東京トウガラシ   


カタクて、カライのがこのコーナー。書いてる本人にとっては結構お笑い系なんです。
非難ゴウゴウ、賛否爆発、笑って歓迎、星ノ数ほどのレスポンスってな感じ。
「東京ゴッコはやめようぜ」と言いたいんだが、「やめられない」のも知ってるから
笑えるのかなぁ・・・

† ユーミン
♪ 羊通信
● LDP・スクラッチ
♪ ひつじ・わーるど



▲ 京都・トーキョー・TaMa    96.10.21
▲ 東京的 はじまり         96.10.1
▲ 東京は、まずい          96.10.16
▲ 遷都賛成
▲ 遷都反対
▲ 分都賛成
▲ 素朴な質問
▲ 東京的 とうきょうだぁ?     96.10.9




京都・トーキョー・TaMa

京都の魅力は、今後も続くのだろーか?

 京都が京都であることをやめ、奈良が奈良であることをやめる時、京都の魅力も、奈良の安らぎも、無くなります。
 そーならないよーに、祈って、ますぅ。

 全国からいろんな人間が入植した北海道や、もともとアジアとの交流が盛んな九州といった開かれた地方は、元祖開けっ放しエリアである東京に対してインデペンデントです。東京を意識することがありません。だって、もともと開かれているんだから。まぁ、似た者同士で親近感さえあります。
 ファッションやマーケティング関係者はご存知でしょーが、服飾や流行りのトレンドは東京、札幌、福岡でほぼ同じ傾向…だよネ。


 一方、京都や奈良の魅力は、東京とまったく違うことです。東夷の文化などものともせず、五重塔のごとく屹立し、そびえることです。
 それでこそ、東京に拮抗出来るし、オリジナルの価値を発揮できるでしょう。

 東京タワーが奈良の大仏より価値があるなんてことは、ないです。逆です。大仏は日本の価値ですらあるんだから。もちろん、京都タワーなんざ、問題外。でしょ?


カラッぽの、トーキョー

 東京の特徴は開かれていること。それ以外は何もありましぇん。
 カラッぽです。
 デカーイ、虚空。

 誰かさんの表現を借りれば、ドーナツの穴みたいなもんです。
 色即是空、の世界ね、コレが。空海も認めるよ、キット。


個性のない、トーキョー

 「東京って個性が無いね」

 と関西出身のファッション関係者に言われたことがあります。彼はズイブンと東京にムカついているらしく、ゾロゾロと東京批判を聞かせてくれました。しかし、じゃあ、どうして彼が東京に来ているのかは、聞けませんでした。残念。

 ボクなりに説明できたのは…
「あえて言うなら、東京の個性は神田、浅草、深川といった下町文化とか江戸風のもの」
「ホントの東京の個性は、個性がないこと」
「あるいは、開かれていること」
…てなコトぐらい。

 ただし、重要な断り書きつです。
 それは、多摩は別だ、というコトですね。

 あるいは、多摩は新中間層を代表する第4山の手であって、これからの東京を示唆するものかもしれない、とゆーことです。


TaMaはトーキョーではない、が、しかし

 東京の考察に多摩を抜かすと、ハズれます。絶対。
 見事に当たったケースは、多摩(東京郊外)がらみが多いです。

 それが、ユーミンであり、小室哲哉であり、田中康夫です。
 あ、あと村上春樹ですね。

 TMN(TMネットワーク)がTaMaネットワークの略であることは、TMNや小室哲哉の曲やワーキングスタイルが“これから(の東京あるいは世界)”を示してきたコトを象徴してます。このことを知った時、ボクは、少なからず感動しちゃいました。

 村上春樹は、ここで、“世界の終わり”とか“世界の果て”とか書いちゃってますが。まぁ、文学なんで許しますけど、哲学やマーケティングだったら許しましぇん。
 でも、書いちゃったことと現実のギャップに対する迷いを「TVピープル」他で表出することができる才能には敬意を表します。スゲーよ、正直だよ、ハルキ。


じゃ、下町はトーキョーか?

東京の下町文化は、正確には江戸の文化であって東京じゃないもんね。
もちろん東京の一部ではあるけど。

そのこたぁ、また考えるってェ、わけヨ


(続くかぁ?)





東京的

 「今まで会った人の中で、アンタが一番東京的だよ」

 自分で“東京”というものをハッキリと、しかも初めて意識したのは、そんな言葉がキッカケだった。相手は銀座を知り尽くしたカメラマン。九州出身の人だ。


東京を感じる

 東京を対象として感じたコト、考えたことは、それまでも幾度もある。

 幼い頃、母に連れられて、東京に行かなければできない注射をしに、東京まで行ったことがあった。何かの予防接種だったと思うが、記憶に残っているのは、たくさんの線路が並び、空一杯に架線がはしり、いくつもの列車が同時に走っている駅構内の光景と、逆光で見る薬臭い病院の廊下だけ。国鉄八王子機関区や立川で蒸気機関車だの最新の電気機関車を見て遊んでいた子供の目にも、この東京の線路のスケールや複雑さは脳裏に焼きついたようだ。ただし、それが東京駅だか上野なのだか神田なのか、あるいは品川か、具体的には解っていない。漠然とした東京の風景なのだ。ボクにとって、東京の原風景の一端であることは確かだろう。


多摩の意識、東京の方言

 高校時代には東京の杉並区まで通学したが、23区在住の生徒が6割以上を占める学園は“東京度”が高く、いわゆる山の手の家庭の者も多く、カルチャーショックでもあった。おまけに「なぜ、わざわざ多摩地区からここへ来るのか」と言われて閉口したことがある。それも、1度ではない。
 この頃から、否応無しに東京を意識し、同時に多摩を意識するようになったといえるだろう。東京のべらんめえ調の言葉をニュアンスとしてネイティブでも耳にすることがあるようになり、また、多摩でも八王子、青梅、立川それぞれの言葉が違うことにも気がついた。それは方言なのだった。
 東京の言葉が標準語だと思っていたが、どうもまったく違うらしい。じゃあ、標準語というのはいったい何なのだ…。

 いくつかの基本的な疑問や問題意識が次々と生じた。


 早朝23区内の学校へ向けて出かけ、放課後1時間半ほどかけて八王子や立川の学校の軽音やロックサークルの連中に会いに行き、国立のジャズ喫茶にたむろすようになり、その後、国分寺や三鷹の楽器店にいる連中からプロになっていく人間に勝手な期待や連帯感を持っていた。そんな中にスピードウエイや小室哲哉などがいた。TMNや、もっと年上では外道や、アン・ルイスなんかにもシンパシーを感じていた。RCサクセションもウワサは聞いていた。ワンジェネレーション上であればモップスもいただろう。そのファンだったユーミンも。

 多摩のバンドというだけで、なんとなくウレシかったのだ。


横田基地、金髪グルーピー

 アメリカ軍立川基地でトレーラーをステージにしてロックコンサートが開かれたことがあった。すでにプロになっていた友だちの兄貴は「青い目、金髪のグルーピーもいるぜ」などとボクたちに声をかける。ホントにトレーラーのバックステージには映画でしか見たことがないような金髪でキレイな白人の女の子がいた。

 村上龍の「限りなく透明に近いブルー」や山田詠美の小説のように黒人兵と日本人の女の子の恋愛や交際は多いだろう。黒人兵をはじめアメリカ兵や軍属と結婚したという話しはいくつも知っているし、近所にも時々テキサスから里帰りする黒人兵の家族がいる。もちろん白人と日本人の夫婦も少なくない。そして、金髪のグルーピーというのは宇崎竜童のポップスの世界だけではないのだ。しかも、茶髪のように染めたワケじゃない。アングロサクソンかドイツ系アメリカ人の髪色だ。
 グルーピーはともかく、女の子の方から積極的になるのもアメリカ的。立川基地や隣の福生、横田基地周辺でガールフレンドをつくってた知人がいる。横田基地ゲート前のルート16では第2ゲートより南の一角で、車に乗った白人の女の子が日本人の男の子に声をかけていた。そこでナンパ待ちするのだ。もちろんタイミングがよければ声がかかる。そいつはそれで英語がしゃべれるようになった。


在日、さまざまなテーマ

 外国人といえば、在日朝鮮人も多摩には多い。白龍がでた朝鮮大学が小平にあり、その南の立川には初中級の朝鮮学校がある。ボクは背が高かったので朝鮮学校の生徒に目をつけられ、中学校から下校途中に追いかけられて、逃げ込んだ公園が袋小路で、見事につかまり袋叩きにあったことがあった。リンチの理由はよくわからない。たぶん、バカな右翼がかった学生の間で「チョウセン狩り」などと朝鮮学校の生徒への暴行が東京の各地で続いていた時期なので、なんでもない普通の生徒が巻き込まれることも多かったようだ。ボクの受けた暴行も3度は覚えている。すれ違いざまに殴る程度なら何回経験したかわからない。1度は金銭もとられている。その後知合いになった朝鮮学校の生徒からいろいろな話しを聞いて、民族問題や国家間の戦争、侵略、同国民同士の差別などとてつもないテーマをたくさん抱え込んでしまった。そして、そこで生きていく力強さも感じることができた。


武蔵の国

 東京や多摩の別名として古来からの国名の武蔵がある。若者の街で人気の吉祥寺も武蔵野市にある。“武蔵”というのは“モサシ”という朝鮮語から生まれた言葉だという。モサシは河原にはえる草の呼び名らしく、多摩川の河原や東京を二分するようなその広大な河岸段丘の草原からつけられたようだ。桓武天皇以来、東夷(アズマエビス)が住む関東の姿とはアイヌ系の先住民と、朝鮮の百済の人の入植地であり、それらに当時の政権から派遣された源氏や平氏が割拠する土地だったのである。また、武蔵の国の国司は百済人と決まっていて亡命してきた百済王家の人間がなっていたという。今でも東京(武蔵野)には狛江とか高麗とか朝鮮に関係ある地名や名称が多く残っている。沢の名前などはアイヌ語のようなものも目立つ。武蔵の国の政府があった府中の大国魂神社(オオクニタマジンジャ)のあたりからは、百済人や東夷が暮らした武蔵野の大地が遠望できる。

 江戸がなぜ栄えたか、というと「田舎者で栄えた」というのが一つの答えらしい。江戸八百八町は当時も世界最大の都市。大名の参勤交替だけではなく、ありとあらゆる田舎から人々が集まって来ていたのだ。そもそも江戸の背景となった武蔵の国そのものが海外からの亡命者や入植者、あるいは都落ちしたもの、東国へ派遣されたもの、古来地元で群雄割拠する豪族など、ありとあらゆる人間が生活を営んでいた場所である。しかも知事は外国人、国際的といえる地域でもあるのだ。


 これが、ボクにとっての東京のバックボーンであり、歴史であり、生い立ちであり、成り立ちであり、現実であり、その一部分だ。

(続く)



▲ 遷都賛成



▲ 遷都反対



▲ 分都賛成



▲ 素朴な質問





▲ 東京は、まずい

「東京は食べ物がまずい」

「東京は個性がない」

「東京は物価が高い」

「東京はみんな悪い人」



東京は確かに食べ物がまずい。関西をはじめ取材や旅行で行ったどの地方より東京がまずい。これはホントです。しかも値段が高い。これもホント、ッゲ。(-_-メ)

銀座に勤めた時に心配になったのが食事の値段。どこも高い、ソウトウ、高いです。で、数寄屋橋の名物だった右翼のプレゼンテーター赤尾敏がウナギを食べてたりしました。あれ、カンパだってね。

しかし、味にうるさい銀座じゃ、まずいとこはありませんでした。まずいとこは3日でつぶれます。開店して1週間たったら半額になった店もあったよ。うまいかリーズナブルかどっちか。芸者の置屋があって人力車が待ってて、カラスが行水してる界隈でメシがまずくちゃ済まされないワケです。

まぁ、高いけどうまい、これが銀座の結論。


日本橋や浅草橋で仕事してた時は、もっとメシにめぐまれてました。下町で魚河岸が近く粋なオヤジや芸者あがりのオバアちゃんがメシをこさえてるわけですね。相撲部屋もあるし、アドバルーンみたいなデブでブニャブニャしてるのが通ったと思ったら小錦だったりします。

ここいらでハヤシライスを食べ、はじめて柳川鍋を食べ、神田名物のソバを食べ、アブラ身といわれるトロを食べました。力士御用達のチャンポンはうまいけど量が多すぎて大変でした。

ま、全体的に、ウマイ、スゲーウマイぜぇ、てな結論。



じゃ、東京じゃ、メシがうまいのか? 
ウ〜ン、やっぱ、まずいし、高い、と思う。
とゆーか、高くてまずい店が目立つということでしょうかん。

お店は家賃などの不動産コストが高いので、その分値段が高いか材料のコストが抑えられています。やりくりが安定している老舗や腰をすえている店以外は、味が定まっていないワケですね。おまけにバーガーや牛丼といったジャンクフード流行の影響を受けてるでしょ。ゲーセン的味覚だーね。



大結論。

東京になじめば、ウマイものを探せます。
あるいは、ウマイものを探せたら、東京になじんだとゆーこと。


で、質問。

東京になじむ気はあるのかね?
どうして、東京に来たのかね?


報告。

私は上記の件に関して一度も回答を得たことがありません。



おわり





▲ 東京的 とうきょうだぁ?

 子供の頃、銀座まで行ったのは親の買い物で数回だけ、その後バイトで暮らすようになるまで日本橋や銀座とは縁がなかった。バイト先は日本橋と神田でっす。

 わざわざ原宿に行くほどヒマではなかった。アレは雑誌やメディアの空間てな感じ。浮つくヒマなんかねーよ、のノリです。ボクの青春。

 ホームグランドは吉祥寺まで。明大前や渋谷は友だちに呼ばれなければ行かなかった。

 取材や仕事で行くよーになるまで六本木は「六本木心中」という小説でしか知らなかった。何となく知ったのは銀座で遊べない人間が流れる場所かとゆーよーなイメージ。
 ところでアン・ルイスの「六本木心中」でシブイギターを聴かせてくれる“デカパン”さんをよく見かけます。カンケーネーカ?

 新宿はヨドバシカメラだの美味しいラーメンだのレコード屋だの大音響の喫茶店が目的で学生の頃から時々行っていた。タイガーマスクの新聞配達のにーちゃんは今頃どうしているだろー。思い返すと中央線沿線だから気軽に行っていたのかもしれない。でも、街全体に魅力を感じたことはなかった。用が済んだらサッサッと帰っちゃうとこだった。


 たいていの用事や買い物はホームグランドの多摩地区で済んでしまう。吉祥寺にパルコもできたし〜てな感じで中央線吉祥寺より西の地域、いわゆる武蔵野や多摩でノープロブレムだったのだ。それどころか都内と呼ばれる23区内は排気ガスと下水みたいなコンクリートの川、ワケのわかんないガキどもが多くて、それらをひたすら避け、ナッチュラルぅな多摩に浸って日々を過ごしていたといえる。夕方から夜にかけて、八王子や立川の駅から中央線普通列車に乗って帰って行くナンカちょっと派手な着こなしやパンク風のボウヤ、メイクしている女の子なんかを見て不思議に思ったもんだ。

「アレ、何?」
「東京の帰りだろー」
「東京?」
「原宿や渋谷で遊んできたんじゃネーの。ホコ天とか。そんで、オメカシしてんだヨ」
「東京行くのにメカ(粧)してんのか」
「すったらこたぁ、おらんたにゃ、かんけねーがなぁ。けったいなこっちゃ。東京だぜぇ」
「とうきょうだぁ?」

(上記表現中にちびっと多摩の方言あり、それは青梅系言語か八王子南部系言語か。北多摩立川系か? 言語学者に聞いてみたいですナ、ッハ。)