下水の顔

下水の顔



マンホールの蓋の穴から一匹の蠅が下水管に入り込んだ
腐蝕する有機物のにおいが穴から流れ出ているのに誘われたのだ
暗闇のなかを食べ物を探してブンブン飛び回っていると
水面にゆらゆらと揺れる丸いものが見えた
マンホールの蓋の穴から漏れるわずかな光を頼りに眼をこらす
丸いボールが流れていくのだろうか
蠅は前脚を複眼の前でこすり合わせた
下水管の内側のぬるぬるした澱に唾を出して吸い込む
マンホールの蓋の穴から光は散乱し水面の網目模様を土管に映す
何があるのだろう
蠅はまたブーンと飛んで蓋にとまった
この丸いものはどこかで見たことがあると蠅は思った
赤い綿の入った透明な袋が丸いものの下を動いていった
丸く揺れるものに流れていくのではなく水面に映っているようだ
蠅は流れのなかに小さな島があり野菜屑などがひっかかっているのを見つけた
マンホールの蓋の穴から漏れる光は徐々に弱くなる
暮れ方になったのだ
蠅はひと飛びして島の腐りかけたキャベツにとりついた
そこには先客がいた
黒く艶のある翅をもつゴキブリである
丸く水面に映るものはすぐ近くで揺れている
光が少なくなっているのにかえって丸いものははっきり見えてきている
ゴキブリは二本のひげをゆっくり動かしながらどろどろのものを食べている
何度か見たことがある
蠅は再び思った
キャベツの溶けかけたところに唾を吐き出して汁を啜った
ああそうだこれは生きものの顔だ
蠅はやっと思い出した
様々な方角から流れ入った下水は太い管に入ってひとまず静かな水面を維持する
そこに人間の顔が映っている
マンホールの外は靄がたちこめてきていた
昼と夜の温度差で舗道には小さなひびが入る
みみずが下水管の壁面を伸びたりちぢんだりしながら通る
キャベツの溶けた汁が蠅の口をうるおわせた
蠅はひと晩ここで明かすことにした
どぶねずみが水を散らしながら走っていく
アンモニアのにおいがする
それにしてもと蠅は思った
それにしてもこの顔はなぜ映っているのだろうか
湯を流しに捨てた人がいるらしい
生ぬるい湯気がひととき下水管を満たした
下水に映る顔は薄笑いを浮かべていた
闇のなかで顔だけが明るくなってきた
これはかすかな記憶なのだろうか
固有の骨格がつくる固有の肉の起伏
蠅は血なまぐさい戯曲や首が舞う復讐の物語を反芻した
そうではない
そうではないどこか遠くの人間の頭蓋の映写幕に一つの顔が映し出されているのだ
ゴキブリが吸いつく位置を変えた
これは一つの憧れに似ていると思った
蠅はまた前脚をこすり合わせた
顔はますます明るくなってくる


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