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    波照間島あれこれ

    波照間島の神行事〜前篇

    「まつり」とは何か?


    八重山の「まつり」

    八重山では年間を通じて各地で数々の伝統的行事が行われている。竹富島の「種子取祭」、西表島祖内・星立や石垣島川平の「節祭」、石垣島4箇字の「プーリー(豊年祭)」、小浜島の「結願祭」といった、来訪神の登場、仮装行列、舞台芸能などが伴う行事は、地元住民はもとより、多くの観光客も集めている。
    これらは「祭り」と名がつくこともあり、沖縄県外の人間には、いわゆる日本のお祭りと同じようなイメージでとらわれがちだ。日本の祭りというと「御神輿」や「縁日」の屋台、「盆踊り」などが思い浮かばれ、現代ではその多くは祭りそのものの意味が意識されることはあまりなく、祝祭を楽しむ場となっている。
    しかし、八重山のまつりは、祝祭的空間の一方に必ず厳かな宗教的儀式があり、それこそが祭りの中核をなしている。仮装行列や舞台芸能は神への奉納であるし、仮面の来訪神は神の再現である。まつりは「祭り」ではなく「祀り」であり、宗教的な祈りを目的としている。そしてそれぞれの地域・島々では年間を通じて数々の宗教儀礼が執り行われている。上にあげたような大規模なまつりはそれらの中のごく一部にすぎない。

    「仏事」と「神事」

    八重山の宗教儀礼は「仏事」と「神事」の2種類に分けられ、これらは明確に区別されている。仏事には、旧盆の行事(アンガマなど)やお彼岸、十六日祭(旧1月16日)での墓参りなどがあり、主に各家の仏間や墓を舞台とし、祖先供養が行われる。死者は死後33年経つまでは個々の人格を維持していると考えられており、具体的な先祖への供養、崇拝がなされる。仏教的ではあるが、仏教そのものはほとんど浸透していない。
    一方、「神事」 では文字通り、神への祈願、崇拝を行う。八重山における神とは何かについては諸説あるが、ここではひとまず、祖先が個性・人格を失い島を守る抽象的な祖霊神として一体化したものと捉えておく。これらの神に豊作、航海安全、子孫繁栄等を祈願するのが神事である。個々の家や家系ごとでの神事もあるが、中心になるのはシマ(集落)全体をあげての神事である。特に重要なのは、豊作祈願に関わる神事で、先にあげた節祭、豊年祭など、大部分の「まつり」はそのような神事である。

    農業と神事

    人が生きていく上では何よりも必要なのは水と食料の確保だが、農作物の成育や収穫は、自然環境に大きく左右される。沖縄諸島は頻繁に台風や旱魃に見舞われるが、それは人智の及ぶところではない。豊作をもたらすためには、自然を司る神々へ祈りを捧げることで、自然をコントロールしようとするより他なかった。そのため、豊作祈願が神事の中心をなし、神事の年間スケジュールは農暦に沿うようなかたちとなっていった。
    また一方で、八重山では琉球王朝支配下時代、現物税として稲栽培が強制された歴史がある。税の確保として、豊かな稔りは王府の願うところであり、祭政一致の国家政策による神行事の体系的整備がはかられた。人々にとっても、過酷な税を納め、更に自分達の食料も得るためには豊作でなければならなかったから、神への願いは切実極まりないものであり、またシマ全体をあげての願いであった。
    こうして村/島レベルでの農耕儀礼を中心とした「神事」が、農作物の種蒔〜成育〜収穫のサイクルにあわせて行われるようになった。八重山の農暦は本土や沖縄本島と異なり冬暦であるため、秋の「節祭」「種取祭」での種蒔きに始まり、初夏の収穫を受けた「豊年祭」に終わる神事のサイクルが各地に形成された。

    司と御嶽

    これらの神事は、シマごとに必ず1箇所以上ある神の降臨する聖地「御嶽(ウタキ)」を舞台として、神司(カンツカサ)による宗教儀礼として執り行われる。神司は司(ツカサ)とも呼ばれ、女性神官であり、沖縄本島/奄美での「神女(ノロ)」に相当する。通常、各御嶽に一人おり、御嶽で行われる神事などをとりしきる。この御嶽と司を核とする宗教制度は、琉球王府により15世紀末〜16世紀初めに、「聞得大君(きこえのおおきみ)」を頂点とする国家的祭祀組織として整備されたなかで出来上がったもので、宮古・八重山では石垣島に置かれた神職「大阿母(ホールザーマイ)」が、八重山群島内の神司の任免権を持った。この制度は明治末まで存続された。その後も血縁や神託などによって継承されている。
    近年では後継者不足で司が不在となるような状況も発生している。また、離島の過疎化や高齢化、石垣市内の都市化、農業技術の進歩や人々の信仰心の低下といった様々な状況変化によって、廃止・簡略化された神事も多いが、それでも今なお主要な行事は御嶽の司のもとで粛々と継続されている。

     

    波照間の神行事

    波照間島はかねてより、八重山諸島の中でも神行事の多い「神の島」として知られていた。現在でも、おのおのの行事の内容自体はだいぶ簡略化されたものの、年間40回以上に上る「神行事」が行われている。共同売店などには目につく場所に、公民館が発行した半期ごとの「神行事日程表」が張り出されている。

    年間神行事一覧(日付は2000年〜2001年の例・旧暦)
    行事名 回数 呼名・備考  
    日付
    行事名 回数 呼名・備考  
    日付
    シチ(入り)   「節祭」4日間 戊戌
    9.9
    カンパナ 2回目 癸酉
    2.17
    シチ(舟漕ぎ) 庚子
    9.11
    シマフサラ 2回目 「二月シマフサラ」 癸未
    2.27
    カナムヌソージ 1回目 庚戌
    9.22
    トマニゲー 1回目 「二月トマニゲー」 己丑
    3.3
    ヌブリ 1回目 「年始ヌブリ」 辛亥
    9.23
    ブザシマシ 庚寅
    3.4
    ミヨウクチェ 1回目 壬申
    10.15
    アミニゲー アサニゲー 3回目 3日間 庚子
    3.14
    カンパナ 1回目 癸酉
    10.16
    バンユレ 3回目 「トリヌバンユレ」 己酉
    3.23
    ツクリニゲー 1回目 「アラタビ」 戊寅
    10.21
    ヌブリ 4回目 冨嘉のみ 辛亥
    3.25
    シマフサラ 1回目 癸未
    10.26
    トピムヌニゲー 辛亥
    3.25
    アミニゲー アサニゲー 1回目 3日間 戊子
    11.1
    ヒブリ 2回目 「ナーブリ」 壬子
    3.26
    バンユレ 1回目 「ウシヌバンユレ」 己丑
    11.2
    スクマンマシ 小豊年祭 辛酉
    4.5
    ツクリニゲー 2回目 「ナータビ」(冨嘉以外) 庚寅
    11.3
    クムル 3回目 「七日クムリ」 辛酉
    4.5
    アミニゲー アサニゲー 2回目 3日間 戊戌
    11.11
    カナムヌソージ 3回目 辛酉
    4.5
    アミニゲー スーニゲー 2日間 辛丑
    11.14
    シビランカン 「カンヌフニアギ」 癸酉
    4.17
    ツクリニゲー 2回目 「ナータビ」(冨嘉) 壬子
    11.25
    ヌブリ 5回目 庚辰
    4.24
    クムル 1回目 「三日クムリ」 辛酉
    12.4
    ヒブリ 3回目 「ブリブチ」 壬午
    4.26
    バンユレ 2回目 「ミニンバン」 己巳
    12.12
    シマフサラ 3回目 癸未
    4.27
    ツクリニゲー 3回目 「ブタービ」 戊寅
    12.21
    ミヨウクチェ 3回目 戊子
    閏4.3
    ヌブリ 2回目 「トシイヌブリ」 癸未
    12.26
    カンパナ 3回目 己丑
    閏4.4
    カナムヌソージ 2回目 庚戌
    1.24
    プーリン 豊年祭 庚寅
    閏4.5
    ヌブリ 3回目 辛亥
    1.25
    アサヨイ 辛卯
    閏4.6
    ヒブリ 1回目 「アラブリ」 壬子
    1.26
    アミジュワ 後豊年祭 壬辰
    閏4.7
    クムル 2回目 「五日クムリ」 辛酉
    2.5
    ユーニゲー 癸巳
    閏4.8
    ミヨウクチェ 2回目 「二月ミヨウクチェ」 壬申
    2.16
    トマニゲー 2回目 己亥
    閏4.15

    旧暦9月のシチ(節祭)にはじまり旧暦5月のトマニゲーに終わる(本来はアミジュワが最後だった)これらの「神行事」は「農耕儀礼」であり、農業のサイクルに沿って、農作物の発芽、成長、結実、収穫を神へ祈願することが「神行事」の中核をなしている。(一方でトマニゲーとシチの間=夏は神行事は一切ない。この間にある島最大の行事「ムシャーマ」は旧盆の「仏行事」である。)
    現在の農業はサトウキビ中心だが、かつての島の農耕は主食であった粟作が中心であった。そして17世紀の琉球王府による人頭税政策開始後は上納品(物納税)としての稲作が強制されていたため、米の豊作への願いもとりわけ切実であった。18世紀に災害や飢饉に強いことから新たに主食として導入された甘藷(サツマイモ)の豊作も願われたことはいうまでもない。なお、稲作は島の農業がサトウキビ一色に転換される1960年代前半まで継続されていた。1960年の農地利用状況をみると、水田が7600アール、畑が15800アール(うち甘藷(イモ)5450、甘蔗(サトウキビ)4000、小麦2420)と現在の状況とはまったく異なっている。

    祭りの期日の決定にあたっては、十干十二支(60日で1サイクル)が考慮されている。十干には五行(木、火、土、金、水)、十二支には陰陽があり、行事の意味合いにふさわしい組み合わせの日が選択されるようだ。この考え方は八重山全域に共通しているが、比較的近年(18世紀以降)に導入されたものと思われる。

    十干
    庚 金の兄(かのえ) 壬 水の兄(みずのえ) 甲 木の兄(きのえ) 丙 火の兄(ひのえ) 戊 土の兄(つちのえ)
    辛 金の弟(かのと) 癸 水の弟(みずのと) 乙 木の弟(きのと) 丁 火の弟(ひのと) 己 土の弟(つちのと)
    十二支
    子 ね 丑 うし 寅 とら 卯 う 辰 たつ 巳 み 午 うま 未 ひつじ 申 さる 酉 とり 戌 いぬ 亥 い

    神行事の構成と種別

    年間行事一覧では、行事数が多くその姿がつかみにくいが、行事を時期とタイプでグルーピングしてみると、その特徴的な構造が浮かび上がる。波照間の神行事は旧暦9〜11月の発芽期、旧暦12月〜翌2月の伸長期、旧暦3月〜5月の成熟期に分けることができる。そして儀礼の大半は各期に1回ずつの計3回、規則的に繰り返される。このようなくりかえしの構成は他島にはみられず、きわめて特徴的である。また、それぞれの神行事は目的によりいくつかのグループに分けることができる。

    種類別行事一覧
    行事名 意味  
    回数
    発芽期
    伸長期

    成熟期

    神行事サイクルの開始
    シチ(シッシン) 農暦の正月  
    1
    1
    農作物願い
    ツクリニゲー 作物成育祈願  
    3
    1
    2
    ブザシマシ 粟の初穂祭(宗家)  
    1
    1
    スクマンマシ 粟の初穂祭  
    1
    1
    プーリン 豊作感謝と各種祈願の願解き  
    1
    1
    雨乞い
    アミニゲー アサミゲー 雨乞い  
    3
    1
    1
    1
    アミニゲー スーニゲー 雨乞い  
    1〜2
    1
    (1)
    クムル 雨乞い  
    3
    2
    1
    ミジトゥリ(廃止) 雨乞い  
    3
    1
    1
    1
    アミジュワ 雨乞いの願解き  
    1
    1
    天候願い
    ヌブリ 風鎮め海鎮め  
    5
    1
    2
    2
    ヒブリ 風鎮め海鎮め  
    3
    1
    2
    トマニゲー 航海安全(海神祭)  
    2
    2
    シビランカン 天候願いの願解き  
    1
    1
    疫病払い・虫払い
    シマフサラ 疫病払い・健康祈願  
    3
    1
    1
    1
    カナムヌソージ 虫払い  
    3
    1
    1
    1
    トピムヌニゲー 害鳥払い  
    1
     
     
    1
    事務的神事
    ミヨウクチェ 御嶽・神道清掃  
    3
    1
    1
    1
    カンパナ 神への納税  
    3
    1
    1
    1
    バンユレ 行事日程決定  
    3
    1
    1
    1

    A.「作物願い」:これらの神事では農作物の成長サイクルにあわせて順調な発芽、成長、豊かな稔りを祈願していく。
    B.「雨乞い水乞い」のグループ:波照間は平坦で隆起珊瑚礁の土地であるため、川がなく土地の保水力も悪い。水は天水と井戸が頼りだ。そんな地理でも水田の水を維持し米を作らねばならないため、降雨への願いは切実であった。
    C.「天候願い」のグループ:南西諸島特有の台風や嵐は容赦なく島を襲う。海水が強風により吹き上げられることによる塩害や、強風による農作物倒壊はなんとしても避けなければならない。また、上納品を首里に運搬する船や漁業の航海安全も確保されなければならない。
    D.疫病や害虫、害鳥払いのグループ:人々が健康でなければ農耕自体が成り立たない。また、せっかくの実りを害虫や鳥に食べられてしまっては意味がない。
    E.事務的な儀礼のグループ:行事の日取り決めや御嶽の清掃などが定期的に行われる。
    F.「首尾祈願」のグループ:A〜Eの祈願に対し、それらでの願い事がかなったことを感謝し、翌期も願いが叶うことを祈る「首尾(しゅび)祈願」(願解き)が行われる。(プーリン、アミジュワ、シビランカン)

    これらの神事を包括するかたちで、神行事サイクルの開始となる「シチ」の前夜に「島トーシ」によって島は宗教的に「閉じられる」。そして、最大の首尾祈願である「プーリン」の前夜に再度の「島トーシ」により「開かれる」。いってみれば、神行事の行われる期間、島に「結界」を張るようなかたちとなっている。


    神行事の担い手(司・パナヌファ・ヤマニンジュ)

    波照間島にも5つの集落それぞれに御嶽(ウツィヌワー)があり、司(「シカー」とも呼ばれる)がおかれている。司は原則としては各集落のトゥニムトゥ(宗家)の系統をひく家系から輩出される。神行事はこれらの5つの御嶽の司(及び前集落の「ケーシムリ御嶽」の司)によって執り行われる。また、場合によって大泊浜の聖地を司る「大泊司」と港一帯の聖地を司るイナマ司も行事に加わる。それぞれの御嶽には「ヤマニンジュ」および「パナヌファ」と呼ばれる信徒集団があり、女性の「パナヌファ」は司の補佐役などとして神事で役割を担う。
    「ヤマニンジュ」とは「ヤマ(御嶽)」の「人衆」であり、いわば御嶽の「氏子」である。島民は、本人の信仰心の深浅などにかかわらず、一定の年齢(本来は7歳から73歳)の間、自分が居住しているシマ(集落)の御嶽に帰属し、祭りの際の費用や労役を負う代わりに御嶽の神の恩恵を受けることとなる。一方「パナヌファ」は御嶽の祭祀集団とでもいうべきもので、一部の人が主に神託によって就任する。ヤマニンジュが地域ベースなのに対してパナヌファは血縁による継承などもからみ個人ベースであるため、居住する集落の御嶽とは別の御嶽のパナヌファとなる場合や、同じ家に住む家族でも別の御嶽のパナヌファである場合もある。ヤマニンジュが八重山全域に共通する概念なのに対して、パナヌファは波照間とその住民の移住先である白保、および石垣島の四箇字でしかみられない概念となっている。白保では「パカヌファ」、四箇字では「バラヌファ」と呼ばれている。「パカ」は土地の区画、「バラ」は血縁的な系統、「ファ」は子を意味する。波照間でも本来は「パカヌファ」であり、「パカ」は「ウガンパカ」(後述)を指しているのではないかと推測されている。

    神事の舞台と概要

    神事の儀礼は主に集落の御嶽(ウツィヌワー)で行われる。御嶽では祭祀ごとに所定の供物が捧げられ、祈願(シサリグチ、ニガイフチ)が唱えられる。いずれの神事でもまず儀礼の告知(ピゲー)と各御嶽固有の神詞(ヤマヌパン)が唱えられ、続いてその神事で願われる内容を盛り込んだ「ニゲー」が唱えられる。この後三十三拝または九十九拝(ペーアギルン)が行われ、祈願に不備があった場合のお詫びの句でしめられる。
    波照間では、集落の御嶽は集落から離れた場所に位置する「ピテヌワー(野の御嶽)」の遥拝御嶽となっているが(別項参照)、重要な行事ではこれら3つのピテヌワーへも足を運び、祈願を行ったり、神をウツィヌワーにお連れしたりする。 また、神事によっては、各集落のトゥニムトゥ(宗家)、シムスケーやミシュクケーなどの神井戸、島内各地に点在する聖地での祈願が行われる。(御嶽や聖地についての詳細は別項参照)島はそれぞれのウツィヌワーの宗教的領域である5つの「ウガンパカ」に分割されており、神女たちはそれぞれの御嶽のウガンパカ内の聖地を巡礼し儀礼を行う(神旅)が、なかにはウガンパカを縦断する神旅もある(後述)。雨乞いや天候願いの神事の神旅の際には、トゥニムトゥもしくは御嶽の井戸といった聖なる井戸の水をヒョウタンにいれ、各地の聖地に注いでいく。これは「ミジマチ」と呼ばれ、波照間独特のものとみられる。

    これらの聖地で崇拝の対象となる神は、波照間では「ウヤーン」と呼ばれる。「ウヤガミ」すなわち「祖神」が語源であると思われる。かつて島に上陸し、島の歴史をつくりあげた英雄的存在であり、祖霊神であるとされ、様々な場所に宿っている存在であるとされる。また、雨乞いの際には西表島や石垣島の上に沸き立つ雲の上の神、天候願いの際にはネーラケーラ(ニライカナイ)にいる神も崇拝される。この際、ニライカナイが地底にあるとされているのも特徴的である。ニライカナイの概念はもともと地底であったのが、のちに海底へ、そして海の彼方へと変化したのではないかと推測されているが、そのもとの概念が維持されていることとなる。なお、沖縄本島ではさらに北から南下してきた民族がもたらしたと思われる、天上の世界「オボツカグラ」の概念があるが、これは八重山には浸透していない。

    東西の空間分割

    方位 西 東
    東西の軸
    浜崎
    高那崎
    作物
    稲
    粟
    ピテヌワー
    真徳利御嶽
    阿幸俣御嶽
    白郎原御嶽
    ウツィヌワー
    阿底御嶽
    大石御嶽
    大底御嶽
    新本御嶽
    美底御嶽
    集落
    冨嘉
    名石
    前
    南
    北

    波照間の神行事の空間的な特徴としては、宗教的に島の空間が複合的に分割されていることがあげられる。先にあげたように、島は5つの「ウガンパカ」に分割されているが、その上位には3つの「ピテヌワー」の単位でのまとまりがあり、この3グループでの儀礼となる場合もある。そして更にこれらの5分割、3分割の上位として、東西2分割の対比が現れる場合がある。これは阿底御嶽のウガンパカとそれ以外の4つのウガンパカでの分割である。

    先に述べたように、かつての波照間は粟作が中心であったことから、神行事の年間を通じた進行は粟作儀礼をベースにおいており、これにあとから稲作儀礼が加わった形となっているとみられている。この際に、上納用の水田(カネーズ)が名石の西から冨嘉にかけて広がっていたことから、宗教的に島の東半分が「粟作」、西半分が「稲作」を象徴する空間とされた。一方、沖縄全域に見られる「おなり神信仰」(姉妹は兄弟に対して霊的に優位にあり、彼らを守護する神であるとする信仰)が波照間でも「ブナリ神信仰」としてみられるが、これが東西分割に複合し、西半分が「ブナリ(姉妹)」東半分が「ビギリ(兄弟)」であり、西半分が宗教的に優位にあるととらえられている。東西の分割点は名石から冨嘉に向かう道が一番低くなる「ビラツィ坂」であり、高那崎より延びる高那割(タカナバリ)という地溝帯がかつてこの場所に達していたとされている。従って、ここより西にある冨嘉部落とそのウツィヌワーである阿底御嶽が、他の4部落とそれぞれのウツィヌワーに対して宗教的に優位にあるとされている。これが顕著にあらわれるのが、いくつかの神行事で行われる「神旅」で、阿底御嶽の神女が西(阿底御嶽orミシクゲー)から東(美底御嶽orシムスケー)に向かって御嶽や聖地を巡る儀礼的な旅を行なうが、この際他の4御嶽は受動的な立場をとる。

    なお、一方で一部の行事では西から東に向かって男性が旅を行う場合があり、また男性が司る粟の農耕儀礼の痕跡も残っている。男性主体の神行事としては、西表島古見や新城島、小浜島、石垣島宮良の豊年祭での仮面神「アカマタ/クロマタ」が知られているが、これらはかつての八重山の神事は男性主体であり、のちに沖縄本島の影響を受けて女性主体の神事となった可能性を示唆している。 いずれにしても西のミシュクでの創世神話と東の高那崎での創世神話のそれぞれは米と粟の伝来の神話と結びつけられているなど、波照間の神行事の構造において東西の分割と対比は大きな意味を持っているようである。

    次回は個々の神行事について解説していく。 (つづく)


    主要参考文献

    Cornelis Ouwehand  1985 "HATERUMA :socio-religious aspects of a South-Ryukyuan island culture"  E.J. Brill
    畠山篤 1982「波照間島の豊年祭と祈年祭」
     『波照間島調査報告書』所収 沖縄国際大学南島文化研究所
    泉水英計 1992  「波照間島における東西双分観の批判的検討」
     『常民文化』第15号所収  成城大学常民文化研究会
    仲底善章 1998「波照間島の神行事」
     『沖縄県立博物館紀要』第24号所収 沖縄県立博物館
    中鉢良護 2002 「歴史と構造ー波照間島のプーリン/アミジワー」
     『琉球・アジアの民俗と歴史ー比嘉政夫教授退官記念論集ー』所収 榕樹書林
    吉成直樹 2003 「琉球民俗の底流 古歌謡は何を語るか」古今書院
    仲本信幸 2003「波照間の歴史・伝説考ー仲本信幸遺稿集」(1)〜(3)
     『竹富町史たより』23号〜25号所収 竹富町史編集室

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