イスラーム社会と同性愛者〜我々が変わらなければ、彼らも変われない

(2002年8月31日筆)



 
 

<革命イランをみる多様な視点>

 今年の2月、東京外国語大学で、主にペルシア語学科の学生さんたちとともに「シェイダさんを囲む会」を持ったことがあります。シェイダさん(シェイダさんについての詳報はhttp://www.sukotan.com/shayda/shayda_top.html)はそこで、イスラーム革命のもとに独自路線を歩み、米国と鋭く対立し続けてきたかに見えるイランのイスラーム共和国体制が、実は冷戦下でイランに左翼政権が誕生することを警戒する米国とイスラーム主義者との結託によって生み落とされたものだということを、米国が新しく公開した外交資料をもとにしながら延々と述べました。
 一見、陰謀史観にもみえる認識ですが、イラン・コントラ事件(85年、米国が国交のないイランと武器の取引をし売却益をニカラグアの親米派ゲリラに供与していたという事件)など、いろいろと調べていくと、あながちおかしな認識ではないということがわかります。日本人から見れば唐突に思えるこのような考え方も、欧米に亡命を余儀なくされたイランの左翼の人々にはごくふつうに行き渡っているものです。

<多様性と統一・そこにはらまれる暴力>

 そもそも、旧ソ連の南側に位置するイランでは、ソ連と近しい勢力から、ソ連と対立する勢力、社会主義とイスラーム主義の融合を目指す勢力まで、さまざまな勢力が存在していました。遠く日本から見ると、イランはイスラーム神政国家、イラン人の国、と思えるわけですが、実際には、無神論者から、キリスト教徒、ユダヤ教徒、バハーイ教徒まで、民族でいっても、ペルシア人だけではなく、アーゼルバーイジャーン人、クルド人、バルーチー人と多様です。性的指向についていえば、数多くの同性愛者が、迫害と絶望の中ではあっても、必死で生き続けてきました。
 イランの現体制は、シーア派イスラームという一つの統合軸をたて、それを体現する国家統治システムとして「イスラーム法学者による統治」(ヴェラーヤテ・ファギーフ体制)という原理を置いて、本来は多様なイラン社会をそこに統合していこうというものです。現代世界がいまだ国民国家を基軸としていること、あるいは、国民国家体制をこえるものとして登場してきたグローバリズムが、第三世界における、そもそも擬制としてしか存在してこなかった国民国家を骨抜きにし、欧米という一つの極に全てを収斂させようとする世界システムを指向していることを考えれば、第三世界において、それと対極をなす別個のイデオロギーを核とする、対抗的な主体を生み出そうという動きが出てくるのは当然のことです。
 問題は、その主体化のプロセスの中で、社会を構成していた多様な要素がそぎ落とされ、その存在すら許されなくなったということです。ホメイニーが自己の権力を確立した後、宗教でいえばユダヤ教徒とバハーイ教徒が、民族で言えばクルド人が、その犠牲となりました。そして同性愛者たちは「地上における堕落者」の烙印を押され、多くの人々から指さされた挙げ句、殺されていったのです。

<グローバル世界において「独立」とは?>

 グローバル世界における「独立」とは何か。これは非常に難しい問題です。シェイダさんのケースを見てもわかるとおり、イランは国際社会において普遍的な基準とみなされている国際人権規約などの水準をまったくクリアしていません。死刑は年間100名以上におよびます。まずイギリスの、そしてアメリカの支配の下にあった帝政イランは、革命によってそのくびきを断とうとし、その途上であまりにも多くの「主体化」の犠牲を生み出しました。
 では、イラン革命はなかった方が良かったのか。
 私は、そう言い切ることはできないと思います。そう言い切れるだけの倫理を持ちうる立場、他者が持つ「悪」を自在に処断できる立場に、私たちはいないだろうと考えるからです。
 私たちが住んでいる日本は先進国です。先進国を先進国たらしめるために、既存の国際秩序ができあがっています。先進国と途上国の関係は、私たちの前に、否が応でもつねに垂直的なものとして、存在しています。
 一例を挙げましょう。国際NGOを中心とする市民セクターがその中心をなしている開発援助の世界も、実際には欧米(や日本)などの出すグローバルな金の流れが基本です。米国は現地政府セクターを無視して現地民間セクターに直接援助を行うことによって、ヨーロッパや日本は、現地政府セクターの「ガバナンス能力の向上」に向けたセクターワイド・アプローチ(特定のプログラムを虫食い的にやるのではなく、国際機関、政府機関、民間機関の連携によって、「現地政府の管理能力を強化する」方向で援助を統合的に行おうという方法論)によって、ともに途上国の政府の骨抜きか飼い慣らしに向けた力学を働かせています。その中でのNGOの活動は、もちろんプロジェクトに対する具体的な成果を生み出すものとしては有効なのですが、それをトータルに見た場合、どこまでこうした国際政治の罠から独立したものとして作り出せるのか疑問です。市民セクターの地道な活動が、実は第三世界の人々の自己決定権や内発的な発展を阻害し、グローバリズムへの従属を助長するものになる危険性も充分にあるのです。
 こんな世界の中で、途上国は、いかにして独立と自己決定を確保するのか。イランの現体制の側から見れば、彼らは多くの犠牲を払いながら、グローバリズムの荒波の中で、「自らが守るべき固有の価値」を自ら選び取るという、途上国にあっては希有な試みにこれまで「成功」してきたと言えなくもないのです。
 
<私たちが変わらなければ、彼らも変わることはできない>

 イランに限らず、現代のイスラーム圏について考えるとき、その国家・社会における苛烈な迫害、人権侵害の問題点はもちろん徹底的に検証されなければなりません。しかしそれを認識するだけでは不十分です。それとともに、一方でかつては帝国主義が、現代においてはそれと連続するものとしてのグローバリズムが、これらの地域に生きる人々の生活や倫理のあり方を、彼ら・彼女らの自己決定とは別のところで、有無を言わせずに変えていく圧倒的な力として立ち現れていることについても思いを馳せないわけにはいきません。以下、サウディ・アラビアとエジプトにおいて最近起こっている、国家権力による同性愛者への苛烈な迫害の事例を挙げますが、それをみる私たちが陥ってはならないのは、「だからイスラームは野蛮だ」とするような決めつけです。もちろん、このような苛烈な弾圧を行う政府は変えられなければなりませんし、社会も変わらなければなりません。しかし、まず私たちが、自らを、先進国の国家を、社会を、そして先進国優位の世界秩序を変えていくことがなければ、彼らが変わるということもまたあり得ないのです。

◆◇◆サウディ・アラビアで同性愛者が処刑される◆◇◆

インターナショナル・ニュース 第402号
2002年1月7日発行 レックス・ウォックナー Rex Wockner

 サウディ・アラビアの南西部の都市アブハ Abha で1月1日、3人の男性が「この上なく猥褻で汚らわしい同性間性行為 extreme obscenity and ugly acts of homosexuality を行い、同性同士で婚姻し、青少年に性的な嫌がらせを行った」ことにより処刑された。サウディ通信局 Saudi Press Agency が伝えた。これに関連して、サウディ・アラビア当局は、アリ・ビン=ヒッタン・ビン=サイッドAli bin Hittan bin Sa'id、モハンマド・ビン=スレイマン・ビン=モハンマド Mohammad bin Suleyman bin Mohammad 、およびモハンマド・ビン=ハリル・ビン=アブドゥッラー Mohammad bin Khalil bin Abdullah の3名がイスラームの教えを破ったと述べた。
 アムネスティ・インターナショナルは、この処刑について「この3名の処刑は、サウディ・アラビア政府が、致命的な結果をもたらさない犯罪に対する処罰として死刑を用いないことを要求する国際的な基準を公然と無視していることを示すものでもある」と批判した。
 サウディ・アラビアでは、昨年、殺人、強姦、薬物取引、強盗を行った者、同性愛者、背教者 apostates を含め100名以上の人が処刑されていることが報告されている。2000年には、同じくアブハにおいて、6名の男性がソドミー、異性装、「同性間での婚姻」をした上、青少年に睡眠薬を与えた上で強姦したとして斬首刑に処されている。また、同じく2000年に、隣国のイェーメン出身の男性3名が、同様に同性愛、異性装、同性間婚姻、青少年を性行為に誘惑した等の罪により、サウディ・アラビアのジザン Jizan において斬首刑に処されている。
 アムネスティは支援者に対し、以下に掲げるサウディ・アラビア政府の責任者に電報、テレックス、FAX、速達、エアメール便にて手紙を送ることと、その手紙において
・性的指向を理由として3名の男性が処刑されたことに関して懸念を示す
・処刑に関する正確な理由、宣告の理由、証拠書類、彼らの司法手続きに関する情報をただちに公開すること、また、現在の段階で性的指向を理由として死刑宣告を受けている獄中者の氏名を明らかにすることを要求する
・かかる獄中者を減刑することを要求する
 ことを表明することを呼びかけている。手紙の送り先は以下の通りである(略)

◆◇◆エジプト:ムバーラク大統領が同性愛者50名を再審に◆◇◆

2002年5月22日 Gay.com/PlanetOut.com ネットワーク

 エジプトの大統領ホスニ・ムバーラク Hosni Mubarak は、1年前に同性間性行為の廉により逮捕された50名の男性の再審を命令した。水曜日に当局者が明らかにした。AP通信による報道と同様、匿名の当局者は、大統領がこれらの男性を「宗教侮辱罪」contempt of religion ではなく、放蕩 debauchery の罪により、簡易裁判所で裁くことを要求したと述べた。
 大統領の命令は、このところ続いていた、エジプトで男性が同性愛の咎で逮捕され、過酷な懲役刑に処されていることに対する国際的な人権活動家や政治指導者の非難に対応するためのものである。
 昨年5月、52名の男性がナイル川に係留されていた船を活用したナイトクラブで「性的不道徳」sexual immorality の罪(同性間性行為なども包含することが可能な罪名)で逮捕され、カイロで一時は暴動を引き起こしかけた数ヶ月の裁判ののち、23人の被告は強制労働の刑を宣告され、29名は釈放された。
 ちなみに、グループの主犯格とされた男性シェリフ・ファラハト Sherif Farahat は、放蕩罪、宗教侮辱罪、聖クルアーンの曲解、邪悪な思想の普及などの罪により5年間の懲役刑に処せられ、もう一人の男性マームード・アフメッド・アラム Mahmoud Ahmed Allam は宗教犯罪については有罪となり懲役3年の刑に処せられたが、放蕩罪については無罪とされた。ムバーラクは、この二人の男性については再審命令の対象とせず、刑罰をそのまま承認した。ムバラクは、エジプトの最高軍事司令官として、終審裁判所である非常事態裁判所 emergency court のすべての決定を認証しなければならない立場にある。
 50名の男性の再審がいつ行われるか等の詳細については、今のところ情報はつかめていない。
 AP通信の報道によると、国際ゲイ・レズビアン人権委員会(IGLHRC)はこのニュースに失望感を表明している。IGLHRCのシドニー・リーバイ Sydney Levy は、ゲイ・コム/プラネットアウト・コム・ネットワークの取材に対して「私たちは、主要な被告二名に対する刑が確定したこと、ムバーラクの命令が刑の免除でなく再審であったことにショックを受けている」と述べた。また、リーバイは、すでに無罪となった29名の男性を再審の対象にしたことについても疑問を表明した。
 同性愛は、エジプトでは社会的タブーとされているが、法律では明文を持って禁止されているわけではない。

◆◇◆ナイジェリアで石打ち刑が宣告される◆◇◆

BBCニュース・アフリカ 2001年9月14日

 ナイジェリア北部のイスラーム裁判所が、7歳の男性児童と性行為を持ったとされる男性に対して石打ち刑を宣告した。この決定は、ケビ州 Kebbi State の第一上級イスラーム法裁判所 the Upper Sharia Court 1 が水曜日に下したものである。
 石打ち刑の宣告は、過去2年間にナイジェリア北部12州がイスラーム法を導入してから初めてなされるものである。被告であるアッタヒル・ウマル氏 Attahiru Umar は、刑の宣告から30日を期限として、控訴する権限を有する。
 裁判所当局者はAFP通信に対して、ウマル氏は二人の証人による目撃証言がなされたのちに事実を告白 confess したと述べた。マラム・アブバカール・ベナ判事 Mallam abubakar Bena は、被害者の名前や犯罪の内容を公にすることを禁止する命令を出した。刑罰の宣告後、この事案はケビ州イスラーム法執行委員会 Kebbi State Sharia Implementation Committee、さらに最終的に州知事に提出される。
 ザンファラ州 Zamfara は、2000年1月、ナイジェリアで最初にイスラーム法を導入した州である。ナイジェリアのオルセグン・オバサンジョ大統領 Olusegun Obasanjo は、改宗したキリスト教徒であるが、現在ザンファラ州に最初の公式訪問を行っているところである。
 ザンファラ州の知事であるサニ・アハメド Sani Ahmed は、公的な場所に男性と女性が混在するのは「イスラーム的でない」からという理由で、オバサンジョ大統領の歓迎行事に女性を参加させないことを命令した。しかし、行事出席者によれば、何人かの女性はこの禁止令を無視して出席し、オバサンジョ大統領を歓迎した上、逮捕もされなかったという。イスラーム法導入の支持者たちは、キリスト教徒の不安をしずめるために、イスラーム法はイスラーム教徒のみに適用されるもので、その他の宗教の信者には、現存する刑法が課せられるのみであると説明している。しかし、実際には、イスラーム法の導入はキリスト教徒とイスラーム教徒との緊張関係に火をつけている。北部の主要都市カドゥナ Kaduna、カノ Kano、そして先週にはジョス Jos で、宗教を要因とした衝突が起こり、これまでに数千人の人々が殺害されている。

 
 

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