ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン=ジュスト

「サン=ジュスト、彼はきれいな人でした。
深い思いを秘めたその顔には、
最も偉大なエネルギーが満ちていたのです。
何とも言えぬ優しさの中に……」
(ルバ夫人から彫刻家ダヴィッド・ダンジェ
に宛てたメモ)

歴史家のミシュレによって「死の大天使」と称されたサン=ジュストは、その両性具有的な美貌と峻厳な生き方によって、多くの人々を魅了し続けてきた。フランス革命の指導者として権力の絶頂に登り、26歳という若さで断頭台の露と消えるまでの神秘に満ちた生涯は、これまでにも多くの文学や演劇等に描かれている。

そこでサン=ジュストは、
その神秘で美しい顔をそむける……
七月のパリの息苦しい暑さの中で、
サン=ジュストは
現実と世界を堂々と拒否し……
やがてギロチンが、
モラルのように美しくて冷たい頭に
落下する。
(アルベール・カミュ「反抗的人間」)

年譜

1767年

8月25日、中部フランスのドシーズにてルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サン=ジュスト誕生。父ルイ・ジャンは、ピカルディ地方の農家の出で、軽騎兵隊大尉。母マリ=アンヌはドシーズ公証人レオナール・ロビノの娘。父50歳のときの子である。

1771年

サン=ジュストは幼少期を、伯父で名付けの親でもあるヴェルヌイユの司祭、アントワーヌ・ロビノのもとで過ごす。伯父の死により、ピカルディ地方のナンプセルに移り住んでいた両親が、サン=ジュストを引き取る。このときまでに母親は二人の娘(1768年にルイーズ=マリー、1769年にマリー=フランソワーズ=ヴィクトワール)をもうけていた。

1777年

10月、サン=ジュスト一家はブレランクール(エーヌ県)に居を構える。この家は一年前に父親が購入したものだが、父親はほどなく死亡。

1785年

サン=ジュストはソワッソンのオラトリオ会の学院で学業を修める。休暇でブレランクールに帰省中、公証人の娘ルイズ=テレーズ・ジュレに恋心を寄せる。クウシー城に関する論文の執筆を開始。

1786年

7月25日、ルイズ=テレーズ・ジュレ、公証人の息子フランソワ・トランと結婚。

1787年

4月、サン=ジュストは法律を学び、ソワッソンの代訴人デュボワ・ドシャルムの第二書生となる。

1788年

2月14日、ランス大学法学部に入学。
4月15日、法学士号を取得。

1789年

5月5日、ヴェルサイユで三部会召集。このころサン=ジュストは、パリで長編詩「オルガン」を発行。
6月17日、「オルガン」が発禁処分となり、サン=ジュストは地下に潜伏する。
7月14日、バスチーユ牢獄を攻略。7月末、サン=ジュスト、ブレランクールへ戻る。

1792年

9月5日、サン=ジュストは最年少の国民公会議員に当選。
9月18日、パリに到着。
10月22日、ジャコバン・クラブでの初演説。
11月13日、国王、ルイ16世の処刑を求めて、サン=ジュストが国民公会で初めての演説。

1793年

1月21日、ルイ16世処刑。
7月10日、ダントンが公安委員会から引退。代わってサン=ジュストは正式な公安委員となる。

1794年

4月5日、ダントン派処刑。
6月16日、サン=ジュスト、フルーリュスの戦いに加わる。ジュルダンの率いるフランス軍が数の上での劣勢をはね返し、外国の同盟軍に対して圧勝した。
6月30日、パリに戻ったサン=ジュストは、公安委員会がかつてないほどに分裂していることに気付く。
7月27日、正午、演壇に立とうとしたサン=ジュストは妨害に会い、発言を放棄。この日のうちに、ロベスピエール、ル・バらとともに逮捕される。いわゆる「テルミドールの反動」である。
7月28日、夕方6時頃、革命広場のギロチンが、サン=ジュストの首を落とした。27歳の誕生日まで、あと4週間だった。