牛丼の「消滅」に関して思うこと

鈴谷 了




 さる2月11日、筆者は仕事の都合で出勤していた。昼に職場近くの吉野家に行くとすでに牛丼の販売は停止されていた。ニュースやワイドショーで「最後の牛丼」を食べるただのお客がものものしく映されたり、駆け込み客が出る風潮に対して財界の某首脳が苦言を呈したりと、周辺の話題にも事欠かなかった。

 この一件がこれだけクローズアップされたのは、「ものに事欠く」ということがほとんどなくなってしまった現代の日本において、時限的な措置とはいえ「日常的にあるものがある日突然なくなる」という事態が起きたことが珍しかったからだろう。それこそまさに「日常生活に不都合」な状況が現出してしまったわけである。やっぱり押井ファンとしては牛丼はこだわりのあるアイテムだ。


 筆者は常日頃牛丼屋の世話になっているというほどではないが、残業で遅くなったときなどには利用しているので、平均すれば月に一回くらいは牛丼を食べていた。別に牛丼が好きでたまらないのではなくその時間に開いている飲食店で、時間がかからず値段も安く、なおかつそこそこお腹がふくれる、という理由で選択していたに過ぎない。それこそ牛丼仮面(*1)にお仕置きされそうな程度の「牛丼愛好者」だったわけである。

 *1 
 押井監督時代のアニメ「うる星やつら」に登場したゲストキャラ。(本編では名前なし) 「美味だからこそ牛丼に身も心も捧げる決意をした」人物で、「(うまい、安い、早いの)「牛丼の三大スローガン」は今こそ修正されねばならない、と力説する。
 「うる星やつら」には別に牛丼仮面というプロレスラーが登場する(こちらは作中でこう呼ばれている)ため、このキャラは牛丼仮面ではないという向きもいるようだが、一般にはこう呼ばれているようだ。

 ついでに言うと、筆者の勤務先の近くには神戸らんぷ亭もあるので、今でも牛丼を食べるには事欠かない。ただ、社会的に見ればおよそ世間の牛丼屋のほとんどから牛丼が消滅したことには変わりはないのだが。


 しかし、日常のものがなくなる、という事態は歴史を遡れば珍しいことではない。今から60年ほど前の日本ではいろいろな事物がなくなっていき、ものによってはやはり「最後の客」がやってきた。たとえばダンスホールである。今ではダンスホールというのはマイナーな娯楽だが、当時のポジションを今の事物にたとえるならゲームセンターとかディスコということになるのだろう。

 もちろん、これは当時日本が戦争をしていたためである。ただ、ダンスホールを閉鎖する、という理由はあんまり積極的なものではない。「無駄な電気を使う」といった一応それらしい理由も考えられるが、本当のところは欧米色の強い娯楽を排除するという、精神的な理由の方が大きかったのだろう。同じような娯楽でも、政府からの情報宣伝機関となりうる映画館は存続していたのだから。

 さて、今の日本はイラクに自衛隊を派遣するという状況だが、別にその自衛隊員の苦労を慮って牛丼がなくなったわけではない。(*2)

 *2
 日本では米英との開戦後、毎月8日を「大詔奉戴日」(開戦の詔勅が出た12月8日にちなむ)と称して昼食を日の丸弁当とすることが半ば強制された。(やがて米飯自体が入手困難になるが) これは「戦地の兵士の苦労を分かち合う」という理由付けがされていた。それから20年ほど経って文化大革命中の中国では、革命時代の苦労を思い起こすという理由で「憶苦飯(おっくはん)」という粗末な食事を一斉に食べる日がやはり設定された。どうもこうした「食糧不足を回避するため食べ物に制限を加え、その理由付けに士気向上をうたう」という発想は国によらないらしい。

 周知の通り、牛丼の大半をまかなっていた米国産の牛からBSE(牛海綿状脳症、いわゆる狂牛病)が検出され、なおかつ日本などが行っている全頭検査の措置をアメリカが取ろうとしないため、日本政府が輸入をストップしたからである。日本が自衛隊のイラク派遣を拒んでその制裁措置として牛肉の輸出をアメリカがストップしたという状況だったら……などと考えたりもするが、ともかくそういう事情だ。

 この構図を見ると、20年ほど前の牛丼にまつわる事件が思い起こされる。それは1980年に吉野家が倒産した話だ。今は優良企業の吉野家も一度はつぶれたことがあるのだ。その原因は成長企業にありがちな無理な拡張策だったようだが、当時報道された中で、その引き金になったのが「値上げ」だったという話がある。それは450円だった牛丼を500円に引き上げたため、サラリーマンの客足が落ちてしまったというものだ。今の倍近い値段である。それでも当時としては安かったのだ。

 当時の筆者にとって、牛丼は縁遠い食べ物だった。まだ中学生で、しかも吉野家はその頃関西にはあまりなかったからだ。「牛丼一筋80年」という当時のCMソングはどこかで見て知っていたものの、「そういうものがあるんだ」という程度のものでしかなかった。関西の食文化では牛肉は肉の主流だが、牛丼というのは決してメジャーな食べ物ではなかったように思う。(関西には独自の「きつね丼」とか「木の葉丼」といった丼ものがいろいろある)

 倒産当時の吉野家の映像を最近見る機会があった。客層や従業員の風采など、実に男臭い(オッサン臭い)雰囲気で、押井守が描く「立ち食い」の舞台はこのようなものだったのかと納得できた。

 この当時、吉野家で使われていたのはほぼ国産の牛肉だったはずである。その理由は大きく二つある。一つは為替レートの違い。この時代、アメリカの産業不振と日本からの輸出増大によって為替は円高になりつつあったが、1ドルが200円を割ったことが大ニュースになったほどの感覚だった。1ドル110円で円安だと言う昨今から見れば信じられないような話である。もう一つは、日本の農産物には強い参入障壁があったからだ。

 参入障壁の背景には、食糧の安全性の確保という本来必要な要素も含まれていたが、それとは別に政治的な要因も絡んでいた。戦後の長い間日本の政権を担ってきた自由民主党は、農村部に強い支持基盤を持っており、専業農家の意向を無視するわけにはいかなかったのだ。広い農地に大規模で低コストの農業を展開する米国をはじめとする外国産の牛肉が入ってくると、日本の農家は致命的な打撃を受けると考えられていた。

 日本が中成長国程度の国であったなら、こうした参入障壁は国内産業の保護という点で別に問題にされることはなかっただろうし、事実戦後の長い期間それで通ってきた。ところが、1980年代に入る頃から日本はアメリカを中心に自動車や半導体などを大量に輸出するようになり、大幅な貿易黒字を抱えることになった。貿易赤字に苦しむアメリカからすれば、自動車や半導体などを売りつけておきながら、自分は農産物を外国から買わないのは不公平だ、ということになる。そのため、農産物特に牛肉とオレンジの輸入自由化がアメリカから日本に対して強く求められ、80年代を通して外交上の課題となった。自民党政府が内外の交渉をまとめ上げて自由化が妥結したのは1989年、バブルの最盛期のことだった。

 こうして安い米国産牛肉が大量に手に入るようになった結果、牛丼のコストは急速に下がり、吉野家の再建を後押しすることになった。同時に吉野家自体、店構えをきれいにしたり女性の店員を雇うようにした結果、かつてのオッサン臭い雰囲気は排除されたように思う。今回の騒動で、日頃牛丼を食べないような人々が大挙して牛丼屋に詰めかけたことが報道されていたけれど、筆者の経験ではここ数年牛丼屋で女性客を見ることは決して珍しくなかった。20年前からこうしたこぎれいな牛丼屋だったとしたら、果たして押井守がこだわりを持つアイテムとなったかどうか、興味深いところだ。


 今回の騒動を一言でまとめれば、「食のグローバル化が招いた事件」ということになるだろう。ただし、「食のグローバル化」自体は歴史的に見れば決して新しいことではないし、牛丼だけがそうだというわけでもない。

 19世紀、世界に君臨したイギリスではアフタヌーンティーの習慣が社会の広い範囲に浸透していた。しかし、その原料となるお茶の葉もお茶に入れる砂糖も、イギリスで自給できる産物ではなかった。お茶はインドや中国から、砂糖は中南米からもたらされたものだ。インド洋や大西洋の彼方から運んできた産物が、イギリス大衆のテーブルの上で合体して嗜好品となっていた。これはイギリスが大国になったために起きた先駆的な事例といえるけれど、やがて20世紀には多くの先進国に同じような現象が波及した。

 日本の伝統的な食材と考えられているものですら、もはやその例外ではない。東京でも昨今ブームとなっている讃岐うどんは、その原料の小麦の多くが外国産(オーストラリア産が最も多いらしい)である。そばでも同じことだから、麺類用小麦の主産地から小麦が輸入できなくなったら、立ち食いうどんやそばが消滅する可能性はある。豆腐用の大豆は約80%が輸入品だ。

 牛肉の自由化論議が盛んだった折、農家を中心とする勢力が掲げた反対論の一つには、「食の安全を守る」というものがあった。農水省の指導のもと、欧米でBSEがすでに騒がれていた段階でも肉骨粉の使用を止めずに「水際対策」に失敗した日本もよそ様のことは言えないにしろ、その危惧は今になって現実になった。あの頃、貿易の自由化や規制の緩和に反対することは、あたかも既得利益に固執する勢力であるかのような見方も少なくなかった。そういった面があったことは否定しないとしても、食の安全性に関する問題は(そのときBSEが知られていなくても、タンパク源の大きなウエイトを数少ない国に頼るリスクという形ですら)二の次の問題だったように思う。「アメリカ人は食べても何ともないじゃないか」と言われれば反論の余地はなかったのだろうけれども。

 こうした食糧について「国粋主義者」になると、環境運動家=左翼思想てなレッテルが貼られるのも少し奇妙なことだ。排外的な主張を声高に叫ぶ人だって、ひょっとしたらその相手国から輸入された食材を知らずに口に運んでいるかもしれない。なぜ「環境右翼」とか「食材国粋主義者」が出てこないのだろう。むしろそういう人々がいる方が自然なように思うのはおかしいだろうか。あるいはそうした勢力がいることで、食糧問題や環境問題をイデオロギーではないニュートラルな形での議論にすることができるようにも思えるのだが。


 吉野家の牛丼「消滅」騒動から3週間近く経って、ニュースに牛丼がのぼることもなくなった。牛丼がない日常を私たちはごく当たり前に受け入れてしまっている。牛丼仮面のような「真の牛丼愛好者」は社会的には少数派だったということなのだろう。だが、社会から少しずついろんな食べ物が消えていく可能性は、頭の中にとどめておいた方がいいのかもしれない。


―― (了) ――