98/AUG/26   日本を語るということ


 

ビジネス英語の研修ということで、2週間ほどシカゴへ行って来た。今年は米国に縁のある年である。

研修は母国語が英語ではない国の人を対象にしたものだ。だから、私のクラスメートはフランス語圏が4人、スペイン語圏が4人、イタリア人1人、トルコ人1人である。つまり全くの異文化の中に、圧倒的なラテン民族の中に放り出されたようなものである。

くしゃみをしたときに、「God bless you!」など何かを言うか言わないかに始まって、会議において他人の発言を遮って発言をするのが普通か普通でないか、等々、大抵のことでクラスメートの大勢とは答えが違う。みんなが首を縦に振っている中、一人横に振っていることもしばしばである。その度にインストラクターから質問を受け、拙い英語でそれに答えなくてはならない。

この時、私は日本を一身に背負ってしまっている。私、という個人が、いつしか、日本人代表に変わっているのだ。インストラクターも、あなたの国ではどうなのか?という聞き方をしてくるし、こちらもついつい、日本では云々と答えてしまう。いっぱしの文化論者のように、である。が、日本人と言ったって、千差万別なのだ。私の常識が日本の常識、とは限らない。考えてみればかなり恐ろしいことである。

 

ESSAY-INDEX     BACK     NEXT     HOME