ゴールデンウィーク中の静岡一泊、3日午後は『SHIZUOKAせかい演劇祭2026』のこの公演を観ました。
Baro d'evel はフランス出身の Camille Decourtye とスペイン・カタルーニャ出身 Blaï Mateu Trias の主宰するフランスのコンテンポラリーサーカスカンパニー。 といっても、ARTE Concert の ARTE en scène シリーズで Le vide de l'autre (2020) という約10分の短編を観たことがある程度で、 むしろ、Festival d'Avignon で上演されたコンテンポラリーサーカス作品という期待で観ました。
老若男女が上品な黒い衣装に身を包んだ姿で登場し、歌を歌ったり、並べられた成形のみ焼成前の陶土の器を道化のように弄ぶところから始まります。 やがて後方から土砂、瓦礫かゴミの山を思わせる塊がせり出してきて、 その前に並んだ人々が次第に足元に染み出した白い水 (おそらく陶土の泥水) に足を滑らせ転ぶうちに ––もちろん、クラウン的な転倒技やアクロバティックな身のこなしを駆使したものですが––、白く汚れた姿となります。 背景の暗色の塊も災害や紛争を暗示するように感じられ、 時に陶土の器をお面のように変形して被り、汚れた姿でのたうち回るような動きからは、 巻き込まれた難民や都市のホームレスがのたうちまわり打ちひしがれれる様を観るよう。 去年観た Peeping Tom: Triptych の第三幕 The Hidden Floor (2007) や [鑑賞メモ]、 Faye Driscoll: Weathering (2023) [鑑賞メモ] なども思い出され、今の時代ならではの舞台表現にも感じられました。
後半、塊の下から大量の空ペットボトルが溢れ出し、床一面に敷き詰められたようになり、舞台美術は大きく転換。 空ペットボトルをガラガラと足などでかき分けながらパフォーマンスする様子は、 陶土の面に角を生やした格好をした人が登場したりする点も含め、 Alexander Ekman 振付・演出の Ballet de l’Opera national de Paris: Play (2017) の6万個のテニスボールを使った場面を思い出しました [鑑賞メモ]。 Qui som? の初演が Festival d'Avignon ということを考えるとその観客の少なからずが Play を知っていたと思われ、それを踏まえての演出だったのではないかと。 しかし、汚れたいでたちのパフォーマーたちがゴミを思わせる空ペットボトルをかき分ける様は Play のオマージュというよりその逆、 Ballet de l’Opera de Paris の Play のメッセージである生きる本質としての「遊び」など金持ちの戯言、と言わんばかりの凄みを感じました。
床一面に広がった空ペットボトルを後方へ片付け、カーテンコールで終演、と思いきや、
空いた舞台の上に Camille Decourtye がマイク片手に現れ、現在の不安な時代や、それへの立ち向かい方について舞台で語り始めました。
主張している内容はさておき何を始めるんだろうと少々怪訝な気持ちになりましたが、パフォーマー人一人楽器を演奏しながら登場してマーチングバンドとなり、語りはラップとなり、観客を先導するようにホワイエへ移動して、祝祭的フィナーレとなりしました。
公演後で知ったのですが、初演の Festival d'Avignon の時からこの演出だったようです。
一週間前に David Byrne の Coachella でのライブをストリーミングで観たばかりだったので [鑑賞メモ]、
そのパフォーマンスや、更に遡って David Byrne’s American Utopia のマーチングバンドが客席を練り歩いて出ていく終わり方 [鑑賞メモ] を連想させられました。
思えば、マーチングバント的な楽隊が客席を練り歩いたり観客を誘導するというのはサーカスではよくある演出で、David Byrne もそこに着想したのだろう、と気付かされました。
David Byrne の Coachella でのライブは “Life During Wartime”、そして、“Love and kindness are a form of resistance” がテーマとも言えるものとなっていたわけですが、 そのカーテンコール後のマーチングバンドだけでなく、その舞台でのパフォーマンスも含め、 この Baro d'evel の Qui som? にも、それに近いものを感じざるを得ませんでした。