サブカル文芸批評 by木棚


サブカル文芸批評 from 某日記
サブカル批評でメジャーなオタク言説とは違ってクールなパースペクティヴ。

原文は
「HP管理者日記」から転載。改行など編集してあります。

† 批評 from 某日記



99/5/17


 江藤淳のサブカル/メインカルチャーの分け方はたぶん、アカデミックなものがメインで、大衆的なものがサブなんだろうけど、俺にとってサブとメインっつうと数の問題だからさ、TVがメインカルチャーでそれ以外、雑誌&CD&ラジオ&映画がサブで、視聴率が全然取れてない5%そこそこのTV番組でも日本全国一億二千万人だとして、六百万人ぐらい見てて、雑誌やCDの超大ヒットで六百万人そこそこだから、その辺がサブとメインの境界なのかなという。・・で。サブカルの中でも最もサブい文芸誌というジャンルがあって、その中の群像いう雑誌を見てたら、柄谷行人さんが新人賞の選考委員から外れるという哀しいニュース。「三人称で書け」とのアドバイス。小説部門の受賞はなしで、選考に残ったのが二十代の一人称小説ばかりで甘さが目立ったということです。具体的には、PHS・メールなんて単語が頻繁に出てくるが、ただの若者のおしゃべりの域を出てないとか・・そう言えば、昔ダウンダウンの漫才も横山さすしさんに「チンピラの立ち話や」と言われてましたが、そこんとこ、いろんな意味でのギャップみたいなのは感じるわけで。


 文藝だかなんかが廃刊だか休刊だかになるとき載った新人の小説がひどくて、家庭用RPGみたいなタイトルで、

ママゴンが現れた

「ガガン!」

勉強をしなさい攻撃

「ダァーーン!」

痛恨の一撃!36ポイントのダメージを受ける。

ボクの攻撃。

「ダァーーン!」

改心の一撃!

ママゴンに84ポイントのダメージを・・・ってな感じのどうしようもない奴で(笑)同人誌の即売会に行くとこういうの山ほど売ってるし、そこそこ需要があるし、こういうの書いてる人が角川ファンタジーノベルやスニーカー文庫・電脳出版辺りを読者として支えてるわけで、どうしようもないんだけど、こっからスタートしなきゃしょうがねぇーなって感じが在って、それと柄谷行人・江藤淳系のアカデミックな選考委員とのギャップってのは激しくて、文芸誌の読者層ってのが見えないのが一番問題なのだろうけど、小説=テーブルトークRPGと思ってる人が、こんなつまんねぇ文芸誌の世界を変えてやるぜ!って意気込みで勝負なのは分かるんだけど、俺も文芸誌嫌いだから嫌がらせでコバルトっぽいノリの送ったりして「ザマぁー見ろ」とか思ってたんだけど、埋めがたいジャンルの溝ってのが・・だって、江藤淳からすれば村上春樹や村上龍さえ「サブカルだ。読めたもんじゃない」って話でしょ?例えば、「黒のコートとブーツでキメた女子高生が・・」なんて文章書くと「コートってのは一般的に定着してない外来語ですね。これは外套とした方が適切でしょう。それとブーツ。これも半長靴にしないと一般の人には伝わらないでしょう。ちなみに女子高生と言うのは女学生の誤りで・・」みたいなこと言われる世界じゃん文芸誌って?主要な読者層を五・六十代に設定してるんだろうから、まあ、コートなんて単語はわかんぇーよなとか思うけど、じゃあ柄谷の「ベルグソン的」は一般に流通してる言葉なのか?とか。


 ただ「文芸誌の編集者にパソコンのマニュアル書いて欲しいよね」とは思う。ウインドーズは窓、ネットワークは網、OSは土台、WindowsNTは網戸、メールはフミ、ワープロは筆、ハードディスクは記憶、CPUは思考、クロック数は波長。以前、パソコンのマニュアルってカタカナとアルファベット抜きで書くべきだよねって話してたとき、パソコンを私的電算機とか書いて、マニュアルを手引書とか取扱説明書と言っても良いんだけど、長いんだよ、パソコンのマニュアルで済むものが、私的電算機の取扱説明書ってSEしてて急いでるときに言えないんだよね、ってことだったので、パソコンはいっそのこと「そろばん」と言っちゃいましょう。「そろばん直して」「土台は何ですか?」「網戸だよ」なんて会話良いじゃん。


 小説にどのような機能が求められてるかって辺りを考えると、ストーリー・ムード・情報ぐらいだと思うんですね。ストーリーってのは恋愛小説だとハーレクインの型とかコバルトの型とか在って、ある種の枠の中でバリエーションを書いてく奴で、大衆小説というか、シナリオ・ストーリーテーリングですね。たぶん文芸誌はこれではない。ムードってのは、ファッキングアンドショッピングって言われるような・・大金持ちの主人公が出てきて、読んでる間は自分も金持ち気分に浸れるとか、宇宙旅行の話で読んでる間は自分も宇宙パイロットの気分に浸れるとか。情報ってのは文字通り情報なんだけどTVや活字からの二次情報じゃなくて、大事なのは一次情報で、自分の足で稼いだ情報とか、直接経験とかで、一番純文学的なのはこれかなと思うんだけど二十代の奴の直接経験をそのまま書くとPHSとか電子メールとか出てきて、五・六十代の人には若者のただのおしゃべりにしか見えない。もっと言うと彼らの小説には自分しか出てこなくて他者が出てこない。ここで言う自分は二十代の書き手自身で、他者は文芸誌の想定してる主な読者層や選考委員自身の年代の人達。俺達と同年代の人間を取材して書いてるのか君たちは!俺達読者を無視しすぎてないかい?ってことなんでしょうきっと。三人称で書けってのは、自分以外の登場人物を書けってことだからさ。だから文章的には擬古典調のものとか受けるわけで。内容的には大正教養主義時代に作られた世界文学全集・世界の名著全集(哲学とか社会学とかですね)を完読して、それらを踏まえた上で新しい物を書かないとって辺りで、全集を当然知っておくべき教養としてる選考委員と、鳥人戦隊ジェットマンとかの戦隊物やアニメ、ナツメロじゃない音楽、パソコン、TVゲーム、TTRPG辺りを当然知っておくべき教養にしてる二十代の書き手ってのは、すさまじいほど接点がなくて、グリムやアンデルセンの時代からいままで、優れた文学ってのは年寄りの口承文学(噂話や思い出話)を活字に起こしたものであって、書き手がてめぇーの頭で書いたものなんてのはダメな文学なんだよね・・ってでも、それをやると、文学って言うより民俗学・文化人類学になってしまうような気が。



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