鉄道博物館の「これから」

鈴谷 了



東急「電車とバスの博物館」再開

 先頃(2003年3月)、東急電鉄が運営する「電車とバスの博物館」が移転・新装オープンした。これまで、田園都市線・高津駅の高架下にあったが、同駅を含む区間を複々線にすることになり、その工事の支障となるため、同じ田園都市線の宮崎台駅の高架下に引っ越したのである。

 東急といえば伝統ある五島プラネタリウムを2001年春に閉鎖している。天文ファンからは「プラネタリウムはダメで、自社の電車をPRする施設ならいいのか?」という恨みも聞こえてきそうだが、まずはこの景気の悪い時世に博物館を維持した姿勢を評価したい。

 この「電車とバスの博物館」は1982年に開設された。鉄道博物館としては比較的新しい部類に入る。それだけにいろいろと新機軸を打ち出し、その後の鉄道博物館に影響を与えた面も大きい。

 その一つは、「実物による体験重視」という側面である。今では鉄道博物館の定番となっている運転シミュレータを初めて設置したのはこの博物館だった。ほかにも引退したバスを置いて、運転席で放送テープや扉の開閉、方向幕の切替といった操作ができるようにしてあったり、踏切を線路や架線ごとそっくりそのまま(警報機も線路の両側にちゃんとある)館内に再現し、田園都市線の電車の接近に合わせて実際に開閉するといった展示が行われていた。

 また、入館料を未就学児は無料、大人100円という廉価に押さえ、一度入場券を買えばその後は再入場自由という「太っ腹」な姿勢で、企業の利益を沿線住民に還元する文化施設という色彩を高めたのも大きな特徴だった。(館が道路を隔てて分かれており、一度外に出なければならなかったという構造上の理由もあるが)

 それだけに、新しい博物館が旧館のよさを引き継いでいるかどうかを少し気にしながら、電車好きの愚息を連れて早速訪れてみた。

 新装開業から一週間というタイミングということもあり、従来の休日よりも来客は多かったようだ。愚息が大好きだった踏切は、館内から玄関前の露天に移設されていた。ただし、踏切まるごとではなく、警報機は1基だけで架線もなくなっている。旧館同様、電車の接近に合わせて作動するようだが、雨の日はじっくり見るというわけにはいかないだろう。何より、「本物そのまま」という部分が一歩後退した感は否めない。

 実は今度の博物館は旧館に比べて水平方向の面積に制約があり、踏切を入れる場所がないための苦肉の策という印象である。残してくれただけでもよしとしなければならないのかもしれない。

 それ以外の展示物はおおむね従来通りだった。ただ、上にも書いた通り、旧館に比べて水平方向の広さが狭く、階層を増やすことで対応している。(旧館は2階、新館は3階構造)来客が多かったということもあるだろうが、館内のゆとりがやや失われたようにも感じた。

 館が道路を隔てて分かれているという構造は旧館と同じだが、旧館は狭い生活道路で、その上を電車の高架が覆っていたため、移動する上での制約は少なかった。今回は広い信号付きの道路を渡らなくてはならず、雨天時には傘が必要になる。そのかわり、「離れ」の館には交通図書をそろえた図書室を新設したり、旧館では原則車内非公開だった保存車両を公開して展示するなど、客を引きつける工夫はしているようだ。

 今は移転開設したばかりでまだ慣れない部分もあるのだろうから、もう少し落ち着いてからまたゆっくり眺めてみたいと思う。



関西の場合

 その一方で、阪急電鉄が運営する宝塚ファミリーランド内にあった「乗り物館」(旧・電車館)が、ファミリーランドの閉鎖と運命をともにして2003年4月7日で閉館になる。(余談だが、宝塚ファミリーランドは手塚治虫が幼少時代によく通って、創作活動の原体験の一つになった場所である。その場所が、「鉄腕アトム誕生」とされる日になくなるのは何とも皮肉な話だ)ここは1963年に開設された、比較的歴史のある施設だった。

 電鉄会社の遊園地にある博物館が、遊園地と一緒になくなってしまう例は、ほかにもあった。(小田急電鉄が向ヶ丘遊園に設置していた「小田急資料館」)ただ、無視できないのは、この「乗り物館」が在阪私鉄では唯一の鉄道博物館だったことだ。

 関西はその昔私鉄王国といわれ、筆者もまたそうした沿線で育った一人である。各社ともそれなりに自社の車両に関心を持つ愛好者向けにいろいろと趣向をこらしてきたことは確かだが、博物館を持っていたのは阪急だけだった。それだけに、今回の閉鎖には寂しさを禁じ得ない。

 ちなみに関東では東急のほか、東武と営団地下鉄が博物館を持っている。(営団は改装のため2003年6月再開予定)


 もっとも関西の場合、過去には大阪の交通科学博物館(旧・交通科学館)が各社共通の施設として認識されていた節がある。

 交通科学博物館には、開館(1962年)当時の私鉄各社主力車両の精巧な模型が展示されている。(筆者は長らくここを訪れていないので、今はないかもしれないが)これらの模型は開館に際してそれぞれの会社から寄贈されたものだ。また、京阪電鉄からは日本最初の空気バネ台車も寄贈されて展示されている。

 東京の交通博物館にはこうした私鉄車両に関する展示はない。私鉄各社が博物館を作る前、まだJRが国鉄だった頃も同じだったように思う。(筆者はその時代には一度しか行ったことがないので断言できないが)

 交通博物館・交通科学博物館はそれぞれJR東日本・西日本の委託を受けて、ともに交通文化振興財団という団体が運営に当たっている。国鉄時代は国鉄からの委託だったのでその点は変わっていない。しかし、JRになってからはよりJR色を強く押し出した運営になっているような印象がある。京阪が台車を寄贈したのは、まだ国鉄だった時代のように記憶する。

 それだけに、今の交通科学博物館が果たして各社共通の施設という位置づけにあるかどうかは微妙なところではある。関東に比べて乗客減少が激しく、経営の苦しい在阪私鉄が今後博物館を持つことは困難なだけに、各私鉄も含めた鉄道博物館として運営していける方法はないものだろうかと思ったりする。ついでにいえば、「添え物」のように入っている他の交通機関に関する展示は、この際さっぱりと専門の機関に譲って鉄道専門の博物館にした方がすっきりするのではないだろうか。



理想の博物館を目指して

 ところで、この原稿を書いているちょうどその時期に、鉄道発祥の地の一つである汐留貨物駅(鉄道開業時の新橋駅)跡に、復元された新橋駅がオープンする。実は汐留駅を廃止・売却することになったとき、その一部に交通博物館を移転させてはどうかという意見を述べた論者がいた。そのメリットとしては、

  1. 今の交通博物館は明らかに手狭なのでそれが解消できる
  2. 鉄道発祥の地という記念すべき場所にふさわしい施設である
  3. 貨物駅につながっていた線路をそのまま残せば保存車両を営業路線に乗り入れさせたり、営業車両を博物館に展示することができる

 という点があげられていた。特に三番目の点は欧米の鉄道博物館にはよく見られるもので、「生きた博物館」を実現するという意義が大きい施策だ。

 結局は国鉄の累積債務解消という側面が優先され、高層ビルの谷間に旧新橋駅のレプリカを作るのが精一杯だった。子ども連れの客が中心で、週末以外は人を呼びにくい(付加価値の出にくい)施設を都心の一等地に作るというのは確かに困難だったろう。しかし、この場所を提供してくれた鉄道事業に対する敬意を表し、「経済至上」とは異なる価値観を示すことができたのではないかという思いは消えない。汐留が無理でもほかにも鉄道遊休地は国鉄末期には至る所にあった。それらを利用して鉄道博物館に、という発想が出てこなかったのは残念である。(ちなみに北海道にはそれに近い施設がある)

 暗い話ばかりではない。JR九州は新たに博物館を作る計画を発表した。交通科学博物館は展示施設のリニューアルを行っている。このご時世に「文化」に金をかけることはそれだけ勇気のいることだし、運営が決して楽ではないのはどこも同じだろう。たぶん、訪れた子どもたちの歓声や目の輝きこそが、こうした博物館を続けていく原動力になっているはずだ。各博物館がより充実し、愛好者や子どもたちが集う場所として長くあり続けることを切に願うものである。(2003年4月)


―― おわり ――



関連ページ

東京急行 電車とバスの博物館

交通博物館(ジェイアール東日本)ホームページ

交通科学博物館(ジェイアール西日本)