先週末三連休の中日土曜は、昼には銀座から京橋へ移動。 国立映画アーカイブでおよそ1年ごとの頻度で開催されている映画人追悼企画 『逝ける映画人を偲んで 2023-2024』で、 実験アニメーション関連の以下のプログラムを観てきました。
1950年代に活動を始め2024年に亡くなった一コマ漫画、イラストレーターで主に知られる作家 久里 洋二が、 1960年に設立した久里実験漫画工房の映画部で制作した短編アニメーションを回顧する上映です。 映画祭などでの受賞作を中心に1960年代から1970年代にかけて制作した14作品が年代順に上映されました。
彼の主要な仕事の一つである一コマ漫画のスタイルで描かれた絵を使ったドローイングの切り紙によるアニメーションです。 線画を基本として、彩色されている場合もありましたがほぼ白黒で、余白多めの画面です。 声が付けられていても叫び声のようなほぼ抽象的なもののみで、 シュールでユーモラスなオチのある寓話的というか一コマ漫画的なスケッチを連ねたような作風です。 悲鳴から声を連ねて音楽を作っていくかのような「人間動物園」でも、短いながら檻の中の男女のSM的な関係を思わせる状況を描きます。 そんな寓話的なシチュエーションから開発を皮肉に描いた物語を作り出した「二匹のサンマ」、 悪夢的なイメージの連鎖に仕上げた「THE MIDNIGHT PARASITES/寄生虫の一夜」が、特に印象に残りました。
「人間動物園」のような作品に典型的ですが、抽象的な音使いというか声使い音楽的です。 音楽クレジットに 武満 徹 や 一柳 慧 の名前があがり、小野 洋子 のパフォーマンスでの声が使われたり。 これらの実験的なアニメーションは草月ホールが発表の場としていたということで、 当時の前衛がジャンルを越えた狭いサークルで、まだ前衛たりえていた20世紀半ばという時代も感じました。
1950年代後半から主にデザイナー、アートディレクターの文脈で活動し、田名網 敬一 が制作した短編映画の回顧上映です。 2024年に国立新美術館で大規模な回顧展 『記憶の冒険』 が開催されましたが (残念ながら見逃しました)、その会期中に亡くなりました。 上映された作品は1971年、2000年、2001年制作が1本ずつ、残り5本は1975年の制作のものと制作時期に偏りがあり、その上映順も年代順ではありませんでした。
久里 洋二 の下でアニメーションを学んだと言われ、アニメーション技法を使った表現も使われていますが、 写真などのイメージを加工してコラージュする技法も多用されます。 ナラティブの要素は排除され、カラフルで画面を埋め尽くすようなイメージは、シュールというよりサイケデリックです。 一コマ漫画と商業美術のディレクターというバックグラウンドの違いもあるかもしれませんが、 20世紀半ばのモダニズム的な表現から、1960年代後半以降のカウンターカルチャー色濃い表現へ。 久里 洋二 と続けて観て、そんな時代の移り変わりを感じました。
週末三連休中日土曜は、午前のうちに銀座へ出て、この展覧会を観てきました。
『ポーランドの巨匠 ヤン・レニツァ ポスター、アニメーション、イラストレーション、舞台』
20世紀後半に活動したポーランド出身のグラフィックデザイナー、絵本・カートゥン作家の Jan Lenica の、
オペラ、演劇や展覧会のポスターから、アニメーション、絵本に風刺画まで、幅広い活動をカバーする展覧会です。
1950年代共産政権時代のポーランドで活動を始め、1963年にフランス・パリへ移住、1986以降はベルリンを拠点としていましたが、パリやベルリンの時代でもポーランドの劇場や展覧会の仕事を続けていました。
同時代のポーランド出身のグラフィックデザイナーというと、ギンザ・グラフィック・ギャラリーでは
Henryk Tomaszewski [鑑賞メモ]、
Roman Cieślewicz [鑑賞メモ] と取り上げてきましたが、彼らと共通する、
また同時代のチェコの映画ポスター [鑑賞メモ] とも共通する、
シュールレアリズムの影響を感じるポスター・デザインです。
といっても、余白使いやフォントのレイアウトに20世紀半ばのモダニズムとの共通点も感じる Tomaszewski や Cieślewicz と比較して、
画面を埋めつつすような有機的な形状のドローイング、手書きレタリングやセリフのある書体の多用など最もシュールレアリズム的です。
オペラや映画のポスターは、そのイメージを引用して構成するのではなく、自由に着想して抽象化して象徴的に描いた人物像等をメインに据えたもので、
元ネタを知っていると、映画とポスターとのイメージの間のギャップが面白く感じます。
その絵の強さもあって19世紀以前のクラシカルな作品のものよりも、
Lulu や Wozzeck のような20世紀オペラの方がポスターの作風にも合って、目を引きます。
(実際、ギンザ・グラフィック・ギャラリーのパンフレットは Wozzeck が使われていました。)
しかし、ツボにハマったのは地獄の業火に焼かれる Don Giovanni。
その場面を選びますか、と思いつつも、Ivo van Hove 演出を思い出して [鑑賞メモ]、やっぱりその場面を使うよね、と。
また、映画ポスターよりも人形劇ミュージアムやサーカスのポスターに、
絵本作家としての作風にもつなががる不気味可愛さが感じられました。
同時代チェコとの関係といえば、Karel Zeman のアニメーション映画
Vynález skázy [pl. Diabelski wynalazek] 『悪魔の発明』 (1958) のポスターが、
映画におけるイメージを比較的ストレートに引用したデザインだったのも、印象に残りました。
アニメーション作品に関する展示は原画などの関連資料展示だけでなく、
2Fライブラリを使って、15分弱の短編作品を2本、フィルムでではなくデジタル化したものをプロジェクタで上映していました。
Walerian Borowczyk と共同監督した Dom [en. House] 『家』 (1958) は
実写とストップモーションアニメーションを組み合わせたシュールレアリスティックな作風。
もう一本、Labirynt [en. Labyrinth] (1963) は、
19世紀風の細密で白黒の、時に一部彩色された挿絵版画を切紙アニメーションにしたもので、
そのコラージュ的なセンスとシュールな展開は、
アニメーション化された Max Ernst: La femme 100 têtes 『百頭女』 (1963) を観るようでもありました。
週末三連休初日、春分の日は細かい雨が降ったり止んだり、冬に戻ったような寒さの中、彼岸の墓参。 その後、夕方に買い物で六本木へ寄ったついでに、この展覧会を観てきました。
森美術館でアニュアル開催されている、日本の現代アートシーンを取り上げる展覧会です。
前回行ったのは3年前 [鑑賞メモ] とすっかり疎くなっていますが、
最近の日本の現代アート・シーンを伺う良い機会かと、覗いてみました。
といっても、展示数が多く多種多様といえば言いけれとも雑多な雰囲気で、特に小さな作品などこの雰囲気に損している作品もあるだろう、とも思います。
フライヤやポスターにもその写真が使用されていた A.A.Murakami 《水中の月》 (2025) は、
煙を封じ込めたシャボン玉を、モノクロの色彩感も含め、柳の木のような形の管から玉がまろび出るような造形にスマートに仕上げ、フライヤに取り上げられているだけのものがありました。
窓の外の地平線とウイスキーの水面を合わせたインスタレーションも、存在感がありました。
また、映像字幕や香港の敷石をコンセプチュアルかつミニマリスティックに模した展示をしていたノルウェー出身東京在住の Garder Eide Einarsson や、
尾道の民家の瓦屋根に着想したマレーシア出身で広島も拠点とした Shooshie Sulaiman など、
いわゆる海外をルーツに日本で(も)活動する作家に存在感があり、そこに時代を感じました。
元イギリス領カリブのガイアナとバルバドスのそれぞれの出身の親を持つアフロ・カリブ系イギリス人作家による個展です。 ワークショップを通して挙げられたブラック・ブリティッシュの女性歌手の名前が書かれた壁と、 音楽やファッションの雑誌の切り抜きから作られたプラカード様のものからなるインスタレーションです。 よくよく見ていると南アジア系と思われる人も含まれてるようにも思われブラック・ブリティッシュの定義に釈然としないものがあったものの、 音楽を通して知った名も多くありましたが、改めてカリブやアフリカなどから来た人々のイギリスのポピュラー音楽をはじめとする文化への寄与を意識させられました。
この週末土曜は、実家の野暮用を済ませた後に、先週末に続いて渋谷円山町へ。
シネマヴェーラ渋谷の特集特集『生き続ける清水宏』で、未見だったこの2本を観てきました。
教護施設育ちで身寄りの無い復員兵の島村が、下関駅で出会った戦災孤児たちと仕事を求めながら瀬戸内を東へ行く、 最後は島村が戦前にいた学院「みかへりの塔」 (戦前の清水 宏の映画『みかえりの塔』 (松竹大船, 1941) から採られている) に辿り着くというオールロケのロードムービー的な群像劇です。 引揚してきたものの頼れる身寄りを広島の原爆で失い神戸パンパン (売春婦) になろうという所を島村に救われる夏木、 下関駅では戦災孤児たちの犯罪グループの元締め、終わり近くの神戸ではパンパンの女衒と裏稼業に手を染めるが最後は改心して共に学院へ向かう隻脚の「叔父貴」を含めた群像劇的な面もあります。
当時、清水が引き取って育てていた元浮浪児たちを使った彼らの身寄り探しという面もあり、 助監督、カメラマンを除き、プロの俳優やスタッフを使わずに制作されたという映画です。 確かに、滑舌の悪い子供たちの台詞など聞き取りづらく、特に前半は厳しいものがあると感じましたが、 次第にその世界に慣れて気にならなくなりました。 その俳優的な演技に頼り過ぎない抑制的な語り、厳しい状況を扱いつつも人情的なユーモアを忘れない所、そして、映画の中で多く使われている道ゆく一団を捉える遠景の構図の決まり方など、清水 宏らしさを楽しみました。
しかし、それだけでなく、終戦直後の日本の様子、特に行き場を失った復員兵や引揚者、孤児などが終戦直後の過酷な時代をどう過ごしていたのか伺われるようで、その点も興味深く観られました。 まだ近代化がさほど進んでおらず工場が立ち並んでいない瀬戸内の様子、戦災を免れた岩国の錦帯橋の姿や、復興が進んでいない瓦礫だらけの焼け野原となった広島の様子が捉えられていることろも、興味深く観ました。
『蜂の巣の子供たち』の3年後にその続編として撮られた映画です。 といっても、その物語の続きではなく、出演した子供たちが共同生活をする熱海近くの山中にある「蜂の巣」の様子を描いた映画です。 映画『蜂の巣の子供たち』を観たりその後の取材の雑誌記事を読んだことをきっかけに、手伝いたいという若者たちや、収容を望む浮浪児たちが訪れるようになります。 そんな彼らによって波風が立つ様子を、細かいエピソードを積み重ねるように、ユーモアも含めて描いて行きます。 最後は、浮浪児時代に世話になったことがあるという理由で新たに受け入れた浮浪児2人が他の人の物を盗んで脱走し、彼らを追いかけて大阪へ行くという大きな展開はありますが、 それも収まり日常へ戻って終わります。 子供の描写や美しい遠景など清水 宏らしさを楽しみましたが、 大阪に行く展開の所以外はほぼ「蜂の巣」内で展開するので、前作に比べると少々物足りなかったでしょうか。
清水 宏 はその後、戦災孤児を出演させた映画をもう1作、『大佛さまと子供たち』 (蜂の巣映画部, 1953) を撮っています。 今回は見逃しましたが、いずれ映画館で観たい物です。
20日まで続きますが、今回の特集上映で観るのはここまででしょうか。 『蜂の巣の子供たち』の中で間接的に言及されていた『みかえりの塔』 (松竹大船, 1941) など、 観られていない 清水 宏 の映画はまだまだあるので、今後の上映の機会を捉えて観たいものです。
先の週末土曜は夕方までゆっくりした後、晩に南青山骨董通りへ。このライブを観てきました。
2000年代半ばに L'Occidentale de Fanfare [鑑賞メモ] や Niou Bardophones [鑑賞メモ] で知り、 Vox, Sonneurs といったプログラムや Terry Riley: In C - 20 Sonneurs (Buda Musique, 2023) や 8 sonneurs pour Philip Glass (Buda Musique, 2024) など最近の現代音楽に寄った活動まで、 CDで追ってきたブルターニュの cornemuse (bagpipe) 奏者 Erwan Keravec が来日している、ということで、 生で観るまたと無い機会かと足を運びました。 この来日は、free jazz/improv の文脈で活動するスウェーデンの Mats Gustafsson (The Thing, Fire!, etc) [関連する鑑賞メモ] とのプロジェクト Luft でのもので、 今回観たライブはこの2人に日本の大友 良英 [関連する鑑賞メモ] を加えたものでした。 休憩を挟んで約30分のセットを2回、アンコールを1回、休憩を含めて約1時間半のライブでした。
Niou Bardophone のような drums のいる編成では無いので free jazz というより improv 色濃く、 Mats Gustafsson も最初は flute (もしくはシングルリードのマウスピースを付けた fluteophone) から始まり、 baritone saxophone の野太いフリーキートーンのブロウなど煽り合うような展開で終わる、というように、前半後半ともに、小さめの音で探り合うような音出しから始まり次第に激しさを増して行くような展開。 大友も guitar や turntable の特殊奏法で応じ、むしろ、大友 の演奏がリズムを作り出していきます。 そんな中、特に前半の前半は Erwin Keravec も bagpipe の cornemuse の drone の口を塞いだりして特殊音を試みたりもしていましたが、楽器の形状上、特殊奏法には限界があると観ていても実感しました。 大きな音の出し合いのフェーズでは bagpipe は他に劣らず、drone に加えて chanter でのトレモロも駆使して聴かせました。
Urban Pipes のような Erwan Keravec のソロを聴かせる時間はほとんど無かったのは少々残念でしたし、 cornemuse 楽器の構造上、特殊奏法ベースの即興より、現代音楽的なコンポジションの方が合っているかもしれないとも思ってしまいましたが、 貴重な生での演奏を聴く機会を楽しみました。
Polaris はまだ神田小川町にあった頃以来の2年ぶりでした。会場は以前より狭くなったでしょうか。 しかし、大友 良英 の人気もあってか会場は鮨詰めの入り。 そんな中で小さな椅子に座って観るのはさすがに1時間半が限界でしょうか。 あと、会場内は禁煙でしたがドア外から入ってきてしまうタバコの煙も気になってしまいました。 最近はこのようなライブ会場からすっかり遠ざかっていたので、椅子の悪さとか、タバコ臭さとか、辛いものです。 昔はライブ会場なんてそんなものかと気にしなかった/ならなかったものですが、歳を取ったものです。
日曜は毎週末の実家方面の用事を済ませた後の午後遅めの時間、思い立って渋谷へ。 シネマヴェーラ渋谷の特集『行き続ける清水宏』で、 清水 宏 (監督) 『有りがたうさん』 (松竹蒲田, 1936) を観てきました。 ふと、清水 宏 の映画、そして、桑野 通子 を観たくなったので。 この映画はDVD/YouTubeで度々見返していますし、十余年前に書いた鑑賞メモに付け加えることはありませんが、 国立映画アーカイブのフィルムでの映画館上映で観るのはまた格別です。 現在の暗い世相、そして、昭和恐慌や二・二六事件という映画公開当時の暗い世相を思いつつ、そんな中でのユーモアと人情が沁みます。
先週末の日曜は昼前から午後半日、池袋西口。 東京芸術劇場のリニューアル閉館を挟んで約2年半ぶりの開催となった 『ボンクリ・フェス』 (“Born Creative” Festival) も今回で8回目。 久々ということで前回 [鑑賞メモ] に続いて今年も足を運び、4つのコンサートを観ました。
ポーランドの弦楽四重奏団による、ライブでの electronics と video projection との組み合わせての自作曲のコンサートです。 演奏は post-classical 的というか抽象度低めで、 minimal music はもちろん rock, jazz 的な低音部にビート感を感じる展開もありましたが、 最も耳を捉えたのは中盤の東欧 folk (民族音楽) 的に感じる旋律でした。 electronics の使い方は、electronica 的なテクスチャを加えるというより、むしろ歪んだ音への加工を多用していました。 投影ビデオは白黒、うっすら顔が浮かび上がったり、実写の布のテクスチャをベースにしたものもありましたが、 基本は、流体を思わせる粒子や (物理的な) 場を思わせる線を物理エンジンかそれ相当の処理を使って演奏に合わせて動かすものでした。
ボンクリでは毎回お馴染みの日本のアンサンブルのコンサートです。 今回は、前半3曲はソロ、カルテット、トリオの少人数編成、 後半2曲は十余人のアンサンブルを舞台いっぱいに載せてのコンサートでした。 鑑賞魚水槽や吊るした紙に扇風機など非楽器音とアンサンブルが共演した 蓮沼 執太: Pierrepont の少々カオス気味の舞台も楽しみましたが、 エレクトリック・ギターの残響をソロで聴かせるような Lisa Illean: Tiding I、 ピアノの音も粒立ったトリオでの Zygmunt Krauze: Elegy のような音をむしろ楽しみました。
やはりボンクリでは恒例になりつつある、Jan Bang / Punkt のセッションですが、 歌物だった前回2023年 [鑑賞メモ] と打って変わって、音のテクスチャを織り成すような演奏でした。 Nils Petter Molvær の trumpet や Eivind Aarset や 大友良英の guitar もほぼ特殊奏法のみを使ってノイズ的な音を繰り出し、それに電子的に音を変容させて重ねていきます。 掠れた trumpet などはまだしも、guitar などは起点となる音を把握し難いほど。 そんな中で、大友の turntable の演奏によるプチプチいう針のトレース音が粒だって聞こえたのが、印象に残りました。
スロバキアのアンサンブルによる20世紀以降のスロバキアの作曲家の音楽を取り上げたコンサートです。 管楽器等も含むアンサンブルのようですが、弦楽四重奏団にピアノを加えた形での来日で、 演奏した曲も全て、3, 4人組み替えて演奏する室内楽的なものだけでした。 今回観た中で最もオーソドックスに classic 的なコンサートでした。 しかし、1曲目こそ東欧 folk 的な旋律を感じるときもありましたが、わかりやすい旋律やリズムの無い曲が並びました。
前回までは東京芸術劇場のコンサートホールやそこに隣接する5Fギャラリーを会場としていましたが、今回は地階の小劇場と隣接するアトリエが会場でした。 ステージに大人数を乗せることが難しいこともあってか、小編成による室内楽的な曲を中心としたプログラムだったように思います。 また、特にシアターイーストは小劇場の音響・映像設備を生かしたプログラムだったのではないでしょうか。 リニューアルオープン直後の会場スケジュール上の都合でコンサートホールが使えなかったため、こういうスタイルになったと想像しますが、 結果としては面白いプログラムになったのではないでしょうか。
しかし4つのコンサート全ては、少々欲張りすぎました。後半、集中が途切れがち。 さすがに疲れたので、大人ボンクリ (演奏者のいない電子音響や録音を使った音楽のコンサート) と、クロージングは観ずに帰りました。
今週末は日曜に予定があったので、土曜は家事や実家対応などの野暮用程度にして休養日。晩に配信でこの音楽/ダンス映画を観ました。
« Une rencontre entre musique, danse et architecture » (音楽、ダンスと建築の出会い) という副題が付けられた ARTE Concert の音楽/ダンス映画シリーズ Sur Mesure の第6作です。 Philip Glass: The Complete Piano Etudes (InFiné, 2025) をリリースした Vanessa Wagner による抜粋編集された Etudes の演奏と、 Collectif Scale による 舞台美術、Kader Attou 率いる Cie Accrorap のダンス、Chloé Moglia / Rhizome によるサーカスアクトの共演を、無観客のスタジオで収録したものです。
共演と言っても、一緒に一つの作品を作り上げたわけではなく、互いの作品を持ち寄ったようでした。 曲毎に、ピアノとダンス、ピアノとサーカスアクト、ピアノソロのいずれかで、最後は三者が揃いますがフィナーレ的に盛り上がるわけではなく、全体として淡々と展開しました。
Collectif Scale の舞台美術は、Dan Flavin を動的かつ大掛かりにしたような光によるミニマルな立体造形で、それがピアノを取り囲みます。 Cie Accrorap / Kader Attou のダンスはヒップホップダンスの身体語彙をベースとしたコンテンポラリーダンスで、物語的という程ではないもののスケッチ仕立て。 1曲が短くミニマルミュージック的な反復感が少なくメロドラマチックな旋律が際立つせいか、男の友情や対立を描いているかのように感じられました。
Chloé Moglia のサーカスアクトは、ループ状の白く塗られた金属製のパイプを立て、 パイプが垂直近い所では Chinise pole のような、水平に近い所では trapeze の aerial のような動きを使います。 といっても、ダイナミックな大技するのではなく、曲に明示的には絡まずに静かに演技していました。
先の三連休中日日曜は午後に横浜・伊勢佐木長者町へ。 横浜シネマリンの『柳下美恵のピアノdeフィルム vol.17』で、このサイレント映画をピアノ伴奏付きで観ました。
マキノ映画が東亜キネマに吸収合併された1924年に、阪東 妻三郎 と並ぶマキノ映画のスターだった 髙木 新平 が主演した映画です。 『雄呂血』 (1925) [鑑賞メモ] と同じ 寿々喜多 呂九平 の脚本で、スタッフや俳優は当時の 阪東 妻三郎 の映画と被りがありますが、 時代劇ではなくニューヨーク (ただし撮影は神戸) と神戸を舞台とした現代劇でした。
ニューヨークで中国系のギャングに襲われていた寄席芸人 李らを救ったサムが、 彼らと神戸に戻り、李の娘を神戸に探すうちに、その娘を救い出すため、再びギャングと闘うことになる、という、活劇映画です。 「鳥人」と言われただけあって、冒頭の 髙木 新平 演じるサムがギャングに追われて建物内外や屋上を走り回る場面や、最後の中華料理店内での乱闘シーンでの身軽さを生かした立ち回りなど、見応えありました。 しかし、中盤の人情劇的な展開は少々退屈したでしょうか。 『雄呂血』でもそうでしたが、長く説明的な字幕が追いきれないところがありましたが、 物語自体は込み入ったものではなかったので、付いていかれなくなるほどではありませんでした。
前半の建物の内外や屋上の際どいところをパルクールのように走り回る場面を観ていて、以前もそういう日本のサイレント映画を観たことがあるような、と思ったのですが、 それは 八代 毅 (ハヤフサヒデト) の『争闘阿修羅街』 (大都映画, 1938) でした [鑑賞メモ]。 映画『争闘阿修羅街』のタイトルの「争闘」は『大活劇 爭鬪』を意識したもので、 そして、ハヤフサヒデトに先んじて「鳥人」の先駆者 髙木 新平 がいたということを知ったことが、観ての収穫でした。
2月10日頃から家の空調が不調になってしまったので、三連休最終日は午前に実家用事を済ませて、午後に空調工事。 結局、4時間余りかかりましたが、天気がよく暖かい日で良かったでしょうか。 期末セールで安く入手した小型セラミックファンヒーターで工事まで寒さをしのいでいましたが、 そんなものも使えない夏の猛暑の時期でなくて良かったです。
この三連休初日土曜の午後は恵比寿へ。この芸術祭を観てきました。
東京都写真美術館主催のアニュアルの映像芸術展 [去年の鑑賞メモ]、例年通り定点観測してきました。 今年は台湾出身の方がメイン・キュレーターとのことで、サブタイトルにもあるように多声的 (多文化、多言語) な色合いを感じ、 また、音楽、音声を含む音をテーマにした作品、台湾を含む東アジア、東南アジアの作家が多めの構成でした。
メインの東京都写真美術館の順路上最初のフロアとなるB1Fは規模大きめのインスタレーションが4作品。
リサーチに基づきビデオも使って国際美術展らしい洗練を感じましたが、少々、空虚さも。
むしろ、続く2Fの展示がよかったでしょうか。
オーストラリアの作家 Angelica Mesiti のビデオ作品 «The Rite of When» 《時にまつわる儀式》 (2024) は、
現代の異教 (pagan) の民俗音楽 (合唱)・舞踊からなる儀式的なパフォーマンス作品を収めたビデオという感じで、最も気に入った作品でした。
台湾に残した日本文化の影響のうち1950-60年頃に作られた日本の曲に台湾語の歌詞が付けられた歌3
曲に着目し戦前の日本統治時代の女学校等に遡り音ではなく刺繍を使った作品にした、
台湾の作家 候怡亭 [Hou I-Ting]の《所有的小姐 [レイディたち]》も、印象に残りました。
東京都現代美術館収蔵作品から、田中未知/高松次郎の言語楽器《パロール・シンガー》 (1974) が展示されていて、そんなものもあったのか、と。
3Fはコミッション・プロジェクトと東京都コレクションが半々の展示でしたが、
東京都コレクションの展示の方が興味深く観られたでしょうか。
さわひらき のビデオ作品 «pilgrim» (2022) は朝香宮邸竣工写真の組み合わせで展示されて、
2022に東京都庭園美術館で観たサイトスペシフィックな上映 [鑑賞メモ] とは違い、
いかにもホワイトキューブでの展示の作りで写真と映像の形式的な対比をするような展示となっていました。
館内B1Fや2Fのロビーや階段室を使って、京都を拠点に活動する
冥丁 [Meitei]のレコード『古風』三部作 (2020-2023) がサウンドインスタレーション的に使われていました。
そんなことも、音に意識的な展覧会に感じました。
東京都写真美術館のある恵比寿ガーデンプレイスのセンター広場では
exonimo のモニュメンタルなインスタレーション《Kiss, or Dual Monitors》 (2017) の2026年恵比寿映像祭ヴァージョンが設置されていました。
東京都写真美術館2Fに撮影ブースも設けられ、観客参加型に。このような野外展示も芸術祭らしいでしょうか。
地域連携プログラムからは、かつて NADiff a/p/a/r/t のあったビルの3階のギャラリー MEM で、
Robert Wilson 追悼企画 Eleven Drawings for Einstein on the Beach + Video Portrait of Lucinda Childs。
Video Portrait ということで、動きの少ない映像を使ったいわゆる液晶絵画的な動画かと予想していましたが、音声付きの静止画を縦長液晶モニタに上映するというものでした。
この後は湘南新宿ラインで恵比寿から鎌倉へ。今年初めてカフェ・アユーへ顔を出してきました。
アユーでは Fluxus Week ということで、関連音源を聴くだけでなく、
カフェ・アユー版 Fluxus Mistery Food や Fluxus Black Liquor などのフードを楽しみました。
この週末日曜晩は、配信でこのダンス映画を観ました。
2025年に ARTE Concert で配信されたダンス映画作品です。 公開当時、YouTube 公式チャネルで観ていましたが、NHKプレミアムシアターで放送されたので、その配信で再見しました。
テーマは Quatre saisons, quatre chorégraphies, quatre paysages, quatre duos de danseurs, quatre états du couple amoureux (四つの季節、四つの振付、四つの風景、四つのダンスデュオ、四つの恋愛カップルの状態)。 Max Richter が編曲 (再作曲) した Vivaldi: Le quattro stagioni [The Four Seasons] の季節の曲ごとに、 振付家を割り当て、その季節に合った雄大な自然が広がるロケーションで踊る様子を、ドローンを使った空撮も駆使したカメラワークで捉えた作品です。 基本的にカップルのロマンチックな関係をダンス化している所はありがちだなと思いつつも、 ARTE concert で放送・配信されるだけの洗練、完成度で、見応えありました。
春の振付は Peeping Tom の Frank Chartier [鑑賞メモ]。 清流とそれを取り巻く緑の茶畑、ラストはマングローブや浅瀬の海で、下着のような薄着の男女のカップルが踊ります。 Lynchesque ではなく、脱力した女性を男性が振り回し無造作に運ぶようなリフトに Peeping Tom らしさを感じました。
夏の振付は Bobbi Jene Smith & Or Schraiber。 振付家自身が演じる黒いドレスの女とワイシャツ黒パンツの男が、広い砂丘の中で踊ります。 冒頭に結婚指輪を砂に埋める場面があり、前半はクロースアップと遠景を使った演出も効果的に、 距離を置いて片方が苦悩するように踊るソロをもう一方静かに見つめたり。 既婚者同志の禁じられた愛と苦悩のダンスという感じで、中で最もロマンチックに感じられました。
秋の振付は Imre and Marne Van Opstal。 春夏と男女ペアでしたが秋は男2人のカップルで、ボロボロのスーツにスキンヘッド姿で、 針葉樹と葉がほとんど落ちた広葉樹から日の差す明るい林の中の敷き詰められた落ち葉や苔むした岩の合間や上で、また中盤で霧がかった荒野を挟んで、踊ります。 ブラザーフッドな感じかと予想しましたが、かなりロマンチックでした。
冬の振付は Emilie Leriche。女性2人のカップルで、山頂近い針葉樹林の間の雪原の中でスノーウェア姿で踊ります。 前半は喧嘩の取っ組み合いをダンス化したよう。ラストは一方がスノーウェアを脱いでもう一方の腕の中に残し、ほぼ全裸に近い姿で雪中を立ち去るという、別れを感じさせる終わり方でした。
この映像作品の監督 Tommy Pascal は、Béjart Ballet Lausanne と Ballet Preljocaj でダンサーとして活動し、 2007年にダンサーを引退した後、ダンスや音楽の映画/映像作品の監督となったとのこと。 今まで自分が観たものの中では、 Marit Moum Aune 振付・演出、Nasjonalballetten [The Norwegian National Ballet] の Ghosts — Ibsens Gengangere (2017) と Hedda Gabler (2018) [鑑賞メモ]、 Alexander Ekman 振付、Ballet de l'Opéra national de Paris の Play [鑑賞メモ] が Tommy Pascal 監督のものでした。 この Seasons of Dance [Les Saisons de la danse] は、 2025年第63回の Golden Prague International Television Festival で Grand Prix を 受賞したのをはじめとして、 様々な映像作品関係の賞を受賞をしています。
この週末土曜は昼過ぎまでゆっくりした後、夕方に池袋西口へ。この公演を観てきました。
『Tokyo Contemporary Art Award 2022-2024 受賞記念展』 (東京都現代美術館, 2024) でサエボーグ を観た際に、
公演の方が面白そうと思っていたのですが [鑑賞メモ]、
それから約2年、やっと公演を観ることができました。
上演されたのは演出家・振付家・キュレーターとして活動する 橋本 ロマンス とのコラボレーションです。
東京都現代美術館での展示同様、空気で膨らませるラテックス製の舞台美術やボディスーツを使ったもので、その色彩造形もキッチュなもの。
登場するのは、家畜として改造された動物とその排泄物で生きる生物をカリカルチャライズしたキャラクターで織りなすパフォーマンスでした。
物語的な展開はほぼ無く、かといって音楽的に時間空間を抽象的に表現するものでもなく、儀式的とも感じられるパフォーマンスでした。
美術館でインスタレーションとして観るよりもその不気味可愛さが出て良かったと思う一方で、期待したほどには面白くはならなかったな、とも感じてしまいました。
エアーで膨らませたボディスーツは中の人の動きを制約する上に細かい動きを隠してしまうため、被り物を使ったキャラクターショーに近いものになってしまいます。
中の人が外のキャラクターとは前後逆向きに入っていると思われるサエチキンなど造形と動きの妙を感じるものもありましたが、
結局、新体操的な動きも駆使して飛び回った 浅沼 圭 のハエ/黒子が最も面白かったかもしれません。
祝日の昨日は、午後に渋谷へ。この映画を観てきました。
1990年代にミュージックビデオの文脈で活動を始めたインド出身のアメリカの映像作家 Tarsem Singh の2006年の映画です。 当時は自分の興味のスコープ外という感もありましたが、4K版による再上映がロングランしていることもあり、観てみました。
20世紀初頭、サイレント映画時代のハリウッドで働いていたものの大怪我で下半身付随となり、恋人を主演俳優に奪われ、自棄的になったスタントマンと、同じ病院に入院していたオレンジの農場で働くインド移民の労働者の娘の交流と心情の変化を、 彼が彼女に話して聞かせる劇中劇の山賊を主人公としたおとぎ話と重ねて描いた映画です。 石岡瑛子が衣裳デザインを手がけ、世界遺産をロケ地に撮られた、劇中劇の場面でのスタイリッシュでファンタジー的な映像美は、さすがミュージックビデオ出身と思ったリオしました。 やはりミュージックビデオの文脈でも知られる Spike Jonze や David Fincher が presenting としてクレジットされているというのもあるでしょうか。 また、ナラティブの面でも病床のスタントマンや少女の心理描写も期待以上に丁寧。 サイレント映画時代の冒険活劇やスラップスティック・コメディにおけるスタントへのオマージュも感じられました。 しかし、おとぎ話などそんなものかとも思いますが、そこでの男女関係や主従関係の描写はステロタイプで内面描写に欠け、社会的背景の描写も薄く、少々空虚で引っ掛かりに欠けたでしょうか。
先の週末土曜晩は、午後に引き続き初台で隣の建物へ移動して、今年の舞台鑑賞始めをしてきました。
去年始まった20世紀以降の演目からなる新国立劇場バレエ団のトリプルビル公演、 去年が楽しめたので [鑑賞メモ]、今年も足を運んでみました。 今年は作品ごとに休憩を挟む形での上演でした。
最初は2023年の『ニューイヤー・バレエ』 [鑑賞メモ] で上演した David Dawson: A Million Kisses to my Skin。 その時と同様、ミニマリスティックでシャープな演出を楽しみましたが、今回は、男女の動きの差異に目が止まりました。 男女のダンサーが並んでユニゾンするように踊る箇所がかなりあるのですが、どちらも衣裳もシンプルなレオタードで、かつ Pas de deux のように明確に男女の役割で振り付けられていだけに、 腕や脚を上げた際などの形などの男女での差異が逆に浮かび上がって見えたように思います。 もちろん、こういう見方も、去年観た NDT2 [鑑賞メモ] の影響もあるかなとは思いますが。
続く Hans van Manen: 5 Tango's は、 Astor Piazzolla のタンゴ5曲を使った作品で、オーケストラ生伴奏ではなく、Piazzolla の演奏の録音 (おそらく Concerto de Tango en el Philpharmonic Hall de New York (Polydor, 1965) など) を使用していました。 動きや衣裳に男女の別はありますが、やはりミニマリスティックな演出で5曲それぞれに場面を作って音楽を表現する抽象バレエです。 男女が組むような所などにタンゴ的なものを感じますが、予想よりタンゴのイデオムは使わず、むしろ、極力バレエ・テクニックでタンゴを構築していくよう。 そこに面白さを感じましたが、赤黒の衣裳のイメージほど踊りにはシャープさを感じられませんでした。
ラストは Balanchine の抽象バレエ Themes and Variations。 Le Palais de Cristal (1948) [鑑賞メモ] や Jewels [鑑賞メモ] なども思い出しますが、 使われるテクニックとクラシック・バレエ的な衣裳、というのはもちろん、宮廷のホールを思わせる美術に Tchaikovsky の音楽ということもあって、 クラシック・バレエの世界はそのままに、ナラティヴ成分だけ除去したものを観るよう。 抽象バレエ縛りのトリプルビルでしたが、コンテンポラリーな前2作と良いコントラストを興味深く観ました。
年明けから1ヶ月余り経ってしまいましたが、これが今年2026年の舞台鑑賞初め。 最近は新国立劇場バレエ団の年末年始は『くるみ割り人形』公演になり、『ニューイヤー・バレエ』はなくなってしまいました。 しかし、以前に『ニューイヤー・バレエ』で観た A Million Kisses to my Skin、 そして、クラシック・バレエ的なものを蒸留したかのような華やかな Themes and Variations で締めくくられるのを観て、 『ニューイヤー・バレエ』の代わりとなる今年の舞台鑑賞初めには丁度良かったでしょうか。
この週末土曜は雪がぱらつく寒い天気。そんな中、午後遅めに家を出て初台へ。この展覧会を観てきました。
南米チリ出身で、クーデターと Pinochet 独裁を経験後、1982年に渡米、ニューヨークを拠点に現代美術の文脈で活動する作家の個展です。
最初期1970年代チリ時代の作品から、この展覧会のための新作までを辿る、回顧展的な内容でもあります。
受賞した 『プリピクテ Storm/嵐』 Prix Pictet: Storm [鑑賞メモ] の印象も新たですが、
このようにまとまった形で観るのは初めてです。
初期の作品を中心とした小規模な作品を集めた最初のギャラリーの展示は観念的に過ぎるかなと思いましたが、
1985年にブラジル東北部の露天掘り金鉱山 Serra Pelada の劣悪環境下で働く零細鉱夫 (Garimpeiro) を撮った写真に基づく «Gold in the morning» (1985/2002) や、
1994年にボスニア紛争に取材した «Europa» (1994) など典型的ですが、
報道写真としても成立するような写真を撮りつつ、それに、このような写真を撮る/観ること意味などを自省するメタな視線も加え、
ライトボックスや鏡も使った視覚的にもスタイリッシュなインスタレーションに落とし込みます。
もしくは、南アフリカ出身の報道写真家 Kevin Carter の1994年の Pulitzer Prize 受賞とその2ヶ月後の自殺を取り上げた «Sound Of Silence» (2006) では、
Carter のバイオグラフィ的な歩みを淡々とした語りと字幕のみで抑制的に示す展開から、
一転 Pulitzer Prize 受賞作で «The Vulture and the Little Girl» 『ハゲワシと少女』を示してフラッシュすることで、
報道か人命かとという議論を強く印象付けます。
『プリピクテ Storm/嵐』のようなグループ展の中で1作品だけ観ただけではわかりづらいメタな視点も腑に落ちるところがあり、 インスタレーションとしての仕上がりも上手いなと感心する展覧会でした。 しかし、主題的にもそういう所は狙っていないのかもしれませんが、観ていて「良かった!」という感じにならなかった展覧会でもありました。
Alfredo Jaar を観た後は、コレクション展示室でゆっくり。 相変わらずではあるのですが、いつものように 李 禹煥 などの抽象が静かに並んでいて、心が落ち着きます。
先の週末土曜の晩は家に帰って、毎年楽しみにしているサーカスのコンクールの配信を観ました。
フランス・パリで毎年1月下旬頃に開催されているサーカス・アーティストの競技会 (コンクール) です。 レベルの高いサーカスのパフォーマンスが観られるので、例年 ARTE Concert で配信されるのを楽しみにしています [2017年の鑑賞メモ]。 年によってはジオブロックされることもあるのですが、今年 (2026年の第25回) はされず、観ることができました。
高度な身体能力という点では、 hair hang なども交え2つの hoop を介して人をぶら下げるなど複雑な構成で見せた aerial hoops [cerceaux aériens] の女性2男性1のTrio Rig'Humaine (Médaille d'Argent 受賞)、 大人数のチームでダイナミックな flying trapeze [trapèze volant] (空中ブランコ) をみせた Poésie Tribale が、特に見応えありました。
コミカルな演技では、女性 harp 生伴奏でクラウン的な危うげな演技を交えつつの balance on chairs [equilibres sur chaises] (椅子を積み上げてのバランス芸) の Colin André-Heriaud (Médaille de Bronze 受賞)、 Buster Keaton のようなデッドパンの演技で contortion (軟体芸) を交えつつの Chinese pole [mât chinois] を演技した Eline Guélat (Prix spéciau 受賞) を楽しみました。 これらは、日本の大道芸フェスや公共劇場の親子向け公演 (座・高円寺の『世界をみよう!』とか) にも合いそうです。
ラストは度々来日している Machine de Cirque (Grand Prix 受賞) [2024年の来日公演の鑑賞メモ]。 来日公演でも使っていた rotating teeterboard [planche coréenne rotative] (回転するシーソー) を女性1名を含む7名で演技するのですが、 普段着のような衣装で淡々と演じることで、大技を見るというより、自然なパフォーマー間の交流を見るよう。そんな演出が気に入りました。
今週末土曜は昼過ぎに木場公園へ。これらの展覧会を観てきました。
Sol LeWitt: Open Structure
20世紀後半 Minimal Art と Conceptual Art を橋渡しする文脈で知られたアメリカの現代美術作家 Sol LeWitt の個展です。
最近では『ミニマル/コンセプチュアル』展 (川村記念美術館, 2022) での立体作品が印象深いですが [鑑賞メモ]、
この展覧会は Wall Drawing の作品を8点展示していました。
東京国立近代美術館の常設に1点ありますが、これだけまとめて観る機会は無く、見応えありました。
Wall Drawing におけるSol LeWittの指示と実際に壁に描かれたドローイングの関係は、
その簡潔で抽象的な形態もあって、脚本とその上演というより、楽譜とその演奏 (インタープリテーション) の関係を見るよう。
解釈の裕度がある、もしくは、場所の条件が入り得る指示もあり、偶然性や即興を取り入れた作曲に近いものを感じました。
眼前の物質化された作品の向こうに理念的で抽象的な構造を想像しつつ楽しむという面もありますが、
立体作品と比べ Wall Drawings では、簡潔な形態だけに、形にした際の物の実感、テクスチャが逆に浮かび上がってくるようにも感じられました。
また1990年代の作品、小ぶりの版画作品 «Complex Forms» (1990) では手書きの非直線が使われてる一方で、
色面の塗り分けをという共通点のある «Wall Drewing #770» ではマスキングテープを使ったと思われる手書きを感じさせない直線が使われているなど、
その差異とコントラストも印象に残りました。
東京都と TOKAS (Tokyo Arts and Space) によるアニュアルの現代美術の賞の第5回の受賞者展です [前回の鑑賞メモ]。
受賞者2名のうち 呉 夏枝 は『遠い窓へ 日本の新進作家 vol. 22』 (東京都写真美術館, 2025) [鑑賞メモ] に続いてですが、
梅田 哲也 は昔に 大友 良英 関連で観たことがあった程度で [鑑賞メモ]、最近の活動はほぼノーチェックでした。
これまでの受賞者展では選ばれた2名がそれぞれに展示を構成してきましたが、
今回は2人の作品が密に組み合わされ、2人が協働してインスタレーションを作り込んだような展覧会でした。
視線を誘導するようなオブジェや耳を引くような音響装置を配した足場を組んだ空中回廊等の大掛かりな 梅田 のインスタレーションの中に、
呉 の布や糸を使ったインスタレーションも配され、音響装置からは 呉 の作品に関連する語りが聞こえてきます。
様々な視線や音への注意が誘導される空間構成の中を歩いていくうちに、
呉 のルーツでもある済州島出身の祖母にはじまるナラティヴも辿ることになります。
足場の間を歩きながら誘導された視線の先の視野の面白さを堪能しつつ、
最後の《海人の道》と《椿の咲くところ》で呉のナラティブにじっくり向かい合う、という展開も良かったです。
『ミッション[宇宙×芸術]』 [鑑賞メモ] から10年、 国際量子科学技術年 (2025年) に合わせて開催された、宇宙や量子などのサイエンス領域とアートのコラボレーションの展覧会です。 10年前の展覧会もすっかり忘れていましたし、本を読んだりオーソドックスな作りの科学ドキュメンタリーを観た方が良いのではとは思ってしまいました。 しかし、そんな中では少々浮いてた気もしましたが、片岡 純也+岩竹 理恵 [鑑賞メモ] による《KEK曲解模型群》のユーモアを楽しみました。
コレクション展示室の中では、3階の展示室を使った 中西 夏之 と 池内 晶子 の展示『弓形とカテナリー』。
『あるいは、地のちからをあつめて』 (府中市美術館, 2021-22) [鑑賞メモ] ぶりに、池内 の絹糸を使った繊細なインスタレーションの繊細な空間構成を楽しみました。
また、中西の絵画を壁掛けではなくレイヤーのように見えるよう宙に下げて展示しており、
泡や液体を思わせる抽象的な画面とその空間構成が合っていました。
先の週末土曜は昼に京橋へ。ランチの後、京橋を歩いていたら、 個性的な服装をした (おそらく外国の) 女性に National Film Archive へ行くか? と声をかけられたので、一緒にNFAJへ。 しかし、自分はそういう類の人に見えるのでしょうか。
国立映画アーカイブでアメリカ Anthology Film Archives 所蔵の映画を上映する企画 『アンソロジー・フィルムアーカイブス――アメリカ実験映画の地平へ』が開催されています。 アメリカの実験映画、個人映画、インデペンデント映画115本を23プログラムで上映するという大規模な企画ですが、その中から2つのプログラムを観てきました。
アニメーション作家 山村 浩二 [鑑賞メモ] のキュレーションによる20世紀半ばのアメリカでの実験アニメーションの歴史を辿るプログラムで、上映後の本人による講演付きで観ることができ、大変に勉強になりました。 作品の上映はありませんでしたが、Dada のアーティストが関わったフランスの Cinéma Pur (純粋映画) やドイツ Absolute Film (絶対映画) 欧州戦間期 Avant-Garde の映画を起点に、 ナチス台頭後の移住でアメリカ・ハリウッドへにそれをもたらした Oskar Fischinger (Polka Graph, 1938)、 その直系的表現の Film Exercises 1 (1943) や An Optical Poem (1967)。 Henri Michaux の疎なドローイングをアニメーションにしたかのような Breathing (1963)。 Beatnik とそれに続く Hippie といった Counter Culture の下での Psychedelic な Allures (1961) や Lapis (1961)。 Max Ernst の銅版画コラージュをアニメーション化したような Duo Concertantes (1962-64) や名画を早めくりで時間軸コラージュしたような God Is Dog Spelled Backwards (1968) などの抽象というよりコラージュ的な映画。 そして最後は Jonas Mekas [関連する鑑賞メモ] の日記映画、私映画のアニメーション版のような Frank Film (1973)。 と、抽象というよりノンナラティヴな (Frank Film は私的な語りがありましたが) 実験的なアニメーションの系譜を辿ることができました。
Anthology of American Folk Music (Folkways, 1952) の編纂で知られ、 Beatnik や Hippie といった Counter Culture に影響を与えた芸術家・評論家 Harry Smiths の映画作品の特集上映です。 山村 浩二 の講演でも言及があり、『抽象アニメーション作品集』の Harry Smiths にフォーカスした続編とも言えるかと思います。 画面の抽象度はあまり高くなく、Counter Culture 的な、もしくは、私映画的な素材のコラージュのようなノンナラティヴな映画でした。
しかし、実験映画を観続けるのはさすがに厳しく、特に『抽象アニメーション作品集』の前半は少々記憶が飛んだ時もありました。 というか、2023年の恵比寿映像祭では [鑑賞メモ] どうして約7時間も見続けられたのだろう、と。気力体力の衰えを感じました。 また、昔 (2000年前後) であれば、こういうプログラムは東京国立近代美術館フィルムセンターというよりむしろイメージフォーラム・フェスティバルのような場で観るものだったな、と、時代の変化も感じました。
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上映の合間の時間に国立映画アーカイブ (NFAJ) 展示室で 『写真展 ハリウッドの名監督たち 映画芸術科学アカデミーのコレクションより』。 写真だけでなく、関連するNFAJ所蔵のポスターも多く展示されていました。 Alice Guy, Lois Weber, Dorothy Arzner や Ida Lupino などの女性の映画人 [関係する鑑賞メモ] も取り上げられていた所に、現代的な企画を感じました。
上映後、Ginza Maison Hermès Le Forum で 榎 忠, 遠藤 麻衣子, Élodie Lesourd 『メタル』 を観ました。 いかにも現代アートな展覧会でしたが、映画で気力体力を使い果たしてしまったか、観ていても上滑りしてしまいピンときませんでした。こういう時もあるでしょうか。
この週末金曜は夜に、このコンテンポラリーサーカス作品をストリーミングで観ました。
オーストラリア・クイーンズランド州ブリスベンのコンテンポラリーサーサスのカンパニー Circa のパリ公演の配信です。 二幕構成で、第一幕はピアノ伴奏で歌われる Franz Schubert の歌曲 Schwanengesang と Winterreise からの歌、そして時々挟まれる Klara Lewis の電子音響が、 第二幕は2台のピアノで Igor Stravinsky: Le Sacre du Printemps が使われていました。 そんな音楽に合わせて10人のパフォーマーがタワーはもちろんコントーションや床体操的な動きを含むアクロバットを演技するのですが、 派手な技をみせるというより、不穏なイメージをスケッチ的に描いていきます。 エアリアルのようないかにもサーカスらしい技が無かったこともありますが、音楽生伴奏によるアクロバットの身体語彙を使ったコンテンポラリーダンスと言ってもいいような作品でした。
冒頭の場面でこそ空気で膨らませた透明な方形の透明なビニールの小部屋を使いましたが、 舞台装置はほとんど使わず照明のみのブラックボックスの舞台で、 アクロバットパフォーマーはストレッチデニムのパンツに白Tシャツ姿という簡素なもの。 第一幕の歌手はボロボロのコートにニット帽という冬の浮浪者のような服装で、 傷心で死を求めて彷徨う Winterreise の主人公を思わせます。 第二幕も前半までは第一幕同様の暗めの青みがかった照明で陰鬱さを感じさせますが、 終わり近くになると赤い照明も入って動きも激しくなりむしろ不吉で不穏な展開になります。 やはり、オリジナルの Le Sacre du Printemps のような最後に生贄が選ばれるようなエンディングかと思いきや、むしろ皆が倒れてしまうようなエンディングでした。
電子音響の Klara Lewis は主に Edition Mego レーベルからリリースしているミュージシャンです。 (あまり強調することでもないとは思いますが、自分にとっては Wire / Dome の Graham Lewis の娘という印象が強いのですが。) こんな舞台の随伴音楽の仕事もしているのか、と。 上演中に舞台上にはいませんでしたが、カーテンコールで出てきたので、電子音響も生演奏だったのかもしれません。
年末年始の休暇中に約1ヶ月の期限で配信中と気付いていたのですが、油断したらあと2日になってしまった、と、金曜夜に慌てて ARTE.tv で観たのですが、 観終わった後に YouTube の ARTE Concert 公式チャンネルでも配信されていることに気付きました。 こちらは、1年間、2027-12-19までと余裕がありました。 といっても、こういうきっかけで先延ばしせずに観てしまってよかったでしょうか。
先の週末土曜の晩は、このダンス作品をストリーミングで観ました。
2024年に収録された Ballet Nacional de España (スペイン国立バレエ団) の作品で、 以前に ARTE Concert やNHKプレミアムシアターで放送/配信されたのですが、当時はアンテナにかからず。 去年のNDT2日本公演 [鑑賞メモ] で上演された Folkå の Marcos Morau の振付ということで、再放送/配信で観てみました。
コロンビア出身でニューヨーク拠点で活動する写真家 Ruvén Afanador が フラメンコに関わるダンサー、ミュージシャン等の女性を撮った Mil Besos: 1000 Kisses (Rizzoli, 2009) と、 同じく男性を撮った Ángel Gitano: the Men of Flamenco (Rizzoli, 2014) という2つの写真集に着想した作品です。 それらはその生活をドキュメンタリー的に捉えた写真ではなく、 極端な構図や不自然なポーズや衣装を使い造形的な面白さを強調したコントラストの強い白黒の演出写真なのですが、 そのヴィジュアルイメージからダンスを展開します。 その音楽や動きはフラメンコをベースにしたもので、全体として大きな物語は感じさせず、写真集のようにスケッチを連ねていきます。 その一方で、密集での動きや引き攣り振動するような動きに Folkå で観たような Morau らしさも感じました。 写真作品に出てくるバルコニーなどの大道具もありましたが、フォトセッションで使うスタジオの照明等に着想した舞台美術を使い、 写真のイメージ通り衣装は黒、照明は白色光のみの色彩感を抑えて、そんな写真の世界をスタイリッシュにダンス作品化していました。
ちなみに、Ángel Gitano: the Men of Flamenco (Rizzoli, 2014) では Ballet Nacional de España の2019年に就任した現在の芸術監督でフラメンコ・ダンサー (Bailarín) でもある Rubén Olmo もモデルをしています。 これもこの作品が作られた縁でしょうか。 この Afanador では Rubén Olmo は終盤にソロを踊っています (5台のティンパニの前で踊る男性ダンサーです)。
先の週末土曜の午後に横浜みなとみらいへ。この展覧会を観てきました。
韓国の국립현대미술관 [国立現代美術館] との共同で企画された、第二次世界大戦後の日本と韓国の美術分野での交流に焦点を当てた展覧会です。 終戦後 (1946) から国交正常化 (1965) の間は当時の在日コリアンの作家もしくはこの時代をテーマとした作品を、 国交正常化前後から韓国の民主化 (1987) にかけては、 Nam June Paik [白 南準] の活動を日本との関わりの観点からと、 李 禹煥 [Lee Ufan] [感想メモ] が架け橋となった日本のもの派と韓国の作家の交流を取り上げていました。 民主化後の交流としては日韓で開催した 中村 政人 と 村上 隆 による『中村と村上展』 (1992) に焦点を当てていました。 最後は主に21世紀に入ってからの作家、作品を紹介していました。
ある程度予想していましたが、国交正常化前後から韓国の民主化にかけての展示が充実していました。 特に、李 禹煥 を通した交流した韓国のアートについては 『単色のリズム 韓国の抽象』 (東京オペラシティアートギャラリー, 2017) [鑑賞メモ] で観たものよりも、多様性に富んでいました (撮影可の作品が『単色のリズム 韓国の抽象』的な作品だったのが残念)。
その一方で、民主化直後の1990年代の交流が『中村と村上展』に絞られていたのは意外でした。 自分の記憶にあるものだけでも、 『亜細亜散歩』 (資生堂ギャラリー, 1994/1997/2001) [鑑賞メモ]、 『幸福幻想 ─ アジアの現代美術作家たち』 (国際交流フォーラム, 1995)、 そして、『火の起源と神話 - 日中韓のニューアート』 (埼玉県立近代美術館, 1996) や『90年代の韓国美術から-等身大の物語』 (東京国立近代美術館, 1996) [鑑賞メモ]など、 当時は、日韓というより日中韓(台)/アジアという枠組みが多かったように思いますが、その現代美術を紹介する展覧会が度々開催されていたので、他にもあったのではないかと。 日韓の2国間関係ではなかったから、韓国で並行する動きが無かったから、作家レベルでの交流に基づくものではなかったから、等を推測したのですが、その理由が気になりました。
この展覧会は2025年2月の全館オープン以来 約1年間開催されている一連のリニューアル記念展の最後の展覧会です。
リニューアル後、『第8回 横浜トリエンナーレ』 (2024) [鑑賞メモ] で一度足を運んでいますが、全館オープン後初めて足を運びました。
ミュージアムカフェがどうなったのか気になっていたので、偵察がてら入ってみました。
以前の三本珈琲によるCafe小倉山に代わって、馬車道十番館が入っていました。
アルコール類がなくなりメニューが縮小されましたが、個々のフードやスイーツのレベルはほぼ維持。
カウンター・下膳口、厨房も変更されましたが場所や雰囲気もほぼ維持されていたでしょうか。
先週末の土曜は午後に竹橋へ。この展覧会を観てきました。
戦後間もない1950s-1960sの日本の女性の美術作家による抽象的な絵画表現を、当時の欧米での潮流の日本での受容の観点から振り返る展覧会です。
1957,8年のフランスの美術評論家 Michel Tapié 来日による欧州の潮流であるアンフォルメル (Art informel) [関連する鑑賞メモ] の「旋風」の中で Tapié の評価もあって女性作家も評価されるようになったが、
次第に Tapié やアンフォルメルが批判されるようになり、1960年前後からは米国の潮流であるアクション・ペインティング (Action Painting) [関連する鑑賞メモ] が受容される中で、女性作家が批評対象から外れるようになったと言います。
アンフォルメルとアクション・ペインティング (もしくは抽象表現主義 (Abstract Expressionism)) は同時代の熱い抽象表現の欧州と米国での潮流という認識でしたが、
日本での受容には前後があり、後者の立場から前者が批判的に見られ、また、女性作家の評価が異なっていたということを知りました。
戦後美術を観る解像度が少し上がったでしょうか。
取り上げられてい作家は、この時期に抽象的な絵画表現に取り組んでいた女性作家で、具体美術協会(田中 敦子, 白髪 富士子) [関連する鑑賞メモ] や
実験工房 (福島 秀子) [関連する鑑賞メモ] などの活動に関わった作家や、
当時の抽象表現を推進した作家・批評家からの「後押し」を受けた作家が中心でした。
最近の活動もあり少し降った世代の作家という印象を持っていましたが、草間 彌生 もこの世代と認識しました。
2023年のコレクションによる小企画『女性と抽象』 [鑑賞メモ] とも被るところがありましたが、
『女性と抽象』で1/3を占めていた女性画家協会は『アンチ・アクション』のスコープでは前駆的な位置付けだったので、相補的にも感じられました。
昨年の東京都現代美術館コレクション展示室の企画「竹林之七妍」 [鑑賞メモ] に取り上げられた作家も含まれ、この界隈の最近の再評価の動きを感じます。
しかし、それらの展示と比べても、コレクション展中の小企画ではなく企画展ということもありますが、質量共にそして企画の切り口という点でも見応えがありました。
このような企画意図はありますが、1950s-1960s日本におけるアンフォルメルやアクション・ペインティングの受容や批評等の中での女性作家の扱いを、関連資料の展示で浮かび上がらせるような展覧会ではありません。
むしろ、それは展示前半にある年表や、会場14箇所で配布されるそれぞれ異なるテーマのテキストが書かれたA6判4ページの「別冊」で示される程度。
展示としては、関連する14名の作家の作品としっかり見せるものでした。
アンフォルメルや抽象表現主義と同時代を感じさせる抽象的な絵画が主ですが、
立体派などの戦間期アバンギャルドに近いデフォルメされた抽象度高めの具象や、60年代のポップアートに近い色彩感覚の作品まで、多様性も感じる展示でした。
多くはなかったですが立体作品も展示されていて、むしろそちらに目が止まってしまいました。
特に、今までほとんど意識することの無かった 多田 美波 の良さに気付かされました。
宮脇 愛子 や (立体はありませんでしたが) 福島 秀子 の抽象度の高さも良かったでしょうか。
会場で配布されてた別冊の「7 女性の美術家とファッション」で言及あるものの、福島 秀子 の舞台衣装デザインは出ていませんでした。 絵画中心の展示構成ですし、会場規模的な制約などもあるので、そうだろうとは思います。 しかし、以前にMOTコレクションの特別展示 [鑑賞メモ] で観てから10年以上経つので、また見直したいものです。
かれこれ20年来の習慣のようになってますが、30日の若林時代の大家さん宅での餅つき宴の後は、実家での年末年始。 2日晩に自宅に戻って、3日は美術館初詣に写美。ということで、この展覧会を観てきました。
サスティナビリティをテーマとした国際写真賞プリピクテ Prix Pictet の第11回の最終選考者 (ショートリスト) の展覧会です [前回の鑑賞メモ]。
今回のテーマは「Storm/嵐」ということでしたが、嵐のような短時間で発生する自然災害だけではなく長期的な環境破壊 (今回の受賞者 Alfredo Jaar のグレートソルトレイク)、
さらに、人間社会における「嵐」ということでしょうか、戦争や騒乱のような出来事を題材とした作品
(新井 卓 の広島原爆投下, Balazs Gardi のホワイトハウス襲撃, Belal Khaled のガザ、Laetitia Vançon のウクライナ) も半分近く占めていました。
そんな題材への興味もありましたが、いわゆる報道写真とは異なり、作家性の高いフォーマルでコンセプチャルな作風の写真が楽しめました。
特に良いと思ったのは、コンゴ共和国の Boudouin Mouanda。
2020年に首都ブラザビルを襲ったコンゴ川洪水に取材したものですが、洪水が治った後に、住民自身が直面した状況を象徴的な形で演じた演出写真としています。
一見では災害を題材としているとは思えないような、そして、サブサハラ・アフリカの現代美術 [鑑賞メモ] との共通点も感じる鮮やかの色彩を使った絵画的な画面作りです。
また、私物を持ち寄って撮影したことのことですが、被災する前の仕事、学校、家事や家族団欒など日常生活の様子を伺わせます。
さらに、被写体を、可哀想な被害者としてではなく、むしろ、普通の生活をしている人々として見ているようにも感じられました。
総合開館30周年記念で企画されたグループ展です。
美術館レベルでの個展でもおかしくないような作家5名で、個展を観たことがある作家もいて、既視感を強く感じる展覧会でした。
しかし、どうしてこの5人なのか、展覧会を通してのテーマはあるのか、どうも判然としないものがありました。
5人中2人が広島原爆投下に関わるテーマの写真が展示され、1人もそれに関する写真が含まれていたので、
展覧会を通底するテーマの1つのようにも感じられました。
年末年始は26日、28日、4日と渋谷円山町へ。渋谷ユーロスペースで開催されていた 『中央アジア今昔映画祭 vol. 3 ウズベキスタン特集』で、これらの映画を観てきました。 (順番は観た順ではなく、公開年順です。)
Никита Хрущёв (フルシチョフ) 失脚 (1964) 間もない、まだ «Оттепель»「雪解け」の時代の雰囲気を残す1967年に公開された映画です。 1960年代のウズベキスタンの首都タシュケントを舞台に、少女時代に戦火のレニングラードから疎開してきた Лена、川辺で Лена を見かけて一目惚れする工場労働者 Санжар、 Лена と親しいながらプロポースは受け入れられない工場技術者 Тимур、 Тимур に片思いする Мамура というすれ違う男女を、余暇を過ごす時間の中で、明るく淡い陰影の画面で描きます。 そんな画面も、雪解けの社会の明るさの中にうっすら差す Лена の戦争のトラウマなどの影の、隠喩のようでした。
バレエ中のお姫様に憧れるような無邪気な少女 Наргиз は少年グループのリーダー格の Эркин に憧れますが、 Эркин と一緒に出かけるために女性の親友 Лали との約束を破り仲違いしてしまいます。 さらに、Эркин は自身も Наргиз へ好意を持ちながら少年ならではの粗暴さと女心の読めなさで Наргиз を傷付ます。 小綺麗な別荘地のようなウズベキスタンの田舎を舞台にした、そんな Наргиз のひと夏のほろ苦い経験と、その心情の揺れ動きを、自然の中の明るい画面と、繊細な演技で描いていて、 女性映画というより少女映画といいたくなるような映画でした。
ウズベキスタンの集団農場 (コルホーズ) 近くに不時着したUFOに乗った高度な能力を隠し持つ宇宙人の少年 (Абдулладжан と名付けられる) と、 宇宙人とは気づかずに彼を助けた Базарбай と Холида の夫婦を核とするコルホーズ農家一家を巡るドタバタを描いたコメディです。 UFOでやってきた宇宙人という設定や、彼を捉えようとする大掛かりな軍の動きなど、SF的な設定もありますが、 むしろ、俗っぽく不器用だけれども悪気はなく人情味溢れる人々が繰り広げるホームドラマ的な人情コメディを楽しみました。 SF的な設定は、むしろ人情コメディとのギャップからの笑いのネタでしょうか。
現代的な都会 (おそらくタシュケント) の寄宿学校から田舎の祖母の家に引き取られた少女 Zulfiya と、彼女を引き取った祖母、同居する叔母 (母の弟の妻) の、それぞれのうまくいかない人生を、 空撮も多用したダイナミックに撮られた美しいウズベキスタンの田舎を舞台に描きます。 両親は都会で豊かに暮らしていて迎えにきてくれると信じる Zulfiya ですが、 映画が進むにつれて、Zulfiya の母は再婚のため娘を祖母に預けることにしたこと、 母の弟は賭けトランプで村じゅうから大きな借金を負ったために湖での事故死を偽装してロシアに逃げたことなどが、明らかになって行きます。 父がいなくなった原因は読み取れなかったのですが、弟の問題が原因かもしれません。 Zulfiya は都会へ母に会いに行くものの、会いに来たことを半ば困惑気味に接せられるのですが、 そんな母も豊かな生活をしているのではなく、縫製工場で働いています。 行動的な主人公 Zulfiya やダイナミックに撮られた自然の風景に救われた感じはありましたが、 Zulfiya や彼女を取り巻く女性たちが現代のウズベキスタンで生きる困難をメロドラマチックに捉えた女性映画でした。
1920年頃の、ロシア革命後の内戦の中央アジアを舞台とした、(おそらくウズベキスタンのブハラ近くの) 山中に隠れるように住む老いた一人の男 Kamil とその4人 (実際は5人) の妻 (イスラームの一夫多妻に従っている) の物語です。 タイトルロールの若い女性 Farida が嫁いでくる場面から始まり、伝統的な、しかし女性を家事もできる子作りのための道具としか考えていないような抑圧的な生活を、 威圧的な男を囲んで沈黙が支配する食事の場面、ほとんど Farida が Kamil がほどんどレイプのようにセックスすることを強いられていることをほのめかす場面など、 説明的な台詞や直接的な暴力描写は控えめながら、明るいというより陰影の深いスタイリッシュな映像を通して描きます。 最も寵愛を受ける気の強い二番目の妻 Robiya と新しい妻 Farida の確執を感じさせる描写もありますが、 子が産めなかったばかりに山の洞窟に鎖に繋がれて捨てられた最初の妻 (彼女が歌う歌声が「2000の歌」) に食事を運んだり、 その仕事を三番目の Mahfirat に任せることで彼女の浮気 (これが発覚することで指詰めの体罰を受ける) を助けたり、など、密かで細やかな共闘も描かれます。
特に前半は、山中の家でも家族に閉じた生活描写が中心ですが、次第に、訪れた知り合いの白軍のロシア人軍人に妻も権利があると諭されたり、 バスマチ蜂起 (восстание басмачей) (革命直後のムスリム住民を中心とした反ソビエト武力運動)の反乱軍に協力を求められて家畜を皆持っていかれたりと、外からの変化が迫ってきます。 (その中で Kamil はブハラのアミールに仕えた有力者だが、故あって山中に潜んでいることが仄めかされます。) また、Farida の妊娠を期に Kamil の寵愛を失ったことを悟った Robiya は家から逃げ出します。 そして、Farida の恋人が Farida を救いにやって来て、Kamil に組み伏せられ殺されかけるものの、Farida が身を挺して彼を庇ったことで、 Kalim は状況を悟り、Farida だけでなく3人の妻を Farida の恋人と共に家から送り出します。 Kalim は洞窟に捨てた最初の妻を解放し、共にブハラへ戻ろうとしますが、そこに逃げた妻が Robiya が赤軍と共に戻り、 家は焼かれ、Kamil も Robiya 自らの手で銃殺される所で、この映画は終わります。 そんな、白軍、バスマチ、赤軍が入り乱れるロシア革命直後の状況を感じさせる描写も興味深い映画した。
観終わった後、検索していて「『ファリダの二千の歌』、要約が難しいが、『マッドマックス怒りのデス・ロード』のイモータンジョーと妻たちの暮らしみたいな話といえば良いのか。」というツイートを見つけたのですが、 なるほど、夫から逃げ出し赤軍に入って、赤軍と共に戻って Kamil を殺す二番目の妻 Robiya は、Furiosa のようなものと言えるかもしれません。 といっても、Mad Max Fury Road では話のメインとなる逃げ出してから戻ってくるまでは描かれませんが。 タイトルロールでもある Farida が主役かと思いきや、最後は Robiya ですし、ポスターと見ると Robiya が使われているので、むしろ主役は Robiya と言ってもいいかもしれません。
結局、今回の上映6本中5本を観ることができました。観る前はソ連時代の映画の方に期待していましたが、 むしろ、ソ連崩壊後というか、ここ最近十年の間に作られた2本、 Issiq Non [Hot Bread] 『熱いノン』 (2018) と Faridaning ikki ming qo'shig'i [2000 Songs of Farida] 『ファリダの二千の歌』 (2020) に感銘を受けました。
今回の上映のうち見逃した1本は、Батыр Закиров [Batir Zakirov] 監督の Очарован тобой 『きみに夢中』 (Узбекфильм (СССР), 1961)。 2024年の筑波大学第6回 オンラインによるロシア・中央アジア映画上映会で観たことがあるものでした。 ソ連時代雪解け直前に制作されたミュージカル映画を撮影する様子を劇映画化したもので、それ自体もミュージカル映画となっています。 映画のスタイルにしても、中で使われている伝統的な音楽・舞踏をオペラ・バレエ的な制度で舞台芸術化するかのようなスタイルにしても、 その時代を感じ、興味深いところはあったでしょうか。(2026/02/11追記)
この週末3連休土曜は午後遅めに早稲田大学 戸山キャンパスへ。 約1年ぶりに桑野塾へ。 その年に読んだ本、観劇した芝居など、印象に残っているものやお勧めしたいものを持ち合い、それぞれに話をする会が毎年年末に開催されるのですが、今回はそれが年明けになりました。 もはや、桑野塾で報告するようなネタが仕込める程の趣味生活はしていませんが、 このような場で人の紹介を聞くと、映画を観たり本を読んだりするキッカケが得られます。 で、自分のネタですが、 当初は2025展覧会・公演等 Top 10 1位を紹介するつもりでいたのですが、 急遽、この『中央アジア今昔映画祭 vol. 3 ウズベキスタン特集』と、 関連書籍として 梶山 祐治 『中央アジア映画完全ガイド』 (パブリブ, 2026) (発売日前にユーロスペースで入手) を紹介したのでした。 ちなみに、渋谷ユーロスペースでの上映は終わってしまいましたが、2月7〜20日に横浜シネマリンで上映予定となっています。
12月最終土曜は2025年の展覧会観納めで、午後に2つのファッション展をハシゴしてきました。
京都服飾文化研究財団の服飾作品や資料のコレクションに基づく1920年代のデザインの流行 Art Deco をテーマとした展覧会です。
Paul Poiret, Jean Patou などの1920年代パリのモード、女性向けファッションを中心に据えた構成ですが、
Gabrielle “Coco” Chanel, Madeleine Vionnet, Jeanne Lanvin ら女性のクチュリエを特集したコーナーや、下着やスポーツウェアのコーナーも設けられているところが、この展覧会の特色でしょうか。
しかし、華美なハイファッションのドレスや装飾小物が多く展示される中、Art Deco 本流というよりむしろ同時代の Avant-Garde とも言える Sonia Delaunay のコートに惹かれてしまいました。
19世紀末の1895年に設立されたフランスのハイジュエリー (高級宝飾品) メゾン Van Cleef & Arpels の展覧会です。 タイトルでアール・デコを謳い、特に本館では、 1925年パリ Art Deco 博 (Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels Modernes) でグランプリを受賞した Entwined Flowers, Red and White Roses bracelet をはじめ戦間期1920年代から30年代にかけての作品を中心に展示していました。 しかし、“Minaudière” (Van Cleef & Arpel が1933年に特許取得した小物入れ) のような装飾小物はまだしも、宝飾品は Art Deco に限らずモダン・デザインと相性の悪いことを実感してしまいました。 Bvlgari 展 [鑑賞メモ] では楽しめるポイントがあったのでそこを期待したのですが、やはり“not for me”と感じた展覧会でした。
しかし、三菱一号館美術館よりも東京都庭園美術館の方が混雑していたのは意外でした。 三菱一号館美術館の展覧会が、2022年の『ガブリエル・シャネル展』 [鑑賞メモ] のように有名なブランドもしくはその創設者をフィーチャーしてなかったということもあると思います。 また、同じ日に続けて観たこともあり、客層の違いに興味を引かれました。 ファッションやデザインに興味があるわけでなくそれらに関する展覧会には来ないような観客も宝飾品の展覧会は集客するのか、と。
2025年は Art Deco 博から100年ということで、Art Deco を謳った展覧会を2025年のうちに観ておこうと、年末に2つの展覧会をハシゴしたのでした。 しかし、2025年に Art Deco をジャンル横断的に回顧するような展覧会が無かったのは残念。 東京都庭園美術館の場合、毎年の建物公開と合わせて日本における Art Deco 受容などの展示をしていますし、 2022年には『交歓するモダン 機能と装飾のポリフォニー』 [鑑賞メモ] という展覧会もありましたし、 改めて企画する程ではなかったのかもしれません。
12月第三週末土曜は午後に与野本町へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 の劇場付きダンスカンパニー Noism Company Niigata [鑑賞メモ] の2025年夏の公演は、 2023年に黒部市の前沢ガーデン野外ステージで上演した『セレネ、あるいはマレビトの歌』を改訂した劇場版で、 スロヴェニア公演を経ての帰国公演です。
Arvo Pärt の音楽を使い『Fratres I』 [鑑賞メモ] を含むということで予想していましたが、全体として祈りの色合いを強く感じる作品でした。 といっても、『春の祭典』 [鑑賞メモ] などを思い出すような集団と個、2集団間の対立などを描く場面や、 井関と金森のデュエットのような見せ場もあり、そんなところもNoismらしいと。 しかし、そんな場面を使ってナラティヴに物語を描くというより、全体として祈りの儀式を観るような作品でした。
この公演が終わって1週間後、「【独自】「Noism」金森穣芸術総監督が退任の意向「ほかの自治体での活動含め考えたい」」 (新潟日報, 2025/12/28 22:00; 最終更新: 2025/12/28 23:42) という報道がありました。 2日後、自身のブログに「芸術監督の上限付き任期を否定する理由」 (2025-12-30) を投稿しています。 公共性という観点でオープンかつ公平であることを考慮すると、また、新陳代謝を促す観点からも、公共劇場の芸術監督 (Artistic Director) の任期に上限を設けることは基本的に良いことと考えています。 しかし、それは、欧州のような公共劇場付き劇団/舞踊団の制度とそれをとりまくエコシステムの存在が前提で、 日本で唯一の劇場付き舞踊団といわれるNoismですら劇場に運営体制が整っておらず芸術監督の金森の尽力と幾分かのカリスマ性でなんとか維持できているという状況では、 芸術監督の交替は無謀だというのも、よくわかります。 日本にも劇場付き劇団/舞踊団が増えて欲しいと思っていますが、現在の日本では状況は厳しいと突きつけられるようなニュースでした。
このままでは鑑賞メモのバックログが解消されないですし、そもそも時間が経つと印象や記憶も不確かになってしまうので、今年から、鑑賞メモは拙速でも早く書き上げることを重視しようと思います。
2025年に入手した最近数年の新録リリースの中から選んだ10枚+α。 展覧会・ダンス演劇等の公演の10選もあります: 2025年公演・展覧会等 Top 10。
2025年に歴史の塵捨場 (Dustbin of History)に 鑑賞メモを残した展覧会やダンス演劇等の公演の中から選んだ10選+α。 おおよそ印象に残った順ですが、順位には深い意味はありません。 旧作映画特集上映や劇場での上演を収録しての上映などは番外特選として選んでいます。 音楽関連は別に選んでいます: Records Top Ten 2025。
あけましておめでとうございます。
去年2025年の一年間を振り返って、展覧会・公演等Top TenとレコードTop Tenを選びました。
2025年は1月の手術入院から始まるという幸先悪さだったわけですが、2月には自宅のPC/HDD故障、4月から数ヶ月は中耳炎、とトラブル続き。 そして、6月下旬には独居の母が倒れて入院。以降は、入院中は病院へ、退院後は実家へ週1, 2回通う日々です。 そんな、展覧会・公演等へ足を運んだり、音楽を聴いたりする時間の捻出に苦慮した2025年でしたが、 こうして振り返ってみると、Top 10 を選ぶのに困らない程度には良い展覧会・公演やレコード/CDに出会えていたのでしょうか。
そんなプライベート上での問題もありますが、 それに加えてBBC世界情勢編集長が言うように 第三次世界大戦へのプロセスが始まっているのではないかとという世界情勢もあります。 そろそろ趣味生活などど言っていられない状況なのかもしれません。 この談話室への鑑賞メモを書く時間がなかなか取れず、更新も滞りがちで、 サイトの存続も危機的状況ですが、細々とでも続けて行ければと思いますので、今年もよろしくお願いします。
12月第二週末土曜は二週続けて横浜山下町へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
1973年設立の台湾のコンテンポラリーダンス・カンパニー雲門舞集 [Cloud Gate Dance Theatre of Taiwan] ですが、 海外公演も多く、欧州での公演のレビューやトレイラーなどを目にする機会も多かったのですが、今まで生で観る機会がありませでした。 今回、横浜国際舞台芸術ミーティング2025 (YPAM2025) のYPAMショーケース かつ ヨコハマダンスコレクション 2025の公演で初めて生で観ました。 観たのは、2020年就任の二代目芸術監督、鄭 宗龍 と、Rhizomatiks での活動で知られる 真鍋 大度 [関連する鑑賞メモ] のコラボレーションによる、2023年作です。
後方の数枚に別れたパネルを使う程度でほぼブラックボックスで、映像を駆使した演出です。 リアルタイムでの撮影、処理と投影による映像とのインタラクティヴなダンスで、 Adrien M & Claire B [鑑賞メモ] や 梅田 宏明 [鑑賞メモ] などの、 粒子状というかテクスチャのような映像使いが多く観られましたが、抽象的なものだけでなく、むしろ人物像などの実写映像の加工と組み合わせが特徴的で、飛び散る光の粒は波飛沫のよう。 ダンサーは13名で、長袖のレオタードというかコンプレッションウェアのようなトップスに袴のようなワイドなボトムという、テクスチャはあるもののほぼ黒の衣裳。 一列に並んで波のような動きを作ることもありましたが、むしろ、広めに開いた脚を踏ん張った状態で腰や肩を回すような動きの多用に、波を感じました。 そんな、多くのダンサーとインタラクティヴな映像によるスタイリッシュな舞台を楽しみましたが、Rhizomatiks だけでなくテクノロジーを駆使した展覧会でもあることなのですが、それ以上のものがあまり感じられないという空虚さもありました。
12月最初の週末土曜は晩に出直しで初台へ。コンテンポラリーダンスの公演を観てきました。
2000年代以来フランスを拠点とし、2023年にフランスの TJP, Centre dramatique national de Strasbourg - Grand Est (ストラスブール・グランデスト国立演劇センターTJP) のディレクターに就任した、ダンサー・振付家 伊藤 郁女 [Kaori Ito] のソロでの公演です。 2020年代に入って度々日本で公演するようになっていますが、観るのは2021年の 笈田 ヨシ [Yoshi Oïda] とのコラボレーション [鑑賞メモ] ぶりです。 作品は2018年に自身のカンパニー Compagnie Himé で制作したものです。
自身の多忙なダンサー時代の体験に基づく作品です。 スケジュールに追われて自分を見失っている様を、 奈落に抜ける方形の穴が2箇所に空いた斜めに置かれた白い方形の舞台と、 その上に敷かれた薄布や、腕や膝を固定するような型なども使って、 奈落に落ちたり這い出たりする様な動きや、型にハマってままならない身の動きで、読み上げられる自身のスケジュールに合わせて、自身が疎外されている様を描くようでした。
自身の体験に基いた自伝的な作品で、時折、観客へ問いかけ応答を求める所など、 少し前に観た Aya Ogawa: The Nosebleed [鑑賞メモ] も思い出しましたが、同じようにはいかず、 ソロで自身を演じているという距離感の無さなのか、もしくは、ダンサーの生活の多忙さが自分の生活とはかなり縁遠く感じたせいか、作品の世界に入り難いものを感じてしまいました。