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北方謙三「水滸伝−1曙光の章・2替天の章」書評(朝日新聞より)

不自然さ消え去って現代に蘇る義の物語

読むと、ぶっ飛ぶ。原点を読んでいて、さらに吉川英治『新・水滸伝』と
柴田錬三郎『われら梁山泊の好漢』を読んでいると、もっとぶっ飛ぶ。
吉川英治も柴田錬三郎も成しえなかったことを北方謙三がやってしまったからだ。
何とも、すごい。

「水滸伝」はもともと不自然な物語だ。いちばん理解しにくいのは主人公の
宋江という男のキャラクター設定で、どうしてこんな優柔不断な男が梁山泊の
リーダーであるのか、現代の読者にはまったく理解できない。理由もなく残酷な
描写が挿入されるところも理解しにくいし、全体的にヘンな話なのだ。それは
幾つもの説話が積み重なってできた話であることや、当時との価値観の違いなど
理由はもちろんあるのだが、吉川英治も柴錬もその不自然な箇所を消し去る努力は
しているとはいえ、完全に払拭してはいない。「水滸伝」前半の趣向である列伝体を
踏襲しているので、ストーリーを大幅には変えていないのである。吉川版に比べると
自由奔放な柴錬版ですら、「水滸伝」の不可解さは残ったままである。

ところが、北謙版「水滸伝」はその列伝体をやめてしまったのだ。すると
「水滸伝」のもっている不可解さがものの見事に消えるから驚く。たとえば、
王進が山にこもる挿話を読まれたい。原典にはない挿話をこうして作ることで、
北方謙三は「水滸伝」を自然な物語に変貌させていくのだ。

それは決して原点の無視ではない。少華山の山賊が史進の家を襲うくだりなどは、
むしろ吉川版や柴錬版などより原点に忠実になっている。つまり北方謙三が
本書で試みたのは、不可解な「水滸伝」を徹底的に解体し、現代の物語として
再度構築する作業であり、その本質である「義に生きる好漢たちの物語」を現代に
蘇らせる壮大な実験なのである。

これが本当に水滸伝なのか、と驚きを禁じえないのは、これこそが我々の読みたかった
水滸伝だからである。北方謙三という作家の凄味が手に取るようにわかる傑作といっていい。

文芸評論家:北上次郎