まるで俺 by木棚


敗者の哲学 from 某日記
自己正当化のために他者批判する言説が多い批評とは違って、
自己言及を原点にマテリアルでテクニカルに社会を見つめたコメント。
クールでソリッド、強度あふれるプロパガンダ。

原文は
「HP管理者日記」から転載。分割し見出つけなど編集してあります。

† 批評 from 某日記



00/2/19



●勧善懲悪じゃないってこと!

もし俺が右翼なのなら日本国民から取り上げた受信料でアメリカのホームコメディを流すNHKに対して怒るべきやねん。「パパはなんでも知っている」「名犬ラッシー」に代表されるアメリカのホームコメディの放送は敗戦直後の日本にアメリカ式の民主主義を根付かせるためGHQが取った政策の一つで、そんなアメリカによる日本の植民地化政策をいまだに行なってるNHKの愚かさ、それも日本国民の受信料を使って!と言うべきなのだが、何故か俺は右翼的な心情になれない。日本のTVドラマは観ないのに、アメリカのものは観てしまう。理由はアメリカ人の方が日本人よりも小津安二郎・黒沢明の映画に詳しかったりするように、俺ら日本人もアメリカの「大草原の小さな家」「ビバリーヒルズ青春白書」観て西部の風景やほろ馬車やウエスタンなファッションに異国情緒を感じるってのもあるんだけど、それ以外に日本のトレンディードラマはギャグらしいギャグの一切ない恋愛物だけど、アメリカのはギャグ満載のコメディーだとか、理由は色々あって、その中で俺にとって一番大きな要素は勧善懲悪じゃないってことなわけで。


●真剣は喜劇の母!

「スラップスティック」というカート=ヴォネガットの小説を古本屋で124円ほどで買ってきて、電車に乗ってる時間をつぶすのに使ってるんだけど、ヴォネガットの好きなコメディーはローレルとハーディーってのが出てきて、様々なテスト=課題に対して最善を尽くそうと不器用に努力を重ねる、そういうドタバタコメディーらしいんだ。アメリカではチャップリン並みに有名らしいのだが日本ではあまり聞いたことがない。ローレルとハーディの話を読んで真っ先に浮かんだのがキムタクの「体感エレベーター」で「冴えない男役」のキムタクが、エレベーターガールを真剣に口説いてフラれる。それだけの話で、キムタクが真剣であればあるほど、フラれた時、笑える。もちろん、トップアイドルのキムタクが役の上ではモテないという逆転の笑いもあるのだが、ローレルとハーディに通ずるのは不器用で真剣な努力と失敗が笑いを生むというところだ。


●エンターテイメントのリアル

Oヘンリーの小説で「貧乏なカップルがクリスマスの日、男は自慢の金時計を質屋に入れて彼女の自慢のブロンドのために髪飾りを買い、女は自慢の長いブロンドを切ってカツラ屋さんへ売り、彼の金時計のために時計につける金の鎖を買う。クリスマスの日プレゼントを交換するが何の役にも立たない」というあらすじの短編があって、それを夏目漱石が感情的な言葉むき出しで、けなしまくってる文章があって、漱石は「エンターテイメントは必ず人に救いを与えるハッピーエンドでなければならない」と、怒りまくってる。他の作品には冷静で客観的な批評をしているのに、そこだけ異常に感情的で浮いてる文章になるんやな。日本で市場に支持されるエンターテーナーつうのは漱石にしろ、宮崎駿にしろ、手塚治虫にしろ、ラストは必ずハッピーエンド、悪は滅び、努力は報われ、努力なしのラッキーで手に入れた幸運は維持する努力を怠った瞬間消えてなくなる・・という話でなければ気持ちが悪いという体質の人達ばっかりやねんけど、俺が好きなのは努力した人にも、しなかった人にも等しく平等に不幸が訪れる敗戦物とか、悪事を行なうにもそれなりの理由があって、正義の裁きが善意の第三者を傷付けたりもするような、高畑アニメや冨野アニメで、ビジネスとしてみたときに成功してないものばっかりやねんな。多くの日本人は主人公が幸せになることで自分もその幸せを感じることが出来るねんな。でも、全体の2割ほどやと思うけど、バッドエンド(浪花節とも言う)を好む層の人ってのは、主人公が幸せになることで、主人公が俺達とは違う世界に行ったと感じるわけ。ハッピーエンドになることで、主人公は観客である俺を残して一人だけ遠い場所に行ったと、残された観客=俺は孤独感を感じて映画館から出なきゃいけないと。


●違いの分かる人生

世界一の軍事大国アメリカが、戦争というのは一方的に悪い国と一方的に正しい国が行なうものだと思っていたとしたら、すごく嫌だし、困るんだけど、CBSニュースやホームコメディーを見る限り、むしろ逆のことを言ってるんやな。「ビバリーヒルズ青春白書」で学内新聞にアダルトショップの広告を入れた。アダルトショップがスポンサーについたことで、廃刊になるはずの学内新聞が継続して出せるようになった。けれども、そのアダルトショップの広告が元で色々なトラブルが起こる。そのトラブルを苦労して解決し、今後同じようなトラブルが起きないよう努力はしながらも、主人公のブランドンは「僕だって理想と現実の違いは分るさ」とアダルトショップ(=悪)の広告は入れ続ける。


●ちょっと運がいいヤツ

アメリカは日本に比べて結果責任の占める割合が大きい社会だと思う。いかに努力をしたかでなく、どういう結果を残せたのかと。そういう社会の方がむしろ、努力は必ず報われるというシンプルなメッセージにならず、真剣で不器用な努力が笑いの対象になるというのは、非常に健全だと思う。低い税率でもって世界中から勝者を受け入れる移民の国アメリカでは、世界一にならなければ、勝者になれない。そしてその大多数を占める敗者に「怠け者」のレッテルを貼るのは陰惨だとしか言えない。みんな努力はしてるさ、ただアイツ=成功者はほんのちょっと俺達より運が良かっただけだぜ。


●予定不和

根っからのフュージョン好きのバンドに、チョッパー好きのベーシストに「いま君達がプロに成れないのは技術が足りないからだ、もっと練習して上手くなれば、いつかフュージョンの時代がくるさ」と言えるだろうか。真空管アンプに魅せられた真空管アンプ開発者に「いま採算が合わないのはあなたの努力が足りないからですよ。もっと頑張って開発すれば、いつか必ずすべてのスピーカーに真空管が採用される日がきますよ」と言えるだろうか。


●努力?

かつてガロの編集長が「私は漫画家に努力をすれば報われるという話をしない」と言っていた。「売れない漫画家が青春を漫画に注ぎ込み、家庭を持たず、就職もせず、ひたすら漫画を書き続け、努力をして、ひょっとしたら彼の時代が来るかもしれない。でもそれは10年後20年後かもしれないし、3ヶ月後かもしれない。ハタチで描き始めて、40後半でやっと世間で認められるように成ってきた時、20年もかけてやってきた結果が、人生を棒に振ってまでして手に入れた結果が、この程度のものなのか、こんなことなら努力なんてしなけりゃ良かったと思うかもしれない。私はそんな漫画家を何人も見てきた。他人の人生に無責任に口をはさむことは出来ないから、程々に頑張りなさいとしか言えない。」ちゅう内容で、語ってる人が人なだけにね、結果重視の社会になれば成るほど、努力すれば報われるなんて言えないわな。


●ナルシスチックな美意識

アメリカのような結果責任の社会で努力に意味があるとすれば、清四郎がほめまくっていたミキシングエンジニアで「ミキサーなんてのは8chか16chあれば充分だ、1000chもある卓は全部淘汰され、いずれこの世から消えるだろう」なんて言ってたような人=敗北に向って努力し続けるような人にとって努力に意味があるとすれば、それは自分の倫理観に対する美意識だけやろと、結果を求めて努力することが不可能な場合、努力は結果をもたらしてくれないけれど、努力することは美しいというナルシスチックな美意識しかないやろと、思うわけで。


●同類を笑え!

高度成長時の日本のように、大多数の成功者=学生&会社員と少数の脱落者=登校拒否児&無職者を出す社会と違い、大多数の敗北者=低賃金時間労働者と少数の成功者を生み出すアメリカのような社会では、敗北者は数量的に勝利を治めており、決して孤独では無い。数量的優勢を保つ敗北者は成功者をマイノリティーとして差別し、ねたみ糾弾し、排他的に扱うことが出来る。ヴォネガットのスラップスティックのキャッチコピーは「もう孤独ではない」であり、愚直な努力を繰り返し、失敗を繰り返しつづける主人公をハッピーエンド嫌いの僕は笑うことが出来る。奴は馬鹿だ!まるで俺のように!同類を笑い飛ばす僕は、もう孤独ではない!



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