第2章 供犠

第2章 供犠



1 宗教社会学

 供犠が当時のバタイユの関心事であることが明らかになってきたが、この関心のバタイユにとっての意義を明らかにするには、学問的研究の成果からの摂取の問題を検討する必要がある。一九二二年頃に、古文書学校の友人アルフレート・メトロ――モースの講義を聴いて民族学に転じようとしていた――によって民族学に目を開かれて以来*1、「社会学研究会」の活動を含め、社会学との接触の全体像は、別の稿を用意しなくてはならない大きな問題だが、今はその中で供犠の理論を確かめることだけを目的とする。
 彼の社会学への関心と受容は、言わずもがなのものであると見なされているようだが、少し立ち入ってみると、そう簡単ではないことが見えてくる。「自伝ノート」(一九五八年頃)で、彼は次のように述べている。〈デュルケムの著作と、なおいっそうモースの著作が、私に決定的な影響を及ぼした。しかし私はつねに距離を取ってきた。私の考えはやはり、主観的な経験のうえに基礎づけられていたからだ。私がほかの人々と一緒になって、一九三七年に社会学研究会を創設したとき、私は、自分があまりに容易に離れてしまった世界、つまり客観性の世界をもう一度見出そうという意図を持っていたのだと考えている〉t.7-p.615。バタイユにとって、社会学は決定的な意味を持ったが、それは客観性の世界であることによってだった。しかし、彼においては、この学問は客観的であるにとどまらなかった。社会学研究会は、聖なるものに関する学問的研究の企てとして発足したが、その中には社会学そのものを聖なる意識そのものへ接続し、集団を学会ではなく共同体へと変容させようという志向が含まれ、それはカイヨワやレリスの一応の同意を得たものであったが、みるまに許容範囲を超えて、彼らとの間に決裂を引き起こすほどになる。客観性の根拠となるはずであった社会学も、〈主観的な経験〉のほうへと引きずり込まれてしまう。
 それでもバタイユが社会学から多くを学び取ったことは確かである。概括してみるならば、供犠、贈与、共同体、禁止と侵犯、宗教史等の主題群によってとらえることができるだろう。贈与の主題は、「消費の概念」に始まって「有用性の限界」を経て『呪われた部分』に至る一般経済学の基底となる。摂取の対象となった書物は、モースの『贈与論』(一九二五年)*2であり、この書物がモースに対する上記の評価の源である。共同体の主題は、社会学研究会の中心であり、ファシスム的な共同体の批判と、新しい共同体建設への実践という二つの意図を含んでいた。タブーにまつわる禁止と侵犯の反復される運動は、エロチスムそのものであった。宗教史とは不器用な言い方だが、それは宗教の始源的な形態への関心をもととして、キリスト教批判(宗教の制度化)と、宗教改革(およびその結果としての近代資本主義)の意義への関心をさす。この関心の基礎に置かれたのは、デュルケムの『宗教生活の原初形態』(一九一二年)*3、オットーの『聖なるもの』(一九一七年)*4、ウェーバーの『プロテスタンティスムの倫理と資本主義の精神』(一九二〇年)*5などであったろう。当然ながら、これらの主題は、個別に独立したものではない。たとえば聖なるものとは、人を引き寄せると同時に恐れさせるものであったが、それは侵されることを前提とし、この侵犯行為によって共同性の結節点となるというように、これらの主題は相互に絡み合っているからだ。
 これらの諸主題なかで、供犠という行為は、特別な重要性を持った。なぜなら、この行為は、まず流血と死による強い暴力性によって、バタイユの心を直感的にとらえ、ついで、世界のどの文明、どの宗教の始まりにもほぼ見られるという普遍性によって、その重要さを彼に納得させるものであったからだ。この行為への関心は、前章で見たように、バタイユの最初期のフィクションあるいは哲学的エッセイからはっきりと現れる。それは「太陽肛門」での、女を犯しながら殺されたいという欲求、『眼球譚』の司祭の処刑の場面からはじまり、『マダム・エドワルダ』のエドワルダと運転手との、『死者』のマリーとピエロの性交の場面へと及んでゆく。当然、彼は論文やエッセイ中の多くの箇所でも、この供犠という主題に言及する。代表的なのは、先の「供犠的身体毀損とゴッホの切られた耳」(一九三三年)、『有用性の限界』の第Z章「供犠」(一九四〇年頃)、『宗教の理論』(一九四九年)、『エロチスム』、二つの重要なヘーゲル論のうちの最初のものである「死と供犠」である。そのほか、『内的体験』などに見られる供犠への言及は、短いが重要なものであって、見逃すことができない。
 バタイユは、考察の基盤となった書物や論文の名前を挙げている。それらのうちの主なものを刊行年に従って挙げてみれば、ロバートソン・スミスの『セム族の宗教』(一八八九年)*6、ジェームス・フレーザーの『金枝篇』(初版は一八九〇年)*7、ユベール/モースの『供犠の性質および機能に関する試論』(一八九九年、以下『供犠に関する試論』と略称する)*8、フロイトの『トーテムとタブー』(一九一三年)*9等である。しかしながら、私の印象を言うと、社会学的な研究の成果とバタイユの供犠観の関係については、類似点を指摘することはできるだろうが、彼が誰からどんな影響を受けたかを確実なやり方で述べることはほとんど不可能である。この観点から接近しても、不明なことの多さに躓いてしまう。先に引いた友人メトローも、〈供犠に関するバタイユの思考の経路を辿ることは難しい〉(同上)と言っているが、その通りであろう。
 この不明さは、バタイユが言うように、客観的な所与が主観に引き寄せて読まれていることによるが、それでも、この主観の動きを明らかにするためには、客観的な所与をできるだけ明瞭にしておく必要がある。加えて言えば、この不明さは、バタイユの側だけの責任ではない。社会学の側でも、供犠に関して統一的な理解があったわけではなかった。ロバートソン・スミスも、フレーザーも、モース/ユベールも、フロイトも、ほぼ同時代にあって、当然のことながら、それぞれ独自の考えを持っていた。これらの間で、統一的な見解などというものは、どの読者にも引き出しようがなかったというのが事実である。だが、上記の研究者たちについての言及から、バタイユが自分の考えをどの方向に進めようとしていたか推測することはできよう。それによって、バタイユの固有の思考を可能な限り浮かび上がらせたい。

2 ロバートソン・スミス、『セム族の宗教』、一八八九年

 右記の書物あるいは論文へのバタイユの最初の言及は、先に見たように、「供犠的身体毀損とゴッホの切られた耳」におけるユベール/モースの『供犠に関する試論』に関するものである。バタイユがこの論文を読んだのは、一九〇九年の論文集『宗教史論集Melanges d'histoire des religions』によってだが*10、その序文「若干の宗教分析への序論」(一九〇八年)は、供犠、呪術、理性、神話などを取り上げ、ロバートソン・スミスやフレーザーの理論との照合も行われていて、バタイユに有用であったに違いない。しかしながら、頻繁に依拠するということは、必ずしも、それに根拠を置いていたということを意味しない。
 「供犠的的身体毀損」のなかでのユベール/モースへの言及は、二カ所ある。一つは前章で引用した本文中での言及であって、自己毀損の例が、ユベール/モースの言う神の供犠に近く、神の供犠は想像に留まらず実践的でもあったと主張した部分である。もう一つは、脚注での言及であって、次のように述べられている。〈当然わかることだが、ユベール/モースのエッセイ中で表明された総体的な図式は、ここで簡略なかたちで描き出された図式とはかなり違っている。しかしながら、この私の論文のなかで非常に簡素なかたちで述べられた解釈の試みは、彼らの仕事に依拠している。そして想起せねばならないのは、フロイトは、『トーテムとタブー』のなかで、ロバートソン・スミスの以前の仕事(『セム族の宗教』)に依拠し、ユベール/モースの批判を無視しうるものnegligeableだとしているということである〉p.176, t.1-p.268。
 今回興味を引くのは、後者の部分である。バタイユは、自分の考えは、ユベール/モースに根拠を置きながらも、かなり違ったものであり、その違いは、ユベール/モースの考えに対するフロイトの批判と共通する、そしてフロイトの批判は、ユベール/モースよりもロバートソン・スミスの『セム族の宗教』を是とする立場である、ということだ。そうだとすれば、供犠に関するバタイユの考えを知るためには、ロバートソン・スミスの『セム族の宗教』の主張、それに対するユベール/モースの批判、さらにそれに対するフロイトの反批判を参照することになるだろう。
 ロバートソン・スミスに対するユベール/モースの批判も、またフロイトの関心も、同様に、トーテミスムの解釈に関わるものであった。ある特定の動物(トーテム)を自分たちの祖霊として崇めるこの原始血族の信仰は、ロバートソン・スミスの時代には、わずか知られているだけだったが、彼の理論的主張は、トーテム崇拝は単なる動物崇拝に終わらず、この動物をあるとき共同で殺害し食べるという行為――トーテム饗宴あるいは拝領――と不可分であり、なおそれが人間のもっとも原初的な宗教の形態である、というものだった。そして彼は、この仮説から出発して、古代セム族のさまざまな供犠制度とその変容を一貫した視点で解析し、イエスの磔刑を根拠とするキリスト教の成立を望むところまで導いて見せた。
 トーテミスムにおいて、動物は神的な存在であって、氏族全体の参加と共犯のもとに、神の現前においてしかその生命を奪うことはできなかった。一方、その神聖な実質が供給され、それを食べるとき、血族仲間は相互の、また神との物質的同一性を確かめることができた。供犠は秘蹟sacrementであり、供犠に付される動物そのものが血族仲間であったし、トーテム動物、すなわち原始的な神そのものを殺して食べることによって、血族仲間は、自分が神に似たものであることを改めて思い起こし、自分の存在に確信を持った、とロバートソン・スミスは考える。
 そこからいくつかの変化が起きる。ひとつは、このトーテム動物の供犠が、次第に人間の供犠となっていったことである。それはトーテム動物が血族に属するものであったのに対し、社会構成が氏族へ、そして部族へと拡大していったことに応じている。なぜなら、血族それぞれの動物という個別性を越えて、部族社会という拡大に対応できる動物的存在は、もはや人間しかなかったからである。こうして人間を神あるいは神の表象とみなして供犠に捧げる、というかたちが成立する。ロバートソン・スミスによれば、この変化は、古代セム族のいずれの文化にも痕跡として見られる。そして部族社会を基盤とするというこの一般性によって、トーテミスムは宗教へと展開されたのである。
 次いで、人間の供犠は動物に代替されていった。それは人間を殺害することへの恐怖が次第に強くなっていったからである*11。この場合、代替物たる動物は、トーテム動物の神性を持たない、人間の下位に位置づけられる生物としての動物であった。そして動物を生贄にすることすら耐え難くなって、ついに供犠の儀式そのものが一種の象徴的なミメティスムへと変容して行くことになった。
 バタイユには、ロバートソン・スミスに関する直接の言及はない。だが憶測すれば、このように解明された過程のうちで、バタイユの関心を引いたのは、次のような箇所であったに違いない。トーテム動物の殺害とその食餌という儀礼において、動物は、近代人の目には動物にすぎないとしても、それが血族の祖、あるいはその祖霊を分かち持つものとされている限りは、この動物は神であった。すなわちトーテム殺害と饗宴は、神の殺害とその食餌にほかならなかった。このことは、バタイユが神の殺害を供犠の原理あるいは祖形と考える根拠となったことだろう。
 同じことに帰着するが、ロバートソン・スミスの著作でもうひとつ興味深いのは、彼が最初の供犠を、通常考えられているような、神に対する捧げものだという考えを採らなかったことである。トーテム信仰は、もっと一般的に言えばアミニスム的な時代のものであり、神的な存在は、いたるところに存在し、人間と別な存在だとは考えられていなかった。捧げものをするとは、所有権を人間から神へと移すことであり、それは、まず何かを所有するという観念、ついで神を人間とは違うものと考え、その存在の場所を例えば空というように自分たちの住む場所とは違うところに想定するという、いずれもかなり高度な知的蓄積を必要とした。だから、捧げものとしての供犠が成立するのは、かなり後世になってからのことである。したがって、それ以前のトーテム動物の殺害は、贈与ではなく純粋な破壊であった。このことからすると、神との関係が破壊の中で与えられる、とした、またポトラッチが究極においては贈与でなく破壊となる、としたバタイユの考えは、ある点でロバートソン・スミスに典拠を持っていたのかも知れない。

3 ユベール/モース、『供犠に関する試論』、一八九九年

 これに対してユベール/モースは、どのような批判を投げかけたか。彼らの最初の批判は、まずトーテミスムが普遍的に見出されるものではない、という点であったが、この批判は、その後の調査研究の発展によってその存在の一般性がかなりの程度まで明らかにされたことを受けて、一九〇八年の「若干の宗教的現象の分析」では撤回される。しかし、基本的な批判は元のままである。この批判は、ロバートソン・スミスが〈トーテム崇拝の行事に供犠の起源を見ようとした〉(『供犠』、以下同、p.5)ことに向けられたものであり、ユベール/モースは、〈完全に構成された供犠は、トーテミスムのあらゆる段階とは両立することができない〉p.207と主張する。その理由を彼らは次のように言う。〈・・・・トーテム秘蹟は供犠ということを意味しない。トーテム拝領においては、たしかに聖なる食物の消費は行われるが、供犠の本質的な特徴は欠けている。つまり献供、聖なる存在への帰属が欠けている〉p.197。人は、トーテミスムは、聖なる感情の度合いが低いために、宗教としての要件を備えていないと見なし、そのために供犠と似ていることを認めながらも、供犠の範疇から除外する。だがこれは、供犠の基本あるいは典型となる構図を、有史以後の出来上がったかたちでの供犠に求めた上での判断であるように思われる。
 ユベール/モースのこの批判から、神の供犠をどこに位置づけるかという問題への解答での差異が現れる。彼らは次のように述べる。〈ロバートソン・スミスが供犠の起源をトーテミスムに求めたとき、頭に描いていたのは神の供犠であり、彼が考えていたのは、何よりもキリスト教の聖体拝領であった。供犠されたトーテムというのは、供犠された神であって、しかもそれは最初からそうなのだった。というのは、トーテムは、氏族の成員たちにとっては、神の機能を営むものであったからである。これに対して私たちは、神の供犠が、宗教にとって最初にあったものでもなく、また供犠の最初のものでもなかったということ、それは神に対する供犠の後になって発達し、しかもある一定の時期から、神に対する供犠と並行して存在したことを断言してきた。そして今日もなおそう考えている〉p.203。簡単に言えば、ユベール/モースは、トーテム殺害と供犠を別であるとし、なおかつ「神の供犠」は「神への供犠」の後になって現れた、と考えた。
 ユベール/モースは、供犠を「神への供犠」、すなわち動物の供犠から始まると考える。この動物はトーテム動物の神聖な動物ではなく、媒介としての、手段としての動物である。動物が供犠に捧げられる理由を、彼らは次のように述べる。〈宗教的な力は、生命力の真の原理であるのは事実としても、それはそれ自体で、それとの接触が俗人に対して恐るべき効果を持つような特性を持っているからである。特に宗教的な力が、相当程度の強度を持っているときには、それはそれを破壊することなしには、世俗的対象に集中化することはできない。それで祭主は、どんな要求を持っていようと、この力には、最大限の慎重さを持ってでなければ接近できない。それゆえにこそ、宗教的力と祭主の間には媒介が介入するのであって、その主要なものが、犠牲である〉p.105。すなわち犠牲は最初から媒介なのであって、そうである限りは動物で十分だった。
 だから神の供犠は、逆に、人間がいっそう強く神を求め、この媒介という構造を乗り越えてしまうところに、最終的段階として現れる。この間の供犠の典型の構図と、それが神の供犠となっていくときの変容の明晰な分析は、バタイユに多くの示唆を与えたものと思われるが、最初に、犠牲を提供する者としての供犠祭主、供犠の執行者としての祭司、そして犠牲となる動物、犠牲を捧げられる神は、同心円上に拡がる供犠の空間に、神を中心に求心的に配置されているが、この空間は、供犠の高揚が繰り返されるなかで次第に凝縮され、それぞれの項目は重なり合い、ついで同一視されるようになる。たとえば犠牲は、清められることによって供犠以前の段階ですでに聖なるという性格を帯びるようになり、〈神と捧げられる犠牲とは、特に同質的〉p.85となる。一方、供犠祭主は、基本的構図においては、祭司を経由して犠牲に一体化し、それを通してさらに犠牲の捧げられる神にも一体化するのだが、この過程が集約されると、供犠祭主は祭司および犠牲と直接的に同化して彼自身神的な存在となる。この様相を述べた部分は、バタイユも引用している部分であってすでに紹介したが、もう一度引く。〈同時に祭主sacrifiantでもある神は犠牲victimeとも一体であり、時には祭司sacrificateurとも一体である。通常の供犠に関係するもろもろの要素は、ここでは相互に入り組み、混融してしまう〉p.108。
 集約のなかでこうして供犠祭主も犠牲もが神性を帯びて現れるのが、それは一言で言えば、「神が神自身に対して神自身を捧げる」という関係である。これが神の供犠だ。それは供犠の論理がもっとも集約された形だが、そのためにユベール/モースは、それを最終的な形態、〈供犠体系の歴史的発展のもっとも完成した形態の一つ〉84だと見なすのである。そのうえ、この最後の段階は、その究極性のために、ユベール/モースによっては、先に見たように現実的なものというよりも、想像力によるものだとされてしまう。〈神の供犠を完全に作り上げたのは、神話創造者の想像力である〉88。
 けれども、バタイユは、先に見たように、神の供犠の構図である犠牲を捧げるものと犠牲の間の区別がこのように不分明になり、ついには同一視されることを、言ってみれば基本的でもあれば原初的でもあると捉え、それは自己が自己を毀損することだと考える。この捉え方をする限り、「神の供犠」は実践的にあり得るできごととして現れる。そしてそれは、トーテミスムの段階で、神なるトーテム動物と自己との同一性(神という本質を持ったところの)によって実現されていたと考えられていたはずだ。

4 フレーザー、『金枝篇』、一八九〇年

 バタイユが供犠について、神の供犠というイメージを持ったとき、フレーザーの『金枝篇』が強い魅惑を持ったことは、当然と言えば当然である。ネミの森の祭司の殺害への問いを発端として、神の殺害の例を古今東西に渉猟するこの書物は、彼の関心にとって資料と例証の宝庫だったにちがいないからである。フレーザーはロバートソン・スミス同じくイギリス人であり、同時代者であり、後者の仕事を知っていたが、供犠についてはいくらか異なる見解を持っていたらしい。またトーテミスムについての論考もあり(『トーテミズムと族外婚』、一九一〇年)、それはフロイトの考察の典拠ともなっている。バタイユは『金枝篇』から多くを摂取しているが、理論的には必ずしも同調しているわけではなかった。『有用性の限界』(一九四〇年頃)には次のような部分がある。〈オクスフォード大学教授、ジェームズ・フレーザー卿は、人々が殺戮の儀式のうちに豊かな収穫を得るための方法を見たという考えを展開して見せた。フランスの社会学者たちは、供犠の儀礼が、人間の間に社会的絆を結び、集団の共同体的統一性の基礎となることを見出した。これらの解釈は、供犠の効果を明らかにする。しかし、何が、人間をして宗教的に同胞を殺害するよう仕向けるのかについては述べない〉t.7-p.264。フレーザーについてはさらに脚注で次のように加えている。〈この観点は、『金枝篇』の意味を奪うものではない。この書物は、供犠の豊かさ、広大さ、普遍性を示すと同時に、それらを季節のリズムに結びつけているという利点を持つ〉(同上)。
 社会学的な研究は、供犠が持った効果を明らかにするが、それが何故行われたかを明らかにしてはくれない、というのは、立場を客観性の上に限定して疑わなかった近代的な学問に対するバタイユのつねに変わらぬ不満であって、それは社会学全体に及ぶ批判であった。この不満は、「社会学研究会」の逸脱的な試みを引き起こし、バタイユを袋小路に追い込んだが、それでもこの不満が解消されたわけではなかった。
 フレーザーについて言えば、バタイユの批判はたぶんもっと具体的であった。それは〈人々が殺戮の儀式のうちに豊かな収穫を得るための方法を見たという考え〉に向けられている。これは『金枝篇』が、呪術を宗教の原形態と考え、しかもこの呪術をいわゆる共感呪術*12としていることへの批判である。フレーザーは供犠の典型を、神の殺害だと見なしたが、この殺害を、古くなった神を新しい神に再生させ、それによって、季節の変化というかたちで現れる地球上の活力の衰退を再興させようとする呪術であると見なした。しかしながら、これは、宗教をあくまで、神的なものの経験そのものと考え、そこに功利的な考えを見るのを排除しようとした――典型的にはキリスト教の救済の狭義にその変質を見た――バタイユの立場とは相違するものであった。
 けれども、『金枝篇』の取り上げた例は、バタイユにさまざまの発想を与えた。彼がおそらくは『金枝篇』から引用あるいは借用しているらしい部分は、数多く指摘できる。『金枝篇』には「消え去ったアメリカ」の主題たるアズテカの供犠への言及があり、『有用性の限界』の五月樹に関する分析、神の死と再生に関する分析も、明らかにこの書物から来ている。またいっそう印象的な例は、ネミの森の祭司の名であったディアヌスという人格への関心だろう。彼は一時期、自分をこのディアヌスに擬していた。彼は三九年九月から四〇年三月の間に書いた覚え書を雑誌に発表したとき、ディアヌスを筆名としている。この覚え書は、のちに変更と加筆を加えて、『有罪者』の冒頭に置かれる。同じく『有罪者』の一九四三年という記入のある最終章は、「森の王」と題され、〈私は森の王、ゼウスだ、犯罪者だ〉という一節があるが、これも明らかにディアヌスを指している。
 あるいは四三年六月に、彼は後に二度目の結婚相手となる女性と出会っている。彼女はディアンヌといったが、ディアナ=ディアンヌはネミの森の主たる女神の名前だが、彼女がこの名前を持っていたことは、バタイユに刺激を与えるものだったのだろうか。四四、五年頃に書かれ、のちに『不可能なもの』の中に収録される「鼠の話」と「ディアヌス」は、後者には標題からして明らかだが、ディアヌスを主人公とする物語であった。四七年の『ハレルヤ』は、「ディアヌスの教理問答」と副題が付されていた。これらのディアヌスが、『金枝篇』のディアヌスと響きあっていることは確かである。
 また、神の殺害が、単に殺害に終わるのでなく、再生となるという考えかたは、それによって穀物の豊饒が引き出されるという功利的思考にまで拡大されないときには、バタイユにとって魅惑的なものだったに違いない。この考えは、トーテム饗宴とはトーテム動物の持つ神性を共有し活性化することであるというもっとも原初の観念と呼応すると見えたからだ。バタイユが現代において神の死を考えるとき、その最大の例証は、ニーチェの宣告「神は死んだ」だったが、バタイユはこの宣告を単なる観察ではなく、ニーチェによる神の殺害行為であると見なした。それはただ神の不在を告げるだけでなく、いわんや合理的世界の妥当性を主張するためでなく、衰えた神を殺害し、その後に新たな神の到来を呼び起こすものだと見なされた。ただし、この神は、人格化された神ではなく、神的でしかない神である。バタイユはこの宣告を次のように注釈する。〈彼は神を見ることになるだろう。だが正に同じ瞬間に神を殺害し、自分自身神となることだろう。しかしそれはただ、虚無のなかへとすぐさま自らの身を投げかけるためなのだ〉(「ニーチェの狂気」、三九年)*13。このように描き出されたニーチェのイメージの背後には、『金枝篇』――そしてそのほかのさまざまの社会学の書物――が驚くべき執拗さで収集した、殺害されては再生する神の姿があったに違いない。

5 フロイト、『トーテムとタブー』、一九一三年

 バタイユが社会学者たちの仕事について、これらの解釈は供犠の効果を明らかにするが、何が人間をして宗教的に同胞を殺害するようにし向けるのかについては述べない、と言ったとき、彼の頭にあったの――少なくともその一つは――はたぶん『トーテムとタブー』のフロイトだったろう。『トーテムとタブー』は、精神分析学の観点と成果を民族心理学の未解明の諸問題に適用しようとしたものであって、対象はとりわけ、標題に示されている未開社会の二つの現象であった。タブーの問題は、惹きつけると同時に忌避され禁止されるという両義的なものがあることを示していることで、聖なるものに関するバタイユの考えかたを補強する一助になったに違いないが、今は供犠を問題にしているので、トーテミスムに関する考察の検討に関心を集中したい。
 フロイトが、『セム族の宗教』に対するユベール/モースの批判について〈無視しうる〉と、あるいはその読後感を〈ロバートソン・スミスの説の与えた印象が本質的に損なわれることはなかった〉と言っていることを紹介したが、その反批判は、まずユベール/モースがトーテミスムの存在に懐疑的であったことに向けられている。フロイトははっきりと、トーテミスムの存在を視野の裡に入れる。〈多くの研究者は、トーテミズムを、人類発展の必然的で、しかもすべての種族が経過した段階と認めることに傾いている〉p.151*14。そして次のように総括する。〈われわれの眼差しは長い時代を通じて、トーテム饗宴と、動物生贄、擬人神生贄、キリスト教の聖餐式とが同一のものであることを眺め、これらすべての祝祭のうちに、人間をひどく悩ませはしたが、しかもそれを誇りとせざるを得なかったあの犯罪が残っていることを認める〉p.276。
 動物生贄と擬人神生贄とは、ユベール/モースがそう見なしたように、供犠の典型をなす姿のことであろう。フロイトは、ロバートソン・スミスの主張に同意し、その前段階にトーテム崇拝とトーテム饗宴を繰り入れ(〈ロバートソン・スミスの説くところによれば、太古のトーテム饗宴は、生贄の根源形式において反復されたのである〉p.269)、後段階にキリスト教の聖餐式を接続した(これについては、ロバートソン・スミスは暗黙のうちに示唆し、ユベール/モースは明言していた)。
 そしてさらに、これはロバートソン・スミスのしなかったことだが、トーテム饗宴の理由にまで踏み込んだ。それが先の引用の〈人間をひどく悩ませはしたが、しかもそれを誇りとせざるを得なかったあの犯罪〉である。この犯罪とは、当然、フロイトの文化人類学的思想の根本をなす「原父殺し」のことである。女をみな独占して成長した息子たちを追い払ってしまう暴力的で嫉妬深い父親を、兄弟たちが団結して殺してしまったというこの〈身の毛のよだつような仮説〉p.266を、フロイトは、トーテム崇拝とトーテム饗宴の成立の理由だ考えた。〈ある日のこと、追放された兄弟たちが力を合わせ、父親を殺しその肉を食べてしまい、こうして父群にピリオドを打つにいたった。・・・・おそらく人類最初の祭事であるトーテム饗宴は、この記憶すべき犯罪行為の反復であり、記念祭なのであろう。そしてこの犯罪行為から、社会組織、道徳的制約、宗教など多くのものが始まった〉p.265。フロイトは、ロバートソン・スミスが、トーテム崇拝をトーテム饗宴と切りはなしえないものと考えたことを評価しているが、それはトーテム饗宴にこの「原父殺し」を見る可能性が与えられたからである。
 もっと単純化すれば、フロイトは、人類史の全体をエディプス・コンプレックスによって、つまりは父との関係によって読み取ろうとした。そしてこうして出来上がってきた理論的仮説は、人類史の一番原始的な段階にまで遡り、キリスト教の成立まで視野に入れた一番包括的で一貫した説となった。加えれば、フロイトの理論では、この「原父殺し」から最初の二つの禁制が生まれている。一つは、憎悪の反面では愛し尊敬していた父親を殺したことへの後悔から来る殺人の禁止であり、もう一つには、女を争うことで再び組織を壊さないための近親性交の禁止である。また共謀して犯罪を犯すことによってはじめて共同体が発生したことは、共同体発生の原理でもあった。
 バタイユは供犠に関して、多大の関心を持ちながら、それを体系的視野のもとに述べる――たとえば非生産的消費について行ったような――ということはしなかった。だが、もし彼がそれを試みたら、彼の体系は、フロイトがここで多くの欠落部分や飛躍を含みながらも(彼自身そう言っているが、たとえば個人の心理を民族の心理にそのまま応用したことなど)提出した構想に近いものとなったのではあるまいか。そして、フロイトによって彼自身の考えに近い供犠=生贄の体系的構図が提出されている以上、それをやり直す必要はさほど強く感じなかったのかもしれない。フロイトの体系に対して、バタイユが差異を持つとすれば、「原父殺し」が、エディプス・コンプレックスとしてよりは、「共同で冒された重大な犯罪」として受け取られていること、父に対するコンプレックスは、より強く母に対する愛着となって出ていることなどが挙げられようが、大筋においてはフロイトの考えを認めていたように思える。そしてその構成の中に、彼自身の問を解く鍵を見出そうとした。
 ではこの視野の中で、「神の供犠」あるいはバタイユのいう「供犠的身体毀損」は、どこに位置づけられたか。フロイトによって打ち出された一貫性の上で、今ようやく私たちは、この最初の問いに答えうる――少なくとも仮説を提出しうる――ようになったと思われる。ロバートソン・スミスは、トーテム饗宴について、おおよそのところ次のように考えていた。生贄のための屠殺は、個々人には禁止されているが、部族全体がともに責任を負う場合にかぎって正当とされる行為に属していた。このような生命は種族仲間の生命と同等にあるものである。だから生贄を捧げる団体も、その神も、また生贄動物も、これはみな同じ血を分けたもの、すなわち部族の構成員だった、と。まずこれは供犠を捧げる者も、生贄動物も、神も同一の本質を分かち持っているために根源的には同一物であり、しかもこの同一の本質とは、個人に限定されないために神的な性格を持つものであったということだ。
 この状況から二つの特性を引き出すことができる。一つは、この状況は基本的には神との同化を求めることであるために、神的な性格を持つが、それに着目するならば、この供犠の状況を「神による神の神への供犠」であるという点だ。それはユベール/モースが想像の中でしかありえないものとした性格である。だが別の見方も可能であって、それは供犠を構成する諸項が同一であることに着目するものだが、この見方からは、この供犠の状況を「自己による自己の自己への供犠」だと見なすことができる。これがバタイユのいう「自己毀損」である*15。このトーテム的供犠の持つ両義性が、バタイユが神の供犠は自己毀損によって実行されていたと主張することを可能にする。
 こうして「神の供犠」は「自己毀損」のことにほかならない。だがバタイユを読んでゆくと、さらにもう一歩踏み込んだらしい記述に出会う。『有用性の限界』のノート中で、彼は次のように書いている。〈雨あるいは動物がふんだんにあることを享受したいならば、自分自身、気前のいいやり方で振る舞わねばならなかった。そのころ、文字通りに言うところの供犠はなかった。人間たちは、生け贄を死に処することはなかった。つまり、彼らは自分自身を毀損し、歯を引き抜き、包皮や指を切除し、胸部あるいは亀頭に切り傷を付けた。彼らが宗教的なやり方で地面に流したのは、彼ら自身の血であった〉t.7-p.549。
 呪術的な見方が現れていることを別にするが、ここでは明らかに、「自分自身を毀損する」ことが「生贄を死に処する」ことよりも先行する、と捉えられている。あえてそれを理由づけるとすれば、神的性格があって供犠の諸項の同一性が成立するのでなく、諸項の同一性があって神的性格が始まると考えられるからだろう。諸項の同一性とは、言葉を換えれば、人間がまだ自然とも他者とも未分である状態、人間が成立する最初の状態のことだろう。引用した一節は、中途で放棄された書物のさらに草稿にすぎないから、それをことさらに取り上げることには慎重でなければならない。しかしながら、バタイユがいっときではあるとしても、供犠の形式――神の供犠であっても――よりも自己毀損を原型的だと見なしたことは確かだと思われる。そしてそれは、フロイトの描き出した前記の過程の発端たる「原父殺し」を、いっそう遡ろうとするものであったとも考えられる。なぜなら、「自己毀損」が持ったはずの神的性格は「原父」の性格であって、後者の性格は、その持ち主の殺害に先立つものであったろうからである。

6 ヘーゲル読書以後

 三〇年代から四〇年代にかけて、バタイユが供犠という考えに惹きつけられていた最初の頃、彼が神の供犠を供犠の原理、そして祖形と考えていたことは間違いない。彼はそれを人間が神になる試みだとみなし、現代においても、神になるためには、この種の供犠が有効であると考えていたように思える。たとえば『内的体験』や『有罪者』のなかには、神になるという言明が、あちらこちらで目に付く。たとえば『有罪者』の最終節に次のような一節がある。〈絶頂では人間は神自身だ〉p.240
 しかしながら、しばらく後に、これと相反する立場が出てくるように思われる。そのきっかけとなったのはヘーゲル読書であって、この立場は、一九五六年の「ヘーゲル、死と供犠」で明確にされる。ヘーゲル読書の中心になったのは、よく知られているように、コジェーヴの解釈による『精神現象学』だが、この書物のなかでは、供犠の問題が直接扱われているわけではない。だがこの書物の中心は、バタイユの言葉によれば「死の哲学」である。そこでは人間が死という出来事に向かってどう振る舞ったかが仮借ない厳密さで記述されているが、この振る舞いは、人類学的な視野での供犠をめぐる構図の変化と呼応するものとバタイユには見えた。
 バタイユにおいて、基準となる供犠の構図はユベール/モースによって与えられている。それは、前章で見たように、供犠祭主と、祭司、供犠動物(犠牲獣)、および神がそれぞれ別の項となって作られる構図であった。そしてこの構図は、神の供犠においては、渾然と一体化すると考えられた。あるいはこの渾然と一体化していたものが、現実の歴史においては、ユベール/モースが示したように、次第に分離していった、と考えられた。ところで、この構図の中で、どこに力点をかけるかと言えば、バタイユの場合、それは明らかに、始源に向かって遡ることにあった。今見たように、彼にとって供犠の原型および祖形は、神の供犠あるいは自己毀損であったからだ。この考えかたから言えば、ユベール/モースが示した供犠の構図は、神と人間を区別した上での、人間の側からの供犠であった。
 ヘーゲルもいったんは、この祖形に遡るように読まれる。「反キリスト教徒のための心得」の草稿中(一九四〇年頃)で、彼は次のように言う。〈『精神現象学』の中でのヘーゲルの解釈は、エホバを、打ち倒され、その敗北によって非人格的で、散乱し、マナLichtwessenのいっそう原始的な形態へと投げ返された「トーテム的な」神だと表象することに帰着するが、それは少なくとも、宇宙の唯一の創造者のオリジンに関して表明されたもっとも聡明なる仮定である。キリスト教を受け容れる人々はすべて、内心では、それが理性に適った平板な性格を持つことに抵抗し、何らかのやり方でトーテム的な神聖さ――同時に「我らの父なる神」でありかつ死んでゆく神であること――に郷愁を持ち続けてきたのだ〉t.2-p.456。
 あるいは意識の発生の場面もトーテミスムに中に、というよりもむしろ、それに先行するとバタイユがみなした純粋な破壊行為のうちに探られる。『有用性の限界』草稿中に次の一節がある。〈私たちは、破壊しない限りは、明瞭な意識を持つことがない。すなわち、私たちはある対象が存在することを認識するためには、それに掴みかかり、もてあそび、我がものとしなければならない。私たちは存在するものを、その息の根を止めることによってのみ完全に理解する〉t.7-p.548。この記述の背後には、ヘーゲルを供犠に応用することによって供犠を理解するばかりでなく、逆に供犠――あるいはトーテミスム――をヘーゲルに照合することで、ヘーゲルの理論を超えてゆこうとする意図が働いているのを見ることができるだろう。
 しかしながら、同じ構図の上で、ヘーゲルは、人間のうちに、神の供犠あるいは自己毀損での破壊と死をめぐる渾然とした動きが分離する方向に向かうことをはっきりと示したのである。バタイユは、ヘーゲルのうちで、人間の存在が主人と奴隷の二つの有り様に分かれ対立することを見たが、主人とは死を恐れない存在、すなわち自己を毀損し、死に至ることを辞さない存在であって、それは主人の中の主人たる神の存在を主張すること、すなわち神の供犠の基盤となる立場である。これに対して死を忌避し、死から後退する奴隷の様態は、死そのものを実践するのでなく、自分の死を犠牲獣の死で代替させ、それを観察する立場、観客の存在を計算に入れた典型的な供犠の立場を引き出す。ヘーゲルは、人間の本来の存在が、一見主人の上にあるように見えながら、本当は奴隷の上にあること、人間の本来の存在は奴隷の本質たる労働によって次第に成就されてゆくことを示したが、それは供犠に関して言い換えれば、重点を次第に神の立場から人間の立場へと移していくことであった。
 だがこれは、死を恐れるかどうかの感情の問題であるばかりでなく、はっきりした論理上の問題でもあった。なぜなら、死の意味を知るために死の経験が必要だとして、死を経験する人間は、死んでゆく以上存在し得ないのであって、つまり、死とはけっして経験とはなり得ない出来事なのだ。死がもし経験となりうるとしたら、それは擬似的な経験として、つまり他人の死を見るというかたちでしかあり得ない。死とはこのように絶対的な矛盾である。バタイユはヘーゲルを論じながら、〈人間は、死のうと生きようと、直接的に死を認識することはできない〉p.185と言う。これによって、彼は死を「瞞着」だと見なす。前章で検討した「供犠」が改稿され、「死はある意味で一つの瞞着である」となるのは、この認識の経緯を語っているのかもしれない。こうして〈死への認識は、ごまかしの手段、つまり見世物(スペクタクル)なくしては生じえない〉p.187こととなる。そしてこの見世物(スペクタクル)こそが供犠であるのだ。この意味では、ヘーゲルの論理は、〈何が、人間をして宗教的に同胞を殺害するようにし向けるのか〉(前出)という問いに対するもっとも正面から――おそらくはフロイト以上に――の回答であると見えたに違いない。
 立場のこの変遷は、同じ時期の重要な著作に反映している。『エロチスム』(二見書房)で〈供犠によって神聖になった動物は、動物であるがゆえにあらかじめ神聖だった〉p.118と言われる場合の、また『ラスコーの壁画』(二見書房)で〈これらの画像には、動物が持っていたにちがいない聖性というより大きな価値を、人間が認めた瞬間が表現されている〉p.189と言われている場合の動物は、明らかにトーテミスム的――いずれの書物にもトーテミスムという表現は現れないが――だが、これらの動物性は、回復不可能なものと見なされるのである。『エロチスム』では〈それは動物性あるいは自然の否定の中で形成され、次に自己自身を否定し、さらにこの第二の否定の中で自己を超越して、もはや最初に否定したものには二度と戻れなくなった人間の世界なのである〉p.122というのが、また『ラスコー』では、設定が原始時代という条件によって動物性へはいっそう近いものであるにも関わらず、〈少なくとも人間は、何ごとをも計算せず、ついに一個の遊びでしかなく、動物性と弁別することができないような、自分たちを超越する力の水準まで昇りつめるふりをしなければならなかった〉p.190というのが、少なくとも一方での彼の基本的な認識であった。
 バタイユが死のこの不可能性とそこから結果する不可避の転位のもっとも近くまで、もっとも厳密に接近し得たのは、ヘーゲル論においてであった。しかし、バタイユがヘーゲルをそのまま受け容れ従ったということはできない。先に見たように、彼は死や認識の問題に関するヘーゲルの所論をどうにかして乗り越えようとしているし、また供犠の水準で言えば、ヘーゲル的な思考を知った後でも、彼はなお生涯にわたって供犠に惹かれ続け、供犠的な実践を試み、あろうことなら自己毀損にまで遡ろうとするからだ。彼はヘーゲルの論理に抵抗しようとしたように見える。「死と供犠」は、ヘーゲルの圧倒的な論理に対する絶望的な抗議である。だがそれが成功したかどうかを知ること、あるいはどんな結果をもたらしたかを検討することのためには、別の稿を必要とする。今はただ、最初期のバタイユの供犠への関心が、ある時期から、それを覆そうとする思考と激しい抗争状態に入ったことを確認しておこう。


*1「民族学者たちとの出合い」、クリティック、195-196号、一九六三年
*2バタイユの読み方を検討する書物の典拠は、その都度示す。引用はこれらから行う。
マルセル・モース、『贈与論』、有地亨訳、勁草書房、一九六二年。
*3エミール・デュルケム、『宗教生活の原初形態』、古野清人訳、岩波書店、一九四一年。
*4ルドルフ・オットー、『聖なるもの』、山谷省吾訳、岩波書店、一九六八年。
*5マックス・ウェーバー、『プロテスタンティスムの倫理と資本主義の精神』、大塚久雄訳、岩波書店、一九八八年。
*6ロバートソン・スミス、『セム族の宗教』、永橋卓介訳、一九四一年。
*7ジェームス・フレーザー、『金枝篇』、永橋卓介訳、岩波書店、一九五一年。
*8アンリ・ユベール/マルセル・モース『供犠』、小関藤一郎訳、一九八三年、法政大学出版局。
*9ジークムント・フロイト、『トーテムとタブー』、西田越郎訳、人文書院、一九六九年
*10国立図書館からの貸し出し一覧(全集第]U巻)を見てみると、バタイユは、この本を一九三〇年から数度にわたって借り出している。一九三〇年七月(参照番号287、以下同)、三一年三月(328)、三二年十月(475)、三八年八月(748)。
*11バタイユは、生贄がまず神聖なトーテム動物であり、それが人間になり、ついで代用としての動物に置き換えられたというロバートソン・スミスの見方を受け容れている。『エロチスム』の第七章「殺害と供犠」では次のように述べられている。〈ともすると動物は代用の生贄だった。文明が発達するにつれて、人間の生贄は怖ろしいことに思われた。しかし、動物の供犠の起源が最初から代用にあったわけではない。実は人間の供犠はずっと最近のことで、私たちが知っている最古の供犠は、動物を生贄としていた〉p.117
*12たとえば、水を撒くことで、雨が降ることを引きだそうとするように、ある出来事を、その様相を真似ることで実現させる、という考えに基づいてなされる呪術の解釈。
*13『ニーチェの誘惑』(吉田裕訳、書肆山田、一九九六年)収録、p.104。
*14同様の評価がいくつかの箇所に見られる。たとえば〈これらを総括すれば、トーテミスム文化は、いずれの地域においても後代の発展の前段階をなすものであり、また原始民族の状態と英雄神話の時代とを結ぶ過渡期であった、という結論になるが、これはかなり確実なことである〉p.231
*15自己毀損に関しては、「供犠に関する試論」にはないが、『トーテムとタブー』には、バタイユの挙げているような性器や包皮の切断についての言及はある。


(第2章 終)

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