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しし座流星群

―― 1997〜2001年の出現についての私記 ――


清瀬 六朗



目次



私の「流星群」体験

 以前、WWFさんのページに載せていただいていた旧「珊瑚舎」のページは、しし座流星群の話題を掲載したところで終わっている。

 今回、ホームページの更新を再開するにあたって、その続報を掲載したいと思う。


 私が、流星群という現象を、長い時間かけて見たのは、1998年のしし座流星群が最初だった。「長い時間かけて見た」というのは、「長時間にわたって観測した」というほど本格的に見てはいないし、かといって、流星群の流星を一つや二つなら見たことはあるからだ。


 中学生や高校生のころ、真夏のペルセウス座流星群のときに、30分ほど窓辺で夜の空を眺めていたことはあった。それで2つか3つぐらいまで流星を見たように覚えている。

 小学校の夏休みに、夜空に大きな火の玉が流れたのを見たことがあった。空が裂けたかと思うようなまぶしい光が走り、後ろに、妙につめたい、無機的な色の光の尾を引いていた。

 当時はその正体がわからず、ずっとふしぎに、というより、不気味に思っていた。その夜は、何度か窓の外を見て、何か異変が起こっていないか確かめたのだったと思う。

 いま思うと、あれはペルセウス群に属する流星、しかも「火球」と呼ばれる明るい流星だったに違いない。後ろに残った光の尾は「流星痕」というもので、流星の流れたエネルギーの一部が薄い空気のなかに残り(原子のまわりの電子が励起され)、その薄い空気が光って見える現象だ。光る原理はオーロラと同じである。


 そのころ住んでいた家から見る夜空はほんとうに暗かった。駅のある一角の明かりが空に白く映えているだけで、そのほかの方角には地上の明かりが届くこともほとんどなく、暗い星まで見えた。

 その後、私は首都圏に住むようになり、たまに帰省してみると、その空がだんだん明るくなってくる。帰省先の家のすぐ近くにもネオンサインが輝くようになり、晴れていてもあまり暗い星は見えなくなってしまった。バブルが崩壊してそのネオンサインは消えたが、もとの暗い空が戻ってきたようには思えない。

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1998年の出現

 ところで、1998年の11月といえば、更新を中断してから一年後である。1997年にホームページに話題を出しておきながらなぜ観測しなかったのかは思い出せない。


 1998年のしし座流星群はそれほどの大出現ではなかった。それでも、長い流星痕を残す大流星が日本の広い範囲から見えた。しかも、流星痕は、10分近くも形と色を変化させながら見えていた。私が小学生の夏休みに見た「火の玉」もこれと同じような流星だったのだろう。しかも、こんどの流星のほうがずっと大きかった。このときのレポートは、「しし座の流星群」と題して『WWF No.19』に掲載して頂いた。

 その流星痕を残した彗星の映像がテレビで繰り返し流され、しし座流星群がやっぱり特別な天文現象であったという印象が広がったためか、私が心配していたような天文学者叩きは起こらなかった。

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1999年の出現

 翌年以後、しし座流星群には私は縁がなかった。

 1999年も流星群の出現が期待されていた。しかし、この夜、私の住んでいる首都圏は曇りだった。雨かみぞれも降っていたように思う。それに寒かった。私の周囲には、見に行って高熱に倒れた人もいた。

 私はやはりこのしし座流星群の夜は徹夜態勢で臨んだ。

 雲は厚く、流星が見えそうな状態ではなかった。私は、室内で書きものをしながら、晴れたら外に出て空を見ようと待機していた。一時間か、30分ごとに、外に出て空模様を見た。しかし空が晴れることはなかった。

 この1999年には、2001年3月に閉館してしまった五島プラネタリウムが中心となって、流星観測ツアーが行われていた。空の暗いところに出かけて流星を見ようという企画だったと思う。私は、募集広告を見たときから参加しようと思っていたのだが、次の日の都合がつかず、参加できなかった。

 けれども、参加していたとしても、やはり流星は見えなかったはずだ。ツアーに参加した解説員が、あとでプラネタリウム投影の解説で見えなかったと語っていた。それに、この夜は流星はあまり多くは流れなかったのである。


 翌日の空はきれいに晴れ渡っていた。私は仕事で多摩のほうに行き、しかも帰りが遅くなった。空には月がかかり、夜空はビロードの布のようだった。東の空から昇った冬のオリオン座の星が美しく輝いていた。

 この天気が一日早ければ、と、私は思った。

 流星群は、ある夜だけに現れるのではなく、その前夜や次の夜にも見えることがある。その夜の帰り道で、これから外に出て見張っていれば、まだ流星を見ることはできるかも知れないと考えていた。けれども、前夜、ほとんど寝ていない。その夜、外で空を見上げつづけるだけの根性はさすがになかった。

 ところが、その夜、帰宅して、録画しておいたNHKの『クローズアップ現代』を再生して驚いた。その冒頭で、国谷裕子キャスターが、ヨーロッパでしし座流星群が大出現したと興奮気味に語っている。部屋の電灯もつけないまま、そのビデオをずっと見ていた。

 NHKご自慢のハイビジョンカメラで撮影した飛行機からの映像には、たしかに、降るような流星の映像が映っていた。感度のよいカメラであるから、目では見えない流星も写っていたのだろう。しかし、それを割り引いて考えてもたしかに大出現であった。

 前の1998年は、日本から流星群が見えるようになったときには、もう出現のピークは終わっていた。そして、この年は、日本で夜明けが来て、日本から流星群が見えなくなってから大出現した。

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天文現象の見えかたの類型

 天文現象は、全世界で見られるものと、地球上のごく一部でしか見られないものとの両方がある。たとえば、月食(月蝕)は、月食が起こる時間帯に夜のところならば、空が晴れていればどこでも見える。しかし、日食(日蝕)は地球上の限られた部分でしか見えない。とくに皆既日食となるとごく狭い範囲でしか見えない。だから「日食を観に行く海外ツアー」はあっても、「月食を観に行くツアー」の宣伝は見たことがない。

 ところで、いま、ほんとうの書きかたの「日蝕」・「月蝕」で書いてみた。「日食」・「月食」と書くのとぜんぜん感じが違う。「食」の右側に虫がいるかいないかの違いだ。虫がいる「日蝕」・「月蝕」のほうは、どことなく病的な感じが漂うのに対して、「日食」・「月食」にはその「暗さ」がない。

 では、流星群は、全世界で見られる月食型の現象か、それともごく一部でしか見られない日食のような現象なのか。じつは両方がある。ある期間、そこそこの数が見られる流星群と、短い時間に集中して現れ、それ以外の期間には、現れてもそんなに数の多くない流星群とがある。ある期間にそこそこの数が現れる流星群は全世界で見られるが、短期集中型の流星群は、その時間にたまたま夜で、しかも、流星が流れてくる場所が地平線の上に出ている場所でないと見えない。

 夏のペルセウス座流星群はある期間そこそこの数が現れる流星群で、全世界で見られる。しし座流星群も、3日ぐらいの幅で出現するから、全世界で見られることは見られる。しかし、「雨のように降る」という現象が起こるとしたら、その時間は限られている。だから、そういう「大出現」は地球上の一部でしか見られないのだ。

 日本は、二年連続で、その大出現の時間に流星群を見られる時間からはずれてしまったのである。

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2000年の状況

 2000年はしし座流星群はあまり期待される年ではなかった。私は当夜はまたほとんど徹夜だった。ただし、流星群を見ていたのではなく、『WWF No.21 ―押井学会 Vol.1―』の原稿を書いていたのである。書きながらときどきネットに接続して、ニフティのインターネット中継を見ていた。

 東京の空は、薄曇りではあったけれど、やっぱり曇っていた。その空に流星が見えることもなかったし、ネット上の中継でも流星は見えなかった。朝になってもういちどインターネットに接続してみると、中継はまだつづいていて、青い空が映っていた。インターネットの映像でも夜は明けるんだ、と、当たりまえのことが強く印象に残った。印象に残ったけれど、流星は見えなかった。

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2001年――アッシャー説による予測

 さて、2001年である。

 普通に考えると、2001年はすでにしし座流星群で大出現が起こる年ではない。しし座流星群のもとになる土ぼこりや砂粒を運んできたテンペル‐タットル彗星はすでに遠くに去っていて、流星群の原材料はもう地球の周辺にはなくなっているはずだった。過去の文献から調べても、このような条件での出現記録はわずかしかないという。

 ところが、イギリスのアッシャー博士という研究者が、2001年に日本を含む東アジアでしし座流星群が大出現するという予測を発表し、注目されていた。

 普通に考えれば、そのような先例に反した予測ははずれるのが当たりまえだ。しかし、この予測が無視できなかったのは、このアッシャー博士が1999年のヨーロッパでの流星雨大出現を的確に予測した研究者だったからである。

 それでも日本の天文学者には慎重な論調が目立ったように思う。しし座流星群の広報活動に熱心に取り組んでおられた国立天文台の渡部潤一さんも、アッシャー説の的中には懐疑的だった。『天文年鑑』2001年版にも「期待はしたいが過信はできない」とある。


 アッシャー説の新しさは、流星のもとになる土ぼこりや砂粒自体の軌道を計算して流星群の出現を予測したところにある。

 従来は、その土ぼこりや砂粒を撒き散らす彗星(母彗星)の軌道と地球との関係から、流星群出現を予測していた。

 たとえば、しし座流星群ならばテンペル‐タットル彗星という彗星から撒き散らされた土ぼこりや砂粒が地球に飛びこんできて流星群を作り出す。ペルセウス座流星群ならばスイフト‐タットル彗星だ。流星群が、いつ、どれぐらい出現するかは、この彗星の通り道(軌道)のまわりに土ぼこりや砂粒があるという仮定で予測していた。

 けれども、彗星の通り道の近くに土ぼこりや砂粒も流れているはずだという仮定は、じつはあまり確実ではない。

 もちろん、彗星から宇宙にばらまかれたときには、土ぼこりや砂粒は彗星の近くにあるだろう。けれども、ばらまかれてしまったあとは、土ぼこりや砂粒は、どんなに小さいといっても独立した天体だ。独自にほかの天体と重力を及ぼしあいながら宇宙を漂う。その「ほかの天体」のなかで重要なのはもちろん太陽だけど、それ以外にも、大惑星、とくに木星の重力の影響も無視できない。太陽や木星の引力に引かれるうちに、最初に土ぼこりや砂粒をばらまいた彗星とは少し違った通り道に移ってしまう(「軌道が進化する」という)こともある。

 そのこと自体はわかっていた。けれども、流星のもとになる土ぼこりや砂粒は、小さすぎて地球からは観測できない。地球に飛びこんできて、光を放って燃えつきるときにはじめて「そんな土ぼこりや砂粒が宇宙にあったんだな」とわかるだけだ。だから、地球上からは、その土ぼこりや砂粒の通り道がどこにあるかが検証できない。

 アッシャー氏は、その土ぼこりや砂粒の通り道(軌道)を独自の方法で推定し、その結果に基づいて、「日本を含む東アジア」での大出現を予測したのである。アッシャー氏は、しし座流星群の時期に来日し、日本で流星群の観測を行うことにしていた。自説の正しさを確信していたのであろう。

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またも盛り上がる報道

 それに合わせてまた報道が盛り上がり、そして、私は「はずれたときにはこんどこそ天文学者が袋だたきにされる」という危惧を抱いた。1998年と同じで、慎重派の発言もいちおう紹介はするのだが、派手な予測のほうがどうしても報道の中心になってしまう。私なんかは「当たれば儲けもの」というぐらいに考えているけれども、ここまで報道されると「当たらなければ損をした」と考える人が多くなってしまう。

 そんななか、ついに、雑誌『天文ガイド』や『天文年鑑』の出版元である老舗の誠文堂新光社が、『天文ガイド』と『子供の科学』の共同編集でしし座流星群特集の臨時雑誌を発行した。その特集号が書店に平積みされるようになった。その特集号のポスターもあちこちの書店で見かけた。ほんと、だいじょうぶかなと心配した。流星群の夜が明けて、けっきょく流星群が出現しなかった翌日に、このポスターが白々しく店頭に舞っている姿を思い浮かべると、どうにもやりきれない気分だった。

 私と同じくアニメ『ギャラクシーエンジェル』ファンの友人は、しし座流星群観望ツアーを企画して、出かけていった。私は誠文堂新光社の特集号を観望ガイドとして渡して見送ったけれども、どうも不安でいっぱいだった。

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2001年の出現

 で、当日が来た。

 アッシャー氏の予測時間は、一般の方法で予測した時間から一日ほどずれていて、18日の夜から19日の明け方までだった。日曜日の夜、月曜日の朝という、つらい時間である。私は、従来の予測の17日夜〜18日朝も見ようと思っていたが、けっきょく寝てしまった。中途半端な寝かたになってしまい、日曜日に疲れが残ってしまった。

 日曜日も、しし座流星群の出現時間まで眠っておくつもりが、ほとんど眠れなくなってしまった。夕方から夜にかけて会合があり、帰りが遅くなってしまったのだ。ベストではない体調で、私は、1998年のときと同じようにベランダに出て、空を見上げた。

 雲が出ていた。雲が切れないようならばさっさと部屋に引き上げようと思った。あまり乗り気だったとは言えない。ただ、今回見逃せば、ほんとうに一生見られなくなってしまう恐れがある。大出現したときに、一生もののイベントを見逃したという後悔を残すのはいやだ。それだけの、義務感のような思いで空を見ていた。

 流星群出現の時間には雲が切れ始めた。それでも、雲は何度も何度も流れてきては、空を覆った。全部が覆われてしまうことはなかったし、薄雲を通して流星が見えたりもしたけれども、その雲のおかげで集中力をそがれたのはたしかだ。それに、雲が出ていないときも、空はなんだか湿気たはっきりしない空だった。1998年のときのようによく晴れた澄み渡った空ではなかった。

 ただ、あとで聞いてみると、私が見ていた東京都あたりが雲の境界線だったらしい。あとで神奈川県や千葉県で見ていた友人たちに聞くと、雲がかかっていて流星はろくに見えなかったということだった。

 今回も、「観測」という本格的な見かたはしないことにしていた。天文学的に意義のある観測にしようと思えば、流星の流れた正確な時間、場所、方向、明るさやその他の特徴を記録していなければならない。けれども、それにはある程度の習熟が必要だ。しし座流星群でいきなりやってもうまくいくとは限らない。それに、仕事を離れているときぐらい、いつも時間を意識していることからは自由でいたかった。

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ついに来た! 大流星群

 大出現には大して期待していなかった。最初に流れ星を見たのが12時少し過ぎだっただろうか。「ああ、これからまた一時間ぐらいぼーっと待つのか」と考えた。1998年と同程度の出現として、私の家の、あまり視界のよくないベランダから見上げた空という条件では、そんなものである。それより、アッシャー説が当たっていなかったら、従来説の予測では18日夜〜19日朝はピークをはるかに過ぎている時間だから、ほとんど見えないはずである。もしかするといまのがただ一つ見られた流星ということになるのかな、などと考え、一時間見えなかったら撤収して寝ようとも考えた。

 ところが、そんなものではなかった。

 最初のうちはしばらくあいだがあき、何十分も一つも見えないということはあったけれど、そのうち、数分に一つ、いや、私の見ている狭い空でも一分に二つも三つも流れたときもあった。二つの流れ星が同じ方向からつづいて流れるのは、流星のもとになった土ぼこりや砂粒が大気圏突入のときに二つに割れて、それが相次いで光るからだろうけれど、ぜんぜん違う場所からほとんど同時に流れることもあった。いちばんのピークには、30秒を数えないあいだに5つの流れ星が相次いで流れた。


 しし座流星群の流星はどれも明るく、派手な印象だった。明るいものは、白く光って空に裂け目ができたような印象だ。ばあいによっては金属的な原色の流星痕が残り、流星そのものから少し遅れてすうっと消えていく。しかも流れる速度が速い。

 過去に記録が多く残っているのは、この流星群がそれだけ活発に活動していたからだけれども、また、見えかたが派手ということの影響もかなりあると思う。天文現象だと思ってみていても派手なのだ。昔のように、それを「天の意思」だとか「悪いことの起こる前兆」とか考えていたら、この流星群はとてもまがまがしい現象に見えたに違いない。

 中国の古典大衆小説『水滸伝』のクライマックスで、夜空が一瞬裂けて光が射し、そこから碑が地上に降りてくる場面がある。この夜空が裂けて光が射すという描写は、「火球」と呼ばれる大流星の印象から生まれたのかも知れない。


 だが、こうなってくると、見つづけていると感覚が変わってくる。「一時間に一つ見えれば万々歳」だったのが、こんどはひっきりなしに流星が流れるのが当たりまえになってきて、10分も見えないと不満がたまってくる。贅沢な話である。というより、贅沢というのはそういうものなのだ。給料が上がったときには「ラッキー!!」という程度に軽く考えていても、その給料が下がるとなるとものすごい抵抗がある。それは流星群でも同じらしい。

 私の見ていた範囲では、まんべんなく均等に流れるというよりは、少しまとまって流れて、しばらくそれが停まり、だれてきたころにまたまとまって流れるというのが、この流星群のパターンのような気がする。もっとも、これは心理的な受け取りかたもあるので、きちんと時間を計っていれば、もしかするとそうではないのかも知れない。

 今回は、1998年のときとは違って、その間隔がだんだん長くなり、まとまって流れることも少なくなってきたあたりで室内に引き上げた。そして、観望会に出かけていった『ギャラクシーエンジェル』ファンの友人にそちらの様子をたずねるメールを書いて寝た。  果たして月曜日の仕事は非常にきついものになってしまった。そういえば、1999年のときも、空が晴れるかも知れないと徹夜をして、そのあとみごとに体調を崩したのだった。


 観望会に行っていた友人からは次の夜に返事が来た。北に行っていたその友人は、私よりもいい条件で見ることができたらしい。同時に5〜6個も見えたという。

 やはり『ギャラクシーエンジェル』のファンだけあって、主人公の強運娘ミルフィーユ・桜葉の幸運が味方してくれたのであろう。


 1966年のアメリカ合衆国での出現のように、流れ星を見ている自分が夜空のなかに引き寄せられていくように感じるような大流星雨ではなかった。けれども、一世一代の貴重な体験には違いなかった。

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アッシャー説成功の意義

 今回の大出現で、アッシャー説は大きな裏付けを得たと言ってよい。

 アッシャー説の成功は、土ぼこりや砂粒をばらまく彗星の軌道(通り道)とその土ぼこりや砂粒自体の軌道とを分けて考える一つの方法が確立されたという点に意義がある。

 じつは、土ぼこりや砂粒が彗星の軌道のまわりに散らばって、彗星といっしょに太陽を回っているという理論だけでは十分に説明できない現象は数多い。

 1972年には、ジャコビニ‐ツィンナー彗星が地球のすぐそばを通り、その彗星が撒き散らした土ぼこりや砂粒がたくさんの流星になって降り注ぐと予測された。しかしその予測は大ハズレだった。土ぼこりや砂粒は彗星の軌道の近くにはあまりたくさんなかったのである。

 逆に、毎年、観測されているしぶんぎ(四分儀)座流星群(りゅう座ι(イオタ)流星群)は、その流星のもとになる土ぼこりや砂粒を撒き散らす彗星が見あたらない。6月のポン‐ウィネッケ流星群(うしかい座流星群)は、土ぼこりや砂粒を撒き散らす彗星が木星の引力に巻きこまれて軌道(通り道)が変わってしまい、長いあいだ見えなくなっていたのに、1998年にひょっこりと大出現した。

 こういう現象を的確に捉えるには、土ぼこりや砂粒の軌道を正確につきとめることが必要だ。アッシャー説はそのための有力な方法となる。もちろん、しし座流星群以外の流星群にも必ず成功するとは限らないけれども、それでも、地球から直接に観測することのできない土ぼこりや砂粒のありかを探るための一つのステップになることはまちがいない。


 さて、アッシャー氏の予測が今年(2002年)も的中するとすると、今年はアメリカで大出現するはずである。流星の光や、流星による電波の反射を誤認して、ミサイルをぶっ放したりすることのないよう、切に願いたい。

 今年は、大出現したとしても、アッシャー氏の予測を前提にするかぎり、日本ではあまり見えないはずである。したがって、日本でしし座流星群が見えるのはまた30年ほど後のことになる。アッシャー説発表前の渡部潤一さんによる予測によると、次回はあまり派手な出現は期待できなさそうだが、アッシャー説ではどうなるだろうか。

 次回までにはたぶんいまよりはるかに精度のいい「流星予報」が開発されているだろう。その予報が聞ける日を待っていたい。そして、そのときまで、晴れていれば明るい流星が見える程度には暗い夜空が残っていてほしいものだとも思う。

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―― おわり ――




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