新井将敬の本『エロチックな政治』

第1章 戦争か恋愛か

サルトルの友人であったポール ニザンは『男がすべてをやり直すのは、戦争か恋愛によってでしかない。』とアラビア半島の砂漠に立ってつぶやいた。ぼくが、この言葉にぶつかったのは(人は自動車にはねられるように、言葉にもはねられるのだ)学生時代、生まれた時代が悪いのか、はたまた自分が駄目なだけのか、お金もなく恋人もなくて、ただ『やり直したい』とばかり思っていた日々だった。
しかし、確固たる自信で堂々と無為に過ぎていく『日常』のなかで、どうしたら一切合切やり直せるのか、ただ途方にくれるばかりだった。当時流行した『日常生活批判』というような書物も一向にぼくの日常を変えてくれないのだった。そうした時に、この言葉とぶつかったのだった。
戦争と恋愛か!ぼくは目からウロコが落ちる思いでうなった。

 当時の駒場は、学園紛争の最中、ストライキ中であったが、到る所でセクト間の小競り合いが起きていたし、頭から血を流した男が文字通り血相を変えてすさまじい勢いで、僕の右側を走り抜けていくと、そのあとから数人のわりとこざっぱりした連中が、それを追いかけて僕の左側を走り抜けていく、といったことがめずらしくなかった。誰も頭から血を流して陸上競技の練習をやっているとは思わないだろう。
 大体、血を流して一人疾走するボロっちい男は、中核とか革マルとかいった連中で、必ず複数で後を追うこざっぱりした連中は民青(民コロとも呼ばれていた)というのが常識だった。

 これが戦争か、と僕は合点することがあったらしく(一体、何を合点していたのかさっぱりわらないが)、デモの隊列に参加したり、ビラを配ったりしているうちに、民青の流れ石(流れダマではない)に当たって頭から血を流して疾走することになったのだ。
 この時の「戦争」体験は、僕にある種の政治的偏向を与えたことは間違いない。
 やり直せたかどうかはわからないが、大学二年の冬、安田講堂が機動隊に占拠されたことをきっかけにして、僕は理科氓フ将来がある(?)物理学者への道から、マルクス経済学を学ぼうとして経済学部への転向を決意したのだ。

 マルクスの疎外論は、僕に恋人がいない理由を説明してくれるように思えたし、マルクスの搾取論は、バイト先の時給が不当に安い理由を納得させてくれたのであった。また歴史に正しい方向がある、という主張は、もし間違った道を歩めば、自分の人生には何の意味もない、という恐怖で僕を苦しめた。
「自分は何者なんだろう」という問いに君達はどう答えるべきか。自分の父親の名前を出して答えとするか、自分のナンパした女の子達の住所録を思い浮かべるのか、ケンカした回数を誇るのか、卒業した学校名に頼るのか。すべてを言いつくして疲れ果てた後、君はいやいやと首をふって、自分はそれ以上のものである、とつぶやくだろう。そして、それ以上の何者かになろうとしている、と宣言するかもしれない。
 しかし、何者であろうと、誰かが認めてくれなくてはならないだろう。その誰かが、僕にとっては人類の生と死をすべて呑みこむ歴史というもに思えた。

 マルクスの歴史観によれば、貧しく財産ももたない勤労者階級が資本家階級と闘って勝利して、私有財産のない平等な社会をつくる方角が正しい方角であった。
歴史を味方につけるには、自分を搾取されている勤労者階級の一員として認識することが必要条件なのだ。
自分を形づくっている様々な個性的経験、他人と異なった持ち物、親父の地位や学歴等々、の他人との区別中に自分はなくて、勤労者階級としての認識だけが、自分とは何者であるか、という問いへの答えというわけだった。
歴史にはふたつの区別しかないのである。極悪非道の資本家階級か歴史に愛される勤労者階級なのだ。
 今、マルクス主義は死んだ、とソ連共産党の崩壊やベルリンの壁の消滅をみて多くの人々が合唱している。

 しかし、搾取という言葉は滅びても、父親の地位や財産あるいは血筋や、たかがペーパーテストの点数だけで、君自身の将来の多くが自分の努力と関係なく決められてしまうような今の社会が、マルクス主義に対して勝利を宣言している本当に自由で民主的な社会なのだろうか。違うとすれば自由で民主的とは一体どういうことなのか?
 それを考えることが政治を考えるということだ。参加しているということだ。考えが確信ある行動に移れば、君達の力が社会を変えていくことになる。


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イラストは残念ながらぼくの制作ではありません。南 伸坊さんのご好意です。出版は、マガジンハウスです。それ以外は、すべて(本文はもちろん、ホームページの制作も)ぼく自身がやりました。次は、クリントンの猫に対抗して、ショウケイの犬(ネロ)を公開します。



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