11月頭の三連休初日土曜の晩は、池袋から乃木坂へ。この展覧会を観てきました。
国立新美術館と、2021年に香港西九龍文化地区にオープンした美術館 M+ との協働キュレーションによる、
昭和が終わった1989年以降、2000年代にかけての日本の現代アートが作り出した表現に焦点を当てた展覧会です。
スコープは 『日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション』 (東京都現代美術館, 2024) [鑑賞メモ] と大きく被っており、
やはり1990年代半ばに興隆した街中アートイベントやそれを支えたオルタナティヴ・スペースが日本の現代アートの起点だったのだなと。
『日本現代美術私観』
よりイベントやパフォーマンスのドキュメンテーションの展示が豊富で、
現在の自分の興味からは少し外れてはいるものの、『日本現代美術私観』と比べて自分が観てきた日本の現代アートに近く感じられました。
『日本現代美術私観』では抜け落ちていましたが、ジェンダーやセクシャリティをテーマにしたフェミニズム的な展覧会が1990年代半ばに多く開催されたことに言及があり、
中でも好きだった 笠原 恵美子 [関連する鑑賞メモ] の作品が展示されていました。
街中アートイベントというと東京のものが選ばれがちですが、
『ミュージアム・シティ・福岡 1998』で制作された Navin Rawanchaikul 「博多ドライヴ・イン」 [写真, 鑑賞メモ] が展示されていて、福岡の街中を歩きまわった時のことを思い出されました。
また、今まで自分が観た国内の街中アートイベントの中でもベストと言える『水の波紋 '95』 [言及のある鑑賞メモ] の展示もありました。
そういう展示を観ながら、作品云々というより、懐かしいというか、そういう事もありましたね、という詠嘆が先立つ展覧会でした。
イタリアの高級宝飾品ブランド Bvlgari の展覧会です。
正直に言えば、展示されていた宝飾品は“not for me”で、近代的な色彩論に紐付けようとはしていましたが近代デザインの観点でも興味を引かれるものはありませんでしたが、
日本の建築ユニット SANAA (妹島 和世 + 西沢 立衛) とイタリアのデザインスタジオ FormaFantasma によるという会場デザインが面白いものでした。
上から見ると魚の鱗を連ねたような区画で、時に透明なパーティションも使い、基本構造に並進対称性がありながら単調さを排除していました。
しかし、展示されているのがせいぜい数十センチの小さなオブジェだから生きる空間構成かもしれません。
宝飾品に関する展示の他に、現代アート作品が3点展示されていました。
中山 晃子 “Echo” は、本人がライブて操作する alive painting [鑑賞メモ] ではなくインスタレーションですが、
雲母の煌めき混じりのカラフルが色面を低音で間欠的に水面を湧き立たせ、変化させた色と光を投影するという alive painting の変奏とも言える作品でした。
洗車機に使われるような巨大な回転ブラシが何本も回転する Lara Favaretto “Level Five” は、回転による風に煽られるような迫力がありました。
11月頭の三連休初日土曜は、午後に池袋西口へ。このコンテンポラリーダンス公演を観てきました。
2016年の Vessel 以来継続している ベルギーのダンサー/振付家 Damien Jalet [鑑賞メモ 1, 2] と 日本の現代アート作家 名和 晃平 のコラボレーションによるコンテンポラリーダンス作品です。 元々2020年に日本で世界初演されるはずもコロナ禍で公演中止になり、これが日本初演。 2人のコラボレーションを観るのは初めてです。
黒光する砂で敷き詰められたほぼブラックボックスの舞台で、暗めの照明の中、 その上で物語らしきものはないものの、抽象度の高いイメージがシュールレアリスティックに連鎖するかのような作品でした。 ダンサーたちも砂まみれになり、膝まで埋まった状態で上半身をうねらせるような動き、 フォーメーションでの動きの中で動画の時間進行が前後するかのように振動する動き、 敷き詰められた砂を掻き回しつつのたうつ動き、 糊のような白い高粘度の液体が滴る中での蠢きなど、 黒光り砂や粘度の高い液体に覆われた有機的な物体というか正体不明の生命体が蠢く様を観るようでした。 名和 晃平 の作品というとガラス玉で覆われた動物の剥製のイメージが強いのですが、 生命体を粉粒等で覆ったイメージという点は共通するかもしれません。
パンフレットでは古事記の葦原中国、雅楽や枯山水などに言及されていましたし、Tim Hecker による音楽も電子音の中に雅楽の楽器の音が鳴っていたようにも思いますが、 日本的と言ってもその歴史的文脈はバラバラですし、むしろそんな歴史的文脈は捨象、抽象化されていて、 どちらかというと、ホラー的、SF的な生命体 (エイリアン) の棲まう異星を連想させられました。
約一ヶ月前の話になりますが週末日曜午後に三軒茶屋へ。このコンテンポラリーサーカス公演を観てきました。
世田谷パブリックシアターの秋恒例コンテンポラリーサーカス公演、 今年は2019年 [鑑賞メモ] ぶりに Raphaëlle Boitel 率いるフランスのカンパニー Cie l'Oublié(e)。 今回は、スモークと照明を使った演出にサーカススキルを交え台詞も使った一連のスケッチで、 父と三人姉妹、弟、長女の夫という6名の間の関係の不安定を描いた作品でした
例えば父と次女、結婚後の長女夫妻の不仲が台詞を交えて演劇的に描かれるのですが、 その顛末の描写はあえて避けられ、家族の日常に亀裂が入る瞬間の原因も結果も見えない宙に浮いたような不穏で不条理な状況に焦点が当てられます。 さらに、それをキックにサーカススキルやダンスを使った象徴的な心情表現が展開します。 そんな演劇的な表現と現代的なダンスやサーカススキルを使った象徴的な表現の組み合わせは、 シュールなユーモアもありましたが異化する方向性ではなく、ホームドラマ的な題材に寄り添い過ぎてメロドラマチックにも感じられてしまいました。
うっすらスモークを焚いた空間に輪郭の明瞭な強い照明を当てると光の筋だけくっきり切り出され光と影の境界がスクリーンのようになる効果を使い、 舞台上にマルチウインドウのように複数の場面を並置して切替たり、奥行き方向に並置して光をビートに合わせて前後に動かし細かく場面を切替えたりする、 スモークと照明を使った演出を多用しました。 そんな演出は確かに見応えありましたが、エアリアルのサーカススキルを使った演技が霞んでしまい、その点が物足りなく感じてしまいました。
コロナ禍前は、世田谷パブリックシアターのコンテンポラリー・サーカス公演は
三茶de大道芸の週末に開催されていました。
近年は1週後の週末になっていたのですが、つい昔の感覚で三茶de大道芸と同じ週末 (10月18,19日) と勘違いしていました。
18日に三軒茶屋へ行って勘違いに、そして翌週土曜にダブルブッキングしていることに気づいて呆然。
結局、26日日曜の公演のチケットを取り直して観たのでした。
18日はちょうどプラザ (世田谷線駅前の広場) で大駱駝艦の大道芸を久しぶりに観ることができ、全くの徒労とならずに済みました。
大駱駝艦が三茶de大道芸へ出演したのは6年ぶりとのこと。
パフォーマンスに合わせる音楽はジャズをメインに構成してコロナ禍前 [鑑賞メモ] とはガラッと雰囲気を変えていました。
3週間余り前の週末土曜は、午後に横浜山下町へ。このダンス公演を観てきました。
ポルトガル出身で、競泳、そしてストリートダンスのバックグラウンドを持ち、 2010年代以降、コンテンポラリーダンスの文脈でダンサー・振付家として活動する Marco da Silva Ferreira の2022年作です。 去年もこの作品で来日していたものの首都圏で公演が無く見逃していました。 ポルトガルのコンテンポラリーダンスは観る機会はほとんど無かったので、観る良い機会かと足を運びました。
打楽器とエレクトロニクスの生演奏に合わせ、性別やルーツも様々な、一人は隻腕の10名のダンサーが踊ります。 衣装は黒のスポーツ用のレオタードやアンダーウェアをベースとしたもので、履いているのもスニーカー、鮮やかな色を差した布を腰に巻いたり羽織ったりして時に変化を加えます。 その動きは、ヨーロッパやアフリカのフォークダンスを都会的なストリートダンスでアップデートしたよう。 パーカッションの連打に合わせて手足を細かく動かすアフリカのダンスや、 アンゴラ発のアーバンダンスミュージック Kuduro、 ヨーロッパ、特にポルトガルの民族音楽・舞踊を参照していたようでした。
ポルトガルというと港町の歌謡ファド (Fado) が有名ですが、それではなく、むしろルーラルなもの。 自分の知る範囲では、1990年代にポルトガルのレーベル Farol がリリースしていたような、 例えば Gaiteiro de Lisboa のパーカッション・パートを抜き出したような音楽と感じました。 それ以外にも hardy gardy を思わせるジーと連続するような音がサンプリングで使われたり。 そんな音に合わせてヨーロッパのフォークダンスを思わせる対になったり並んだりしてのダンスしたり。 そんな様々な動きを繋ぎ合わせていたのは、ストリートダンス的なスポーティさも感じるフットワークに重点を置いた踊りでした。
特に中盤くらいまではフォークダンス的な人の配置での見せ方が巧みで、黒字に色を差した衣装も美しく、視覚的な音楽を観るようでした。 もちろん、ポルトガルやその旧植民地の音楽や踊りを参照することで国の成り立ちを間接的に浮かび上がらせていましたが、 終わり近くなり、床に敷いた蓄光の白いシートをスクリーンのように掛けて ポルトガルの独裁政権を終わらせたカーネーション革命 (1975年) の際のプロテストソングの歌詞の訳を投影しつつ歌うことで、その作品テーマがグッと全面に出ます。 直接的に過ぎるようにも感じましたが、粗めながら切れ味良いダンスには、そのくらいの勢いもアリかもしれません。
音楽のうち打楽器を担当した João Pais Filipe は、Burnt Friedman と共演したシングル (Automatic Music Vol.1–Mechanics Of Waving (Nonplace, 2022) など) を通して知ったミュージシャンだったこともあり、 エレクトロニクス (Luis Pestana) との組み合わせもあってダブワイズな展開を予想した所もありましたが、 エコー的な音弄りはあまり感じられず、むしろ、動きのシャープさを生かすような演奏でした。 後で自分のCDコレクション等を聴き返していて気づいたのですが、 舞台中盤で使われた “We will rock you” にも似たズンズンチャというリズムが、 Rui Júnior e o Ó Que Som Tem?: O mundo não quer acabar (Farol, 1998) の最後の曲としても収録されていたり、 エレクトロニクスを担当していた Luis Pestana のアルバム Rosa Pano (bandcamp, 2022) に Gaiteiro de Lisboa の Carlos Guerreiro の hardy gardy がクレジットされていたりしたので、 観ていた時に感じた音楽のポルトガル的な要素の印象は大きく外していなかったでしょうか。
3週間余り前の週末日曜は、午後に池袋西口へ。東京芸術劇場で 舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」 のプログラム2本をハシゴしてきました。
イングランド北部シェフィールドを拠点とする劇団 Forced Entertainment の設立40周年を記念する作品です。 観るのはFESTIVAL/TOKYO 2013で観た The Coming Storm [鑑賞メモ] 以来、十余年ぶりです。
AI生成でされた音声に合わせてリップシンクで演じる作品です。 しかし、その台詞で物語を展開したり、台詞の内容に応じた心情を自然な表現で演じるものではありません。 その音声の内容は登場人物の心情を描くというより舞台の進行に関するものも多く、反復が多く、次第に断片的なものも多用されるので、 次第にそういう音声を使ったメロディの無いコラージュ的な音楽を聴いているような気分になります。 AI合成音声の内容の空疎さはもちろん、それに合わせてリップシンクしながら、少々キッチュな衣装を着替え、舞台上の家具等を移動し、掃除し、という動きをひたすら繰り返して、という意味を感じられない動きから、その形式が浮かび上がるよう。
抑揚はあるものの妙に単調でゆっくりとした女声のセリフが催眠的でしたし、おそらく意図的な空疎さ退屈さもありましたが、 演劇というよりAI生成音声をコラージュした音楽を使ったダンス作品を観るような興味深さもあった舞台でした。
チェコ・プラハを拠点に活動するオブジェクト・シアターによる公演です。 といっても、抽象的なオブジェを操るモダンな演出のものではなく、 伝統的な人形劇に準じた舞台を用い、しかし操り人形ではなく、おもちゃの人形などのオブジェを使い、 台詞は用いずに、物語るというよりシュールレアリスティックなイメージを連ねていくような作品でした。
高さ2.5m幅2m程度の衝立の中央上部に幅60cm高さ40cm程度の開口部が設けられ、そこが人形劇の舞台となります。 演じるのは男性2人女性1人の3人。衝立の裏にずっと隠れているわけでなく、時折衝立前でマイムで進行など演じ、 衝立の上手にはDJブースが置かれ、男性1人がライブで音楽が添えました。 衝立はカトリックのお祭りで使われそうな手作りの刺繍の布で飾り立てられ、 開口部にはやはり刺繍の緞帳を使い、時に2重3重のプロセニアム・アーチを立てて、 そこを舞台に、せいぜい十数cm程度の大きさの、安価なおもちゃの人形、ぬいぐるみ、その他ガラクタのようなファウンド・オブジェを並べ動かして場面を作っていきます。
作り出すイメージは、強権的な政治や虐殺も思わせるものから、脱力するようなユーモアを感じるものまで。 ラストはいわゆる Memento mori に Goethe の今際の言葉 Mehr Licht と、死のイメージ色濃いものでした。 音楽使いも、幕間などにノスタルジックな音楽を使いつつも、音声の断片などの具体音をまぶしたelectronia / dub technoな音楽使い。 脱力するような可愛らしさと不気味さグロテスクさが同居するような公演でした。
終演後は観客を衝立の後ろにまで自由に回らせ、舞台裏の上演に使った大量のオブジェを間近に見ることができるようにしていましたが、そんな所も人形劇のお約束でしょうか。
約1ヶ月前になってしまいましたが、10月三連休中日の日曜は、午後遅めに清澄白河へ。この展覧会を観てきました。
東京都現代美術館の開館30年を記念する展覧会です。
といっても、開館から30年間の東京都現代美術館の歩みを振り返るような展覧会ではなく、
今現在の現代美術のありようを切り取る展覧会でした。
欧米 (北米及びヨーロッパ) の有名な作家は無く、
世界の南北問題や国内の貧富格差の問題、マイノリティに対する抑圧などの作品のテーマの採り方は、
『国際芸術祭「あいち2025」―灰と薔薇のあいまに』 [鑑賞メモ] にも共通しますが、
そちらでは扱いが少なかった東アジアから東南アジアにかけての作家が厚く取り上げられていて、補完しているようにも感じられました。
しかし、作風は『国際芸術祭「あいち2025」―灰と薔薇のあいまに』に多かったすっきりとスタイリッシュの仕上がりというより、
キッチュだったりドキュメントを集積するようなものだったりするものが目立ちました。
それが地域差によるものなのか、キュレータによるディレクションの違いなのかは、わかりかねましたが。
そんな作風もあって、ノンフィクションの本かドキュメンタリー映画としてきっちり仕上げた方が良いのではないかと思ってしまう作品も少なく無かったのですが、
中で印象に残ったのは、インド南西部マハーラシュトラ州ムンバイのスタジオCAMPによる、
ムンバイの高層ビル上部に設置された監視カメラのように向きや焦点を遠隔操作可能としたカメラで撮影した高精細カラー映像を凸凹に配置されたスクリーン投影した7チャンネルビデオ作品 Bombay Tilts Down (2022)。
建設途中の高層ビルからスラム街まで舐めるように撮られた映像に、街の貧富格差の激しさを自分自身がビルの上から観るかのように感じられました。
日本出身で2000年代半ばよりニューヨーク拠点で現代美術の文脈で活動する作家の展覧会です。
国際美術展などで観たことがあるかもしれませんが、意識して観るのは初めてです。
パフォーマンスやそれを行う場としてのインスタレーションを主たる作風の作家のようで、
この展覧会中にもパフォーマンスは行われていますが、タイミングが合わず、インスタレーション作品として観ることになりました。
パフォーマンス抜きで観たということもあると思いますが、動きのある作品の方が興味深く、
直径2m深さ2mほどの円柱状の穴の中で飛び跳ねつつ声をあげている様子を撮った映像作品 «random memo random» (2016) や、
疑似餌を拡大したオブジェを挟み込んだスプリングを頭上に張り巡らせて間欠的に振動させる『測深線』«Sounding Lines» (2024) の、
不条理なユーモアを楽しみました。
コレクション展示室では 『開館30周年記念 MOTコレクション 9つのプロフィール 1935>>>2025』。 企画展『日常のコレオ』とは対照的な、東京都美術館以来の歴史を振り返るようなオーソドックスな年代順の展示構成でした。
3週間前の週末土曜晩は、間が空いたので一旦出直しして、再び池袋西口へ。この舞台を観てきました。
2000年代末から主にダンスの文脈で活動するアメリカの振付家 Faye Driscoll の2023年作です。 といっても、背景や作風の予備知識はほとんど無く、 今年から始まった舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」Autumn Meteorite 2025 Tokyoのプログラムということで足を運んでみました。
明示的に示されたわけではないですが、 フランス・ロマン主義絵画 Théodore Géricault: Radeau de la Méduse 『メデューズ号の筏』 (1819) と その元となったフランス海軍のメデューズ号の遭難とその後の乗組員の筏による漂流という事件 (1816) を参照した作品です。 海を漂う筏に見立てた一辺5m、高さ1m程度の分厚い白いマットレスのような舞台が中央に置かれ、 そこから5mほど距離を置いて舞台を取り囲むように客席を配置するというセッティングで上演されました。
アフリカ系やアジア系も含む老若男女、体型も痩せ型からがっしり太めまで、多様性を意識したパフォーマー10名が、現在のアメリカの街中で普通に見かけそうな服装で現れ、 活人画として筏での漂流している様子を描くかのように狭く足場の不安定な舞台の上でポーズをとります。 それから暫くは無音で、動きが無いと感じるくらいジリジリと少しずつ動き、他のパフォーマーに掴まったりしながら、次第に舞台の上に崩れていきます。 並んだアメリカのごく普通の人たちに大量の水を浴びせた時の様子を高解像度高速度カメラを用い「動く絵画」のような劇的なスローモーション映像とした Bill Viola の The Raft (2004) [鑑賞メモ] というビデオ作品があるのですが、 それを活人画的にパフォーマンス化したようと思いつつ、最初のうちは観ていました。
ほぼ台詞の無いパフォーマンスで、時折、静かにカウントするかのような声や詠唱がある程度の展開ですが、 中盤になると、活人画をいろんなアングルから見せるかのように、時々、舞台を90度ずつ回すようになり、 パフォーマーたちも単にのたうつような姿勢を取るだけでなく、服を脱ぎ/脱がしはじめます。 香りもパフォーマンスに一要素ということで、Faye Driscoll自信を含むスタッフが場面に合わせて調合された香水をスプレーで客席に振りかける時もありました。 後半は皆半裸となり、舞台を勢いよく回し、舞台から転び落ちたり飛び乗ったりという激しい動きとなり、 軸が固定されておらず次第に回転する舞台が客席側に迫ってきたりもしました。 後半、自分の身を含めてスリリングにな展開となり、半ば呆気に取られているうちにパフォーマンスは終わりました。
絵画『メデューズ号の筏』は筏に乗った生存者が接近する船を見つけた救出直前の瞬間を描いたもので、 その絵画のオマージュのようなポーズがこのパフォーマンスの最後近くに出てきたので、 遭難から救出までの漂流13日間が演じられていたのかもしれません。 しかし、タイトルは「風化」という意味ですし、後半の激しい展開は筏が嵐に揉まれる様子を象徴的に示したかのよう。 メデューズ号事件の具体的なエピソードより普遍的に、 激しい天候に晒される中で逃げ場もなくなす術もなく人々がボロボロに「風化」していく様を描いたかのようなパフォーマンスでした。 最初に感じた Bill Viola: The Raft から最後には遠く離れたようで、結局、似たような印象を残したパフォーマンスでした。
ちょうど2週間前に観たばかりの Peeping Tom: Triptych の第三幕 The Hidden Floor (2007) [鑑賞メモ] でも、大厄災 (自然災害や戦争) でそれらになす術なく翻弄される人々のメタファーとして観たわけですが、 それも、近年の極端化する気象とそれに伴う災害の多発や不安定化している国際情勢を意識し、観ている作品へ反映しがちということもあるのかもしれません。
2週間前の週末土曜は、午後に池袋西口へ。この舞台を観てきました。
今年7月に亡くなったアメリカの Robert Wilson の演出による、フランスの女優 Isabelle Huppert の一人舞台です。 様式的な動きと美しい光の演出で知られる Wilson ですが、 生で観たのは Lecture on Nothing 『“無”のレクチャー』 (利賀芸術公園 利賀大山房, 2019) [鑑賞メモ] ぶりです。 演じる Isabelle Huppert は日本では映画俳優として知られますが、舞台俳優としては Ivo van Hove 演出による La Ménagerie de verre [The Glass Menagerie] 『ガラスの動物園』 (新国立劇場 中劇場, 2022) [鑑賞メモ] を観る機会がありました (このときは Huppert を特に目立たせるような演出ではありませんでしたが)。
16世紀半ばのスコットランド女王 Mary, Queen of Scots (aka Mary Stuart) が、 イングランドへの亡命の後、イングランド女王 Elizabeth I 廃位の謀略に関わったとして Fotheringhay 城で処刑されるその前夜を、 実際の書簡などのテキストを独白の台詞として用いて描いた作品です。 Wilson らしい美しい光の演出のミニマリスティックな舞台で、操り人形を思わせる動きをしながら、処刑の時間が迫る中での過去の記憶の走馬灯を、光と語りで現前したかのような、圧倒される一人芝居、約一時間半でした。
セリフは反復が多く、さらに (事前かライブか判然としませんでしたが) 録音も使って反復させていくのですか、 最初はゆっくり、後になるほど捲し立てるような語りとなり、その声の調子の変化で様相が変わっていきます。 セリフがフランス語で、かつ、字幕の位置が遠く、セリフはほとんと追えず、 女王 Mary の処刑に至る経緯の話は耳に/目に入っても滑りがちでしたが、 周囲の人物の処刑や虐殺に関わる語りの時にふっと血生臭いイメージが浮かぶことがあるくらいの語りの強さがありました。 当時の時代背景、特に当時のイングランド、スコットランド、フランスを取り巻く情勢、特に、人物の固有名詞に関する知識があれば、もっと話についていけたかもしれません。 結局のところ、侍女4人の Mary の話の方が印象に残り、歴史的証言というより私的な語りを聞くようでした。
ほとんど光の演出のみのミニマリスティックな演出でしたが、 中盤にはスモークを敷き詰め、椅子に座り、手に枝を持つような演出もありましたし、 その暫く後、台詞なしのノンクレジットの俳優で反転した鏡像のようなシルエットを作り出した場面も、幻想的でした。 象徴的な小道具としては、ヒールと、蝋燭で燃やされる手紙もありましたが、台詞が追いきれていなかったこともあり、何を象徴していたのかは掴みきれませんでした。 Huppert の演技は自然なリアリズム的なものとは対極的なもので、こわばったような手の動き、それに、まるで吊るされた人形が揺すられているかのような前後する動きもあって、操り人形のよう。 そのような形式的な動きを介して、時に彼女の置かれた立場を、時に彼女の感情を示しているようでした。
2週間前の週末日曜は、午後に南青山へ。このライブを観てきました。
1970年代のArild Andersen Quertetの以来ECMへ様々なグループでのリーダー作を残してきているノルウェーのピアノ奏者 Jon Balke の来日公演です。 前半は、今年リリースしたソロアルバム Skrifum (ECM, ECM2839, 2025, CD) でも用いられた自ら開発したライブ・エレクトロニクス・システム Spektrafon を使ったピアノソロ。 休憩を挟んで後半は Spektrafon は用いず、代わりにキーボードを加え、Balke と福盛とデュオで演奏しつつ、白石がライブ・ペインティングならぬライブ書をするというものでした。
Jon Balke の Spektrafon のHMIはタブレットで、ピアノの譜面台を外し、チューニングピンがあるあたりに置いて演奏していました。 その演奏の様子から想像するに、音声入力をフーリエ変換したスペクトルをリアルタイムでタブレットに表示していて、その画面を撫でると、撫でられた部分の周波数成分が撫でられた大きさに応じて増幅される、というシステムのようでした。 実際の音の変化は、倍音成分が増えてサワリのような響きが増えるというより、リバーブがかかるというか残響が大きくなるよう。 そんな音の変化が際立つような、音の間合いを聴かせるような疎なフレーズを、ソフトなタッチで聴かせます。
福盛 進也、白石 雪妃 を迎えた後半は、白石 のライブの書に目が行きがちでした。
白石の書は文や文字を書くのではなく抽象的なもの。
黒使いは控えめで、薄い青炭や、銀泥、金泥も用い、
穂丈が20cmくらいありそうな細筆を使った草書のようなストローク、穂径が10cmくらいありそうな太筆を使った強くシンプルなストロークに、ドリッピングを交えました。
対称性を崩すように床に広げた3本の白い紙の上だけでなく、
着ていた裾を摺る丈のシンプルな白のノースリーブワンピースドレスへも、書いていました。
最初にほとんど水のような薄墨を使い太筆で描いた円が綺麗でと思っていたのですが、
それが次第に乾いて、最後の方ではほとんど消えてしまうという、
そのような書いたものが消える効果も使っていました。
Jon Balke の演奏も、福盛 のドラムと呼応するように、強いタッチの使いや手数の多い時もあり、起伏のある展開になりました。 また、Balke が度々立ち上がってピアノ越しに白石が書く様子をよく見ていて、 ストロークに合わせて分かりやすくフレーズを繰り出すことはありませんでしたが、 まるで書かれる書に着想するかのように音出しをしていました。
前半の Balke の強調されたピアノの残響や、後半の Henri Michaux なども連想される白石の書のイメージもあって、 静かで落ち着いた展開の中に時折幻想がふっと湧き上がるかのような、そんな約2時間のライブでした。
6月22日から母が入院していたわけですが、9月29日の退院後初の週末でした。 というわけで、日曜は昼に母の家へ様子を見に行って、それからのライブでした。 この週末は、Jaco Van Dormael / Michèle Anne De Mey / Astragales: Cold Blood @ 高知県立美術館ホール [日本公演情報] や、 Co.SCOoPP 『竹×絹×現代サーカス「project KUMU」』 @ 関西エアリアル 沓掛スタジオ など、 観に遠征したい公演もあったのですが、暫くは泊まりがけの遠征は難しそうです。
2週間前の週末土曜は、午後に京橋へ。 ユネスコ「世界視聴覚遺産の日」記念特別イベントとして国立映画アーカイブが企画した 『発掘された映画たち2022』の Aプログラムを観ました。
『発掘された映画たち』は国立映画アーカイブが新たに発掘・復元した映画を紹介する企画ですが、 今回の企画は1991年の企画『発掘された映画たち―小宮登美次郎コレクション』のPart 2で、 2021年にイタリア・ボローニャの Il Cinema Ritrovato (チネマ・リトロバート映画祭) と共催した In un labirinto di immagini. La Tomijiro Komiya Collection「映像の迷宮:小宮登美次郎コレクション」の調査結果を踏まえて企画されたものです。 世界初公開のものを集めたAプログラム、Il Cinema Ritrovato 2011で上映した映画から選んだBプログラムのうち、Aプログラムを観ました。 (1991年の上映は観ていません。今回も、都合が合わず、Bプログラムは観られませんでした。)
全て20世紀初頭、第一次世界大戦ほぼ前の劇映画で、構図にしても場面の繋ぎにしても素朴で、ストーリーもシンプルです。 当時のフランス、イタリア、ドイツの映画がどういうものだったのかという映画史的な興味はもちろん、 中世を舞台とした作品、現代 (映画制作と同時代の1900年前後) を舞台にした作品などから、当時のヨーロッパの時代劇、現代劇の雰囲気を想像しながら観ました。
そんな中では、やはり、 La Leçon du gouffre [The Intriguers] 『密計者』 (Pathé Frères, 1913) での川を行く船上や登山中などの野外ロケやメロドラマチックな展開、 Das Teufelsauge [The Devil’s Eye] 『悪魔の眼』 (Vag & Hubert, 1914) での塔から伸びるワイヤーを渡るアクションや塔の崩壊を捉えたスペクタクルの迫力に、後の戦間期のモダンな表現に繋がる所を感じました。 いずれも半分以下の断片での上映だったことが惜しまれますが、断片でも優れていることが伺える作品なので、上映プログラムに含めたのでしょうか。
2週間前の週末土曜、竹橋の後、晩に三軒茶屋へ。この公演を観てきました。
シュールなナラティブ・ダンスを作風とするベルギーのカンパニー Peeping Tom の来日公演です。 ストリーミングで Moeder を観 [鑑賞メモ]、 NDT (Nederlands Dans Theater) に振り付けた La Ruta を観ている [鑑賞メモ] のであまり間が空いた気がしていなかったのですが、 カンパニーの公演として観るのは、 前回2023年2月の Moeder を見逃しているので、 コロナ禍前2017年2月の Vader 以来 [鑑賞メモ]、実に8年半ぶりです。
今回上演した Triptych は、NDTへ振付た The Missing Door (2013), The Lost Room (2015), The Hidden Floor (2027) の三部作を、 独立した3作を上演するトリプルビルではなく、 その間の舞台セットの転換も観客に見せる形で制作順に繋いで、三幕物の1作品として構成した作品です。 三幕とも時折激しく揺れる豪華客船の客室という設定は共通していますが、 最初の The Missing Door は煤けて薄暗い簡素な下等の客室、 続く The Lost Room は対照的に豪華な上等の客室、 最後の The Hidden Floor は水浸しの食堂が舞台で、 同じダンサーが踊るのでキャラクターとしての共通性は感じられるものの、同じ登場人物というほどには繋がりは感じられませんでした。
第一幕の The Hidden Door は、椅子に倒れかかった男性の変死体から始まり、 殺人事件の再現というより、そこで何があったのかその想像というか妄想をダンス化していきます。 男女の痴情のもつれからの殺人のようであり、それをサイコスリラー的なダンスとしていくのですが、 時折、嵐で激しく船が揺れたか風が激しく吹き込んだかを表現するように (舞台を揺らしたり風を送り込んだりはしない)、扉から人が転がり込んできたり、床で人が転がり回ったりで、シリアスな展開が一気にドタバタになります。 明かり明滅と扉の開閉を細かく行うのに合わせて床のダンサーが細かく動きを反復させることで映画フィルムを細かく前後させたものを表現したり、 マジック的な技を使って床を転げ回るオブジェをダンサーに負わせたり。 死後硬直したかのように脱力しているがピンと体がのびた状態の女性ダンサーを背中側から支えて振り回すようなリフトは、 どうやっているのだと思うような身体能力の凄さだけでなく、死体が浮遊しているかのようなホラーなイメージにもなっていました。
第二幕の The Lost Room は、豪華客室に泊まっている夫婦もしくはカップルの、互いの不義 (という想像・妄想) を描いたダンスで、 その目撃者となる部屋付きのメイドの存在もあって、メロドラマのパロディのよう。 疑念や嫉妬を動機とするかのような不穏な展開が繰り広げられるのですが、 The Hidden Door 同様の船が激しく揺れているかのような動きがそれを揺り動かしてあらぬ方向へ展開させます。 奈落抜けの仕組みを仕込んだベッドから姿を消したり、コートを使って生首を抱えているかのような演出をしたり、とマジック的な演出も印象に残りました。
第三幕の The Hidden Floor は、 幾筋か天井から細く水を落とし、フロアに薄く水を張った薄暗い舞台上で中での上演です。 嵐の中、酷く水漏れしている食堂に集まった客船の乗客たちが座り込み、水の溜まった床をほぼ全裸 (男性ダンサーは全裸) で転げ回ります。 第一、二幕で (ダンスとして表現された) 船の揺れは少々メロドラマチックなサイコスリラー的展開をドタバタで異化するかのようでしたが、 第三幕には殺人や不倫のようなわかりやすいフックが無かったこともあり、 むしろ大厄災 (自然災害や戦争) でそれらになす術なく翻弄される人々のメタファーのようで、 静かな終わりは厄災の被害者たち救済を祈るような厳かさでした。
いかにも Peeping Tom らしいシュールレアリスティックでサイコスリラー的な作品でしたが、 今まで彼らの作品を観たときとは違い、David Lunch 的と想起させられることがあまり無く、 むしろ、話の展開とは独立に差し込まれるかのようなドタバタに不条理なユーモアも感じられました。 水飛沫の上げながらのダンスの迫力はもちろんラストは厳粛さすら感じた第三幕も良かったですが、 ユーモラスな場面が多めの第一幕が最も好みでした。 そんなユーモアの塩梅も良く、今まで観た Peeping Tom の作品と比べても最も楽しめた作品でした。
2週間前になってしまいましたが、その土曜は午後遅めに竹橋へ。この展覧会を観てきました。
1930年代から1970年代の美術が十五年戦争 (満州事変、日中戦争、太平洋戦争) をどう描いてきたかを振り返る展覧会です。
全8章構成で5章までが終戦以前、いわゆる戦争画を中心に構成されていました。
戦線の光景だけでなく銃後の光景、大陸・南洋の風景、歴史・仏教主題、象徴的な表現なども含めて戦時の美術/戦争画と定義し、
その中で軍の委嘱の有無に関わらず前線 (戦闘場面) を記録したものを戦争記録画、
中でも軍に委嘱された公式なものを作戦記録画と整理していました。
戦争画は普段のコレクション展示でも4階展示室で数点は常にかかっているので見たことあるものも少なからずでしたが、
特に戦争記録画がずらっと並べて展示されると、その迫力に圧倒されます。
しかし、興味を引かれたのは、戦場を描いたものより、むしろ大陸・満州を題材したものや、銃後を題材としたものでした。
図らずしも両義的になることが多いというだけでなく、そちらの方が同時代の劇映画との共通点が多かったからでしょうか。
約一ヶ月前に国立映画アーカイブの
『返還映画コレクション (3) ――第二次・劇映画篇』で
戦中のプロパガンダ色濃い劇映画 [鑑賞メモ 1, 2] を観ていたこともあり、それらとの相違が意識されました。
自分の観ている映画に偏りはありますし、
確かに『上海陸戦隊』 (東宝, 1939) や『ハワイ・マレー沖海戦』 (東宝, 1942) のような戦争映画はありますが、
劇映画ではむしろ銃後を舞台としたものが主のように思います。
それも、映画では戦場の再現が難しく、また、戦争記録についてはニュース映画があったということが大きいのかもしれません。
今回展示された戦争画の多くは戦後GHQに没収され接収され1966-1967年に返還された「返還絵画」でもあり、
作品主題の重点に相違はあれど、企画としては国立映画アーカイブの上映企画『返還映画コレクション』と響きあうものを感じました。
戦争画の網羅的かつ体系的な構成もあってか戦後の3章は若干蛇足にも感じられてしまったのですが、
そんな中で目を引いたのは、河原 温『死仮面』(1956)。
1950年代の『浴室』シリーズ (1953-1954) のような作風は知っていましたが、
ここまで風刺色が強い作品もあったことを知ることができました。
コレクション展示4階の通常は戦争画もかかっているギャラリーは1940年の小特集でした。 もちろん戦争画は無く、企画展とは対照的な時局と距離を置いた 松本 竣介 などの作品の小特集のよう。 また、日本画ギャラリーにも戦前・戦中の戦争を主題とした作品が展示されていました。
コレクションによる小企画を展示をする2Fギャラリー4は 『新収蔵&特別公開|コレクションにみる日韓』。 今年収集した2作品と合わせて、韓国・朝鮮に関する主題の作品や、韓国の作家の作品の小特集をしていました。
秋の彼岸入りした週末土曜9月20日は墓参や実家方面の野暮用の合間に京橋へ。 会期末が迫ってしまったこの展覧会を観てきました。
『彼女たちのアボリジナル・アート オーストラリア現代美術』 @ アーティゾン美術館 (美術展)
大航海時代以降の植民以前のオーストラリアの先住民アボリジナル・ピープル (Aboriginal people) をバックグラウンドに持つ女性作家7名、1グループを集めての展覧会です。
アボリジナル・ピープル自体の多様性もありますが、
植民地化以降の先住民が置かれた問題をコンセプチャルなインスタレーションや作品として仕上げる現代美術本流の作風の作家 (Judy Watson, Yhonnie Scarce, Julie Gough, Maree Clarke) はもちろん、
むしろ、伝統的な工芸の技法をベースに現代的な表現にアプローチする現代工芸的な作家 (Noŋgirrŋa MARAWILI [Nonggirnga MARAWILI])や、
アウトサイダー・アートやコミュニティ・アートの文脈に近いもの (Tjanpi Desert Weaver, Emily Kame Kngwarreye, Mirdidingkingathi Juwarnda Sally Gabori) など、
様々な制作の背景があるという点を、興味深く観ました。
蛍光するウランガラスの吹きガラスを使った Yhonnie Scarce の洗練されたインスタレーションなど楽しみましたが、
最も印象に残ったのは、オーストラリア中西部の砂漠のアボリジナル・ピープルのコミュニティに属するアーティスト・コレクティブ Tjanpi Desert Weavers による一連のパペットアニメーション。
砂漠の草から作った糸を編んで作った人形の造形はもちろん、
神話や説話に至らないような先住民の間に残されているエピソードの語りとそれに合わせての映像の、
教訓もしくはオチが抜け落ちたかのような力の抜け具合を楽しみました。
9月中旬は沖縄へ3泊の出張。琉球大学へ行ったので、合間に琉球大学博物館 風樹館へ。 琉球・沖縄の文化というと芸能 (音楽、舞踊)、工芸 (染織物、焼物など) や料理などに目が行きがちですが、 藁算というものもあったのか、と。
帰りはフライトまでの合間の時間を使って、久しぶりに 沖縄県立博物館・美術館 (おきみゅー)。 博物館は貸館展覧会だったのでパス。 美術館もコレクション展だけでしたが、小一時間程度しかなかったので、さっと観るにはちょうど良かったでしょうか。 沖縄の美術における現代美術的な表現の契機が、戦後 (1945年) でも本土復帰 (1972年) でもなく、沖縄県立芸術大学の開学 (1986年) にあったということが、興味深くありました。
半月余り前になってしまいましたが、 敬老の日絡みの9月の三連休は土日に名古屋で。開幕したこの国際美術展を観てきました。
2010年から継続していた『あいちトリエンナーレ』ですが、 2022年の前回から日本語名称が『国際芸術祭「あいち」』と変更されています。 今まで足を運んだことが無かったのですが、今回は芸術監督がアラブ首長国連邦の首長国の一つシャールジャ出身で、 観る機会の少ない中東圏を中心とする非欧米の現代アートの作家をまとめて観るよい機会と、 9月13日に愛知県陶磁美術館、14日に愛知県芸術センターの2会場を観ました。 (瀬戸市のまちなかの展示は未見です。)
愛知県陶磁美術館の展示は、ビデオ上映を含む作品は3点のみ。
陶磁の美術館を会場としていることもあり陶磁や土、灰を素材にする立体作品が多めに感じられました。
世界各地の近世 (大航海時代) 以降の植民地主義、特に先住民の問題が通底するテーマとなっていましたが、
それを直接的に図示をしたり関連するドキュメントを積み上げるような作品はなく、
むしろ、象徴的な形態をとったり、作品の素材選びに反映されているような作品がメインでした。
中でも、数十cm大の石の丸みのある円錐様の石の立体作品とそれを敷き詰めた砂の上で転がして不規則な跡を付けた Elena Damiani (ペルー出身/拠点) や、
石炭灰を塗った壁に石炭の塊を一列に並べて展示した Yasmin Smith (オーストラリア出身/拠点) など、
かなりミニマリスト的な仕上がりの作品が印象に残りました。
日本の作家では、大小島 真木 の茶室「陶翠庵」を使ったインスタレーションが印象に残りました。
アカシアの命名に関わる問題を取り上げ、オーストラリアの先住民と入植者の統合の象徴となっていることや、
生物学的な分類とオーストラリアだけでなくアフリカでの命名の歴史的文化的な背景の齟齬の観点から
淡々と語るナレーションが付けられた、コントラスト強い白黒のアカシア類の映像が上映される一方、
茶室内はそれらしくないどぎつい色彩でライトアップされるという。
茶室の空間の狭さを生かし、ライティングの色彩と白黒映像のコントラストも良いインスタレーションでした。
特別展示という位置付けで愛知県陶芸美術館の収蔵品から 三島 喜美代 《時の残骸 90》(1990) が展示されていましたが [関連する鑑賞メモ]、
テーマや作風なども他の展示との違和感を感じさせず、良かったでしょうか。
愛知県芸術センターの展示は、愛知県美術館の10階と8階ギャラリーを使った展示がメインで、 国際芸術祭らしくギャラリー一室使うような、ビデオなど駆使したインスタレーションが、 特に小部屋の多い8階のギャラリーにビデオの上映をメインとする作品が多く集められていました。 その一方で、テーマは愛知県陶芸美術館とも統一感が取れていました。
中では、髪をモチーフとしつつ抽象的に空間構成したインスタレーションの Afra Al Dhaheri (アブダビ出身/拠点)、
2003年のイラク戦争で体験した空爆の空を抽象表現主義を思わせる大きな油彩画として仕上げた Bassim Al Shaker (イラク・バクダッド出身/ニューヨーク拠点)、
シリア内戦でイスラム国に破壊・略奪されたラッカの博物館所蔵の文化財をリトファンに3Dプリントしたものをマトリックス状に並べたライトボックスで展示した Hrair Sarkissian (シリア出身/ロンドン拠点) の Stolen Past (2025) など、
抽象度高く仕上げた作家の作品が印象に残りました。
ビデオを使った作品では、手にまとわりつく蝿の動きや唸る羽音を白い背景で抽象化しつつCGも使って描いた
Silvia Rivas (アルゼンチン・ブエノスアイレス拠点) の Buzzing Dynamics (2010) が、
芸術祭全体の方向性には外れるように思いつつも、そのユーモアが気に入りました。
パレスチナ、イラク、シリア、イエメンの人々がSNSで共有した歌い踊る様子の映像を素材とした映像を
電子的なビートに乗せつつフラットにならないようにした壁面に投影した
Basel Abbas and Ruanne Abou-Rahme (ニューヨーク/パレスチナ・ラマラ拠点) の
May amnesia never kiss us on the mouth (2020-ongoing) にも、DIY的な生々しさを感じました。
その一方で、20世紀前半と思われる白黒のアーカイブ映像や、BBCやNational Geographicが撮ったかのような (実際にBBCの自然班と撮ったとキャプションにあった) 高精細の迫力ある大自然の映像を、象徴的な演出写真のようなカットも交えて、
近世以降の海を舞台とした交易や冒険の歴史をうっすらと浮かび上がらせるような
3スクリーンのビデオ・インスタレーションに仕上げた John Akomfrah (ロンドン拠点) の
Vertigo Sea (2015) の映像美に圧倒されました。
日本の作家では、マユンキキ (ヤウンモシリ[北海道]・チカプニ[近文]コタン出身/北海道拠点) の祖父 川村 カ子ト に主題にしたインスタレーションが印象に残りました。
以前に『翻訳できない私の言葉』 (東京都現代美術館, 2024) [鑑賞メモ] で観たときはリサーチ資料展示のような微妙さを感じたのですが、
この芸術祭では、
旭川アイヌのリーダーかつ天竜峡〜三河川合間の鉄道開通で活躍した測量技師という対象的な二面を描きつつ、
ブラックボックス化したギャラリーに道を示すように並べた石とスピーカーからの音をメインとしてミニマリスティックな空間演出に仕上げていました。
小川 待子 のガラスと陶を組み合わせて天然水晶原石のような造形や溶け崩れた水盤のようなオブジェを使ったインスタレーションも、
その素材感そのものの美しさを感じさせるだけでなく、
その素材からして愛知県芸術センター会場に展示されていながら愛知県陶磁美術館会場との繋がりを意識させるようなところもありました。
愛知県陶磁美術館の茶室「陶翠庵」でも展示していた 大小島 真木 の愛知県芸術センターの作品は、
作風がかなり異なっていて、そちらにはむしろ分裂した印象を受けました。
欧米 (北米及びヨーロッパ) の有名な作家はいませんでしたが、 アジア、アフリカ、南米、オセアニアといった非欧米の現代アートをまとめて観ることができましたが、 芸術監督のバックグラウンドでもある中東圏の作家が印象に残ることが多かったでしょうか。 女性作家も多く、特に愛知県陶芸美術館で展示していた作家は過半が女性でした。 多様なバックグラウンドの作家を集めつつ、植民地主義、特に先住民の問題が通底するテーマとして感じられ、 その一方で最終的には抽象度の高い造形や空間演出の作品に仕上げているものが多く、その点も期待以上に見応えのある芸術祭でした。 (作品展示を前提とした美術館の空間を使った展示のみを観ているので、瀬戸市のまちなかでの展示も観るとまた印象も変わるかもしれませんが。)
『国際芸術祭「あいち2025」―灰と薔薇のあいまに』は、現代美術の展示だけではなく、 パフォーミングアーツのプログラムも組まれています。 というわけで、合わせて以下の3つを観てきました。 パフォーミングアーツの演目も、現代美術と共通するテーマが感じられるものでした。
권 병준 [Kwon Byungjun]: Speak Slowly and It Will Become a Song
パフォーミングアーツ部門のプログラムとしてエントリしていましたが、
ライブで誰かがパフォーマンスしているわけではない、いわゆるサウンドインスタレーションです。
GPSで位置情報を取るヘッドホンを使い芝生広場の位置に応じたサウンドを聴く、いわゆるAR (Augmented Reality) の作品でもあります。
自分が体験した時は雨足が弱まることはあれど降雨で、傘をさしつつ、足元を気にしつつの体験になってしまい、ヘッドホンのサウンドの世界に入り込めなかったということもあるでしょうか。
音声ガイドではないので現実世界との対応付けが分かりやすい必要はないのですが、
芝生広場という特徴に乏しい空間ではその結びつきは乏しく、
単に民謡などに関する話を聴きながら歩きまわるだけに近い体験になってしまいました。
音を使ったAR作品といえば『六本木アートナイト 2012』での Musicity Tokyo [鑑賞メモ] など思い出しますが、 10余年経って技術的にはかなり洗練されたと感じる一方で、街中の文脈のある変化に富んだ空間の方が会場としては適していそうだとも感じてしまいました。 2012年にはDocumenta 13で Janet Cardiff & George Bures Miller: Alter Bahnhof Video Walk という音声だけでなくビデオを使ったAR作品も体験していて [鑑賞メモ]、 その時にも感じたことですが、やはり、この手の作品の面白さは実現する技術とは独立だとも感じてしまいました。
サモアにルーツを持つ Neil Ieremia が1995年に設立した オセアニアの島嶼国やニュージーランドの先住民にルーツを持つメンバーで構成された ニュージーランド [アオテアロア] のコンテンポラリーダンスカンパニーの公演です。 2005年に来日しているとのことですが、今回初めて観ました。
太平洋の島々に対して広く持たれている楽園 (paradise) のイメージの裏にある、 先住民の大航海時代以降の受難の歴史を “hope + resistance”、“sorrow + acceptance”、“control + release”、“faith + crisis”の4部構成で描いた作品でした。 楽園をイメージさせる緑を舞台の両脇に配し、その間で、その役割を表す衣装を着たダンサーが踊ります。 マイムで内面を物語るというより、ダンスで象徴的な場面を連ねていくので、神話的な叙事詩を見るようでした。 そのテーマに合わせたように、サモア語やトンガ語の歌やナレーションが使われる一方、楽園を想起させる映画音楽的な音楽が歪んだ形で使われましたが、 実に1980s前半風、特にFats CometかArthur Bakerかのようなold school hip-hop / electro / freestyleな (おそらくオリジナルの) 音楽が多用されていたのが、 このスタイルの音楽を選択した意図を汲み取りかね、気になってしまいました。
Basel Abbas and Ruanne Abou-Rahme with Baraari, Haykal and Julmud:
Enemy of the Sun
愛知県美術館ギャラリーで現代美術の展示にも参加していた Basel Abbas and Ruanne Abou-Rahme の、
クラブのライブ及びラウンジのスペースを使ったパフォーマンスです。
没入型のビデオ・インスタレーションしながら、
パレスチナ・ラマラ拠点もしくはそこを出て欧米で活動するパレスチナ系ミュージシャン Baraari, Haykal, Julmud がライブしました。
最初は再入国できなくなる可能性があるため来日できなくなった (おそらく) Haykal がリモート参加でラップで30分ほど、 続いて、Basel Abbas がラップトップでビデオを操作する横で Baraari と Julmud がラップやトリップホップ風に歌うようなフローで30分ほど。 その後、ラップ抜きで Julmud がより抽象的な音出しを始めたのですが、このあたりで体力的に限界となり帰ることにしました。 かつての SuperDeluxeのような打ちっぱなしの壁にくっきり投影されればビデオプロジェクションに没入感も出たかもしれませんが、 雑然としたクラブのラウンジ的なスペースではよくあるビデオ演出程度になってしまったでしょうか。
会員になってるチェーンのシティホテルになんとか相応のお値段で泊ることができたのですが、 宿泊予約サイトで検索するとホテルが空いていても普段の倍くらい。 駅やホテルでスーツケース押した推し活らしき人 (アイドルかと思われるものの推しが何かは判らなかった) を多く見かけたので、三連休だからだけではなかったのでしょう。 日帰りにしようかと思った程ですが、夜の公演も観ることができましたし、やはり1泊にして良かったです。
陶磁資料館南駅から会場の愛知県陶磁美術館へ向かう間に一緒になった人と話したり、 会場の陶磁美術館でオープニングで来ていた作家か関係者らしき人に英語で「素敵なシャツですね」と声をかけられたり、という所にも、いかにもフェスに来た感がありました。
食事は、泊まったホテルの朝食が一番まともだったという結果になってしまいました。 ランチや休憩では会場に併設された関連メニューを出しているレストランやカフェに入ったのですが、 席数ではなく処理能力が不足していてオペレーションが破綻していました。これは、残念。
この週末の土曜は、午後遅くに横浜馬車道へ。このパフォーマンスを観てきました。
コンテンポラリー・ダンス及び現代アートの文脈で活動する Tiia Kasurinen のパフォーマンス作品です。
今まで作ってきた作風などの予備知識はなく、2024年のレジデンスの際のワークインプログレス公演も観ていませんが、
「音のジェンダー」をコンセプトとしたパフォーマンスということに引かれて観てきました。
パフォーマンスは Tiia Kasurinen 自身の歌、ボイス、パフォーマンスと
Eliel Tammiharju aka Keliel によるラップトップとハープの演奏と歌からなるものでした。
コンセプトという点では、カラスの鳴き声を思わせる引き攣ったような抽象的な発声と
ハイトーンで歌われる indietronica / dream pop 風の歌が対比され、
歌自身もヴォコーダ (もしくはそれ相当の機能のあるラップトップのソフトウェア) を使い声のピッチを微妙にずらされます。
ビジュアル的には、Tiia Kasurinen はドラァグクイーン風のメイクに盛った鬘、
しかし、衣装はドラァグのようなどぎついものではなくコルセットにクリノリン。
フェミニズムの文脈では女性の拘束の象徴として扱われることが多いものですが、
ドラァグ風の頭部もあってか、むしろ19世紀半ばのファッションのポップでキッチュなパロディのようでもありました。
後半になるとクリノリンは脱ぎ捨てられ、ダメージジーンズ姿となります。
元の歌声が強くジェンダー規範を意識させられるもの (例えば、日本で言えば、アナウンスの女声や、アニメ女優の声) で無かったこともあり、
声が対比されたりビッチがずらされたりという点については、さほどピンとくる所はありませんでした。
むしろ、ドラァグ風のメイクや拘束を感じさせる所作、そして、抽象的な時間空間や動きのコンポジションのような抽象ダンスや、もしくは、身体表現で物語るナラティヴなダンスとは違う、
コンセプトに基づく象徴的でシュールレアリスティックなイメージを連ねていくような構成に、
Matthew Barney: The Cremaster cycle [鑑賞メモ] に近いものを感じました。
そして、The Cremaster cycle もその文脈で日本で紹介され受容されたように思いますが、 1990年代後半にジェンダー/セクシャリティをテーマとした現代アートを取り上げる展覧会が多く開催され、そこではパフォーマンスが伴うこと多かったことを思い出したりもしました。 例えば、Majida Khattari のパフォーマンス [鑑賞メモ] など (生では見逃したのですが)。 そういう意味で、この Songbird も、ダンスの文脈での公演という形式よりも、現代美術展でのイベントとして行われるギャラリーの一角などを使ったパフォーマンスという形式での上演の方が似合いそうと感じました。
会場は北仲ブリック・ノースの3階に入居している Dance Base Yokohama (DaBY) がこの8月に新たに同ビル1階にオープンさせたスタジオでした。 運営事業者としての契約終了に伴い2024年度末をもって終了してしまった BankART KAIKO だった場所です。 新高島駅の BankART Station は次の運営事業者 Ongoing による Art Center NEW となったわけですが、 KAIKO は引き継がれずどうなるのだろうと思っていました。 似たような性格のスペースになって良かったでしょうか。
8月最終週の後半は金沢へ。一通り仕事が済んだ金曜夕方にこの展覧会を観てきました。
近代の歴史や記憶、現代の社会問題に着想した作品を集めた現代美術の展覧会です。
といっても、現代美術はそのような作品が多いので、特に強い方向性を感じる程では無かったでしょうか。
Gerhard Richter や Anselm Kiefer などの有名どころも展示されていましたが、
ポーランドの作家 Wilhelm Sasnal による、現代南米の社会問題に取材しその報道写真的な構図を使いつつも、
抽象度を上げてシルクスクリーンのようにフラットな質感の油彩として仕上げた一連の作品 (2019-2023) が印象に残りました。
2012年のDocumenta 13で観た William Kentridge: The Refusal of Time (2012) [鑑賞メモ] を再見することができましたが、
Documenta 13とはかなり異なる印象を残しました。
抽象的なアニメーションも交えつつ、マイムやダンスの実写やそのストップモーションによる映像投影を使い、
イマーシヴなパフォーマンス作品をインスタレーションとして再構成したものを観るようでした。
これも、現代美術の文脈よりオペラの演出で Kentridge の作品を観る機会が増え [鑑賞メモ]、
また、空いたギャラリーで腰を据えて通して観ることができたからでしょうか。
Peter Galison: Einstein’s Clocks, Poincaré’s Maps — Empires of Time (2003)
[ピーター・ギャリソン『アインシュタインの時計 ポアンカレの地図 — 鋳造される時間』 (名古屋大学出版会, 2015)]
に着想したと思われ、帝国主義の時代 (19世紀後半から20世紀初頭) における時間の標準化をテーマとしているのですが、
マイムやダンスの映像を観ていて、それと並行して進展した植民地化も射程に入っていたことに気付かされました。
コレクション展は素材をテーマにしており、現代美術というよりガラス、陶磁、漆工などの現代工芸の文脈の作品も多く含まれていました。
それらも良かったのですが、結局、現代美術の文脈の、Carsten Nikolaiのアルミ板やブラウン管、
山崎つる子の着色したプリキの板や缶を使った、
近現代の工業的な質感によるミニマリスティックな作品の方に惹かれてしまいました。
企画展、コレクション展とは別の国内巡回の無料展示です。 この美術館で2017年に開催された Janet Cardiff ↦ George Bures Miller の大規模個展 [鑑賞メモ] にはこの作品 (2001) は出ておらず、 2009年に銀座メゾンエルメス ル・フォーラム [Ginza Maison Hèrmes Le Forum] [鑑賞メモ] で観て以来の再見です。 8組の5声聖歌隊のために Thomas Tallis 作曲した motet Spem In Alium (c.1570) のパート毎の録音14分 (不明瞭な会話からなる環境音3分を含む) を40個のスピーカーを使って再生する作品という作品です。 商業施設内の展示スペースで体験した時は聖堂のような空間に展示した方が良いのではないかと思いましたが、 広い正方形のほぼホワイトボックスという空間に40個のスピーカーをほぼ円形に並べるというミニマリスティックな展示で体験すると、 その音だけで抽象的な空間に世界が立ち上がってくるよう。 異世界へ連れて行かれるような感が良かった。
1年余ぶりの金沢 [前回の鑑賞メモ] でしたが、
今回は最高気温35度前後の猛暑に美術館・博物館巡りをする気力を削がれました。
それでも、暑くなり過ぎる前の翌土曜午前に軽く散策ということで、
金沢21世紀美術館の無料展示、Janet Cardiff: The Forty Part Motet と恒久展示作品 James Turrell: Blue Planet Sky (2004) で
併せて30分ほど瞑想した後、本多公園の緑の小径を抜けて、谷口 吉生 建築の
鈴木大拙館 で再び瞑想。
暑さに散策は早々に切り上げ、森八本店へ。
森八茶寮でひと息ついたあと、金沢菓子木型美術館を見学しました。
しかし、前回に続いて今回も
日本工芸館は展示替え休館中。
今度こそ、開館しているタイミングで金沢へ行きたいものです。
先週末土曜は夕方に三軒茶屋へ。この舞台を観てきました。
岡本 晃樹 主宰の現代サーカス・カンパニーの新作公演です。 Room Kidsとして観るのは初めてですが、 2022年に岡本が I/O Multimedia Performance CompanyとしてYPAMフリンジにエントリした 『in/deduction』を観たことがありました [鑑賞メモ]。 出演として3名クレジットされていますが、岡本以外の2名はほぼ黒子といっていい役割です。 舞台の上には10余りのアンティークの椅子や扇風機などが並べられ、舞台に投影されたエンドロールではそれらも出演としてクレジットされていました。 最初、それらはラップで包まれた状態なのですが、ラップを剥がし、黒子の2人が位置を動かしていきます。 もちろん、岡本が得意とする物理エンジン等を活用しライブで画像処理した映像プロジェクションも使っていました。
中でも、椅子や扇風機に仕込まれた小さなライトの白い光の点と、岡本がジャグリングする白いボールの点を、ビデオカメラで捉えて、 点を結ぶ疎な網状の白線を加えて投影した場面は、パフォーマーと並べられたオブジェの関係性を可視化するよう。 最後の繰り返し流れるエンドロールの文字が次第に伏字□になっていく中、オブジェにも白い方形の箱が被されていくエンディングの、ディストピア的なイメージも印象に残りました。 このように良いと思う場面もあり、 音楽や映像も手がけるなど 岡本 にアイデア、やりたい事がいろいろあるんだろうと思う一方、 自身のジャグリングとシンクロさせるように録画済みの様々な場所でのジャグリングの映像をマトリクス的に並べて投影する場面など、 並べられたオブジェとの関係性が不明確に使われている音楽や映像も少なからずで、アイデアが焦点を結んでいない印象も受けました。
お盆の終わりの先々週末は土日ともに午後に京橋へ。 国立映画アーカイブの 『返還映画コレクション (3) ――第二次・劇映画篇』で、 先日観た3本 [鑑賞メモ] に続いて、この3本を観てきました。 戦後に「非民主的映画の排除」によって上映を禁止された戦中期の劇映画です。
あらすじ: 丸の内で優秀な課長として働く八田 啓一は、同郷ということもあり父 進介と親交のある 政治家 金沢の娘の信江と婚約している。 金沢は死にあたり与太者 (不良) に被れてしまった学生の息子 喜郎 の面倒を同郷の 八田 進介 に託し、 啓一 は 喜郎 を八田の家に引き取り聞く耳を持つようになるまで待つという方針で更生させるのを父に任せてもらう。 啓一の妹 弘美が自宅に連れてきた女学校の友人から10円を 喜郎 すくねて使ってしまうが、啓一や弘美がそのことについて 喜郎 を父から庇うのを見て、 喜郎 は改心し、10円を返すために与太者の牧から10円を借りる。 しかし、そのことを恩に着せられ、牧に80円を工面するように求められてしまう。 困った牧は八田家が留守中に届いた100円の商品券を受け取り啓一に黙って牧への金に使ってしまう。 しかし、その100円は 啓一 を陥れるための賄賂であり、賄賂を受け取ったとされた 啓一 は会社に辞表を出す。 そのことを知った 善郎 は、自暴自棄となって牧へ復讐に行くが、大怪我を負ってしまう。 善郎への輸血が必要となり、啓一が自分から輸血するように申し出る。 その後、事情を知った会社の上司から辞表は不受理だと連絡を受ける。
三井 秀男 演じる与太者の更生譚という点では、1930年代前半に松竹蒲田で 野村 浩将 監督が撮った 「與太者シリーズ」 [鑑賞メモ] と共通点も多い作品です。 しかし、「與太者シリーズ」がヒロインとの出会いを通して与太物トリオが自ら更生するという話 (後に行くほど根はいいやつという話になる) なのに対し、 この映画は八田家の人々が思いやりを持って接することを通して与太者を更生させる、という色が強い内容です。 体罰を使って高圧的に更生させるというより聞く耳を持つまで待って善導させるとはいえ、 今から見るとパターナリスティックな家族観や親孝行、義理人情の感覚の古さは否めないでしょうか。 とはいえ、このレベルでも戦後の「非民主的映画の排除」の対象となったのかと感慨深いものがありました。
といっても、八田家でのやりとりといい、都会の中間階級の良質なホームドラマとして仕上げていました。 「與太者シリーズ」でのヒロイン相当は、八田家のハイカラな女学生の妹 弘美 役の 木暮 実千代 です。 清水 宏 『暁の合唱』 (1941) [鑑賞メモ] でもそうでしたが、こういう男性に物怖じしないくらいの役が似合います。 現代的な美人の 槇 芙佐子、メガネっ子の 東山 光子 など、カフェーの女給のレベルでも印象に残るよい女優が揃ってるところが、さすが松竹大船でしょうか。 冒頭クレジットが欠落していましたが、車載のカメラから捉えたモダンな東京の風景のモンタージュに スリリングなジャズの音楽が付けられたオープニングは、 戦中でもこんなモダン表現があったのかと驚きでした。その後のホームドラマ的な展開には、浮いているようにも感じましたが。
あらすじ: 戦争で夫を亡した くに子 は、男の子を育てつつ、下町で夫と始めたクリーニング店を2人の職人を雇い続けつつタイピストの仕事をする妹 かず枝 に助けられつつ続けている。 かず枝 の女学校時代の同級生で医師に嫁いだが 朝子 も、夫を戦争で亡くしている。 ある日、くに子 の遠縁にあたるという男 信造 が現れ、男性を雇わずにできる店に変えるべきだと言い出し、かず枝の反対にもかかわらず、文房具店を買い取る資金という口実にくに子の亡夫の弔慰金を持ち出し、クリーニング店を売る話も進めてしまう。 一方、朝子は亡夫の仕事を継ごうと女子医専への進学を考え、そのことを かず枝 に相談する。 義母 貞子は若い かず枝 が再婚できるよう実家に帰す話を進めてしまうが、それに勘づいた 朝子 は自分の意思を義母に伝えて認めてもらう。 一方、信造 の言う文房具店を買う話は無いと かず枝 が気付き、信造 を問いただすが、信造 は弔慰金を帰すことなく姿をくらましてしまう。 さらに、信造 はクリーニングの機械の売却話を決めてしまっており、その相手から機械を渡すか代金を返すか求められる。 金策のため かず枝 は 朝子 を訪れるが、実家へは帰らず女子医専へ行く意思が認められたという話を かず枝 から聞き、言い出せずに帰ることになる。 金策尽きて店を引き払う準備を終えた段階で、かず枝 の働きで愛国婦人会に援助してもらえることになり、店を続けることができることになった。 信造 からも株に失敗して金を失ってしまったがいずれ返すという手紙が届いた。
下町で小さなクリーニング店を営む下層階級の くに子 と、実家も裕福で嫁ぎ先も医者という上流階級の 朝子 という、 2人の戦争未亡人のそれぞれの悲哀と希望を対比的に描いた映画です。 かず枝 を接点としてはしているものの、エピソードとしてはほぼ並行したまま交わらずに終わってしまいます。 どちらかといえば、クリーニング店を営む くに子 と かず枝 の話がメインで、 遠縁の者がもたらしたトラブルを巡る下町の一家 (雇われの職人を含む) の人情の機微を描いたホームドラマの味わいでした。 最後の最後になって、愛国婦人会の融資が出てきて、店をうまく続けられたことを暗示するような店から親子で小学校の入学式に向かう様子に、 「今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです」という歌『兵隊さんよありがとう』を被せて終わるという、 楽観的というよりプロパガンダ的なエンディングが、取って付けたかのようでした。
一方の上流階級の戦争未亡人を演じたのは 槇 芙佐子 (この映画では 槙 芙左子 とクレジット)。 吉村 公三郎 『暖流』 (松竹大船, 1939) [鑑賞メモ] や 大庭 秀雄 『花は僞らず』 (松竹大船, 1941) [鑑賞メモ] など今まで観たものでは 物語の要所にはなるものの脇役ばかりだったので、 スキーへ行く場面もあったりしましたし、寡婦ながらモダンな洋装もエレガントな 槇 芙佐子 を堪能できました。 特に、亡夫の書斎で独り物思いにふける場面 (2回ある) での、 静かに視線をやったり机上のものを弄ったりする様を、シンメトリーな画面の固定カメラで捉えて、控え目な音楽を少し遅れて添える (一回目は置き時計の鳴る音) という心理描写の演出が、 実にメロドラマチックでした。 しかし、女子医専に通い出すことろまで描かなかったので、途中でフェードアウトした感もあり、その点は惜しいです。
あらすじ: 東京・丸の内でタイピストで働く邦子は、兄の出征で独りになった母の面倒をみるため、郷里の長野の山村へ帰る。 郷里の村で再開した幼馴染の恋人 清 は村の仲間と開拓団に志願して満州へ行くことを考えており、春になったら一緒に満州へ行こうと邦子は誘われた。 やがて、東京で同じ職場だった 津村 がスキーで偶然 邦子 の郷里近くの別荘にやって来て、妹の怪我をきっかけに偶然邦子と再開する。 都会のブルジョワ風の津村と親しげにする一方、母を置いて満州へ行くことはできないと言う邦子の態度が、清は気に入らなかった。 ある夜、兄が負傷したという知らせが、それから暫くして、東京の病院に移ってきたという知らせが届いた。 旅費が工面できず東京へ見舞いに行けずにいると、津村が迎えに来て、津村の手配で母と一緒に東京へ向かった。 そして、邦子たちが東京へ行っている間に、急に清たちの満州出発が決まってしまう。 邦子たちが東京から戻った時に遠目に見えた見送りの行列は清たちのもので、邦子がそれに気づいて駅に駆けつけた時には、列車は走り去っていた。 清の邦子宛の置き手紙には、邦子のことを忘れると書かれていた。 それから暫く経ち、傷が癒えた兄が家に戻った頃、満州の清から邦子へ手紙が届き、そこには満州へ来て欲しいと書かれていた。邦子は清を追って満州へ行くと決心するのだった。
物語の軸は東京帰りの女性と郷里の恋人で満州へ行く男性を巡るメロドラマです。 東京の職場で一緒だったブルジョワの男性の存在が二人の気持ちにすれ違いを生じさせ、 さらに兄の見舞いという理由で一時的であれと東京に行くことで、物理的にもすれ違ってしまいます。 といっても、舞台が信州の山村なので、都会的なメロドラマというよりも、人情物の味わいの方が強いでしょうか。 主人公の邦子を演じるのは 水戸 光子 ですが、東京のブルジョワのお嬢様ではないけれども、田舎の人々から見ると都会的な女性という、微妙なポジションの女性がはまり役です。 特に、田舎から東京に出てきたタイピストという役は、同監督が翌年に撮った 『花は僞らず』 (松竹大船, 1941) [鑑賞メモ] での役と被ります。 『美しき隣人』の邦子が『花は僞らず』の純子の原型になったのかもしれません。
この映画には農林省馬政局 指導のクレジットがあり、 農耕馬の軍馬としての徴発の向けての準備としての 農耕馬に対する飼育費用支援や軍事教練の様子も描かれていましたが、 物語の流れと関係が無く、単なる時代背景的なエピソードとなっていました。 むしろ、満蒙開拓団への志願や出発の場面の方が、プロパガンダ色を強く感じました。
先日観た3本、渡邊 邦男 『召集令』、佐々木 康 『進軍の歌』、佐々木 啓祐 『愛國の花』 [鑑賞メモ] と合わせ、 この上映企画で計6作品を観ましたが、うち松竹大船の5本は、プロパガンダの要素はさておき、 実にホームドラマ & メロドラマとしてさすがによくできていると感心しました。 その一方で、映画でその機微が美しく描かれた善意、人情や相手を思う気持ちが、こうも「お国のために」という形で回収されていくのかと、少々空恐ろしくも感じました。
ちなみに、ホールでは上映回の幕間に上映作品の主題歌や劇中歌を控え目の音量で流していました。 その映画を観たということもあるかと思いますが、かかっていた曲の中では『愛國の花』が耳に残りました。
2週間前の8月の3連休最終11日は、昼過ぎに初台へ。この舞台を観てきました。
新国立劇場の2024/2025シーズン最後のオペラは新国立劇場の創作委嘱による新作の初演です。 ドイツ在住の小説家・詩人の多和田 葉子 によるオリジナルの多言語 (日本語、ドイツ語、ウクライナ語、など) による台本で、 作曲はドイツと日本を拠点に現代音楽の文脈で活動する 細川 俊夫 です。 細川 俊夫 のオペラは以前に『松風』Matsukaze を観る機会があり [鑑賞メモ]、 その前にもコンサートを聴く機会はありました [鑑賞メモ]。 そんな作曲家への興味というだけでなく、新国立劇場での新作オペラ創作への期待も込めて、観にいきました。 途中休憩はあるものの無調で2時間余かと身構えていたいたところはありましたが、 ダンスや映像を駆使した演出はもちろん、音楽的にも予想以上に取り付きやすい作品でした。
舞台設定は具体的に過ぎないようぼかされていましたが、 戦禍を逃れてウクライナから来たらしき Natasha と大災害後に日本を離れて旅しているらしき Arato がおそらくドイツで出会い、 Mephisto の孫 (Mephistos Enkel) を名乗る男に連れられ、地獄巡りをするというプロットです。 巡る地獄は現代の社会問題や自然災害に着想したもので、森林地獄、快楽地獄、洪水地獄、ビジネス地獄、沼地獄、炎上地獄、旱魃地獄の7つ。 ビジネス地獄と沼地獄の間に幕間がありました。 前半、森林地獄や洪水地獄は抽象度高めの演出と音楽の一方、 快楽地獄とビジネス地獄では音楽にポピュラー音楽やミニマル音楽のイデオムが用いられ演出もキッチュさを感じる要素が多め。 細川 俊夫 がこんな曲を作るのかという新鮮な驚きもありましたが、 この対比がメリハリを作り、地獄1場面につき15分程度ということもあってテンポよく展開していきました。 後半は前半のようなポップでキッチュな音楽・演出はなく、進むほどに抽象度が上がる感もありましたが、 炎上地獄での Natasha の独唱の美しさや、最後の旱魃地獄での Natasha と Arato が二重唱しながら光に吸い上げられるように昇天していく演出など、印象に残りました。
抽象的な横にスライドする枠のような舞台装置と具体的な映像から抽象的なパターンまで様々な映像のプロジェクション、 効果音と音楽の中間を行くような立体的な電子音響、 その動きからコーラスに踊らせているのではなくノンクレジットのダンサーなのではないかと思いますがそんなダンサーの踊りや動きもあり、最後まで飽きさせませんでした。 ビジネス地獄がモダンタイムズ的な20世紀のイメージの延長で現代のテックライトはまた違うのでは、など、個々の地獄のディテールに違和感を覚える所もありましたが、全体としてよく作られた演出と感じました。
しかし、良くできた舞台作品とは思いつつも、観終わった後、何かメッセージが伝わってきた感が薄くぼんやりとした印象になってしまいました。 これも、Natasha や Arato という主人公2名が、何か使命を持っていたり、生き残りを賭けなくてはならないような状況というより、連れられて地獄を見てまわっているという少々受け身な感があったからのように思います。
8月の3連休中日10日は、雨の中、午後に渋谷宮益坂上へ。 共産政権下の1960年代から活動するストップモーション・アニメーションと実写を交えたシュールレアリズム的な作風で知られる映像作家 Jan Švankmajer の、 シアター・イメージフォーラムでの最新作上/映と それに合わせた特集上映『ヤン・シュヴァンクマイエル レトロスペクティヴ 2025』から、 この2本を観て来ました。 1980年代までの短編はDVDも持っており上映でも観たことがありますが、長編は観たことが無かったので、これも良い機会かと。
Švankmajer 初の長編映画は、Lewis Carroll: Alice's' Adventures in Wonderland 『不思議の国のアリス』 (1985) に基づくもの。 主人公の Alice をほぼ実写で撮る一方、それ以外の登場人物をほぼ人形アニメーションで描いています (豚などの一部を除く)。 アリスが夢を観ているのがピクニック先の野外ではなく、ウサギの剥製や人形が雑然と置かれた物置のような場所で、 そこ置かれていたものが夢の中で動き出す、という設定の違いはあれど、 その時代の風刺となるような翻案は感じられず、比較的ストレートな映画化でした。 むしろ、屋外の場面をほとんど無くして屋内の閉鎖的な空間の中に場を移したこと、 人形の少々グロテスクな造形、建物や家具などの古びて薄汚れた質感などが、 オリジナルの物語に既にあった不条理感を、より不気味に際立たせていました。 特に A Mad Tea-Party「気違いのお茶会」の場面など、庭園では無く地下の一室に場を移したことで、逃げ場のない密室的な不条理さを醸し出していました。
Švankmajer 最後の劇映画とも言われるこの映画は、チャペック兄弟 (Bratři Čapkové: Kerel Čapek a Josef Čapek) の戯曲 Ze života hmyzu 『虫の生活』 (1921) に着想したもの。 アマチュア劇団が『虫の生活』の第2幕の稽古をする様子を、Švankmajer が劇映画化する様子も交えて映画化しています。 劇中劇の『虫の生活』、アマチュア劇団の稽古というドラマ、そして、それを映画化する様子を捉えたドキュメンタリーという、二重にメタな構造を持つ、実写を主とする映画です。
アマチュア劇団の稽古の話はシームレスに劇中劇とも混じり合った登場人物の妄想の描写とシームレスに繋がっており、その関係はマジックリアリズム的で、登場人物の妄想やそこへの繋ぎにストップモーションアニメーションが活用されています。 『蟲』というタイトル通り、大量の虫を使ったゾワゾワするような映像も多用されます。 劇団員のうち2人がドラマの途中で死にますが、何も無かったように稽古がはけ、そもそもこの2人自体が登場人物の妄想だったかのよう。 一方、映画化ドキュメンタリーの部分は、実際の場面に先立ち種明かしするかのように挿入されることが多く、むしろドラマの世界への没入を妨げる異化効果の強いものでした。 一見複雑な構造を持つ映画ですが、強面の難解な映画ではなく、やる気も技術も伴わない劇団員の稽古のドタバタな様を軸に力の抜けたユーモアが楽しめました。
演劇にアニメーション技法などを活用してメタな構造を加えて映像化している所に、 León & Cociña: Los Hiperbóreos [The Hyperboreans] 『ハイパーボリア人』 (2025) [鑑賞メモ] や 人形劇やアニメーションを交えたマルチディシプナリーな舞台作品との共通点も感じられ、その点を興味深く観ました。 その一方で、ドキュメンタリーの部分で自ら言っていたように Jan Švankmajer の意図とは思いますが、 社会風刺が薄く、その点が少々物足りなくも感じました。
国立映画アーカイブでは上映企画『返還映画コレクション (3) ――第二次・劇映画篇』が開催中 [第1回, 第2回の鑑賞メモ]。 戦後に民間情報教育局の覚書「非民主的映画の排除」によって上映を禁止されアメリカに接収され1968年の第二次で返還された、戦中期1937-1944年の劇映画の特集上映です。 7月31日午後と8月9日晩に、まずは、この3本を観てきました。
軍事浪曲『召集令』というものがあり、その浪曲が無声期から多数映画化されていたということを、この特集上映で知りました。 そもそも浪曲映画というものを初めて観ましたが、この映画ではナレーション的に浪曲が使われていました。 病臥の妻に子二人と貧しく高利貸しに追われる忠義心強い男に召集令状が届くが、思い詰めた妻が自死したことにより高利貸しは反省改心し、巡査に子を任せ、男は心残りなく応召出征するという話です。 貧苦の描写と浪曲の組み合わせはもちろん、時折挟まれる洋式な軍歌とのコントラストも興味深く感じられました。
あらすじ: 幼馴染の仲ながら、安藤は労働条件の改善を主張する労働者の代表として、遠藤は社長の息子であり経営陣の一人として、対立する関係にあります。 二人は同時に同じ部隊に召集され中国戦線に派遣され、戦場での危機的な状況の中で和解するものの、安藤は戦死します。 一方、遠藤に片思いする芸者 お雪は、夫の出征後に子を抱えて苦労する安藤の妻と偶然に知り合い、彼らを遠藤家に引き取らせる一方、自身は従軍看護婦に志願します。 従軍看護婦となったお雪は、軍事病院で偶然に安藤の死に立ち会い、遠藤とも再会しますが、互いの任務のため再び別れます。
浪曲は使われておらず、モダンで都会的な男女が織りなすドラマとなっていますが、 召集を契機として貧富の対立を和解し一体化を訴えるテーマは『召集令』と共通して、広義の「召集令もの」と言える映画です。 メロドラマ的な要素も少なめでプロパガンダ色濃いストーリーはさておき、 女性映画の松竹大船が「召集令もの」を作ると、流石に女性陣の心情描写も丁寧です。 佐分利 信、桑野 通子に、川崎 弘子、水戸 光子 など当時の看板俳優が出演しており、その点も楽しめました。 松竹大船は戦場や工場など現場の場面が苦手という印象がありましたが、 『進軍の歌』の戦場シーンはなかなかのもので、松竹でもこういう場面が撮れるのか、という驚きもありました。
この映画が公開された1937年というのは、盧溝橋事件で日中戦争に突入した年です。 映画中の中国での戦闘シーンは、その時局を反映したものでしょう。 1937年の松竹大船が公開した映画といえば、島津 保次郎 『婚約三羽烏』 [鑑賞メモ]、 小津 安二郎 『淑女は何を忘れたか』 [鑑賞メモ]、 清水 宏 『恋も忘れて』 [鑑賞メモ] で、 これらの映画ではそんな時局を全く感じさせません。その一方でこんな映画も公開されていたのか、と、感慨深いものがありました。
あらすじ: 綾子は長野の旧家の娘で、父 文三は商船の艦長を引退し隠居暮らし、母は既に亡く、航空機の試験パイロットだった兄も事故で亡くしています。 文三は引退を止め輸送船の船員への徴用を志願しますが、その前に娘の結婚を望みます。 そこで、文三も信頼し、綾子も密かに思いを寄せていた兄の親友 守山 へ縁談を持ちかけますが、守山は半年前に婚約しており、縁談は断られます。 傷心の綾子は従軍看護婦を志願し、やがて南方へ派遣されますが、軍事病院で目を負傷した 守山 と再会し、看病することとなります。 その後、東京へ帰還した 綾子 は 守山 の妻と会い、守山の快復を伝え、和解します。
恋の不成就と従軍看護婦志願、軍事病院での再会というパターンは『進軍の歌』中のお雪のプロットと共通し、女性の献身を訴える「召集令もの」の女性版のような一つの類型でしょうか。 そんなプロパガンダ色も強い映画ではありますが、 前半の娘の縁談話を軸とする父娘の話は、大庭 秀雄 『むすめ』 (1943) [鑑賞メモ] や 五所 平之助 『伊豆の娘たち』 (1945) [鑑賞メモ] の人情喜劇、さらには、戦後に 小津 安二郎 が洗練させた父娘ものを思わせます。 お互い密かに好意を寄せたお嬢様と苦学の男の成就しない縁談話は、もったいないと男が他の女性との縁談を決め、お嬢様がタイミングを逸して振られるという展開を含め、 大庭 秀雄 『花は僞らず』 (1941) [鑑賞メモ] のよう。 松竹大船が得意としたホームドラマ&メロドラマの要素も盛りだくさんです。
主人公の旧家のお嬢様〜従軍看護婦を演じるのは木暮 実千代。 清水 宏 『暁の合唱』 (1941) [鑑賞メモ]といい、 戦後とはまた違った健気なお嬢様キャラクター (ちょっと 三浦 光子 と被りますが) を楽しみました。 一方、男優陣は守山を演じた 佐野 周二 に比べてライバル相当の福田の役の影が薄すぎて、メロドラマとしてはちょっとバランス悪かったでしょうか。 密かに好意を寄せ合う 綾子 と 守山 のさりげないやりとりや、綾子の縁談話が成就せず傷心の様子など、台詞に頼らないきめ細やかな女性の心情描写もさすが松竹大船、メロドラマチックです。 プロットに合った演出で、とてもよく出来た映画でした。
『進軍の歌』では従軍看護婦の派遣先は中国でしたが、『愛國の花』の派遣先は南方です。 父の輸送船船員徴用もそうですが、 真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まって南方へ進出中という1942年の時局の反映でしょう。 ちなみに、この映画の主題歌「愛國の花」は「海行かば」とのカップリングでレコード化されています。 1930年代後半から1940年代初頭にかけての松竹大船の映画を観ても戦時色をほとんど感じられないと思っていましたが、 『進軍の歌』、『愛國の花』と観て、これらのような戦時プロパガンダ色濃い映画は今ではなかなか上映機会が無いだけだと、思い至りました。
先々々週末に続いて先々週末、先週末と3週末連続土曜は昼に高円寺へ。 座・高円寺で、夏の親子向けプログラム 『世界をみよう!』 の後半C, Dプログラム2作品を観てきました [A, Bプログラムの鑑賞メモ]。
モザンビーク出身でフランス拠点に活動するミュージシャン兼ジャグラー兼ダンサーによるソロです。 ヴォーカル・パーカッションや足踏みを交えつつ、踊るような身のこなしで、 身近なものをジャグリング風味にマニピュレーションしつつの叩いてリズムを刻んでいきます。 ジャグリングでは技を見せる程ではなく、踊るようにパーカッショニングする流れに組み込まれていました。 観客の参加はあまりありませんでしたが、最後は観客席に降りて盛り上げました。 タイトルは彼のルーツであるモザンビークから南アフリカにかけて住む民族シャンガーン (Changan, Shangaan) の言葉で「時」という意味で、 そのルーツに立ち戻ったプログラムだったようです。 シャンガーンというと南アフリカ側ですが2010年代前半に流行った音楽 Shangaan Electro を思い出しますが、 むしろ電化される前のより伝統的なものを参照していたようでした。 木製の椅子を歩くように動かすことで脚でリズムを刻んだり、 頭の少し上くらいに放り上げで座面を叩いたりという、 椅子を操作しながらリズムを刻む展開が好みでした。
フランス南西部アキテーヌ地方のボルドーのカンパニーによる、 2名のパフォーマーによるボディ&ボーカル・パーカションのショーです。 2人の間でコミカルなやりとりをしながら、また、観客に拍手やヴォーカル・パーカッションを促しつつ、展開していきます。 声や足踏みでリズムを刻むのはもちろん、顔や手足はもちろん身体のあちこちを叩いて音を出していきます。 ヒップホップ的なリズムが基調にあったと思いますが、 口に水を含んで歌う曲はクラシックの Ravel の Boléro やオペラの歌でしたし、 Queen の We Will Rock You で拍手したりエアギターしたりとロックのネタもあったりと、 ネタにもバラエティを感じました。
7月最終日木曜は休暇を取得。午後に京橋で映画を観た後に三軒茶屋へ。この公演を観てきました。
2005年設立のアメリカ・シカゴの現代サーカス・カンパニー Aloft Circus Arts の来日公演です。 ステージの上での上演を客席から観るのではなく、テントの中で上演を観るというスタイルのでの公演です。 劇場以外のスペースでの上演を想定したスタイルのようで、初演時はカンパニーの拠点でもある築110年の教会で上演したようですが、今回の公演では劇場の舞台上にテントを立てての公演でした。
フライヤで観客の参加をうたっていたので期待していたのですが、 確かに薄い布で覆われたエアリアル用の櫓を立てる作業はもちろん、ポールの支持などに観客を使いましたが、大道芸などでよくあるレベルでした。 むしろ、櫓の足をそのままフレームとして使った狭いテントの中に約100人の観客を入れ、 その中でシルク・エアリアルや三段タワー・アクロバットはもちろんシルホイール、ジャグリング、フープなどのパフォーマンスをする、という所に面白さがありました。 観客とパフォーマーの距離が近いことによるスリルや、テント内という空間の作り出す没入感というより、 表情や息遣いに間近で触れることによる親密さや一体感が最も印象に残りました。
初演時は男性パフォーマー1名を含む7人のパフォーマーでの上演だったようですが、 今回の公演では男性パフォーマーが抜け、6人全員女性でした。 といっても、アクロバットのポーター役のガッチリした体型から、フライヤー向きの小柄な体型、ダンスも映えるすらっと長身の体型まで、多様さを感じるもの。 ポーターの体型のパフォーマーもエアリアルやダンスへ加わるなど、多様ながら一体となるようなパフォーマンスで、親密さや一体感を作り出していました。
この公演は月曜から水曜までの平日のみのスケジュールだったので、 仕事の予定がはっきりしてから行く日を決めようと様子を見ていたら、あっさりチケット完売。 席追加とかで当日券が出るような上演スタイルではないので諦めてかけていたところ、 追加公演が出たので、とりあえずチケットを押さえたのでした。 その後、仕事の予定に目処も立ったし、仕事帰りが厳しい開演時間だったので、休暇にしたのでした。 夏の余裕のある時期というのもありますが、平日の晩だからと躊躇せずにチケットを取るという勢いも必要だと、つくづく。
先週末土曜の晩は初台へ。この公演を観てきました。
パリ・オペラ座バレエ (Ballet de l'Opéra national de Paris) のコンテンポラリーの演目での来日公演です。 演目 Play は、ストリーミング (NHKオンデマンド)、映画館上映 (パリ・オペラ座バレエ シネマ) で観る機会がありましたが [鑑賞メモ]、 コンテンポラリーの演目での来日は稀なので、生で観る良い機会と足を運びました。
6万個の緑のボールが降る場面など、確かに、生の迫力と臨場感は格別でした。 ただ、それだけでなく、映像のストリーミングや上映で観るのとは印象が異なる場面もあり、そこも興味深く思いました。 映像では宇宙服姿はかなり大きくフィーチャーされているように感じられたのですが、 生で観ると、クリノリン様のスカートを履いて2人のダンサーを犬のように連れた男性ダンサーの方が目に付きました。 そして、字幕の投影された場所が目に入りやすい舞台下という絶妙さだけでなく、 演じている人がすぐ目の前にいるという効果もあ理、 競争の中で合目的的で効率性を求める生き方に対し生きる本質としての「遊び」を述べる 後半始まりでナレーションされるメッセージが、映像より届いたように感じられました。 前半と後半の演出のコントラストも、このメッセージに沿って付けられていたのか、と。
生で観てそんな気付きもありましたが、その一方で、 サクソフォンのカルテットやゴスペル歌手を使うという音楽の狙いについては、 やはりよくわかりませんでした。 それ以外の要素もありますが World Saxophone Quartet feat. Fontella Bass など連想させられるその音楽自体は、かなり好みではあるのですが。
万単位のボールだけでなく、40名のダンサーと10数名のミュージシャンを使っての、力技な作品とは思いましたが、 生で見ても視覚的にシュールで美しい舞台といい、合目的的で効率性を求める社会に対するメッセージ性といい、さすがに見応え抜群の作品でした。
主催としてクレジットされたMASTER MIND LTD.に覚えがありませんでしたが、 ファーストリテイリング (ユニクロ) の創業者の次男にして取締役の 柳井 康治 が2020年に立ち上げた個人プロジェクトのプロダクション (会社設立は2021年) で、 「THE TOKYO TOILET」プロジェクトや、それを映画化した Wim Wenders: Perfect Days (2023) もプロデュースしているようです [「ユニクロ柳井康治氏「渋谷トイレプロジェクト」 映画化の舞台裏」, 『日経クロストレンド』, 2023-12-27]。
土曜の午後イチには座・高円寺で『世界をみよう!』の公演も観たのですが、 その後、この公演まで時間があったので、炎天下の新宿でカフェ難民となって消耗したくない、と、一旦、自宅へ帰って休憩しました。
先週末三連休中日日曜は昼に恵比寿へ。これらの展覧会を観てきました。
総合開館30周年を記念してのコレクション展の第2弾です。
第1弾 [鑑賞メモ] に続いて学芸員4名の共同企画で、
「撮ること、描くこと」、「dance」、「COLORS」、「虚構と現実」、「ヴィンテージと出会うとき」の5つのテーマ展示 (「COLORS」が4人の共同企画で他はそれぞれの企画) の組み合わせです。
第1弾の開館記念展の再現のようなわかりやすさはありませんでしたが、
第1室に展示されたHenry Peach Robinsonの合成印画法と第5室に展示されたAnsel Adamsの技法Dodging & Burningに発想の近さを感じるなど、個々の企画を超えて意外な相関に気付かされました。
個別の作家では、ニュージーランド出身で戦間期はロンドンで活動した Len Lye の純粋映画的なアニメーション、
1970年代後半に南カルフォルニア Zuma Beach の廃住居に抽象的なグラフィティなど手を加えてカラーで撮った John Divola: Zuma Series など、
芸術運動的な文脈から見落としがちな作家に目が止まりました。
日本の作家では、液晶絵画的な映像作品の液晶モニタに実際のペインティングをオーバーレイした
exonemo: Heavy Body Paint (2016) に引かれました。
Luigi Ghirri: Infinite Landscapes
測量技師としてのキャリアの後、コンセプチャルアートの影響下で1970年代から1992年まで活動したイタリアの写真作家の展覧会です。
といっても、意識して観るのはこれが初めてで、イタリアの写真史もしくは現代美術史の中での位置付けなど、表現の文脈も把握できていません。
やはり日本と米英仏独程度しかちゃんと観てこなかったのだなと、反省させられました。
正面性の強い構図で絵を描くかのようにパンフォーカス気味に撮った写真が多く、
鑑賞者も入れ込んで美術館の中の絵画を撮ったものなど Thomas Struth など連想させますし、
いわゆる Becher Schule のドイツの写真に近いものを感じました。
その一方で、そこまで即物的でクールではなく、彩度を抑えたほんのり色温度低い画面作りに人間の体温を感じられるようでした。
B1F展示室では『被爆80年企画展 ヒロシマ1945』 [Hiroshimada 1945 — Special Exhibition 80 Years after Atomic Bombing]。 2023年に報道機関と広島市が共同でUNESCOの「世界の記憶」[Memory of the World] への登録を申請した「広島原爆の視覚的資料 ― 1945年の写真と映像」 (写真1532点、映像2点) を基に構成した展覧会です。 この前の展覧会『ロバート・キャパ 戦争』もそうでしたが、 今までにも本やTVドキュメンタリーなどで観たことのある写真もありましたし、 個々の写真の持つ迫力ももちろんありますが、写真約170点という量にも圧倒されました。
三連休最後の月祝日は、家事や近所での買物などはしましたが、どこにも出かけず完全休養にまる1日あてました。 母が倒れて入院して以来1ヶ月余り、週末は潰れていたのですが、急性期からリハビリ病院へ転院して、少し落ち着きました。ひといき。
先週末三連休初日土曜は午前に高円寺へ。 座・高円寺の夏の親子向けプログラム 『世界をみよう!』 は サーカスやマイム、人形劇などの小規模ながら味わい深い作品を揃えていて、楽しみにしています [一昨年の鑑賞メモ]。 去年はスケジュールが合わず行かれませんでしたが、今年は、まずはA, Bプログラム2作品を観てきました。
デンマークを拠点に活動するカンパニーによる男女2人による、生演奏とライブペインティングのショーです。 生演奏の Claus Carlsen は soprano saxophone や bass clarinet、accordion、cuatroなどを持ち替え、 旋律で情景を描くようにではなく、むしろ Lisa Becker の動きに合わせて即興でフレーズを繰り出します。 一方の Lisa Becker は淡々とというより、少々デフォルメされたマイムと表情を交えつつ描きます。 描き方はざまざまで、小ぶりの白いボードを6つ六角に輪状にしてそこに描いたり、ロールの厚紙を伸ばしながらそこにパンチで小さな穴を空けたり、 ラストはフロアに伸ばした長い帯状に乗って大筆で描きもしました。 抽象的なストロークを基調としつつ、そこに動物や人物の絵を交えます。 音楽もペインティングも抽象度高めでシリアスにもできる所を、そこはかとなく可愛いらしい雰囲気に落とし込みます。 ウイッシュリストとしてロールの厚紙にパンチするところから、その厚紙に光を透かして星の川としてみせ、最後はその厚紙をオルゴールに読ませて音として響かせる、という流れが特に印象に残りました。
大道芸でも活動する日本のマイム2人組による、去年の演目の再演です。 大道芸というか野外での上演は今年の『ストレンジシード静岡』で観ましたが [鑑賞メモ]、劇場公演は初めてです。 ブラックボックスに黒い衝立2つ、グレーやベージュのシンプルな服装と小道具は小旗とロープ程度というミニマリスティックな舞台で、 2人組の山登り、お化け屋敷探検、船から落ちての海底でのドタバタを演じていきます。 最低限ながら効果的な照明使いなどの劇場ならではの演出も加え、野外よりもシュールで幻想的な舞台でした。 キャラクターや舞台設定は抽象化されていて見た目は違いますが、 そのドタバタの展開に Hanna-Barbera (Tom & Jerry, etc) や Tex Avery (Bugs Bunny, Duffy Duck, etc) など 20世紀半ばアメリカの Looney Tunes 界隈のカートゥーン・アニメーションを思い出させるものがあり、少々懐かしくもツボにハマりました。
先々週末土曜は午後遅くに与野本町へ。この公演を観てきました。
りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 の劇場付きダンスカンパニー Noism Company Niigata [鑑賞メモ] の2025年夏の公演は、 Alphonse Daudet 作、Georges Bizet 音楽の音楽劇 L'Arlésienne (1869) に基づく新作物語ダンス作品『アルルの女』を含むダブルビルでした。 ちなみに、L'Arlésienne は1974年に Roland Petit がバレエ化しています。
原作の舞台は南仏ラングドック地方ですが、衣裳や舞台美術は抽象度が高く、時代は場所の設定はかなり抽象化され、 常長と名付けられた父役や、太刀薙刀を使う場面もあり、むしろ近世日本に舞台を置き換えているように感じられました。 原作や音楽劇にあったの嫉妬という面を無くし幻想の女への叶わぬ恋の物語としている点は Petit のバレエに近いように思いますが、 原作にある家族のエピソードも大きく取り入れ、その構造は多層的です。
闘牛場で見かけた幻影の女 (アルルの女) を忘れられずも結婚する男の悲劇という基本線は残しつつ、 むしろ、そんな男と結婚することになる許嫁 ヴィヴェット の悲劇という面をはっきりと描きます。 さらに、息子に執着する毒母 (井関の存在感からこれが最も強く出ていたようにも感じられました)、因習に囚われる家長としての父、村の男女などが、そんな悲劇を一層悪化させていきます。 舞台の全体を囲うプロセニアムも明示するだけでなく、縦長の大きなものや高さ2 m幅4 m程度のものなど可動式の枠の使い方がそんな悲劇の多層性に符号するようでもあり、 シルエットを使った演出も幻影に囚われているということを象徴するようでした。 フレデリだけでなく、ヴィヴェットも父も次々と死んでいくのですが、その死の表現にオーケストラピットを使うというアイデアも、良かったでしょうか。
前半のフレデリと許婚、村人たちによる群舞の時に母(井関)を存在感大きく舞台前方に立たせたり、 太刀薙刀演武のようなカッコいい群舞の前に祖父・弟のコミカルな演技を配したりという、 舞台で踊られている踊りを単なる美しいもの、かっこいいものとしないようとする異化演出も印象に残りました。 その一方で、白痴である弟のジャネは、トリックスターというよりも、むしろ、真実の目撃者としての愚者という面の強い使われ方でした。 そんな演出の妙も多層的な悲劇の構造を捉えやすく提示していて、物語るダンス作品としてとても楽しめました。
休憩を挟んで後半は、コンサート版として振付た Boléro を劇場版として再演出したもの。 Noism のといえばコロナ禍下で制作した『BOLERO 2020』 [鑑賞メモ] が秀逸で印象が強く残っていて、 それに比べると Maurice Béjart を踏まえたオーソドックスな演出とは思いましたが、祈念するダンスとしてよりストレートに感じられました。
この日は熱はすっかり下がっていたものの、その前の水曜から木曜にかけて39度超えの発熱。 どうしようか少々悩んだのですが、午前に病院で診察してもらったところ、抗体検査でコロナもインフルも陰性という結果になりました。 体調はほぼ通常に戻っていたので、観に行くことにしたのでした。
6月最後の28日土曜は午後に上野へ。このコンサートを聴いてきました。
コロナ禍でアメリカへ帰ることができなくなったことを契機に日本を拠点としている作曲家・演奏家 Terry Riley の、 長年 Riley の曲を演奏してきた Kronos Quartet を迎えての、90歳誕生日を記念したコンサートです。 前半約1時間は Kronos Quartet による Terry Riley の曲の演奏で、Kronos Quartet 新メンバー2名に宛てた新曲を挟んで、1980年代の曲から。 80歳を記念したアンソロジー One Earth, One People, One Love: Kronos Plays Terry Riley (Nonesuch, 538925-2, 2015) を通してある程度予想はしていましたが、 いわゆるミニマル・ミュージック的な反復要素はすでにかなり後退しており、ヴァイオリン属ならではの微分音やグリッサンド使いもあって、 むしろ北インド古典音楽などのモーダルな音楽に近い印象を受ける演奏でした。
後半は即興演奏。まずは、Riley と日本拠点後の共演者 Sara [宮本 沙羅] によるキーボード、タブレットのデュオ、 というよりも Sara は Riley のアシスタント的な演奏で、実質、拡張された Riley のソロでしょうか。 即興といってもアブストラクトなものではなく、インド的なモードにジャズのスタンダードのフレーズを交えた演奏は、モーダルというかスピリチュアルなジャズのようにも感じられました。 最近はこんなことをやっているのか、と。 最後は Kronos Quartet も加えての大団円的なフィナーレで、 こちらは初期の曲 «A Rainbow In Curved Air» (1968) に基づく即興でした。
Steve Reich, Philip Glass と並ぶミニマル・ミュージックのパイオニアと見做されることが多い作曲家ですが、 今回のコンサートを聴いて改めて、今はそこからはかなり外れた所にいるのだな、と実感しました。
この日は昼過ぎまで母の入院した病院へ行ったりとバタバタしていたのですが、昼食抜きにはなりましたが、なんとか開演に間に合いました。 前売りを無駄にしたくないというモチベーションもありましたが、やればなんとかできるものだ、と。
約1ヶ月前の土曜6月19日は午後に与野本町へ。
コンテンポラリーダンスの文脈で活動するバングラディシュ系イギリス人振付家 Akram Khan の久々の来日公演です、 2018年に子供向けの Chotto-Desh 公演 [鑑賞メモ] はありましたが、 実質、2013年の Desh [鑑賞メモ] ぶりです。 Disney がアニメーション化もしているイギリスの作家 Rudyard Kipling の児童文学短編集 The Jungle Book (1894) の “Mowgli's Brothers” と “Kaa's Hunting” をベースに 主人公 Mowgli を少女に、舞台を温暖化による海面上昇で水没しつつある廃墟となった都市と置き換えて自由に翻案した物語を、 今回は自身は踊らないものの、11人のダンサーを使いスケール大きく物語ダンス作品としていました。
廃墟となった都市で母親とはぐれた少女 Mowgli のサヴァイヴァル冒険譚ですが、その世界はまさにポスト・アポカリプス (終末後の世界)。 狼の群れに育てられた後、黒豹 Bagheera と熊の Baloo を保護者的な相棒として冒険に出ます。 途中、Bandar-log のサルのたちの国に攫われてしまいますが、そこはまさにディストピア。 Bagheera や Baloo、敵か味方が微妙なニシキヘビの Kaa らに救出されますが、Mowgli は人間の世界へ戻ることにします。 しかし、銃撃で Bagheera や Baloo は殺され、更に水没が進んで人々は高台へ逃れ、と、厳しい将来を予想させつつ終わりました。 そんなディストピアに抵抗するポスト・アポカリプス物の展開に、そこまでハードでは無いものの Furiosa: A Mad Max Saga [鑑賞メモ] 味を感じてしまいました。 また、水没する都市や紛争のイメージに、数十万人の犠牲者がでた1970年バングラディシュのボーラ・サイクロン (1970 Bhola cyclone) による高潮と、その後のバングラディシュ独立戦争を連想もしました。
バングラディシュの森を思わせる線画アニメーションを使った演出は Desh を思わせるものがありましたし、 半ばテクスチャ化されたセリフやナレーションに合わせてのダンスに Zero Degree [鑑賞メモ] を思い出しもしました。 マーシャルな動きを使った戦闘シーンはもちろん、主人公以外は動物ということで動物の動きに着想したダンスが多用されていましたが、そこは特に動物に拘らなくてもよかったのでは無いかと思ってしまいました。 一方で、Akram Khan が得意とするカタック (kathak) 的な動きは印象に残りませんでした。 斬新な表現手法を試みているというより、地球温暖化による海面上昇や大規模な生物種絶滅、社会の分断などの現代社会の問題を The Jungle Book を通して語るために、今までの作品で培ってきた様々な表現手法を駆使しているように感じられました。
最近の Akram Khan は English National Ballet への振付演出の仕事もしていますが、 ストリーミングで観る機会のあった Giselle (2016) [鑑賞メモ] や Creature (2022) [鑑賞メモ] も、現代的でダークなディストピアの物語として古典的な物語を翻案した物語バレエでした。 Akram Kahn 振付でも English National Ballet でもないですが、 Northan Ballet による Jonathan Watkins 振付・演出の 1984 (2015) [鑑賞メモ] というのもありました。 今回の Jungle Book reimagined はバレエのイデオムはほぼ全く使っていませんでしたが、 翻案物の物語バレエ/ナラティブダンスに連なるような作品、物語バレエに強いイギリスの伝統に連なる作品なのかもしれません。
この日は、この後、渋谷へ。 公園通りを登った辺りにあるエル・スール・レコーズ (El Sur Records) が、 この週末で渋谷での最終営業ということで、顔を出してきました。 最近でこそ足が遠のきがちでしたが、 量販店では扱いの悪い非英米圏のレコード・CDに強い貴重なお店で、また、なかなか得難い客のコミュニティがあるということで、 1990年代半ばのトルコ料理店の入ったビルの2階にあった時から、 1953年竣工の旧宮益坂ビルの10階へ移転した2000年代まではかなり頻繁に通い、お世話になっていました。 渋谷での最後の週末営業ということで、多くの常連客が集い、店内は宴会状態。 久々に会う方も多く、楽しいひとときを過ごせました。 結局、閉店ではなく移転ということで、9月頃には江戸川橋地蔵通り商店街で営業を再開することのこと。 お店が続くということで、良かったです。
しかし、まだユーロスペース/シネマヴェーラとイメージフォーラムがあるとはいえ、 行きつけのジャズ喫茶 (メアリージェーン) がなくなり、馴染みのバー (Li Po) がなくなり、 そして、馴染みのレコード・ショップがなくなり、と、 渋谷は自分とは縁の無い街に変わってしまったな、と。
そして、この翌日曜早朝、母が倒れたと救急から電話が入った、ということで、色々節目がきていると感じざるを得ません。
約1ヶ月前の土曜6月14日は昼に立川へ。 2017年から静岡県掛川市で開催されている野外音楽フェス FESTIVAL de FLUE のスピンオフ企画として 2022年に始まった都市型の音楽フェス FESTIVAL FRUEZINHO。 それなりに気になるラインナップですし、野外ではなく着席でゆっくり聴くこともできそうで、 最近めっきり足が遠のいてしまっているライブのリハビリに良いかもしれない、と、 6月14日に立川ステージガーデンで開催された FESTIVAL FRUEZINHO 2025 へ足を運びました。
12時に会場に着いて入場列待ち後のホール入りだったので、冒頭の15〜20分程は聞けませんでした。 まだ空いていた1階席の後方で座って鑑賞しました。
石橋 英子 というと漠然と映画のサウンドトラックの印象が強かったのですが、聴いた範囲ではほぼ全曲歌あり。 それも抽象的なボイスではなく、むしろ、エセリアルかるテクスチャルな dream pop に近いものでした。 未聴で臨んだのですが、今年3月リリースの新作 Antigone (Drag City, 2025) のライブとでもいう内容でしょうか。
そのままの席でゆっくりのつもりが客が増えて後方まで実質立席状態になったので1階を退散。 まだぽつぽつとしか客がいなかった3階正面近くの席に座って、ゆったり鑑賞しました。
シカゴのバンド Tortoise をよく聴いていたのは Millions Now Living Will Never Die (Thrill Jockey, 1996) など1990年代後半の post-rock の文脈で、2000年代に入ってからの活動についてはすっかり疎くなっていました。 そんなことから、ツインドラムで rock イデオム強い出だしには、post-rock って何だったのだろうという気分にもなりました。 しかし、やがて glockenspiel / xylophone を交えるようになるとそれらしい展開になり、 Jeff Parker もマレットを手に加わり、Steve Reich 流 minimal music 風の曲を演奏もしました。 最後には複合した複雑なリズムの手拍子を刻むことを観客に促し会場を盛り上げてフィニッシュしました。 石橋 英子 のバンドにいた Jim O'Rourke が飛び入りするかもしれないと期待しましたが、それはありませんでした。
ステージでやるのかと勘違いして会場に着くのが遅れ、最初は人垣越しに遠目に、そのうち比較的余裕があり雨にも当たらない2階客席側から観ました。
日本のコンテンポラリーダンスの文脈で活動するダンサー 小暮 香帆 と、トリにも出演するドラム/パーカッション奏者 Billy Martin (Medeski, Martin & Wood) のデュオです。 このような構成では比較的狭い空間で音に反応し対話していくような動きになりがちですが、 空間を広く取り少々厚目の長いフロアシートを使ったりと、空間を描くような動きも組み込まれていたのは、よかったでしょうか。 それだけに、雨で滑りが悪くなったか重くなってしまったかフロアシートの取り回しを使った演出がうまく行かなかったように見えたのは残念でした。
ホワイエからの流れで席に座れたので、2階正面の席から観ました。
Mônica Salmaso といえば1990年代後半に Pau Brasil 関連のミュージシャンのバッキングでのソロ作や ビックバンド Orquestra Popular de Câmara で注目されたブラジル・サンパウロの女性歌手です。 2000年前後に少々後追いで録音を追いかけていた頃がありましたが、最近はすっかり疎くなっていました。 今回は、ピアノ奏者の André Mehmari との Elis & Tom (Philips (Brasil) / Verve (US), 1974) トリビュートのライブでした。 Salmaso の歌の伴奏に Mehmari に徹することなく流麗な演奏で、Salmaso もパーカッションを手に少し渋みの効いた落ち着いた歌声で、2人で対等に組み合って作り上げていくよう。 ミニマリスト的というほど音数少ないわけではないけれども無駄なく端正に聴かせました。
ブラジル出身でアメリカ・ロサンゼルスと東京を拠点に活動するミュージシャンです。 2000年代から活動するミュージシャンですが、自分が知ったのは2020年代に入って、 Sam Gendel / Leaving Records 界隈の録音です。 リバーブ深めなアコースティック・ギターに微かにエレクトロニクスを効かせ、テクスチャ的な歌を軽く添えます。 半屋外の人垣の中でというより観客の少なめのギャラリー的な空間でのライブがハマりそう、と。 後半、小暮がダンスで絡みましたが、ギリギリまで人垣が迫ったような状態だったので、少々厳しかったでしょうか。
一旦外に出て、カフェにて軽食で小腹を満たしつつの休憩。 その後、ホールに戻っても席が難しいかなとも予想したのですが、あっさり座れたので、2階正面の席から観ました。
1990年代にジャムバンドとして注目されたニューヨークのバンド Medeski Martin & Wood です。 Friday Afternoon In The Universe (Gramavision, 1995) など独立系レーベル時代は好んで聴いてましたが、 1998年のメジャー (Blue Note / Capital EMI) 移籍以降は疎くなってしまっていました。 今回の来日はベースの Chris Wood 抜きのデュオの編成ですが、Wood が脱退してしまったというわけではないようです。 オルガンのフレーズもグルーヴィなジャムバンドらしい演奏と 彼らのバックグラウンドであるフリーなジャズ/即興の抽象度高めの演奏を行き来する展開でした。 グルーヴィな展開の時の方が観客は盛り上がりますが、 アウトな展開でのMedeskiのオルガンのSF映画のサントラのようなスペーシーな響きや、Martinのエフェクト効かせた小型フレームドラムの細かく刻む音を楽しみました。
最近好んでよく聴いている、というより、昔よく聴いていたけれども最近は少々疎くなっていた音楽で、 行くまでどこまで楽しめるか未知数でした。 最悪退屈してしまったら、音楽を聴きながら読書でもいいかな、と思ってましたが、会場で読書することはありませんでした。 体力的にもさほど厳しくなく、12時過ぎから21時頃までの約9時間、休憩を挟みつつもライブ音楽漬けの1日を楽しむことができました。 しかし、Tortoise や Medeski Martin & Wood は1990年代後半、Mônica Salmasoも2000年前後、と、あれから四半世紀経ってしまったのかという感慨に浸ってしまいました。
金曜 (7/11) は、急性期の病院からリハビリ病院の母の転院の予定だったのですが、 その前々日水曜午後から急速にそして夜に39.2度という最悪なタイミングで体調を崩してしまいました。 何とか、随行の代理を含め各方面調整でき、金曜に転院させることができました。 最近また新型コロナが流行加速傾向で、39度超の時はついに罹ってしまったかと覚悟しましたが、 土曜 (7/12) 朝イチに行った病院での新型コロナ抗体検査結果は陰性でした。 コロナ禍が始まった2020年以来、今のところまだ罹患を免れてます。 しかし、既に厳しかったところで体調を崩してしまい、趣味生活も含め公私とも色々崩壊してます。 このサイトへの鑑賞メモの更新も大幅に遅れていますが、こんな状態ですので、ご理解ください。