「政治はどこへ行く!日本の理念は何処へ」
(青年会議所発行「日本の正論」より)




戦後最大の非常事

 今日お話しすることは、一つは政治家とは何をしてくれる人なのか、ということです。
 1995年1月17日に起きた阪神大震災は、戦後の憲法と政治体制の中で日本が迎えた最大の非常時であったと私は思います。このような最大の非常時に、戦後の日本国家と政界再編という中で、村山政権が持っている性格にとって、これが実は非常に象徴的に起きた事件であったのです。
 ところが、今のマスコミや報道のいろいろな論調は、そうはなっていないのです。とにかく政治抗争をやめて予算を早く通し、お金をたくさん撒いてくれたらいい、というものばかりです。しかし災害が起きて、五千人何百人という戦争にも匹敵するような人々が亡くなったのに、その時に国の責任であるとか、政治家の責任を問わないで、お金だけ早く出してくれなどと言う政治家も政治家だが、国民も国民だと思います。
 そういう議論にうつつを抜かし、補正予算を何兆円組んでくれるのかとか、十兆円以上組んでくれたら景気が良くなります、というような議論、それはそうかも知れませんが、財源は幾らあるのか、もう増税論議が始まっています。消費税を上げて財源にするのか、赤字国債を出すのか。もちろんつまらない議論だとは思いません。
 しかし、今こういう事件が戦後五十年である、平成七年に起き、その時に、戦後に生 まれてきた特に若い人達が考えるべきことは、景気にどういう影響を与えるか、株価はどうなるのか、このあとの補助金がどれだけ出て..とか、そういうことではないはずなんです。
 こういう国家システム、こういう政治的システムで、日本という国が成り立つのか。私達はこの国に住んでいていいのか、政治家とは何をしてくれるのか、その責任問題という事を今こそ皆さんが考えなければ、五千何百人の人は浮かび上がりません。幾ら後で補助金をもらおうがお金をもらおうが、国家や政治家の責任不在のために命を落としたとすれば、これはお金で解決できないことが起きたわけです。またそういう事がこれからも起きてくる可能性が、現実目の前にあるわけです。
 昔は新潟も大震災の大きな被害に遭いましたが、関東大震災の可能性もあるし、そういう意味で今後の阪神大震災というものを考えてみると、一つに、本当に大きな議論の 筋の間違いというのは、今すべてが、補正予算やお金の問題や、景気対策の問題に、この問題が換言されている。この事が一番粉の国のだめなところなのです。それを政治家も、政治休戦などと言っている皆さんがそうなんですよ、日本国民が。
 そこで全てをお金の問題に切り替えてしまえば一件落着であると、日本国民全体が思っているわけで、どんな事件が起きても、どんな非常事態が起きても、それは国家で あるとかそういう問題ではなくって、お金で保障されるべきような話しにすぎない、要するに儲かるか儲からないかという二分法しか無いというのが、今の国民ではありませんか。リスクをおかしてとか、儲かるか儲からないか、景気がいいか悪いか、たしかに 政治家もたいしたことはない。
 しかし私から言わせれば、全てのどんな事においても、儲かるか儲からないか、景気がいい悪い、その程度の議論しかしていない国民やマスコミの責任というのは、私は厳然としてあると思います。この点については官邸の機能がどうであった、有事の法律整備ができていなかったとか、色々なことが言われていますが、ところが法律の中に何も書いていなかったわけではないんです。たとえば災害基本法には、災害対策、緊急災害対策本部というものを、総理が布告したら、物価統制まで含めた全権を持っているんです。
 法的には何も無かったという事ではない。問題はそういう事ではなく、こういう非常事態は、合法であろうが無かろうが、政治的指導者は、法を超えてもやるべき事はある、というのが私の言いたい事であります。それでなければ非常時において、政治家というもの、政治指導者というものは成り立たないはずなのです。

緊急非常時でも責任を果たせ

 あの瞬間、テレビを見ただけで、建物は燃え続けている、報道のヘリコプターは飛んでいるけれども、火事の現場に水を撒いている消防車は一台もなく、消火剤を撒いているヘリコプターも一機もない。阪神高速道は倒れている。車が渋滞して、消防車は近付けない。あの時、朝6時のニュースでおかいしと、異常だ、非常事態だと、そんな事はテレビを見てすぐに分かったではありませんか。
 だいたい、あんなものが倒れますか、 阪神高速なんてものが。見た瞬間これはもう異常な事態が起きている、という事は誰にだってすぐ分かったのです。
 こういう時、「緊急は法を持たない」というローマ法のことわざがあるんです。法とか 合法的手続きは一方にある。しかし非常事態というものは、それに優先する事なんです。政治的責任として、これを見た瞬間総理がやるべき事は、法を守るということよりもまず、政治家としての責任を果たすことなのです。その責任というのは、法を守って、手順を踏めば責任を果たせるという事ではないのです。政治家は「結果責任」なのです。災害が起き、瓦れきの下に人が生きていることはすぐ分かるわけですし、誰が見ても、あの火事の中で人が死んでいることはすぐ分かることです。
 自衛隊のヘリコプターが飛んでいない、消火に当たっている人もいない。一方、阪神高速の下は一般の自家用車が渋滞していて緊急の車両も近付けない。そんな時に国家の指導者のやる事は、テレビでもマスコミでも自分がすぐに立って、自家用車の通行を止めて下さい。緊急にある自衛隊の人達は全部この地点に集まって下さい。ボランティアで活動する人はここに来て下さい。それを言うのが国家の指導者、政治家の責任ということなのです。
 法律を守り、法の手順通りにやる事が政治家の責任だったら官僚機構があれば足りる事で、政治家というのは必要ないんです。
 こういう問題を深く日本は考えてこなかったのです。戦後、本当に考えてこなかったのです。国家にはこういう非常時というものがあって、その時には民主主義などと言ってられない、その結果、民主主義で国民の命を守ることはできないという瞬間があるかもしれないという事は、常々、全ての国が考えなければいけないのです。
 役人を呼んで議論いているうちに、国民が死んでいくような事は合法的であったとしても、政治的な責任を果たしたという事にはならない。
 では、あの時には、誰がどう責任をとれば良かったのか、という事は政治学者の最大の問題なのです。このような事を戦後ずっと完全に考えないで来てしまったのです。

国家非常事態での権力の集中

 例えば、皆さんも良く知っているワイマール憲法を書いたマックス・ウェーバーは、「職業としての政治」、「カリスマ論」など有名で偉大な社会学者ですが、実際に憲法を書いた時、意外にも自由主義者であると、思われていたマックス・ウェーバーは厳然としてワイマール憲法のなかに大統領の独裁力が行使できる48条という項目を入れるべきだと主張し、非常事態に対して権力の集中ということをやらなければならないという大統領の独裁という条項を作った。これが後でヒットラーを生んだと問題になりましたが、ヒットラーが終わった後でも、ドイツの基本的な憲法は国家非常事態を認めていて、その時には、大統領に権力が集中するのです。
 私が学生時代によく読んでいたカール・シュミットという学者は、独裁には、二つあると言っております。一つは共産主義のようにその主権を独裁してしまう、民主的な事を一切否定した独裁、という「主権独裁」、これはだめです。
 しかし、国家非常時の際にある特定の機関に全権を委任して、その非常時を救わなければならない、というのを「委任独裁」といいます。これは、ローマ法にもそういう規定があり、ローマ市民は防衛、国防とか、非常時が起きた時には共和国でありながら、その執行機関に独裁を委任するわけです。こういう委任独裁は、政治理論的な裏付けがあるのです。ドイツの基本的憲法は今でもそうなっています。
 非常時の規定を考える時に、まず日本の憲法は非常時というものが考えられていない、法律的な手続きを合法的に処理していれば、何の責任も追及されないという国なのです。これは大変怖い事なのではないですか。法律的な手続きと法を守ってさえいれば政治的責任を生じないのです。これは政治家の存在理由そのものを否定しているとは思いませんか。目の前で何かが起きても民主主義の合法的であれば、何もしなくていいんです。テレビを見ていればいいし、あの日、村山さんは、午後からずっと続いている会議をそのままやって、翌日は財界人と食事をしていた、その時もう神戸は火の海となっていたのに、それでも責任を追及されないわけです、何も法を破ったわけではないということで。 

政治的な責任を果たすために

 しかし本当に政治責任は無いのか、私だったらあの時、非常事態を宣言して、その瞬 間にこう考えたでしょう。あの事態をみて、とうとう来るべきものが来てしまったわけですから、後でそれが非合法だ、独裁だと言われても総理大臣をやめる覚悟で、テレビに向かって一般通行車両の禁止、自衛隊の出動要請をいたします。
 総理は自衛隊の最高司令官ですから、こういう事を役所に挙げて議論して行くと三日ぐらいかかって、いやいやそれはヘリコプターを飛ばしても上昇気流が激しくて危ないので近付けないと言う、何を言っているのか、そんな時のために、民間が出来ない事をお国の皆さんから税金を貰って役人が、あるいは消防庁がやっているのは、そういう時に危険を犯して皆さんを救うために、国家公務員になっているのではないですか。何を 馬鹿な事を言っているのでしょう。
 本当かどうか知りませんが、上昇気流が危なくて近付けないと言う、危険があってもやるべきでしょう。家一軒の火を消すのに20トンの水がいるが、ヘリコプター1回で0.5トンの水しか撒けないから、やっても意味がありません、と言う。人が目の前で死ぬかもしれない時、バケツの水でも投げて人を救おうと思うのが同朋というものです。0.5トンの水しか撒けない、一軒の火を消すのに20トン要するからやっても仕方がないという、これが「合法的な議論」なんです。
 官僚を通じて上がって行く、こういう論理的な議論の上に政治が乗っかっている限り、政治的責任というものはないんです。
 政治的な責任と、民主主義的なルールにのっとって合法的である事、この二つが全く違うんだという事を、この大震災は見せつけたわけです。
 ところが、政治的責任とは何か、という議論が全然されません。有事立法がたとえあっても、この政治的責任の果たし方では機能しません。政治的リーダーに責任を取る気が無いわけですから、国家の指導者に国民の命を一人でも救って、あとは自分が政治的責任を取る、たとえ非合法的でも構わないんだと、自分は国民を救うためにリーダーになったのだという気持ちが無ければ、どんな法律があろうと、どんな手段があろうと、国家であり、ひとつの市であり、村であれ、トップに立つ人の覚悟といては不充分きわまりない事は当然であります。
 少なくとも政治的トップに立とうとする人間は、一番守らなければいけないものは、法律ではない。非常時においては、そこを勘違いしてはならない。国、あるいは市民の命、財産を守るためには、法も民主主義も問わないという瞬間が非常時というものであります。

民主主義と政治責任、優先すべきは

 しかし戦後五十年間、日本は非常時というものを考えてはいけないという事になっている。それはなぜか。民主主義とぶつかる瞬間が必ずくるからなのです。非常時の指導者の政治責任において決断すべき瞬間と、日常の民主的なルールが合法的な手続きを積み重ねてできる合法的なルール、つまり政治的な決断と責任の取り方とが、必ずぶつかって矛盾する。日本の政治家の決断と責任の取り方を、戦後五十年間で拭い去ってし まったのです。民主的な手続きと、合法的な手順だけを全てとする国になったわけです。これが今日本のおかれている現状です。
 この阪神大震災を受けて、行われなければならない議論は、実はそういう議論なんです。これで終わったわけではなく、非常時における政治家の責任という問題が問われず、予算の話ばかりしていたのは、次なる災害に対して備えることはできないのです。
 私が言い続けているのは、その合法的な手続きと、政治家の責任・決断の取り方は、必ずしも一致していないことがあるという事を了解しないで、政治家になってはいけないという事です。政治家をやる以上は、法を踏み越えた非常事態に責任を取るという気持ちが、どこか深い所でなければこういう仕事を選んではいけないと言っている訳です。
 何となく守られて、民主的手続きを踏んで、何のリスクもなく生きたいと思うならば、一市民としてビジネスの範囲内でなんでもいいですから、順法的に法を守り、決して踏み出すリスクに自分を追い込まれないような立場に立って、市民として生きていけばいい事で、政治家を引き受けるという事は、軍事であれ、非常識であり、その決断によって人殺しになる。その人殺しになる時にどういうふうに自分が振る舞うか、というその責任を無くしてこういう職業はなってはいけないのです。
 マックス・ウェーバーが職業としての政治という中で書いた事は、心情倫理、つまり、心の中で正しいとかを思う事と、結果責任の倫理との間の矛盾にさいなまれる存在だと、1918年に「職業としての政治」の中で書いているのはまさにそういう深い意味を含んでおります。
 皆さんの中には地元で政治家をやっている方もおられると思いますし、これから政治に携わりたいと思っている人もおりますから、私はあえて申し上げました。政治家もたしかに非常時においては、私も含めてろくなものではありません。皆さんは別に新井将敬に命を守ってもらおうとは思わないだろうし、村山さんにましてや命を守ってもらおうと思っていない。しかし国民の側も、国民の皆さんも、「政治家が法を超えても国民 を守る」、という決断と責任の取り方がなければ、国家というものは基本的に成り立たないという事を良く知っておいてもらわなければならないのです。
 もし、村山さんがあのニュースを聞いた瞬間に非常事態を宣言して、一般車両の通行禁止や自衛隊の出動要請を、自治体を飛び越えて行ったとしたら、後で違法だったとか、憲法違反だとか、それはもちろん非難を受けます。その非難を受けても首をかけても、やるかやらないか、という腹だけは決めておかなければならない、と言っているわけです。その非難を受けてでも、やるという腹がなければ、総理大臣、指導者というものにはなってはいけないと言っているのです。そういう事が政治家にとって最低限のモラルだと思っております。
 それに比べれば、他の事はたいした事では、無いと思います。
 だいたい何十年に一回役に立つか、役に立たないかという位のものです。政治家をやってお役に立つ時があるとすれば、一生生きているうちに一回位、本当に国民のお役に立ったなあ、と思う時があれば、政治家というのはそれでもう充分。毎日のこまごました皆さんの陳情を聞いて、それを処理して、お役に立ったと思っているのではないのです。そんな事は別にどうでもいい事なんです。

国を守るための憲法論議を

 本当に非常時にお役に立てるか、という事だけが、政治家が考えておかなければならない重大な事です。
 そういう観点からすれば、今、戦後五十年を経て、日本が本当にやらなければならない議論はたった一つ、憲法論議です。
 この戦後五十年、アメリカが一週間で作った憲法を、しかも翻訳の憲法を五十年間、神様のごとく守り続けてきました。五十年も憲法改正が一度も無い国なんて、日本くらいのものです。
 私もこれを全部調べたわけではありませんが、まるで聖書のごとく、一字一句変えてはならないというふうに、この国の議論は進んで来ました。果たして憲法とは何か、憲法には成文憲法と不文憲法とがありますが、イギリスには成文憲法はありません。
 こういう憲法というものを文章に作る事が流行のスタイルになったのはフランス革命以来です。フランス革命は、人間は自由平等、博愛という名のもとに縛られないという事で新しく始めましょうという事で国王の首を切ったわけです。
 その瞬間に過去との間に断絶が生じ、成文憲法を作る必要があったわけです。そして、フランス人でも、新井将敬でも、岸野一夫でも誰でもない、人間というのは不変的な理念を背負っている何者かなんです。皆さんが人間である理由は、私は何の何子であり、親が誰であり、こういう歴史の国に住み、こういう地域社会を愛しているという事から、あなたは決まらないという事なんです。
 自由と平等という理念を授かっている。それを信じているから人間だという事になる。存在は無でなく、原理が先行するわけです。こういう形の中で作られた流行の中で 作られたのがフランス憲法であり、その流れを引いているのがアメリカであり、その延長上に作られたのが日本憲法です。
 ここで私が言っている事は、その国が持っている歴史的な特殊性とか、地域社会における愛着、自然、風土、要するに歴史的な存在であるという事と、不変的な憲法理念は必ずしも一致しないという事を言っているのです。
 たとえば天皇制を一つとって見ても、国家の象徴と書いてありますが、ではそれが国民主権と論理的に整合するかどうかという議論をしてみたらどうでしょうか。国民主権は皆平等で、そこに天皇制があって、という事になって理屈を言い出せばこれは整合すると考える方が理屈がおかしくなるのではありませんか。
 イギリスは皆さんが教科書で習ったマグナカルタ、権利の章典には、不変的な人権を書いているわけでは無く、イギリス国王はイギリス人民にこういう迷惑をかけてはいけませんよ、イギリス議会はイギリス国王に対して、こういう権利を持ちます、という不変的な人権というものではなく、イギリス国王、議会、人民における契約なのです。ですから彼らは革命を起こしましたけれども、新たに成文憲法を作ることは拒否したのです。この歴史的なイギリス人特有な流れの中で、積み重ね中でイギリス憲法とがあるのです。
 これは過去にあった事を理解する、過去にそういう事が起きたという事の意志を尊重する、そういう過去の積み重ね、歴史の積み重ねの中の、イギリス憲法体系であるからこそ、イギリスは文章の無い不文法なのです。
 こういう憲法の在り方は、本当に良く考えた方がいい事です。このあと、飯沼先生も議論されると思いますが、読売新聞が昨年末に、憲法試案を出されました。この大新聞が憲法改正議論を始めようという決意は、これは実に偉大な決意です。
 誰もがそこを避けて来たわけですから。ただ多くの論者も書いておりますけれども、この憲法改正試案のチャレンジする気持ちは大きく買いますが、これを読んでみるときに、私が申し上げたような、果たして不変的憲法原理というものの延長だけで憲法改正を考えていいとする読売の試案に対しては、実は賛成できないんです。権利の数を増やして行けば、国民が幸せになれるか。全部言うと切りが無いので、一番重大な問題は、国というものが存在するとわれわれが思うならば、国を守る事が存在する。国を守るという義務が存在しなくてはいけない。それがいらないと言うならば、国というものをいらないと言い切るしか無い。
 もうボーダレスで、国はいらないんだ、そういう議論もあります。アジア市場でもなんでも、マーケットだけなんだ、どこでも出て行って儲けて暮らしやすい所で暮らして行けばいいのだ、というマーケット原理の考え方があります。
 私はマーケット原理になった時は、近代国家が一つのフィクションになり、これは中世から出て来たひとつのフィクションです。領土があり国家がある。しかしそれが外れてしまうと、今東欧諸国で起こっている事は、国家以前よりも原始的な共同体に人は帰属するという事です。それは宗教であり、言語的な共同体であり、血縁的な共同体であ る。あるいは神話的な共同体というものに、近代国家というものを排除して行くと、人は還元されて行くわけです。  

浅薄な絶対的平和主

 そういうふうに日本がなくなるかどうかは分かりませんが、国家が段々と無くなって、マーケットが全て、と皆さんが考えたとすれば、最近の宗教、新興宗教の風潮は、原始的な共同体に国家がとけて行って、日本も原始的共同体に後戻りしているような気が致します。
 それはさて置いても、国というもの、憲法論議というものは、文章を書く事ではありません。日本国というものを信じられるのか信じられないのかという議論をする立場なのです。権利をたくさん認めてどうする、こうすると言って、国が皆さんに約束するのでは無い。日本の国というものを、私達が信じるのか、信じないのかという事をきめましょう、という事なんです。
 皆さんの中には、私の不変的原理を信じる、という人もいます。評論家の中にも、たとえば、憲法九条という日本の絶対的平和主義というものを原理とし、この原理のために日本という国が存在しているという憲法学者は幾らでもいるんです。この議論をつきつめて行くと、国防もしない絶対的平和主義、とにかくこれは、議論をつきつめて行くと、かつての土井たか子の言っていたような完全非武装で、どこかの国が攻めて来たら逃げればいい、という議論にしかならないのです。 

伝統ある国家と歴史を重んじる保守主義者

 絶対的平和主義を進めて行くと、人間は逃げたら命は助かるかもしれない。国を守らないで逆に死ぬのも皆さんの勝手かもしれない。それでは、この国を今まで造って来た人達の歴史はどこに消えて行くのですか、あるいは、これからの国を愛して住んで行こうとしている人達に何を残すのですか。
 国家というものは、一つの原理のために生きたり死んだりしてはいけないのです。国家というものは、国家として引き継いで来たものを、たとえそれが非合法的であれ、何であっても、先程申し上げました通り、継続させなければいけない。たかが一つの人間が思い付いた平和主義とか、人権とかそんな不変的な原理というもののために、この長い歴史ある、伝統ある国家を捨ててしまうなんていう事を絶対やってはいけない、というのが新井将敬の決論です。そういう議論が一番リベラルだというふうに見えて、実は一番ヒューマニズムでない議論なのです。人間に原理をかぶせて原理を守っていればそれでいいんだという、こういう議論が実は最も浅薄な議論、ピュアーに見えて一番ヒューマニズムから遠い議論であります。ですから憲法論議をやる時も、国民主権という言葉一つ取っても、疑わなければならないのです。
 国民主権という言葉が日本の営々たる歴史、憲法も聖徳太子の十七条憲法から明治天皇の五箇条の五誓文まで営々たる日本の歴史がある、そういう営々たる亡くなったにとの議論をふまえ、かつ、これから生きて行く人の事を踏まえて、それが「国民」だと言うなら、国民主権に私は賛成します。
 民主主義というのは正しい解釈をすれば、死者との民主主義であり、これから生まれて来る子との間の対話であるというふうに考えなければ成り立たないのです。多数決で 今生きている人間が絶対強いというのは、こういう歴史の中に置くと自分が小さくなって来て、自分の自我が超えられる瞬間がくる。その瞬間こそまさに、人間が人間たる瞬間なのです。
 いつも自分が自分と言っている、その中に国家とかかわり、歴史とかかわり、家族とかかわって行くうちに段々とこんなに大きい虚栄の張っている欲望でガリガリの利己主義の自分が、歴史の中や家族の中や、地域共同体の中で段々と分かれば分かる程、小さくなって来ます。小さくなって来れば来る程、自分を超える大きなものを信じるようになって来る、その瞬間が人間としての瞬間であって、それを私は保守主義と言っているわけです。
 保守主義という言い方は、色々な言い方がありますけれども、私が言っているのは、それこそ保守主義の一つの神髄であるという事を申し上げるわけでございます。
 皆さんが国家を考える際に、そういう政治家の責任、決断と責任というものを合法的な手続き、民主的な手続きに従っていえばいいという考え方が、必ずしも一致しない瞬 間が来る。その時には決断と責任を選ぶしか無いんだ、という事を皆さんは理解して頂き、また、今生きている自分が絶対だという考えを捨てれば、地域と歴史の中で自分がどんどん小さくなって行って、自分を超える大きなものを信じる瞬間が来る、その時に 人間になったんだ、本当の意味で国民になったんだ、あるいは本当の意味で地域住民になったんだ、市民になったんだ、そういう事を皆さんが覚えて頂ければ幸いに思います。
(1995年2月4日 第一回 「日本の正論大会」講演録)

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新井将敬の本「エロチックな政治」
   第1章「戦争か恋愛か」

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