第3章 「アセファル」

第3章 「アセファル」



1 政治から宗教へ

 三一年春の民主共産主義者サークルへの加盟から始まり、三四年二月の右翼暴動をめぐる分裂を経て、三五年秋から翌年春までの「コントル・アタック」の活動が、彼の政治的ミリタンティスムの時期だが*1、「コントル・アタック」の行き詰まりが明らかになろうとする頃、彼は「反神聖同盟」なるグループを計画する。だがこれはすぐさま宗教的な性格のグループ「アセファル」へと変貌する。アセファルAcephaleとは、頭脳を表すcephaleという言葉に、否定の接頭辞aが付いたものであって、「無頭」を意味する(それはまず最初はバタイユの基本的立場である反イデアリスムを表すものでもあったろう)。この時期から三九年の戦争の開始までを、バタイユは、この結社「アセファル」、同名の雑誌「アセファル」、「社会学研究会」の三つの活動を、時期的な多少の食い違いと協力者の異同を含みながら、ほぼ並行して行うが、バタイユの中でそれらは一体をなすものであった。「自伝ノート」(五八年頃)*2で、彼は次のように書いている(ある出版社が人名辞典の原稿を求めたのに応じて書かれたため、バタイユは自分のことを三人称で語っている)。〈「コントル・アタック」が崩壊すると、バタイユは・・・・政治に背を向け、もはや宗教的な目的しか眼中に置かない「秘密結社」(しかし反キリスト教的で、本質はニーチェ的な)を・・・・結成することを決心した。この結社は結成された。その意図は、部分的に雑誌「アセファル」に表現された・・・・。「社会学研究会」は・・・・ある意味ではこの「秘密結社」の外部向けの活動である〉t.7-p.461。
 政治に背を向けたという言い方は、「アセファル」とこの時期のバタイユの活動を、政治から遮断されたもののように考えさせてしまいかねないが、「アセファル」が政治的な意味合いを持ち、バタイユがそれを十分意識していたことは確かである。雑誌「アセファル」の創刊号には、〈政治の顔をしていたもの、そしてみずからが政治的であると想像していたものは、いつの日にか仮面を脱いで宗教的運動であることを露呈するだろう〉というキルケゴールの一節が引用されているが、バタイユたちが求めていたのは、政治と宗教をうねりの中で相互交換的なものと見なし得る視点であったろう。この政治性のゆえに、結社「アセファル」は、無頭というその意味が示すように、総統を頭にいだくファシスム的共同体へのアンチ・テーゼをも意味し得たし、「社会学研究会」は三八年秋のミュンヘン協定を批判する声明を出し得たのである*3。
 三つの活動が結ばれ合ったものだという言明の妥当性を知るために、まず時期の問題を明確にしよう。三つの活動の先頭を切ったのは、たしかに結社「アセファル」であって、このグループは、「コントル・アタック」の失敗を癒すために、バタイユが当時スペインのトッサにいたマソンのところに避難した三六年四月に発想された。このとき、後にシンボルとなる無頭の怪人のデッサンが制作される。ほかの何人かに参加が呼びかけられ、実際の活動が開始されるのは、三七年の始め頃らしい。雑誌「アセファル」の第一号は、上述のデッサンとバタイユのエッセイ掲載し、結社「アセファル」に先行して、早くも三六年六月に出ている。詳しく言えば、雑誌「コントル・アタック」の唯一の号が出るのが、三六年五月、そしてそのわずか一月後の六月に、「聖なる陰謀」を主題とする「アセファル」の創刊号が出る。これは季刊をうたったが、実際に出たのは、第二号(主題「ニーチェ復元」)が三七年一月、第三,四合併の(主題「ディオニュソス」)が七月、最終第五号(主題「狂気、戦争、死」)が、かなり遅れて三九年六月である。「社会学研究会」の一連の講演会は、三七年十一月に開始され、二年の間かなり規則的に実践され、戦争によって中断する。この相関をみると、この時期のバタイユの活動の核が結社「アセファル」であって、雑誌「アセファル」はその表向きの窓口であり、さらにその活動に学問的な根拠を与えようとした「社会学研究会」が行われた、というバタイユの言明は妥当であろう。
 この周辺に、いくつかのできごとが起きている。三七年四月には、社会的事象を心理学的側面とりわけ社会的な無意識という観点から研究することを目的として、ジャネを会長、バタイユを副会長に「集団心理学会」が設立された。この会は翌三八年の共通の活動テーマを「死に向かう態度」とし、いくつかの講演会をおこない、バタイユもその一つを担当する。同じ三八年頃、彼はヨガを学び始め、それを通じて神秘的なと言えるような経験を持つ。この年の十一月に愛人であったロールが死去する。バタイユは、レリスとともに彼女の遺稿をまとめ、翌三九年二月、私家版として出版する。だがこうした活動は、三九年九月、勃発した戦争のため、すべて押し流されてしまうのである。

2 結社「アセファル」

 では核をなす結社「アセファル」とは、宗教的であるとして、どんな理念を持ったグループであったか。アセファルという名前が、前述のようにイデアリスム批判またファシスム批判の意味を持ったことは確かだが、基本的にはこれは、マソンのいくつかのデッサンからも分かるように、殺害された神を指していたに違いない。すでに「ドキュマン」の時期に、彼は次のように言っている。〈神話の中で太陽は、自分の首を掻き切る男の姿で表されたこともあったし、さらには首のない姿をした存在として表されたこともあった〉(「腐った太陽」t.1-p.232)。つまり、アセファルというこの名前は、過剰なエネルギーが宗教的な自己破壊として現れることに対する関心の表明だった。
 先に「アセファル」が宗教的な目的を持った集団であることを述べた一節を引用したが、もう一歩踏み込んだ記述が、同時期の草稿の中に見出される。この頃彼は「無神学大全」を構想を練っているが、その中の『有罪者』の新版への序文のために書かれた草稿中に、次のような記述がある。〈私は、新しい宗教を創設するというのでないとしても、少なくともその方向に向かうということを決心していた。宗教の歴史で明らかにされたことによって、私の心は少しずつ高ぶっていた〉t.6-p.369。彼は新しい宗教を創設することを目指していたこと、そのようなことを考えるのを促したのは宗教史の知識であったことを述べている。彼が学んだ宗教史とは、前章で検証したように、人間の宗教的意識がどのようにして発生し形成されてゆくかという問題であり、その核は神の殺害すなわち供犠であることが示されたのだった。この知見は、「アセファル」の上にどのような動きをもたらしただろうか。
 このグループの活動については、バタイユ自身も含めて参加者は沈黙を守り、今日でも重要な点について詳細に語ることはできない、とされてきた。しかしながら、バタイユは、先に見たように、実際には未刊行に終わったとはいえ、刊行を予定した「自伝ノート」で、グループの存在を語っているし、今触れた『有罪者』のための序文では、これも削除されてしまうのだが、何度もこのグループに言及している。一方友人たちからも、彼の死後、少しづつ実状が語られ始める。それはカイヨワやクロソウスキーの証言だが、それらのなかで一番重要なのは、九五年にワルドベルクが公表した回想記「アセファログラム」*4だろう。また研究の側からは、八七年にル・ブレールがカイヨワ宛ての書簡を中心においたバタイユの書簡集を*5、九七年には、シュリヤがバタイユの生涯を通じての書簡選を*6、さらに九九年には、イタリアの研究者ガレッティが、三二年から三九年の間のバタイユとその友人間の書簡やさらに文書までを含めた一冊をまとめた*7。ガレッティは、なお「アセファル」については十分に知りうるに至っていないと述べていて、それはその通りであろうが、以前に比べればかなり多くを知ることになった。
 このグループの活動について、バタイユは三七年九月に、創設一年後の総括を行っていて、最初の参加者は十二名だったが、すでに七名しか残っていない、と書いている*8。ワルドベルクは、戦争勃発直前の最後の集会の参加者は四人だったと書いている*9。参加者として名前が挙げられているのは、バタイユのほかに、ロール、マソン、クロソウスキー、デュビエフ、アンブロジーノ、パトリック・ワルドベルク、その妻イザベル・ワルドベルク、シャヴィ、シュノン等である。バタイユの周辺では、カイヨワもレリスも、誘いを受けたものの参加してはいない。中心となったのは、バタイユについでアンブロジーノであったようだ*10。マソンは、雑誌「アセファル」にはデッサンを供給し続けたが、結社からは早い時期に離脱している*11。また三八年の秋に内部対立があって、クロソウスキーとデュビエフは、この時期にループを離脱したらしい*12。
 内部では、「信徒の書Livre des adeptes」と名付けられた記録が付けられていた(ただし残っているものについて言えば詳細のものではない*13)。実践としては、反ユダヤ主義者とは握手をしないという申し合わせがあり、コンコルド広場でルイ十六世の死刑を記念する試みが実行された。これは王の断首を神の殺害と見立てたものであった。年に四回の定例の集会が開かれるはずで、その時の計画を会員に知らせる回状が残っている*14。だが中心は、後にバタイユにおいて「瞑想の方法」というかたちでまとめられる瞑想の実践と、パリ郊外のマルリーMarlyの森と呼ばれるところで、定期的に行われた儀礼であった。私たちの関心を一番強く引くのは、この儀礼であろう。この集会と儀礼に関する指示と注意書きがいくつか残されている*15。それによると、会員は、サン・ラザール駅からサン・ノン・ラ・ブルテッシュSaint-Nom-la-Breteche行きの列車に乗り、終点で降りて森に入る。その途中で、知人にあっても話しかけてはならず、距離と沈黙を守って歩き、指定された場所まで来る。そこには落雷を受けた柏の大木があり(柏はヨーロッパでは神聖な木とされていた)、その根本で儀式が行われる。帰りは同じ道を取らず、サン・ジェルマン・アン・レーSaint-Germain-en-Layeの方向に森を抜け、やはり沈黙と距離を守ってパリに戻るのだった。この集会では何が行われたのだろうか? 私の知る範囲では二つの証言がある。
 ひとつはクロソウスキーのもので、彼は三八年にはこの集団を離脱しているから、語られているのはそれ以前の様子だろう。

 私たちは二〇人ばかりで、サン・ノン・ラ・ブルテッシュ・・・・まで列車に乗った。・・・・次のような指示があった。「瞑想しなさい、ただし秘密の内に。あなたたちが何を感じあるいは考えたかを決していってはならない」。バタイユ自身、彼の感じ考えていることについていうことは決してなかった。彼はこの類の儀式が何を表しているかを私たちに伝えることはなかった。私が言い得るのは、それはとても美しかったと言うことだ・・・・。その夜、雨が滝のように降っていたことを私は思い出す。落雷の跡のある木の根元に、ギリシア火(訳註:ローマ時代に焼き討ちなどに使われた火薬による火)が灯されていた。これらの舞台装置全体が・・・・とても美しかった。しかし、みんなは、なにかしらバタイユのうちで起こっているものに参加しているという感覚を持ったものだ。私たちみんなのうちには、一種の感情を共有しているという思い(compassion)があった。いや、哀れむというのではない。私たちは、分かち持ち、・・・・参加していたのだから*16。

 もうひとつはパトリック・ワルドベルクの証言である。彼は「民主共産主義サークル」と「コントル・アタック」に参加した後、アメリカに居住するが、「アセファル」が創設された後、バタイユの誘いを受けて帰国し、参加する。彼は三八年九月二八日に入門式を受けるが、その時の様子を次のように回想している*17。

 ・・・・そこにやがて十二ばかりの人影が黙って不動のまま集まった。しばらくして、たいまつが灯された。バタイユは、木の根元に立っていたが、袋からエナメルの皿を一枚取りだし、その中に硫黄の塊をいくつか置き、それに火をつけた。青い炎が爆ぜながら燃え上がると同時に、煙が上がり、私たちのほうへ吹き寄せてきて喉を詰まらせた。たいまつを持った者は、やってきて私の右側に立ち、またほかの祭務者の一人が私の正面に立って、私のほうへ進んできた。この男は、「アセファル」の肖像に示された無頭の人間がかざしているのと同様の短刀を、手にしていた。バタイユは私の左手を取り、私の上着を脱がせ、シャツの袖を肘までまくり上げた。短刀を持った者は、その切っ先を私の前腕に押し当て、数センチばかりを切り裂いた。しかし私は少しも痛みを感じなかった。傷跡は今日でも見ることができる*18。

 痛みがなかったとは、何か超自然的なものが起こっていたのだろうか。いったん入会すると、会員の生活は、緊張の時期と開放の時期に分けられ、前者では沈黙と苦行が推奨され、後者ではあらゆる過剰、放縦さえ許容された、という。
 集会は新月の頃行われたらしい。バタイユはこの儀礼について、「自伝ノート」で、〈少なくとも、メンバーの何人かは、「世界の外に出た」という印象を持ったように思われる〉t.7- p.461と書いている。クロソウスキーとワルドベルクの証言は、それを裏付けているだろうか。またメンバーの一人(アンリ・デュサ)は、教典の朗読と瞑想によってエクスターズに達したことを報告する手紙を残している*19。
 「アセファル」に関して私たちの関心をもっとも強く引くのは、そして実際に噂と憶測の対象となってきたのは、森でのこの集会で、人身の供犠が実際に行われたかどうかであろう。先に見たように、バタイユが宗教の歴史から学んだことを、新しい宗教を創出するために実践しようとしていたとすれば、供犠が志向されるようになるのは必然的だったと見えるからである。犠牲になってもいいという人間は何人かいたらしい、とシュリヤは言っている。だが問題は祭司の役割を努める人間であった。カイヨワは、戦後のインタビューのなかで、バタイユはシャーマンになりたがっていたが、自分に果断な性格を認めていて、祭司の役割を期待していたらしい、ということを仄めかしている*20。だがこれも確証はない。カイヨワが「アセファル」への参加を求められていたのは事実だが、結局は入らなかったから、結社としての性格から見ても、バタイユが局外者たるカイヨワにそのように肝要な役割を受けるよう求めたとは疑わしい、とシュリヤは言っている。妥当な見方であろう。また、コレット・ペニョが供犠の犠牲となろうとしたと噂されたことがあるが、シュリヤは、これについては全く根拠がないと言っている*21。この部分にもっとも深くまで踏み込んだに証言は、やはりワルドベルクのものである。彼は結果的に最後のものとなった集会の様子を、次のように記している。〈森の真ん中での最後の集会の時、私たちはたった四人だった。そしてバタイユは荘重な口調で、ほかの三人に向かって、自分を死に処してくれるようにと求めた。それはこの供犠が、神話の基礎となって、共同体が存続するのを確かなものにするためであった。この好意は謝絶された。数ヶ月後、本物の戦争が始まり、それは残り得たかもしれない希望を一掃してしまった〉*22。供犠の犠牲となろうとしたのはバタイユだけではなかったかも知れないが、少なくとも、「アセファル」の中で供犠が実行にまで及びかけたことがあったのは事実らしい。だが試みはそこまでであった。
 「アセファル」の終わりについては、バタイユは次のように言っている。〈一九三九年九月、メンバーの全員が拒絶した。バタイユと、戦争によって引き起こされた直接的な気がかりにバタイユよりも忙殺されたほかのメンバー全体の間に、不和が生じた〉(「自伝ノート」t.7-p.462)。かなり激しいやりとりがあったらしい。バタイユは十月二十日に何通かの手紙を書いている。その中にメンバーに対する回状が二つあるが、その一つでは〈私は逃げないし、怯懦も悔恨も感じてはいない、ということをただ付け加えておきたい。あなたたちのなかの誰かがなお私に期待してくれるなら(私はなに一つ放棄してはいないのだから、そうすることは間違いではない)、その人は、私が死んでもいなければ恨みがましいことを言うのでもないことが分かることだろう〉と言い*23、もう一つでは、〈あなたたちのうちのある者は、私を見捨てた〉と言っている*24。翌日にはワルドベルクと会談し、決裂する。そして〈こうして私は捨てられた。説明しがたいほど乱暴に捨てられた〉(『有罪者』草稿のノート、t.5-p.513)と書きつける。他方、アンブロジーノは、十一月七日のワルドベルク宛の手紙で、〈バタイユ問題などというものはもう終わりで、和解しようと改めて試みることなど無益だ〉と告げる*25。ワルドベルクの批判は、「アセファル」が文学的な夢想であり、秘密結社の儀礼は人工的であるに過ぎない、というものだった*26。この対立は、四三年の『内的体験』の刊行まで持ち越され、ワルドベルクは、アメリカから、次のような激しい批判を投げつける。〈「死を前にしての歓喜」を主題にした私たちの活動のどの部分の意義をも、私たちは剥奪しなければならない。そのことに疑いはない。私たちは、他のどの場所でよりもそこで、人間らしさと尊厳に反しようとしたのだ〉*27。だがバタイユは、自分が単独になったことを深く意識しながら、この応酬の中ですでに『有罪者』となるべきノートを書き始めていた。

3 死の二つの作用・「集団心理学会」と「社会学研究会」での講演

 結社「アセファル」は実践のための集団だったが、その実践の間にバタイユは、いくつかのエッセイあるいは論文を残している。バタイユの試みを辿るためには、私たちはこれら彼自身による記述を、実践的活動と同じく死へ向かう人間の傾斜を主題した記述を問わねばならない。最初に私たちの目に留まるのは、前述の「集団心理学会」で、「死に向かう態度」という主題での講演活動の一環として、彼が三八年一月一八日に行った講演*28と、その四日後の一月二二日と二月五日の二度にわたって行われた「社会学研究会」での講演「牽引と反発」である。「集団心理学会」は、月に一度ずつ講演を行ったが、長くは続かなかった。バタイユのこの会での活動歴ではっきりとしたかたちで残されているのはこの講演だけである。一方「社会学研究会」では、彼はカイヨワとの共同のものも合わせ、数多くの講演を行っているが、「牽引と反発」は、二回にわたって行われたことからも分かるように、もっとも重要なものである。場所を違えて行われた同時期のこれら二つの講演は、深く共通する関心によって結ばれている。
 「集団心理学会」での講演中で、彼は、割礼といった社会的行為を支える共同的な心理現象があることを述べた上で、それらのうちもっとも本質的なのは、死にまつわるものであり、それが人間を人間以外のものと区別すると主張する。蜜蜂や蟻は、集団的行動をとるが、同胞の死については反応しない。動物については、言い伝えがあるにしても、一般的とされるほどまでに確証されてはいない。死者への共同的な反応がはっきりと確認されるのは、それを埋葬の儀式というかたちで表現する人間だけである。これを鑑みるなら、「死者たちに対する態度」が、人間と動物の分岐点であり、そこからさまざまな人間的な共同性の諸性格が生まれてくる。したがって、人間の社会的運動は、死に向かうベクトルの上で、すなわち「死者たちに対する態度」として考察されるというのが、論の骨子である。その上で、この研究は、原始的あるいは民俗的な事実の観察にとどまるのでなく、たとえば無名戦士の墓に対する群衆の感情の動きのような、現代の現象をも対象とするところにまで踏み込むことが提案される。
 死者に対する人間の最初の反応を、バタイユは次のように描き出す。

 死者たちが自分たちの周りに、原始時代の生者たちを集め得たとき、これらの生者たちは、死者たちに対して、保証され、保護されているという感情を持つことは到底あり得なかったと見えます。私たちには反対に、生者たちが恐怖に震えていたに違いないと信じる十分な理由があります。社会が死者たちの周辺に形成されたということが真実である限り、最初期の時代に人間を結び合わせたのは、共同的な反撥、嫌悪、恐怖であったということが予想されるはずです。t.2-p.285

 死者は、生者に、ほかの何物にもまして強い恐怖を与える。それは、死を見守る人々をあらゆる保護から追放し、打ちのめし、強烈な反撥を引き起こす。こうして死はまず嫌悪と拒否の対象である。しかしながら、この死はもう一つ別の作用を持つ。それは、これらの反撥、嫌悪、恐怖が共同的なものだという点である。死の作用の中には、それを見守る者を打ちのめすことによって、彼の存在を個体という枠の中から追放する働きがあり、こうして人間は個体の限界を出て他者とつながりを持つようになるからである。集団性、共同性は、死の恐怖を通して形成される。
 そして、この不完全な草稿をいっそう綿密に読むなら、バタイユの関心がもう一つ別な方向に働いているのが見えてくるだろう。バタイユは、死者に対する恐怖が共同性を作り出そうとするとき、同時にもう一つの変化が起きることに着目している。死の恐怖は、個体をその限界の外に追放する。それは恐怖の極限であるに違いないが、同時に、個体が個体という限界を越え出ることでもあるために、極度の解放感をもたらすものともなるのである。個体は、より広く広大なものの中へと溶け入り、一体となる。それは同時に、同じように個体という限界から解放された他者との合致を可能にする。これがバタイユが後に交感と呼ぶことになる経験である。交感は深い幸福感をもたらす。これが自分の外に立つことと恍惚の二つの意味を持つところのエクスターズの経験である。共同性とえくすたーずは、本当は同じひとつの経験なのだ。
 バタイユは、講演の最後で、知人の死を聞く度に笑い出さずに入られなかった若いイギリス人女性の話、また葬儀に参列する度に性的興奮に陥った男の話を例としてあげている。現代という状況のなかで断片化されているが、これらは死の経験の意味を明らかにするものだ、とバタイユは考える。前者は、死の中から快活さが生まれることを、後者は同じく死の中から性の高揚へと促す力が生じることを証し立てる。ここには何か根本的な変容が起きている。そして彼は、〈かくして死者に関して、人間は、衰退を強烈さの方向に使用することがどの程度までできるか、という問いが提起されます〉t.2-p.287と述べる。共同性を本当に維持するのは、エクスターズの中に現れる幸福感の経験である。死の共同性は、死が恐怖をもたらすものであるために、嫌悪の対象であることを抜けられない。それに対して、恐怖が幸福感へと変容することで、共同体はその中心に向かって人々を引き寄せるようになる。こうして死は、エクスターズの経験へと変容しつつ、共同性を可能にする。
 数日後の「社会学研究会」で講演「牽引と反発」は、明らかに「集団心理学会」での講演を引き継いでいる。彼は同じ若い女性と葬儀のたびに性的興奮に陥る男の例を挙げて、〈悲しみがどうして喜びに変わることが出来るのか、人を打ちのめすはずのものが充溢に、深い抑鬱が爆発的な圧力にどうして変わることが出来るのか〉t.2-p.316*29というふうに問題を立てる。彼はこれを〈深い変質〉と言う。しかしながら、「社会学研究会」での立論は、さらに一歩を進めている。それは、標題で牽引と反発が併置されていることに暗示されているように、問題は、ただ恐怖を幸福感に変えるだけでなく、幸福感をまた恐怖に戻すことも絶えず考えられねばならないとされている点である。この還元がなぜ必要かと言えば、恐怖が魅惑に変えられて、それで終わるとき、魅惑は本来の力を失って固定され、キリスト教が典型的にそうであったように、共同体の動きを封殺する抑圧的な権威となってしまうからである。これを避けるためには、魅惑は絶えずそれが拠ってきているところの嫌悪と反発を誘うものを不断に明らかにし続けなければならない。だから、バタイユにとって重要なのは、むしろ恐怖の方だ。恐怖が達成されればエクスターズはかならずやってくるだろう。〈言い換えれば、自分をもっとも恐怖させるものに、自分にもっとも強い嫌悪を催させるものに、自分が運命的に結びつけられていることほど、人間にとって重要なことはないと思うのです〉t.2-p.320*30。
 嫌悪から魅惑への変化がこのように逆転されねばならないということは、共同性を検証し直すことであって、それは、共同体を、固定するというのとは全く別な方法で保持することだ。けれども、それは、嫌悪を確認することでもあるために、共同体の強度に見合うだけの否定の力を蓄えることでもある。このダイナミスムが、人間とその共同体の存在をともに支える。共同性に対する考察はまだそれほど進んでいないが、死に関して言えば、バタイユはそこに、エクスターズを通じて恐怖が魅惑に転換され、同時に共同性が作り出されるという二重の変化があることを、この時確認したのである。

4 最初のエクスターズ

 エクスターズが反発から牽引への転換を可能にする。バタイユには、先に見たように(第一章「太陽の誘惑」)、若年期から、おそらくはキリストの磔刑の姿から信者が幸福を得るという経験を通して、苦痛と快楽は同一であるという直観があったようだが、それはいくつかの実際の経験によって支えられていた。それらは戦争以前の時期に関しては、『内的体験』や『有罪者』で語られている、クォール修道院での至福感(二〇年頃)、フール街での笑いの経験(二五年頃)、湖の桟橋でミサのコーラスを聞いたときの印象である。もうひとつの例は、バタイユが彼の生前最後の書物である『エロスの涙』で語っている次のような経験だろう。〈もっと後になって一九三八年のことだが、一人の友人が、私をヨガの実践に導き入れてくれた。私がこの映像の持つ暴力の中に、転倒を引き起こす無限の価値を見出したのは、この機会でのことである。私は今日でも、これ以上に気違いじみて、これ以上に怖ろしい映像を持ってくることができないが、この映像から出発して、私は完全に転倒され、エクスターズに達したほどであった〉t.10-p.627*31。
 この友人とは、国立図書館の同僚であったジャン・ブルーノであるらしい*32。バタイユはしばらく前から、神秘主義的な経験を得ようとして、東西の宗教を渉猟していて、その一つとしてヨガに関心を持ち、その中枢をなす瞑想の実践を試みる。後年の回想によれば、それは正統的ではなく、かなり自分勝手なものであった*33。だがそれでもある特異な経験に達し得たらしい。それが右に述べられた経験である。そしてこの経験で注目すべきなのは、それが死を発端とするエクスターズだということだ。
 バタイユがその瞑想の対象に選んだもの、右の引用で「この映像」と呼ばれているのは、彼がボレルからもらってすでに十年以上の間所有していた、あの中国人死刑囚の写真である。つまり彼が瞑想の対象としたのは、残酷この上ない死であった。バタイユはエクスターズを知るが、これは残酷な死を、仮想的にではあれ、自分の上に引き寄せることでにエクスターズに達し得たということだ。ジャン・ブルーノは、バタイユの死後、彼の経験を啓示illuminationと呼んで綿密に分析しているが、この三八年の経験を、「アセファル」に関するバタイユの実質的な出発点だったとしている。
 バタイユは、この経験を他人に伝えようとして、独特な方法を編み出す。それが彼が「アセファル」のために書いたいくつかの教典らしい文章、また書簡等に窺われる指示である。前者としては、雑誌「アセファル」最終号に掲載された「死を前にしての歓喜の実践」があり、マソンの画集『供犠』に付したテキストも、教典として使用された。またニーチェの著作もこの瞑想と読唱に使われ、戦後の四五年のニーチェの断章集『メモランダム』は、その選択のなかからが生まれたものらしい。また指示等は、戦後の四七年に『瞑想の方法』(のちにこれは『内的体験』の中に組み入れられる)となって集成される。もう一例としては、一九三九年、バタイユはイザベル・ワルドベルクに「アルコールの星」というテキスト――「死を前にしての歓喜」と同じく教典として作成されたものである――を送り、瞑想の方法を次のように指示している。〈できるだけ静謐に閉じこもり、自分の裡に空虚を作り出しなさい。座ったまま、けれども体を屈することなく身を楽にし、頭をぼんやりさせる。まず最初に、沈黙に魅了されるままになれるよう深く息を吸い込む。それは本物の麻痺状態を引き起こすかもしれない。テキストを読むのではなく、ゆっくりと思い出すのです〉*34。瞑想はこうして始まり、律動から次第に視覚的な表象へと移ってゆく。バタイユ自身はと言えば、彼は、この方法を確立し、それに熟達する。『ニーチェについて』の「頂点と衰退」の中で彼は、〈私はその気になれば、意のままに神秘状態に入ることが出来る。いかなる信仰からも離れ、いかなる希望も奪われ、私はこの状態に接近するのに動機を持たない〉t.6-p.61*35と言うに至るのである。

5 ロールの死をめぐって

 バタイユとロールの関係は三五年頃から始まる。スヴァーリンから彼女を奪ったとしても、バタイユが貞節な情人になったというわけではなく、二人の関係は波乱に満ちたものであった。彼女は早い時期から結核に罹患しており、次第に病状を悪化させ、数度の入院の末、三八年三月にバタイユと共にパリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レーに移り、そこで十一月七日に死ぬ。バタイユは〈三八年、一つの死が彼を引き裂いた〉(「自伝ノート」t.7-p.462)と言っている。死についての探求を行っていた人間の傍らで、その情人が死んだ時、とりわけ彼自身がその死は自分を引き裂いたと言っている時、その死が彼にどんな経験をもたらしたかを問うことは、無体ではあるまい。ロールは、病気のため実際には参加しなかったが、結社「アセファル」の会員であり、死の場所は、その集会の場所に近かったし、その死は、瞑想によるバタイユの最初のエクスターズとほぼ同時期であるからだ。
 ロールの死後、彼はレリスと一緒に遺稿をまとめ、刊行する。彼はそこに「ロールの生涯」という短い文章を書き、彼女の人となりを紹介しようとしているが、それは不十分なままに終わる。彼女に関してバタイユが本格的に書き始めるのは、実はもう少し後になってであって、戦争が始まって以後、つまりのちに『有罪者』となる日記の中でである。彼はロールとの生活や旅行を回想している。こうした部分は、刊行に際して、周囲に配慮して削除されてしまうが、それらのうちのいくつかの断章には、彼の「死者に対する態度」を見ることができるように思われる。代表的なのは、ロールの臨終期のことを回想した記述である(九月二八日のものらしい)*36。

 同様に私を脅えさせたのは、ロールの顔が怖ろしいまでに悲劇的なあの男、虚ろで半ば気の狂ったオイディプスの顔にどことなく似通っていたことである。この類似は、彼女の長い臨終の苦しみの間、熱が彼女を苦しめている最中に、とりわけ、私に対する激しい怒りや憎悪の最中に極まった。私はこんなふうに遭遇したものから逃げようとしたことがあった。つまり私は父から逃げたことがあった(二五年前、ドイツ軍侵入の最中に母と逃げ、父を運命の手にゆだねた。彼は家政婦の世話に任せられ、ひとりランスに留まった。彼は盲目で、全身不随であり、ひっきりなしに叫び声をあげて苦しんでいた)。私はロールから逃げた。(脅かされ、精神的に彼女から逃げた。しばしば彼女と向かい合い、最後まで付き添ったし、力が尽きたとしても付き添うことを止めるなどとは考えられもしなかった。しかし彼女が臨終の苦しみに近付くにつれ、私は病的な虚脱状態へと逃げ込んだ。時には泥酔し、時には放心状態に陥った)t.5-p.504。

 ここでバタイユは、ロールの死の苦悶に直面し、彼自身もまた恐怖におののき逃げ出すほどだが、おののいているが、では彼らの苦痛と恐怖は喜びに転じることがあったのだろうか。記述の日付としては少し遡る三九年九月一四日に、彼は前日ロールの墓に行ったと述べた後、次のような感想を記している。

〈彼(墓の彼方を愛する者)は、日常的な交際に特有の俗悪さをも逃れたが、しかし、狭隘すぎる絆を、ロールほどに断ちきった者はいなかった。苦悩、激しい恐怖、涙、錯乱、乱行、そして死こそ、ロールが私と分かち合った日々の糧であり、この糧は私に、怖ろしくも測り知れない甘美な思い出を残している。あれは事物の限界を超えることを渇望する一つの愛が取った形だった。しかしながら、私たちはいくたび、共に到達したことだろう、実現し得ないほどの幸福の瞬間に、星をちりばめた夜々に、流れ行く小川に。夜の帷が降りた頃、森(リヨンの?)の中で、彼女は無言で私の傍らを歩いていた。彼女には私が見えなくとも、私は彼女を見つめていた。もっとも不可解な心の動きへの答えとして生がもたらすものについて、かつてあれほどの確信を抱いたことがあったろうか? 私は、自分の運命が暗闇の中で私の傍らを進むのを見つめていたが、どれほどそれと認めていたかを文章で表すことは不可能である。ロールがどれほど美しかったかも言い表せない。彼女の未完成な美しさは、不確実で火のように激しい運命の移ろいやすいイメージであった。このような夜々のきらめきを放つ透明さもまた、言語に絶するものである〉t.5-p.501。

 ほぼ一年を置いた後のことであるとはいえ、これは、死がもたらした転換、死の持つもう一つの一面だったろう。死につつあるロールの傍らで、バタイユの心情は嫌悪と幸福の二重になり、その中で深い一体感を経験している。この経験のうちで、彼の関心は、いっそう強く死の持つ両義性の方に向けられたに違いない。

6 「死を前にした歓喜の実践」

 以上のように、死が共同性を作り出しつつ、同時に喜びをもたらす可能性を持つことが明らかになってきたところに、強い印象を与えるいくつかのテキストが現れる。それらは三九年六月の雑誌「アセファル」最終号に掲載された「死を前にした歓喜の実践」(これは無署名で出されたが、筆者がバタイユであることは周囲にはわかっていた)、ノート状態のまま残された「反キリスト教徒のための心得」*37、および三九年六月六日の「社会学研究会」での講演「死を前にしての歓喜」*38である。講演が行われた日時は、わかっている。これに対して「死を前にした歓喜の実践」は、結社「アセファル」での教典であった
から、成立は刊行日よりも遡るだろう。また「反キリスト教徒のための心得」は、いくつかの断片的な未定のテキストの集積だが、やはり教典として「死を前にした歓喜の実践」と平行するように作成されたものらしい*39。ガレッティの資料集を読んでゆくと、三八年くらいから、ところどころに、これら二つに関わる断片が現れる。「死を前にした歓喜の実践」は、三九年六月に雑誌のかたちになるが、「反キリスト教徒のための心得」についても、これを刊行物のかたちにすることは、すでに三八年頃から口にされている*40。また、これら二つに収録されないもの――先に触れた「アルコールの星」など――も含めて、瞑想のためのテキストがいくつか、三九年に入って作成されている*41。
 これらのテキストに関しては、標題を見ただけでも、いくつかのことが明らかになる。死者あるいは死を前にして、先にあったのは「態度」であったが、今回問題になるのは、「歓喜」である。そこには、バタイユの関心が観察的立場から実践へと入り込んでいったらしいのを見ることができるだろう。「反キリスト教徒」とは、「自伝ノート」で述べられていた〈反キリスト教的で、本質はニーチェ的な〉という「アセファル」の性格を表す。加えて、結社「アセファル」でバタイユが自分を供犠に付すよう求めたのも、〈数ヶ月して戦争が始まった〉時期であったから、これらのテキストと重なり合う時期だったろう。これらの出来事とテキストは、相互に深く関連し合っているに違いない。
 「死を前にした歓喜の実践」は、前文と六つの短い断片から出来ていて、最後の一つにだけ、「ヘラクレイトス的瞑想」という標題がつけられている。短い章句が繰り返されるが、それは読誦のリズムを作り出すためであった。たとえば第二節は次のようである。

 私は死を前にしての歓喜である。

 死を前にしての歓喜が私を運び去る。
 死を前にしての歓喜が私を突き落とす。
 死を前にしての歓喜が私を消滅させる。

 ここには、死が恐怖を越えて歓喜をもたらすこと、「私」はそれによって個体としては消滅し、エクスターズへと運び去られることが語られている。これはバタイユがエクスターズの経験を、説明的にではなく、もっとも直截に語った箇所であろう。
 しかしながら、もう一つ留意しなければならない点がある。それは、このテキストが瞑想のために作成されているということだ。そのことは、第四節で、凝視の方法が説かれていることに示されている。

 自分の眼前に私は一点を見つめる。そしてその一点を、一切の存在、一切の結合、一切の離別、一切の苦悩、飽くことのない一切の欲望、一切の死の軌跡が描かれる場所として脳裏に思い描く。

 その一点に私は密着する。するとこの一点にあるものへの深い愛が私を焼き尽くし、そこにあるもののため以外は、愛される存在の生また同時に死であるが故に瀑布の煌めきを有するその一点のため以外には、いかなる理由のためにも生き続けることを拒否するまでになる。

 この瞑想は死を対象としている。しかし、死を瞑想の対象とするとき、その中にある構図は、一見そう見えるよりも本当はずっと複雑である。私たちは一つの問いを誘われる。これは誰の死なのか、すなわち他人の死であるのか、自己自身の死であるのか、と。瞑想の最初の対象となった「百刻みの刑」は、他人の死であった。けれども、「死を前にした歓喜の実践」での死は、多くの場合、自己自身の死であるように見える。第3節では〈私は私自身の死の凍り付く瞬間を思い浮かべる〉と、第6節では〈私は、自分が血にまみれ、引き裂かれ、しかし変形して世界と合致していると思い描く〉と述べられているからだ。ガレッティの資料集には、「死を前にしての歓喜」を説明した手紙が残っていて、そこでバタイユは、〈人間は、自分自身の死の表象(神の表象ではなく)を、瞑想とエクスターズの対象として取り上げることができる〉*42と書いている。
 しかしながら、この自分の死は、現実の死であるよりも、瞑想の中に置かれた死である。死のこの位置づけを知るには、やはり、前章で検証したことだが、バタイユがヘーゲルを応用しながら供犠というかたちのなかに死と人間の関係がどう変容してゆくかを見たこと――この見方はこのころにすでに十分明らかなものになっていたことだろう――を照射してみなくてはならない。ヘーゲルは、死を恐れない主人と、恐れる奴隷のあいだで、前者は死に打ち克とうとしながら失敗するのに対して、後者は屈服するように見せながらで、悟性と労働によって本当は死を克服するに至ることを明らかにしたが、死を自分の死だとすることは、死を恐れないことであり、主人の態度だろう。だから「死を前にしての歓喜の実践」は、バタイユが主人の立場に基本を置いていることを示す。しかし、この場合、自分の死はすでに瞑想の中に置かれている。そのことは、主人の立場に立ちながら、そして対象は自分の死でありながら、半ば眺める者すなわち奴隷の立場に身を置こうとしていることを示す。すなわちバタイユは、主人の立場から奴の立場へ反転しようとするところ、反転するのを認めざるを得ないところにいる。
 けれども、この時期、少なくとも彼の意図の上では、重心は主人の立場の上にあったと受け取るべきだろう。自己の死とは自己毀損のことであり、そしてそれは、前章で見たように神となろうとする傾向を持った。典型的なのは、これも前章で見たように、同じ「アセファル」最終号の「ニーチェの狂気」のなかの次のような一節である。〈彼は神を見ることになるだろう。だがまさに同じ瞬間に神を殺害し、自分自身神となることだろう。しかしそれはただ、虚無の中へとすぐさま自らの身を投げかけるためなのだ〉*43。ここでは明らかに、自己破壊と神になることの同一性、およびニーチェがそれを実行し得たと考え共感していることが示されている。それに何よりも、以下に見るように、彼は自己の死を、いったんは瞑想の構図のなかに取り込みながら、再度実践の側に押し返そうとする。こうした動きを合わせるなら、この時期のバタイユの関心の中枢は、二つの方向の間で揺れ動きながらも、極度の自己意識、自己の贈与、神の供犠の方向に向かおうとしていたと言うべきだろう。

7 「反キリスト教徒のための心得」

 「反キリスト教徒のための心得」は、「死を前にした歓喜の実践」と重なるようにして書かれたが、読誦のためよりも、理論的な考察として発想されたらしい。ガリマール版の全集によれば、「反キリスト教徒のための心得・断片」「キリスト教と軍隊」「十一の攻撃」「計画」「アフォリスム」「戦争は目下もっとも強く想像力を刺激する」の六つのテキストが残っているが、いずれも未完成なもので、ある程度筋道を立てて読めるのは、「反キリスト教徒のための心得・断片」と「戦争は目下もっとも強く想像力を刺激する」の二つくらいだろう。
 これらの断片的なテキストで彼が求めたと思われることを推測してみる。主題となっているのは、キリスト教、軍事性(とりわけファシスム)、そして社会主義運動(コミュニスム)に対する批判であり、原理はキリスト教批判のうちにある。キリスト教は〈人間の存在をイデア的なものへ依存させる以外のことをしていない〉(「反キリスト教徒のための心得・断片」t.2-p.380)。キリスト教は、本来崇高と残酷の両面を備えていた宗教的経験を、前者のみに限定してイデア化し、そこから引き出した善と理性によって人間を支配するに至ったが、それは倒錯だ、と彼は考える。そしてこの倒錯は軍事性と社会主義運動に共通する、と彼は言う。〈軍隊は、それが内的な矛盾を消滅させる限りにおいて、キリスト教的である〉(「キリスト教と軍隊」t.2-p.384)。そして〈キリスト教を通してと同じく社会主義を通して、「存在せずそして存在し得ないもの」が、「存在するもの」を裁く〉(「反キリスト教徒のための心得・断片」t.2-p.382)羽目になっている。ではこれらに対してどのような抵抗が可能か。それはかたちはどうであれ、根本的には、理性に統一され得ないものとしての情念的なものである。〈プロレタリアという名の下に資本主義と闘っているのは、その本来の生を通じて組織され権力を持とうとする力ではまったくなくて、道徳上の偉大な原理の周辺に不能を通して形成される不可解な不満である〉(「反キリスト教徒のための心得・断片」t.2-p.382)。
 そして、なにか満たされていないというこの不可解な感情をどう導くかを、バタイユにもっとも的確に示したのがニーチェである。ニーチェの格言から発想された「戦争は目下もっとも強く想像力を刺激する」は、宗教的供犠が意味を失ったあと、人間の精神が高揚する機会は、戦争と革命であるとした。バタイユは、彼の時代を支配した戦争と革命に精神的な高揚の可能性があるのを見ながら、なお、この可能性がいっそう強く宗教のうちに現れ得る――この点で「アセファル」はニーチェ的だと言われるのだろう――と考える。
 戦争に対するこの関心は、彼がいかに戦争に脅かされていたかの徴でもある。彼は戦争を求めるのではなく、逆に、現実に彼の周りに切迫していた戦争を利用し、その恐怖を瞑想のうち取り入れることで、死に関する現実のキリスト教の限界を越えようとした、すなわち、死のもたらす苦悩を救済へと掬い上げるのではなく、死が本来持つ残酷さを一層強化することで、それが歓喜へと転換されることを求めた。
 戦争へのこの切実なほどの関心は、実を言えば、「アセファル」の始めから明らかなものである。創刊号には、〈私たちが企てるのは戦争である〉t.1-p.443という一節がある。それは、第五号の「死を前にしての歓喜の実践」では、〈私自身が戦争である〉t.1-p.557といういっそう直截な断言へと高められる。戦争は、理論的に言えば、死が最もあからさまに現れる機会であって、その意味で瞑想の対象とすべき第一のものであった。戦争から宗教へという移行、すなわち、死を即座に実行する態度から死を観察する態度へという移行が、人間に死の意識を生じさせる契機であり、バタイユは、そのモメントを確かめるために、繰り返し戦争の場に立ち返り、それを表象として瞑想の中に取り入れることを必要とした。そしてそれによって、現実の戦争に対抗する立場を持とうとしたのである。

8 「社会学研究会」での講演・「死を前にした歓喜」

 「死を前にした歓喜」は、バタイユが三九年六月六日に「社会学研究会」で行った講演の草稿であり、前半部と後半部が最初は別ものとみなされていたように、これもまとまりのあるテキストではない。このテキストは、結社「アセファル」からすれば、「社会学研究会」という一番外側の、したがって公的な場所に現れたが、現れ方は枠組みをはみ出すようなものであった。まず、それはかなりの騒動を引き起こしたらしい。オリエは、ある参加者の手紙の記述を、この日のことだろうとして引用しているが、それによると、極右とコミュニストが途中で介入して、集会は混乱し、カイヨワは口ごもり、バタイユは声をかすらせ、講演が続けられる状況ではなかった*44。「社会学研究会」は、そもそも開始の時点から波乱を含んでいた。発案者の一人たるジュール・モヌロは準備段階で脱退し、コジェーヴは、繰り返して招かれながら参加を拒み、一度講演をしただけだった(三七年十二月の「ヘーゲルの概念」)。三人の発起人の中でも、レリスは最初から懐疑的で、講演を一度しかしていない(三八年一月の「日常生活における聖なるもの」)。会を運営したのは、実質的にはカイヨワとバタイユだったが、過激でありながらも、デュルケム以来の社会学の学問としての方法を守ろうとするカイヨワからすると、バタイユの考えかたや論証の方法はあまりにも恣意的であった。
 三人の間の距離は、この講演ではっきりと露呈する。草稿を読んでみると、これは学問的な発表というよりは信仰告白であって、レリスやカイヨワが立腹したのも当然と思わせる。二人はそれぞれバタイユに批判を伝える*45。ポーランとヴァールも批判を口にする(後出のカイヨワへの手紙でバタイユ自身が書いている)。七月四日が年度の最終回で、主催者である三人が揃って総括報告をすることになっていたが、カイヨワはアルゼンチンに講演旅行に出ることになっていたので(実際に六月二三日に出発している)、自分の報告を代読してくれるようバタイユに依頼し、テキストを渡している。このテキスト――「良心の糾明L'Examen de conscience」と題されていたらしい――は、バタイユの立場への批判を多く含み、彼を困惑させたらしい。バタイユは前日である七月三日に、この報告を同封してレリスに手紙を書き、〈これを火曜日に読むことはどうしても不可能と思える〉と言っている(ただこの手紙は、レリスがバタイユに直接会いに来たので郵送はされていない)。
 レリスはレリスで、七月三日に手紙を書いている。彼は主宰者のひとりとして、七月四日に報告を行うはずで、その原稿を書いていたが、それを完成させることが出来なかったのだ。手紙は「社会学研究会」の出発に当たって出された設立趣意書*46の三つの項目に添って、デュルケムの立てた方法上の諸規則がしばしば犯されたこと、バタイユが目指しているという精神共同体が矮小な党派性に陥る可能性のあること、「聖社会学」を社会の唯一の説明原理にしてしまうことは危険であること等を批判するものだった。こうした批判を述べた上で、彼は翌日欠席することを告げる。
 そのためにバタイユは、四日の年次報告を一人で行い、二人から批判があったことを明らかにし、レリスの批判が上記のようなものであることを紹介した後、この食い違いは研究会のあり方がもう少し明確になれば解消されるもので、新しい年度の始めに議論を提起するつもりだと述べる。カイヨワの批判については、それはもう少し深刻であって、〈私が神秘主義や劇や狂気あるいは死に対して与えている割り前が、私たちの出発点にあった諸原則とどうしても相容れない〉t.2-p.366というものだったことを明らかにしている。だがバタイユは、退かない。彼はかえって問題を一般的なかたちにまで拡大し、それのみならず、愛と供犠の共通性を持ち出し、性愛の高揚が破壊的な消費にまで至ることを述べる。

 彼らは抱擁の中で出会う共通存在を超えて、激しい消費のうちに見境のない無化を追求するのです。その消費の中では、新たな対象つまり一人の新たな女あるいは男の所有も、さらにいっそうは快適な消費のための口実に過ぎません。・・・・エロチスムは苦もなく狂宴にまで滑り行き、それ自体目的となった供犠は、共同体の偏狭さを超えて普遍的価値を主張するようになるのですt.2-p.372。

 オリエは、この講演が社会学研究会のそれまでの講演のなかで、もっとも心を打つものであったという証言があることを記しているがp.826、草稿を読んだだけでも、バタイユが心を高ぶらせていることははっきりと伝わってくる。
 しかし、これでは疑念を払うのとは反対の効果を持ったことだろう。バタイユは、翌日から共に不在であった二人の友人に手紙を書いているが、彼の傾向は変わらない。最初に書かれたのはレリスへの手紙であって、五日の日付がある。その中で、彼は自分のやり方を改めるというよりは、いっそうはっきりと主張を打ち出す。彼は「聖社会学」が、キリスト教――集団的な意識の高揚を探求すること――の延長にあると述べる。〈私の目には、社会学研究会が形と構成を与えようとしてきたこの聖社会学は、最初から、まさにキリスト教神学の続くものとしてあった〉p.827。そしてこの延長はヘーゲルとニーチェによって実践されたが、社会学はこまでは踏み切れなかった、しかし、この限界は越えられねばならない、と彼は続ける。

 その上、キリスト教神学に続く伝統は、すでに存在し、それはとりわけヘーゲルとニーチェによって表されているように思える。実際、デュルケムが同じ方向に向かおうとしたということは確かでなく、彼はまさに、社会学の方法の規則のいくつか――分析の根底にある生きられた経験を排除するところの――によって足を止められた。いずれにせよ、彼にとっては、彼が行った現代社会に関する一般的な考察の中に、本当の深さを導入すること不可能だった。デュルケムから、そしてモースから遠ざかること――少なくとも現今の人間存在を対象とするときに――は、避けられない必然である。p.827

 これは、レリスとの間に露呈した裂け目を、閉じるどころか、いっそう拡げるものであったろう。バタイユは社会学の向こう側に踏み入ろうとする。レリスは、この手紙に対して、かなり綿密な回答を書き始める。読んでみると、彼は社会学の蓄積を尊重すべきだという立場を変えないものの、民族学者たちの仕事が必ずしも、対象とする社会の内部にまで踏み込むことが出来ていないことを認め、純然たる観察を超えることを必要と考えた時に、どのような〈別な方法〉p.832が可能であるかを問う方向へと進んでいる。レリスはバタイユの志向をある程度認めたように見える。彼らは何度か話し合ったらしい。この手紙は完成に至らず、草稿のまま残され、投函されない。
 バタイユは、レリスの手紙のすぐ後にアルゼンチンのカイヨワに宛てて手紙を書いている(七月六日から書き始め、二十日の日付がある)。彼は同様に、「黙示録的口調」とも「神秘主義」とも見える自分の傾向は承知だとした上で、自分で自分を限界づけることは受け容れられず、〈あなたが自身で決めた諸々の点を正面から超えてゆくことは避けがたい〉p.837のであって、その結果集団の持つ「精神的権力」は〈供犠を誘い出す力を持つはずであり、したがって聖なるものを要求するはずだ〉p.837と主張する。彼は神秘主義と批判されるのを恐れていない。七月四日の講演では、〈「社会学研究会」などよりも大事なものがある〉t.2-p.365と言っているが、これがバタイユの本音であったかも知れない。しかしながら、最後には〈だから私は、私があなたに提案したこと、そしてたぶんあなたをひどく不安にさせたことを断念します〉p.388と書く。このようなある種の妥協があって、「社会学研究会」の分裂はいちおう回避され、続くヴァカンスの間、参加者の間で次年度の運営について検討がなされる。だが、それらはすべて開戦によって押し流されてしまうのである。
 ではこのような混乱を引き起こした、死と歓喜に関するバタイユの講演はどのようなものであったか。第1章「供犠」では、主に兵士と祭司の比較が行われていて、前者が死を即座に執行するに対し、後者が、死から一歩退くという欺瞞を犯しながらも、それによって死の意識を高め、死に意味を与える役割を果たす、とされている。だから〈供犠執行者のみが、本当に人間的存在を作り出すことが出来る〉。後年の「死と供犠」で明瞭なかたちにされるこの考えかた、つまり死に対する位置を転換してゆくこと――自分自身で死を実現することから、死を恐れてその観察者となることへ――は、先に見たように、ヘーゲルに媒介された解釈にちがいない。このような考えかたは、いったいいつ頃からバタイユに現れてきたのか。「社会学研究会」の講演に関して言えば、三八年三月五日に、彼は軍隊を取り上げ(「軍隊の構造と機能」)、つづく三月十九日には教会を取り上げている(「友愛団体、修道会、秘密結社、教会」)。だがこれらは、その少し前の「牽引と反発」の主題の延長上にあって、惹引と反撥の最大の焦点となるのは死だという主題は共通するとしても、軍隊から宗教へというかたちで現れる死を巡る姿勢の変化は問われていない。であれば、供犠がヘーゲル的な視点によって読み解かれることが明らかにされるのは、「死を前にしての歓喜」という主題に至ってのことであるように見える。この解釈は戦争下に書かれる『有用性の限界』に受け渡される。
 死に関する態度を、主体自身による死の実践から転換していくことについては、二つの可能性が考えられる。一つは瞑想、もう一つは供犠である。だが二つは性格を異にする。瞑想は死を思い描くことであって、実際の死を見ることではないために、死から遠ざかる度合いは、供犠よりも遠いだろう。しかしながら、この場合の死は、「死を前にした歓喜」に見られるように、なお主体自身の死であり続けることがあり得る。これに対して供犠は、反対に実際の死であるが、それは対象の死であって、主体自身の死という直接性は回避される。これらのうちのどちらが死から遠いかをいうことは出来ない。それが『内的体験』にかけての時期のバタイユに、瞑想と供犠が交錯して現れる理由だろう。「アセファル」のために瞑想の方法を考案するが、供犠を試みるようにも促される。だがこの時期は、供犠への傾斜が次第に強くなっていったと言えるだろう。第2章はその証拠である。
 第2章「死を前にした歓喜」は、この講演のエッセンスをなす。この部分ではまず、死の持つ作用がほかのどの出来事にもまして暴力的で、それを蒙る者を打ちのめすさまが語られる。それは人間を「死の高みに」まで運び上げ、それによって、既成の絆を弾き飛ばし、人間を新たな関係のなかに置き直す。そのありさまをバタイユは次のように語っている。

 死の暴力が人間たちに接近するたびに、彼らの間に、一種の奇怪で強烈な交感が、打ち立てられるように見えます。共に危険にさらされているという単純な感情によって彼らは結ばれる、ということはあり得ることなのです。というのは、死に打たれるのが一人だけで、死はその瞬間には臨席者を脅かすことはないときでさえ、自分たちは脆弱な存在だという思いが起きると、生き延びる者たちは、心を通わせることで慰めを求めるようとするものであるからです。しかし、死を前にして近づき合うことには、なお単なる恐怖に還元できないもうひとつの意味があります。なぜなら、恐怖がうまく作用しないとしても、だからといって、死の「領域」がどうでもよいものとなるのではないからです。死の「領域」は一つの魅惑を持ち、死に脅かされる人間も、また同じく臨席者も、それを身に受けます。死から生じるところの重く決定的な変化は、もろもろの精神を打ちのめし、そのためにこれらの精神は、通常の世界からはるか離れて天と地の間に運ばれ、息喘がせて投げ出されます。それはあたかも、彼らが突然、目を眩ませるような不断の運動が彼らをとらえるのに気づいたかのようです。運動はこのとき、死に脅かされる者あるいは死につつある者に対して、ある部分では恐るべきで敵対的であるのですが、外在的なものでもあります。それは、死んでゆく者からと同様に、人が死ぬのを見る者からも現実性を奪い、それだけで作用し続けます。こうして、死が姿を現すと、生から残存したものは、ただ自分の外でのみ存続することになるのです。p.741

 これは、供犠を前にした参加者の心理の動きを辿ったものであって、この主題に関して、これまででもっとも詳細かつ具体的に語られた箇所であろう*47。そして彼は「死を見る者」だけでなく、「死んでゆく者」についても語っている。バタイユはそれをほとんど自分の幻想として語っている。彼は再び死にゆく主体の立場に惹かれているのであって、読む者は、それが内部から語られたものだという印象を受けずにはいないだろう。聴衆にショックを与えたのは、この語り口だったに違いない。さらに彼は、最後を、〈供犠の持つ豊饒な濫費が、彼のうちでどれほどまでに明らかにされてくるかを・・・・知るためには、過剰な喜びを、少なくとも一度は経験していなくてはなりません〉p.745という一節で結んでいる。私たちは今日、ほぼ同じ時期にバタイユが「アセファル」の会員に自分自身を供犠に付すよう提案したことを知っているが、この言い方の背後で、バタイユは彼が実行に移そうとしていた供犠の計画を考えていたのだろうか。私は、兵士から祭司へ、そして供犠の参加者へ、さらに死を瞑想する者へというかたちで、すなわち死を実践する者から観察する者へというかたちで直接の死から少しづつ離脱してきたプロセスが、もう一度、自分自身の死に向かって逆流しようとしているという印象を受ける。バタイユは今一度死を我がものとしようとしている。彼の内部では、瞑想と観察から一歩出て供犠の実践に向き直ろうという志向が働いている。

9 錯誤と価値

 「アセファル」は、新しい宗教の創設を目的とする秘密結社であった。前述のように、活動は秘匿されようとしたように見えるが、バタイユ自身は、草稿類のなかではこのグループについて触れ続けている。先とは別の例を挙げれば、一九五〇年に『内的体験』と『ニーチェについて』の再版が問題になったとき、当時ガリマール社にいたクノーに手紙を書き、それらを含めて三巻からなる「無神学大全」の構想があることを語り、その第三巻を『有罪者』を柱に構成して、そこに、まだ書かれてはいないが「ある秘密結社の話」という章を加えることを考えていると述べている。これは「アセファル」のことであろう*48。そしてほぼ十年後の五九年の夏、『有罪者』の再版の際に、序文を準備しようとして、「アセファル」に数度にわたって言及する。
 後者の言及の中に、目を引く記述がいくつかある。それは例えば次のような一節である。〈私はいくらかの喜びさえもって、宗教を創設しようという二〇年前に私が持った意図が、私に残した苦い記憶を呼び起こす。私の挫折は日々いっそう私に明らかになってくるのだが、この挫折が、今日完成しようとしている「大全」の源にある。自分の努力が空しいことが明らかにされるのを見届けたまさにその時に、私は『有罪者』を開始したのだった〉t.6-p.370。
 彼は「アセファル」が挫折し、失敗したことを認めている。そしてそれが『有罪者』と「無神学大全」への転換となったと、認める。そして今度は現況での考えを次のように述べる。〈今日では、宗教を創設しよう考えることほど、私から遠いものはない。・・・・私の考えでは、宗教を創設することは問題になり得ない。その意図が滑稽であるばかりでなく、また私の現今の意図が、私がそれについて持ってきた深い奇妙さの感情の上に基礎づけられているばかりでなく、宗教を創設しようという意図が求める基礎付けと努力が、「宗教」と言われるものとは反対の方向に行ってしまうのだ。私たちがなし得るすべては、宗教を探し求めることである。それを発見することではない。発見してしまうと、価値あるいは定義された形態が現れてしまうことを避け得ないだろう。しかし私は、何において宗教的であるのか、またどのような様態で宗教的であるのかを決めないままでも宗教的になり得るし、とりわけ、そうあり続けることができる〉t.6-p.370
 この部分は、十分了解することができる。〈宗教を創設しようという意図が求める基礎付けと努力が、「宗教」と言われるものとは反対の方向に行ってしまう〉というのは、「アセファル」の最初の発想では、宗教の創設とは共同体あるいは教会の創設だと考えられていたが、そのような形態を取ることは、キリスト教会が典型的に示したように、次第に宗教性を固定し、従属させることに行き着くほかなかった、ということだろう。それを阻まなければならない。ではどうするか。宗教は恐怖をそそるものへと還元され、不可能なものの探求となるが、そうであれば、それを発見することはあり得ないことであり、探求は永続的であるほかない。これが〈私たちがなし得るすべては、宗教を探し求めることである。それを発見することではない〉の意味であろう。そしてその確認の上に、価値とも定義とも無縁な宗教的体験として内的体験が発想される。
 しかしながら、こうして確定されたように見える反省と批判も、本当はまだ不安定なものであった。「無神学大全のためのプラン」は、かなり長期間にわたって断続的に書き継がれたのであって、それを読んでゆくと、彼がなお試行錯誤を繰り返し、彷徨する様が見えてくる。彼は何か定まり切れぬ動揺に揺すぶられ続けている。しかし、六〇年になって、突然の変調が、「アセファル」を巡る反省から起きたように見える。この年のものと推定される断片で、彼は次のように書く。〈私は自分が、すくなくとも逆説的なかたちで、宗教を創設することのほうに押しやられていると感じていた。これは怪物じみた過ちであったが、しかし私の書いたものは、こうして集めてみると、この怪物じみた意図の過ちと価値を同時に表すことだろう〉t.6, p.373。
 私たちはまずこの〈怪物じみた過ち〉という表現に目を止める。これは「アセファル」に対する批判的反省のいちばん強い表現であろう。だが、これが何をさしているのかは、必ずしも明らかでない。それは宗教の創設のこと自体を言っているのか、それとも、私たちは今では知っている人身の供犠を行いかけたことなのだろうか。だが後者の可能性を含んで考えるとき、私たちはさらに驚きに打たれる。バタイユはその意図の〈過ちと価値〉の二つを語っているからだ。〈過ち〉についてはすでに語られてきた。しかし〈価値〉について語られるのは初めてである。「アセファル」には、あるいは人身の供犠には、〈過ち〉だけでなく〈価値〉がある、と彼は言っている。ではそれはどんな価値なのか。この一節にはこれ以上の示唆はない。彼が「アセファル」を肯定的に捉えようとする口ぶりを漏らしている例は多くない。だが、彼のこの時期の書簡を照らし合わせると、それがもっと明瞭な反響を引き起こしているのを見出す。
 同じ六〇年の秋、彼は古い友人に宛てて何通かの手紙を書いている。一つは十月二四日の日付のあるワルドベルク宛ての次のような手紙である(ワルドベルクはアメリカから帰国し、バタイユとの中を修復し、「クリティック」に協力している)。

 私はパリで三日を過ごしたところだ。今回君に会えなくて残念だった。いずれにせよ、私はやがて君に何か新しいことを言言い出さねばなるまいと思っている。私はまだ、ただ意図上で犯罪者であるだけだが、私は、どれくらいの間、続きをやることを正当化しないでいられるか、と自問している。つまり、崩壊した結社(敵対的な運命のおかげで崩壊したのだったが)を再建することだ。欺瞞に満ちたイロニーを通して、私はやがてこれのために有罪となるだろう。だが、いったい誰が無邪気に生きられるものだろうか?*49。

 そして十月二八日、しばらく手元に置いておいたこの手紙を補足して、アンブロジーノ(彼との仲も修復されている)に宛てたという手紙の写しを付加している(この手紙そのものは見つかっていない)。そこには次のように書かれている。〈いずれにせよ、私は、私たちがかつて一緒に試みたものごとの続きをやることを考えている。そのために私は、君に会わずに、少なくとも君に会おうともせずに、それをやることはできない〉。
 同じ二八日、彼はレリスにも手紙を書いて、次のように言う。

 ・・・・私は少なくとも、「アセファル」という名前に結ばれた訳の分からぬ試みが、遠くでどんな帰結をもたらしたかを検討するよう促されている。ところで君は、少なくともその本質的な部分をどうしても知らせておきたいと私が思っている人々の一人だ。私は、もう一度やり直したいとはまったく考えていない。しかし、この気違いじみた企てのなかには、私自身が遠い隔たりを感じているにもかかわらず、何かしら死滅し得ないものが根底にあったことを、私は認めざるを得ない〉〈私が理性を欠いているとは思わないでくれ。人を引っ張ってゆこうなどとは全く思っていないが、私自身は逃げることができないでいる、ということをわかってほしい。

 この手紙が、ワルドベルクやアンブロジーノ宛のものに較べ、やや後退したものであるのは、「社会学研究会」に対して批判的で、「アセファル」に対してはもっと批判的であったレリス宛だったからだろう。だが、この時期にバタイユが、アンブロジーノ、ワルドベルク、レリスを始めとして何人かに、「アセファル」を再建するような試みを誘いかけていたのは確からしい。手紙には、いくつかの名前が引かれているからである。
 序文草稿のなかで〈価値〉と言われていたものは、この書簡での〈何かしら死滅し得ないもの〉のことだろう。それを参照したところで、ことが明瞭になったとは言えない。二〇年を経て帷の底から現れたようなこれらの言葉は、バタイユの読者を改めて揺り動かす力を持っている。一九六〇年と言えば、死の二年前だが、それは別にしても、『呪われた部分』『エロチスム』『ラスコー』『モネ』等の確信に満ちた――そう見える――書物を書き終えていた時期である。だが彼は自分がなお〈何か死滅し得ないもの〉に脅かされていることを告白している。だとすると、この不安なものは、これらの書物の下に永続的に作用していたということだろうか?
 この〈何か死滅し得ないもの〉が、現実的に何であったかこれ以上明らかになることは、たぶんあるまい。だが本当の問題は、かりに現実的なできごとがよりよく示されるとしても、それで解明が完了したということにはならない類のものだ。それは何処までも〈何か・・・・であるもの〉にとどまるだろう。問題はおそらく別な次元に属する。それはたぶん、死に向かう志向が、ついに決定不可能なもの、曖昧たらざるを得ないものごとに達すること、だから、人身の供犠を実行しようが、あるいはそれを放棄しようが、本当は関わりのないものごとに打ち当たってしまったことから来ている。この両義性は、どうにも解決のつかないものだ。「アセファル」という〈気違いじみた企て〉の中で、両義性は鋭い姿を取ってバタイユを打ちのめす。ことはこれ以上ないほど極度なかたちで現れたが、それで何かが解決されたわけではなかった。この曖昧さに打ちひしがれ、そのうえ戦争の到来によって深く翻弄されて、彼は『有罪者』の世界へと入っていく。それはまだいくつもの動揺をもたらすだろう。『内的体験』も、少しも安定をもたらすような書物ではなかった。だから、もし『有罪者』が転換点をなしたとしたら、それは両義性が何か確実なものへ転換されたのではなく、ただ両義性を正面に置くという決意を据えることだったに違いない。

*1この問題については、吉田裕、「バタイユ・ノートX、バタイユ・ポリティック」(「ブービートラップ22−25号」)を参照していただきたい。
*2邦訳がある。「ユリイカ」一九八六年二月号。
*3ミシェル・シュリヤ、『G・バタイユ伝』Georges Bataille, la mort a l'oeuvre、一九八七年、新版は一九九二年。旧版の翻訳が河出書房新社から出ている。新版にはかなりの増補があるので、引用はこちらから行い、邦訳に該当個所が確認できた場合はそれを付記する。彼は次のように言う。〈バタイユがそれまでと同じ言葉で政治を語らなくなったせよ、万人になじみの用語で政治を語らなくなったにせよ、一九三七年のバタイユが政治的であり、依然としてそうあり続けていることに変わりはない(一九三八年でも一九三九年でもそれは同じだ)〉(新版p.290、訳下巻のp.21)。
*4Patrick Waldbergは、一九一三年アメリカに生まれ、八五年に死んでいる。シュルレアリスム運動に係わり、美術論、回想録などがある。「アセファログラムAcephalogramme」は、 Magazine litteraire, no.331, avril, 1995に掲載。これは遺稿らしい。ここでは次の『魔法使いの弟子』に収録されているのを参照した。
『魔法使いの弟子』のp.458に紹介がある。
*5 『カイヨワへの手紙』、ジャン=ピエール・ル・ブレール編、一九八七年。Georges Bataille, Lettres a Roger Caillois; presentees et annotees par Jean-Pierre Le Bouler, edition Folle Avoine, 1987.
*6『バタイユ書簡選』、ミシェル・シュリヤ編、一九九七年。Georges Bataille, choix de lettres, 1917-1962, edition etablie, presentee et annotee par Michel Surya, edition Gallimard, 1997.
*7『魔法使いの弟子』、マリーナ・ガレッティ編、一九九九年。Georges Bataille, "L'apprenti Sorcier, textes, lettres, et documents(1932-1939), rassembles; presentes, et annotes par Marina Galletti", edition de la difference, 1999.
*8『魔法使いの弟子』、資料114、p.401。
*9「アセファログラム」、『魔法使いの弟子』、p.597。
*10集会の開催に反対できたのは、バタイユとアンブロジーノだけであったらしい。『魔法使いの弟子』、資料129、p439。
*11マソンへのインタビュー「『アセファル』あるいは秘密結社という幻想」、「ユリイカ」一九八六年二月号。
*12『魔法使いの弟子』、資料147の解説、p497。
*13『魔法使いの弟子』、資料95, p.336。
*14『魔法使いの弟子』、資料129, 130、p.438-p.447。
*15『魔法使いの弟子』、資料98-105, p.352-p.378。いくつかは邦訳されている。「秘密結社『アセファル』」、「ユリイカ」一九八六年二月号。
*16ピエール・クロソウスキー。ベルナール・アンリ・レヴィの『自由の冒険』(グラッセ社、一九九一年)中での対談から。『G・バタイユ伝』からの再引用である、新版p.304。
*17この時の式の進行を指示した文書が残っている(『魔法使いの弟子』、資料145、p.491)が、ここでは、その実行のさまを叙述したワルドベルクの回想記を引用する。
*18「アセファログラム」、『魔法使いの弟子』、p.594。
*19『魔法使いの弟子』、資料124, p.428。
*20Le Nouvel Observateur, novembre 1974, 521号。『G・バタイユ伝』p.301よりの再引用。
*21『G・バタイユ伝』p.303。
*22「アセファログラム」、『魔法使いの弟子』、p.597。
*23『魔法使いの弟子』、資料174、p.564。
*24『魔法使いの弟子』、資料175、p.565。
*25『魔法使いの弟子』、資料177、p569。
*26ガレッティの紹介による。『魔法使いの弟子』、資料175、p.566。
*27ル・ブレールの上記の書簡集の解説からの再引用であるp.108。
*28全集第U巻に「一九三八年一月一七日」という標題で収録されている。t.2-p.281。
活動の主題は、"les attitudes envers la mort"(死に向かう態度)とされている(全集の後注、t.2, p.444)が、バタイユ自身は講演中でl'attitude a l'egard des morts(死者に対する態度)という言い方をしているt.2, p.281。オリエは解説中でles attitudes devant la mort(死を前にしての態度)という言い方をしているが、これはバタイユの文章中には見出されない。「アセファル」最終号のテキストの標題は、La pratique de joie devant la mortである。小さなヴァリアントがあるが、最後のものが代表だろう。
*29社会学研究会の講演については、それだけをまとめたものが出ている。『聖社会学』、兼子他訳、工作社。そこではp.192。これも原書に一九九五年に新版が出ているので、こちらから引用する。Le college de sociologie, nouvelle edition, edite par Denis Hollier; ed. Folio,1995。
*30この時期にバタイユが読んでいたに違いないオットーの『聖なるもの』(一九一七年)には、聖なるものがむしろ恐怖から来ていることを指摘しているところがある。〈私たちはすべての強い宗教的発動のうちで、もっとも深いものを観察しよう。それは救いの信仰や信頼や愛などに勝るもの、これらの随伴者を置き去って、私たちの心情をほとんど眩ますばかりの力をもって動かし、満たしうるものである。私たちはそれを探求しよう。私たちを取り囲むものについて、あるいは感情移入により、あるいは共感と追感とにより、信仰の激動とその感情の発露の中に、厳粛で荘重な礼典、儀式の中に、宗教的記念碑と建築と寺院と教会とのうちに動く雰囲気の中に。その際、まずそれに近いものとして現れてくるのが、ラテン語のmysterium tremendum(戦慄すべき秘儀)の感情である。この感情は、音もない汐のようにやってきて心情を満たし、静かで深い瞑想的気分を漂わせることがある。かようにして、時としては多少常住的な心の調子に移りゆき、よろめきつつも持続するが、ついに響きは消え、心は再び、この世の様に復帰する。また時としては、この感情は激変して、急激に心を破り出ることがある。また時としては、不可思議な興奮と陶酔と法悦と入神に導くことがある。それは荒々しいデモーニッシュな形態を持っている。それはほとんど、妖怪のような恐怖と戦慄とに引き沈めることがある〉(岩波文庫p23)
『聖社会学』、p.201。
*31邦訳がある。『エロスの涙』、樋口裕一訳、トレヴィル、p.184。
*32Jean Bruno, '' Les techniques d'illumination chez Georges Bataille '', Critique 195-196, 1963.
*33『内的体験』の「序論草案」。
*34『魔法使いの弟子』、資料164, p.536。
*35邦訳『ニーチェについて』(酒井健訳、現代思潮社)ではp.106。
*36現在はそれらを全集のノートの部分で読むことができる。またこの部分は、ロールの遺稿集の最近の版には収録され、その邦訳がある。『バタイユの黒い天使』、佐藤悦子・小林まり訳、リブロポート、一九七七年。
*37「反キリスト教徒のための心得」の執筆時期については、全集には記載がないが、シュリヤは、「死を前にしての歓喜の実践」の後に置いている。『G・バタイユ伝』p.335(訳上巻p.66)。なお「アフォリスム」と題されたテキストには、一九四〇年五月一九日という日付が記入されている。
*38ガリマール版全集の第U巻では、遺稿として「供犠」と「死を前にしての歓喜」の題で二つの草稿が収録されていたが、これらは共に三九年六月六日の講演の断片らしい。この連続性を最初に指摘したのはル・ブレールで(前掲書p.108)、オリエはおそらくそれに従って、一九九五年のLe college de sociologieでは、二つを合わせて収録した。私もこの判断に従う。このテキストの引用は後者から行う。
*39ガレッティも、「心得」は「アセファル」の枠の中で書かれたと見ている。『魔法使いの弟子』、p.406。
*40「十一の攻撃」の最初のかたちは、三八年の九月(資料141)に現れ、刊行については、同じく三八年の十月(資料152に、この年の終わりまでにしたいと語っている。
*41『魔法使いの弟子』、資料163,164,165。
*42『魔法使いの弟子』、資料172, p.561。
*43同じ考えは、周囲の友人たちにも共通していた。クロソウスキーは三七年七月に次のように書いている。〈ニーチェに特有の高貴さとは、神の殺害たる自己の供犠のうちに存する〉。『魔法使いの弟子』、資料108, p.387。
*44 Le college de sociologie, p.462, p732。
*45三八年六月六日の「死を前にしての歓喜」から始まる分裂の危機をめぐって、バタイユ、レリス、カイヨワの間でいくつかの書簡のやりとりがある。以下に引用する六通の手紙はオリエのCollege de sociologieにまとめて収録されている。
*46一九三七年に「アセファル三,四合併号」に出され、三八年にNRF「社会学研究会のために」の標題で、バタイユ(「魔法使いの弟子」)、レリス(「日常生活における聖なるもの」)、カイヨワ(「冬の風」)が論文を提出した際、再録された。なおこの趣意書に、レリスは署名していない。
*47この部分はいくらか変更され、一九四〇年頃執筆された『有用性の限界』の第X章「冬と春」の冒頭に納められている。
*48ガリマール版の全集の編集者も、これを「アセファル」のことだろうと推測している。全集t.6, p.361
*49以下に引用するワルドベルクとレリス宛の手紙は、シュリヤ編『バタイユ書簡選集』からの引用である。p.546以下。ガレッティの『魔法使いの弟子』にも、同じ手紙が引用されているが、十月二八日付のワルドベルク宛手紙は、なぜか一部分省略されている。なお前者では、この後「アセファル」の復活に関する手紙が交換されつつも、おそらくはバタイユの体調不良によって計画が立ち消えになってゆくのが見られる。


(第3章 終--「エクスターズの探求者」了)

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