8月25日(旧暦7月15日)
今日はウクルピン、盆の送りの日である。目が覚めて、顔を洗いに離れの洗面所に向かう途中、空を見上げると、青空が広がっている。朝から頻繁に仏壇への御参りが来る。島内の親戚同士で訪問し合うようだ。
朝食後、宿の前の道路端に腰掛けくつろぐ。剣太君、伸治君がどこからか拾ってきたボールで遊んでいる。なんだか、田舎の親戚の家に、いとこ達と遊びに来ているような気分だ。
田中さんとそのお友達は今日の一便で島を去る。皆で見送りに行くことにし、田中さん達を乗せたたましろ号を追って、自転車で港に向かう。学生達が、仲間を見送りに来ていた。そのうちの一人は直子さんが春、小浜島で会ったことのある人だった。宿が取れず、ニシハマのあずまやで野宿したという。私が石垣の宿で見かけた学生もおり、話をする。やはり八重山ではこのような出会いが多い。
船の時間が近づき、各民宿の車がやってきて、今日島を去る人達を運んでくる。
石垣からの船が入航。海は穏やかだ。折り返しの安栄号に田中さん達は乗船。10分ほどで出港となった。船が防波堤の先に見えなくなるまで手を振って見送る。
帰り道、上空を小さな飛行機が横切って行く。石垣行きの飛行機もちょうど同じ頃離陸したようだ。
たましろに戻り、テラスに腰掛ける。朝の飛行機で運ばれた新聞が届けられる。新聞を広げる。昨日のムシャーマの記事が載っている。剣太君達は日焼け止めを塗り合って海へ行く準備。直子さんは谷川俊太郎を読んでいる。
しばらくして康恵さんが北の大泊浜へ出かけて行く。あとの3人もニシ浜へ出かけて行った。
ひとり残り、テラスで手紙を書く。沖縄に来るようになってから、手紙を書いたり、もらったりすることが増えた。このテラスで手紙を書くのはもはや年賀状と同じ位の恒例行事だが、なかなか連絡をとる機会のない友達や、今まで旅先で知り合った人達と音信を通じるにはよい機会である。何通か書いて、ポストに投函しにいった後、またまたニシ浜へ向かう。
浜へと下る道から見える海はまた鮮やかさを増している。道端に生い茂るギンネムの緑は太陽の日を浴びて濃厚だ。左へカーブを曲がり、浜の入り口に到着。右脇の茂みの木の枝に、誰かが珊瑚の骨や烏賊の甲でつくったモビールがゆれる。
リーフエッジまでシュノーケリング。おとといよりも遠くまで行ってみる。魚がさらに増えたような気がする。名も知らぬ、色とりどりの魚たち。近づくと逃げるが、波に身を任せたゆたうと、すぐに、何もなかったかのように餌の摂取にいそしむ。
浜に戻ろうとするころにはかなり潮が干いていて、途中は干上がっている。
波打ち際近くの水は太陽に熱せられて温泉のように温かい。
おにぎりを食べて、昼寝をする。
潮が引ききると、波の音が消える。心地よい静けさ。
おとといと同じく、陽が廻るにつれて日陰がなくなっていくので、あずまやに避難する。
少し小高くなったあずまやから見下ろす海は、凪いでおり、海面には鏡のように、白い雲が反射している。
潮が再び、満ち始める。浅くなったリーフの上を静かに波が打ち寄せはじめる。
少しずつ、波打ち際がその手を伸ばしていき、浜辺に置かれた荷物を脅し始める。
海の色がまた濃くなっていく。
4時頃、西の方からどんよりと暗く、たっぷりと水蒸気を含んだ雲が近づいて来た。雲の下に雨足が見える。これは降られそうだ。
やがて大粒のスコールが加熱した地面を冷まし、5分ほどで西表の方に流れて行く。もう降らないのを確認して宿に戻る。
結局この日も一日中ニシハマで過ごしてしまった。他の場所にも行きたいのはやまやまだが、この日差しに晒されて移動することを考えると、そこで思考は停止してしまう。
早めの風呂を浴びた後は、そろそろ着替えがなくなってきたので洗濯をする。全手動洗濯機なので、テラスでみなとしゃべりながらまめにすすぎや脱水の切り替えに行く。風呂もひとつしかないので、風呂待ちの人もテラスで待機していることになり、結果、人が集まって会話が生まれる。この宿の魅力はこんなとこからも生まれているのが、面白い。
お供え物の余りの、短く切ったさとうきびの枝をいただく。硬い皮をむいて、齧り付き、汁を吸う。あっさりとした、甘い味がする。
港からおじさんの車が戻ってきて、男性が一人、降りてきた。愛媛から来た男性。朝から予約の電話はずっと断られっぱなしだったのだが、なぜか飛び入りにOKが出たらしい。
今夜は2名帰って1名増えたので計6名。繁忙期はいつも15,6人は泊っていてにぎやかな宿だが、この人数で人の入れ替わりもなく、親戚の方々もいるのでいつもとはまた雰囲気が違っている。
夕食時、ついにアリさん来訪。北集落に家があるがニシハマで生活している、ちょっと変った人だが、面倒見がよく、キャンパーや野宿者がよく世話になっている。ビールと八重泉持参。ニシハマの「ウェルカムテント」からは2ヶ月前に引き上げたとのことだ。
ニシハマのキャンパーのマナーが悪く、いよいよ微妙な状況になってきているという話、島の聖地の話、一頭一頭の山羊がちゃんと見分けがつくという話、果物や野菜に虫が食っているのは美味しいものだからで、逆に食っていない方が、怖いといった話など。酒が入ってくるとだんだん饒舌になってくる。
親戚の仏壇廻りに出かけていた功一先生夫妻が帰ってくる。
前の道に出る。路肩に座り空を見上げる。月が明るいが、なんとか星も見える。酔いに任せてふらふらと、集落の外れまで歩く。街灯の明かりの届かない場所でも、月明かりが路上に影を落す。
戻ると、明日から大潮なので、阿利さんが皆を東の海岸に潮干狩りに連れて行く、という話になっていた。最南端のあずまやに12時半集合ということになったようだ。しかし、かなり酔っ払っているようなので、どこまで本気なのだか。一升瓶を担いで帰っていった。
0時を過ぎ日にちがかわった頃、仏間に家族が集まり、正座して盆の送りの行事が始まった。
一緒にどうぞといわれる。旧盆の時のお客は家族同然であるから、とのお言葉があり、同席させてもらうことにした。
親戚のみなさんが、口々にひとつひとつのことを丁寧に説明してくれる。
遺影2つは正面に飾られているが、1つは脇にある。脇の方は亡くなられてから33年以上経ち、個々に供養する必要がなくなったので、別にしてあるという。33年で区切るのは内地と同じだが、ここまではっきりと区別してあるのは面白い。
送りの行事は日にちが変ってから始められ、かつ一番鶏が鳴き出す前に終わらせなければならないという。そうしないと、先祖があの世に帰れなくなってしまうそうだ。
金属の盃がまわされ、仏前に供えてあった徳利の中の泡盛を呑む。中身は泡波だそうだ。
そして、温かいそうめんを食べる。これは波照間だけの風習とか。
そのあとは、お神酒。米で作った乳白色のものだ。ヨーグルトドリンクのような味だ。昔は各家庭で作っていたが、今は集落ごとにまとめてつくるとのこと。作り方をたましろ主人が説明してくれる。加減が難しく、今回のは酸味が強いという。
頭にかぶる注連縄のようなものも用意されている。沖縄や東南アジアでは頭上に荷をのせて移動する風習があるが、その時に荷物が安定するように被る輪があったということで、それを模した小さな輪ということだ。これは供物とともに捧げられているが、先祖があの世に供物を運び帰る時にでも使うということだろうか。
神酒を飲み終わると、紙銭(ウチカビ)が用意される。ウチカビは、黄色いちりめん状の紙に丸い刻印が打ってあるもので、琉球王朝時代の硬貨を模している。これはいわば、あの世のお金である。先祖があの世でお金に苦労しないよう、このウチカビを持たせるのである。
刻印は昔は自分達で打ったとのことで、思い出話に花が咲く。とにかく玉城家の方々は話好き(主人は除く)で、いちど話が始まるとどんどん脱線して面白い。
話の続く傍らで仏前に水を張ったたらいが用意され、その上でウチカビに火がつけられる。まずは祖霊全体に捧げる分が燃やされる。続いて個々の霊に捧げる分。きれいに燃やすのがなかなか難しいとのことで、ずいぶん時間をかけて大量のウチカビが燃やされた。
燃やし尽くすと、お供え物のかたづけが始まる。木の実や穀物を使って丁寧に作られた供え物があっという間に解体されていく。生ものは大きなざるにほうりこまれる。缶詰や菓子は隅に片付けられる。てきぱきと、あっという間に仏前が片付いてしまう。
ざるは、燃やした紙銭と一緒に玄関から持ち出される。村の北側の外れに持っていくとのことだ。功一先生が大きな線香を持って、一緒に出て行った。エンジンの音が聞こえる。どうやら車に積んで持っていってしまったようだ。
こうして盆の送りの行事は終わった。時間は一時半過ぎ。賑やかだった仏前はきれいさっぱりと片付けられてしまった。
一息ついて、供えてあった功一先生のつくったマンゴーをごちそうになる。とっても甘くておいしい。その後はまちこおばさんが撮影した昨日のビデオを見る。お面をつけていたのでわからなかったが、みなけっこうのっている。バッテリー切れということで、少しずつしか撮られていないのだが、かえってテンポ良く祭をふりかえることができ、楽しい。
私達が寝床についた後も、一家の人達は遅くまで後片付けなどをしていたようだ。
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