日立電鉄の風景

清瀬 六朗

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1. 最終電車

最終電車

夜の大甕駅(24KB)
 夜の大甕駅 すべての電車が終わった後、大甕駅で休む日立電鉄の電車(2005年3月14日)。

 今日、2005年3月31日の最終電車で日立電鉄線は廃止になる。この記事がサイトに掲載されるころ、日立電鉄線の最後の電車はもう走り終わっている。

 日立電鉄線が通常(平日)のダイヤで運転されると、

の電車がそれぞれその区間の最終になる。このうち、鮎川発22時23分と常北太田発21時49分の電車は途中駅の大甕までなので、鮎川から常北太田までの18キロあまり、全14駅を走る最後の電車は、鮎川発21時45分の電車だ。

 今日の鮎川発21時45分の電車は、はたして常北太田まで何人のお客さんを乗せて運ぶのだろう?

 日立電鉄線に愛着を持つ人たちや鉄道ファンをいっぱい乗せて常北太田まで行くのだろうか? それても、そういう人たちは昼のあいだに引き上げてしまい、いつもどおり、沿線に住んでいる人たちだけを乗せて走るのだろうか?

 鮎川発22時23分や常北太田発21時49分発の電車ならば、名残を惜しむお客さんや鉄道ファンの人たちがいっぱい乗っていたとしても、このお客さんたちはその夜のうちに帰ることができる。上野までは無理だが、上野方面ならば水戸を通って土浦まで(常北太田発最終ならば我孫子まで)、小山方面ならば下館、仙台方面ならばいわきまで、その日の常磐線の夜の電車で帰ることができる。

 だが、最後の常北太田行きは、常北太田で下りたあと、どこへも行きようがなくなってしまうのだ。

 日立電鉄線はもちろんもう終わっている。ではほかの線はどうかというと、日立電鉄の常北太田駅のすぐ向かい側にはジェイアール(東日本旅客鉄道会社)の常陸太田駅があり、ここから水郡線の太田支線が出ている。水郡線は、上菅谷(かみすがや)で郡山から来た線と合流し、水戸までつながっている。しかし、この水郡線太田支線も、日立電鉄の常北太田行き最終電車が常北太田に到着したときには、最終の上菅谷行きが22時20分に出たあとだ。しかも、水戸まで行こうと思えば、この一本まえの21時08分発に乗らないと間に合わない。つまり、常北太田からは鉄道では一歩も動けないのだ。

 だから、常陸太田に宿を取っておくか、自動車をあらかじめ常陸太田に置いておくかしないと、この最終電車から下りたあと、身動きが取れなくなってしまう。

 なんでこんなことを知っているかというと、まあ時刻表を見ていればわかるのだけど、私のばあい、この身動きが取れなくなるという事態を身をもって体験したからだ。


常北太田行き最終電車

 常北太田行きの最終電車に乗りたいと思ったのは、常北太田発大甕行きの最終電車(常北太田21時49分発)に乗ったときだった。

 車内はガラガラだった。私は常北太田の次の駅の小沢からこの電車に乗った。そのとき車内にいた先客は一人だけだった。それ以外の客は乗ってこなかった。終点の大甕まで、客を二人だけ乗せて電車は走ったのだ。

 この常北太田発大甕行きの最終電車は、大甕の一駅手前の久慈浜で常北太田行きの最終電車と行き違う。私はこの反対向きの最終電車もたぶんガラガラだろうと思っていた。ところが、案に相違して、常北太田行きの最終電車には乗客がたくさん乗っていた。こちらは一車輌に一人しか乗っていないのに、反対側のホームの電車には、立って吊革につかまっている乗客もいる。

 こんど、もういちど日立電鉄線に乗ることができたら、この鮎川発常北太田行きの最終電車に乗ろうと思った。そして、3月中旬、日立電鉄線廃止まで半月ほどになったころ、その考えを実行した。

 私は日立に宿を取っていた。ところが日立電鉄は日立まで来ていない。常磐線の日立と常陸多賀のちょうど中間の鮎川が日立市側の終点である。鮎川の駅は常磐線の線路のすぐ横にあるのに、常磐線には駅がなく、常磐線に接続していない。

 日立から鮎川発の電車に乗るには、常磐線の日立駅からいったん日立電鉄線の接続駅の大甕まで行き、大甕から鮎川まで乗って鮎川から折り返すという行きかたが普通だと思う。

 常磐線には、日立と大甕のあいだに常陸多賀の駅がある。ここから最寄りの日立電鉄線の駅まで歩くことも考えられる。けれども、常陸多賀駅は日立電鉄線と離れたところにあるため、接続にはかなり歩かなければならない。常陸多賀からいちばん近い日立電鉄線の駅は河原子(かわらご)だが、直線距離で1キロ近く離れていて、歩くと10分以上かかるのではないだろうか。

 私は、このさい、日立から鮎川まで歩いてやろうと考えた。


日立から鮎川駅まで

 日立と鮎川のあいだにはバスがあるのだが、鮎川発日立行きは朝、日立発鮎川行きは夕方から夜しか走っていないうえに、本数が少ない(ただし電鉄線廃止前の状況)。もしかすると、他に鮎川を通るバスはあるのかも知れないが、よくわからない。

夜の鮎川駅(23KB)
夜の鮎川駅
(2005年1月19日)

 私は、この日の朝、鮎川発日立行きのバスに乗り、その路線を確かめておいた。また、日立に着いた日、常磐線のなかからも線路沿いの道を探していた。そこで確かめた道を鮎川に向かって歩いたのだ。

 鮎川から日立行きのバスが、なぜ、朝は鮎川から日立へ、夕方から夜には日立から鮎川へという方向で走るかというと、日立に日立製作所の工場があって、ここに通勤する人たちを運ぶためである。

 日立駅から鮎川の方向に向かって坂を下ると、まずこの日立の工場の巨大な敷地が広がる。坂を下ったところにジェイアールからの引き込み線があり、ここに省線門という工場の入り口がある。

 「省線」というのは、いまのジェイアールが「鉄道省」のものだった時代のジェイアール線の呼び名だ。その後、日本国有鉄道、略して「国鉄」になり、国鉄が民営化していまのジェイアール各社になった。ちなみに「鉄道省」の前は「鉄道院」だったはずだ。たぶん、その「省線」だった時代の名まえがいまも残っているのだろう。

 この省線門から先、日立製作所前の道はだらだらと上りになる。この坂を上りきったところに日立製作所の正門がある。あるのだが、なかなか坂が上りきらない。日立の工場がそれだけ大きいのだ。

 ちなみにこの正門の前のバスの停留所名は「正門前」だ。「日立製作所正門前」ではない。どこの正門前かはわざわざ言わなくてもわかりきっているのだ。省線門側のバス停も「省線門」で、ここにも企業名はついていない。日立市での日立製作所の圧倒的な存在感がわかる。

 バスはここから常磐線の海側(東側)に出るのだが、私はバスの道から分かれて常磐線の西側を歩いた。こちらのほうが車通りが少なそうだったからだ。

 道は日立製作所の前からまた下りになり、緩い上り下りを繰り返しながら、常磐線の線路に沿ってつづく。たまに自動車が走り抜けるだけのさびしい道だ。

 星空がきれいだ。きれいと言っても3等星(北斗七星のいちばん暗い星の明るさ)がはっきり見えるという程度で、満天の星というのにはほど遠い。それでも私がいつも見上げている東京の星空よりはよく見える。東京の空と較べて、星一つひとつがくっきりと光を放っているように見えるのだ。

 それはいいが、少し心細い。夜にこれまで通ったことのない道を行くのだ。しかも道を聞こうにも通行人がいない。ただ、今回は、地図も持っていたし、常磐線の線路に沿っていけばいつかは着くとわかっていたので、道に迷う心配はあまりなかった。問題は時間だ。日立から鮎川までだいたい3キロ、15分で1キロを歩くと概算して45分、それに切符を買ったりしている時間を含めて50分の時間を見て日立を出た。私はこの概算よりはもう少し速く歩けるので、少し時間が余るだろうと思っていたのだが、なかなか駅に着かない。

 あせりを感じ始めたころに、常磐線をはさんだ反対側にガソリンステーションが見えてきて、その横に日立電鉄の電車が停まっているのがガソリンステーションから漏れる明かりで見えた。ここが鮎川の駅である。ただし、この電車はどうやらずっと使っていない電車らしく、駅構内のいちばん端に停まっている。駅はこの電車が停まっているところからまだ少しあるのだ。


鮎川駅を出発

 常磐線の線路を渡って駅舎のほうに歩いていると、駅舎から人が出てきたのが見えた。数えてみると4人だ。これから折り返して常北太田に行く電車が乗せてきたのは、この4人だけだったのだろうか。駅舎から前に出ずに踏切をわたって反対側に行く道もあるので、そちらに行った人もいたかも知れないが、いずれにしても、鮎川駅21時32分着の電車――鮎川に着く最後から2番めの電車――が鮎川まで運んできた人数はひと桁だったのだ。

 いずれにしても、結果的には駅には10分ほど前に着けた。ところが時間が余ったのをいいことに駅前の自販機でアイスクリームを買ってしまった。まだ3月半ばで、気温は寒かったのだけど、最後のほうで急ぎ足で歩いたのでそれを冷まそうと思ったのだ。ところが、寒いものでなかなかアイスクリームが柔らかくなってくれなくて、のんびり食っていると、遅れそうになってしまった。

 鮎川駅は夜は駅員さんのいない無人駅になる。自動販売機で切符を買い、電車に乗ったのは、発車の1〜2分前だった。

 ちなみに、始発から終電まで駅に駅員さんがいる駅は、日立電鉄線では大甕だけである。久慈浜と、大甕より北の駅は、朝夕の時間帯だけ駅員がおり、久慈浜から常北太田寄りの駅は完全な無人駅だ。常北太田はだいたい駅員さんがいるが、最終電車が着いた時間にはもう集札・改札の業務は終わっているようだ。

 では切符はどうするかというと、ワンマンバスと同じで、運転士さんが回収するのである。南高野より西(常北太田側)の駅では切符も売っていない。駅に、バスの整理券発行機みたいな乗車証の発行機が据えつけてあり、乗る人はそれを一枚取って電車に乗る。それを運転士さんに見せて電車を下りるときに運賃を払うのだ。これはワンマン運転をしている鉄道では多く採用されている方法のようだ。

 電車は定刻通りに鮎川を発車した。鮎川駅を出たとき、乗客は私を含めて3人だった。

 電鉄線はすぐに常磐線の線路から離れる。常磐線と電鉄線のあいだに日立の国分事業所があり、その巨大な敷地が二つの線路を隔てているのだ。電鉄線は、大甕駅の前後の一部の区間を除いて、ずっと常磐線の東側を走る。

 鮎川の次の桜川で乗ってきた4人のお客さんはその国分事業所で働く人たちらしい。

夕闇の鮎川駅を発車する電車(23KB)
 夕闇の鮎川駅を発車する電車
(2005年1月19日)

 電車が大甕まで乗せていたのはひと桁の数のお客さんだけだった。そのほとんどは、日立製作所やその関連企業をはじめとする会社で働く人たちのようだ(ちなみに日立電鉄は日立グループとは別の会社である)

 大甕で電車はしばらく停まる。ここで対向する(行き違う)鮎川行きの電車は、常北太田発鮎川行きの最終電車である。この電車は、じつは大甕に30分ほど前に着いていて、30分もこの常北太田行き最終との行き違いを待っているのだ。なぜ知っているかというと、この電車にも前に来たときに乗っていたからだ。この電車が駅に停まっているあいだに、常磐線の大甕の駅には下りの「ひたち」号が2度も来て、停まり、また発車していったほどだ。

 常北太田行き最終はそれほど停まらないで、鮎川行きの最終とほぼ同時に出発する。この時点で、こちらの電車に乗っているのは17人である。前に見たときにはもっと乗っているかと思ったのだが、それほど多くない。


運転士さんの仕事

 久慈浜の駅で、私が前に乗った常北太田発大甕行き最終と行き違う。この反対側の終電には3人しか乗っていなかった。

 久慈浜を出ると、その区間を走るのはこの電車が最後になる。この時間は駅はほとんどが無人なので、運転士さんは運賃を集めなければならないのだが、久慈浜の次の南高野からは運転士さんにもう一つ仕事がつけ加わる。

 駅に着くごとにホームに走って行って、ホームの電源のスイッチを切るのだ。これで、最終電車が出たあと、駅はまっ暗になる。

 大甕より鮎川寄りの駅では、駅によってはシャッターを閉める仕事も運転士がする。たしかに夜も駅に電気をつけたままにしているとは思わなかったけれど、運転士がいちいちスイッチを切っているとは思わなかった。

 日立電鉄は高架線があまりないので踏切が多い。しかも警報機・遮断機のない踏切もある。運転にはけっこう気をつかうはずだ。それに加えて駅一つひとつの電灯のスイッチを切るとは、たいへんな仕事をしている。日立電鉄が電鉄線廃止まで極限まで「合理化」した跡がうかがえる。

 沿線は暗い。会社や工場の数が減り、少し離れたところを通る国道を通る自動車と、沿線の家々の灯が見えるだけだ。

 お客さんの数は少しずつ減っていく。久慈浜から4駅めの川中子で電車に乗っているお客さんの数は10人を切った。乗ってくるお客さんは、久慈浜を最後に、一人もいなくなる。乗っているお客さんは、大甕より北の会社や工場で働いている人たちか、常磐線から大甕で乗り換えてきた人たちで、この沿線に住んでいる人たちらしい。昼間の電車には、私以外にも一人ぐらいは鉄道ファンが乗っていたものだが、いまはその姿もない。終電は地元の人たちだけのものなのだ――私一人を除いて。

 私は終電というものにはあまりいい思い出がない。終電に乗るのは仕事が深夜までかかってぎりぎりになったときだからだ。そのうえ東京近郊の終電は雰囲気がよいとはいえない。酔っぱらっている人も多いし、そうでなくても何か殺気立っている人が多い。しかし日立電鉄線の終電では酔っぱらったりして人に迷惑をかける人は見かけなかった。時間が10時台で、酔いつぶれるにはまだ早いからだろうか?

 そんなことを考えているときに、ふと、常北太田から先の水郡線はまだ走っているのだろうかという疑念が湧いてきた。常磐線の下り電車が遅い時間まであるのは確かめていたのだが、水郡線で水戸に出られるかどうかをきちんと調べていなかった。このときになって時刻表を調べてみて、はじめて常北太田からは鉄道ではどこへも行けないことに気づいたのだ。

 マヌケな話である。


タクシーの運転手さんのお話

 焦ったけれどもしかたがない。ともかく常北太田まで行って考えるしかない。バスがあることは望み薄だ。タクシーがいてくれればいいが、ひと桁しか乗客のいない最終電車をタクシーが待っているだろうか? 待っていたとしても、だれかが先に乗ってしまうのではないか? 現に、鮎川駅では、私が着いた時点でバスは終わっていたし、タクシーも待っていなかった(アイスクリームを食っているあいだに一台来たが、すぐにどこかへ行ってしまった)。最悪の場合、日立まで歩かなければいけないかも知れない。日立電鉄線は18キロちょっとで、私が泊まっている日立までは21キロということになる。だが、電鉄線は、久慈浜のところで海岸のほうを大回りするので、そこをショートカットして大甕まで出れば、少しは距離が稼げる。また、大甕から北でも、常磐線沿いに歩けばよく、常磐線の東を少し離れて走る日立電鉄線に沿う必要はない。それでも15キロ以上は歩かなければいけないだろう。1キロ15分で歩いたとしても日立に着くのは朝の3時である。それは避けたい。

 電車は里川の鉄橋を渡り、常北太田の駅に入る。踏切のところから見ると、電灯の消えた常北太田駅前に何台かのタクシーが待っているのが見えた。だが、この電車にいっしょに乗ってきた人が先に乗ってしまうかも知れない。

 常北太田の駅に着くと、私は急いで電車を下りて駅舎を抜けた。すると、常北太田の駅の側にもタクシーが2台待っていた。運転手さんどうしで何か話をしている。私はそのうち一台に乗せてもらった。大甕まで行ってほしいと頼む。

 タクシーの運転手さんは「どうしたんですか?」と言う。当然だろう。大甕から来た電車から下りてきた客に「大甕まで」と言われたのだから。

 「鉄りに来てちょっとミスを……」などと言うのもきまりが悪いので、「鉄りに来て」という部分を伏せ、
「大甕に行こうとしたら日立電鉄線の大甕行きが終わってしまったので、常北太田まで行けば何とかなると思って……」
と事情を説明する。

 すると運転手さんはいろんな話をしてくれた。

 日立電鉄の大甕行き最終も早い時間だし、水郡線の最終はもっと早い時間だから、ほかのところに住んでいる人たちは常陸太田では二次会に出ずに帰らなければならない。だから常陸太田では飲食店が繁盛しない。このままでは常陸太田が地盤沈下してしまうという。

 ほかにも、常陸太田の人たちは水郡線で水戸に出てしまうので、大甕方面にはあまり行かないという話もきいた。そのかわり、太田の高校が名門とされているらしく、日立電鉄に乗っているのは高校生が多いという話だった。日立電鉄線が廃止になると、かわりにバスが走っても朝は道路が混雑し、その高校生たちの通学には不便になるだろうという。

 大甕の駅まで10キロ近くあり、タクシー代は安くはなかったけれど、運転手さんにはいろいろと気さくに話をしてもらえたし、日立行きの電車にも間に合って、日付が変わる前に日立に戻ることができた。

 私が日立電鉄線の電車に最初に乗ったのは、昨年の11月のことだった。アトリエそなちねの人たちといっしょに日立港に釣りに行って、そのときに久慈浜から大甕までひと駅乗ったのだ。

 それから、電鉄線廃止まで5回、日立電鉄線に乗りに通った。なるべく平日で行ける日を選んで行ったし、車内ではおとなしくしていたけれども、地元の方がたにはご迷惑をおかけしたかも知れない。

 それでもこれほど頻繁に日立電鉄線に乗りに行ったのは、たんに電車がもうすぐ廃止になるからという理由だけではなく、この日立電鉄が走っていた土地が好きになってしまったからだ。出会った人のほとんどもいい人たちだった。それほど深く知り合った人はいないけれど、このタクシーの運転手さんをはじめとして、見ず知らずの私にいろんな話をきかせてくださった。

 だから、ここのページでは、その日立電鉄が走っていた土地の風景を、これから少しずつ書いていこうと思う。