨年から本年にかけて日本に渡航したハザラ人たちは、数十名から百名と推測されています。9月11日の米国による同時多発テロ事件以降、入国管理局による拘束・強制収容の対象とされたのは、このような形で新しく日本に渡航したハザラ人たちでした。
 内部筋によると、東京入国管理局によるアフガン人難民申請者の強制収容措置は、政府首脳レベルから、テロ対策の一環としてなされた「在日アフガン人を拘束して取り調べろ」という命令に端を発しています。この命令に基づき、東京入管は10月1日までに、難民申請者を含む多くのアフガニスタン人を呼び出し、タリバーン政権やウサマ・ビン=ラーデンとの関係について聴取しています。弾圧が起こったのは、この聴取作業の直後でした。10月3日、東京入管は千葉県内と東京都内の工場など三ヶ所を捜索、12名のアフガン人を「不法入国・不法滞在」の容疑で拘束、東京都北区の東京入管第二庁舎の収容場に強制収容したのです。
 しかし、救援運動の立ち上がりは非常にすばやいものでした。二日後の5日には、数名の弁護士と支援者が十条入管で収容されたアフガン人と面会、驚くべき事実を確認しました。12人のうち、確認された9人については、全員がハザラ人などの少数民族であり、しかも8月の段階で既に難民申請手続きを自ら行っていたのです。これによって、東京入管のこの措置が、難民申請者を決定前の段階で強制収容するという、極めて異例のものであり、かつ、記者発表においては、さも彼らが入管当局の捜索によって初めて発見された「不法入国者」であったかのように見せかけるという姑息な手段に訴えて、問題を隠蔽しようとしていたことが明らかになったのです。
 難民問題に関わる弁護士たち27名は、10月10日、さっそく「アフガニスタン難民弁護団」を結成、彼らの収容をやめさせるために、訴訟を含む法的措置をとることを決定。また、特定非営利活動法人「難民支援協会」や、社団法人アムネスティ・インターナショナル日本、大阪でアフガニスタン人の支援を行っている「カトリック大阪大司教区国際協力委員会」などは、東京入管のこの措置を非難し、アフガン人難民申請者たちの解放を求める声明を発表しました。アフガン人難民の収容を進める法務省・東京入管は追いつめられつつあります。



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3.今こそアフガン難民に難民認定を!緊急に声を上げよう

 今、大阪で、そして東京で起こっている事態は、日本で起こっている様々な人権侵害の中でも、もっとも深刻な部類に入ります。彼らはタリバーン政権によって、想像を絶する迫害を受けてきました。当然難民として認められるべき彼らが、難民不認定とされ、長い裁判を闘わなければならない状況に追い込まれる、さらには、難民申請中の段階で強制収容され、いつ終わるとも知れない収容所生活を強制される……このようなことが許されていいわけがありません。
 幸いにも、大阪だけでなく東京でも、これに対抗し、彼らの難民認定と自由を求める運動が急速に作られつつあります。私たちは、これらの運動と連携しながら、「今こそアフガン難民に難民認定を!」の声を大きく上げていく必要があると思います。
 まず第一に、東京で強制収容されているアフガン人難民申請者たちを今すぐに仮放免することを求めましょう。そして、これまで様々な迫害にさらされてきた、これらアフガン難民申請者たちに対して、ただちに難民認定を行うことを、法務省に対して求めましょう。
 また、このような法務省の政策は、極めて欠陥と不備の多い日本の難民法・難民制度の体系によってもたらされています。私たちは、こうした法・制度を改正し、よりよい難民制度と難民政策を持つことが出来るように、長期的に政策提言を行っていくことが必要です。
 



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