PC処世術>>雑感>>

PC処世術 - 雑感:パソコン学習のツボ - 習得の順序編


 以前、こちらで「パソコン学習のツボは“やり方”に固執しない姿勢にある」というようなことを書き、問題の原点は教育問題にあるのではないかと書いた。この件について比較的パソコンに詳しい筆者の知人と雑談したことがある。その知人は深々と何度も頷きながら「その通りだ」と納得してくれていたのだが、最後に「そういうふうにパソコンを教えるのにどういうやり方があるのか教えて欲しい」と問われて面喰らってしまった(その知人と共に大笑い)。我々に長年施されてきた教育の病根は尚深く、“教えて君問題”の解決の道のりは遠いようだ。
 確かに、考え方や原理だけではなかなか“やり方”に辿り着かないこともあるし、実用上はやり方を直接知る方が早いという場合も少なくない。また、パソコンのような複雑な装置の場合には動作原理と使用方法の間に深いミゾがあるのは事実であり、パソコンを使用するためにその動作原理をゼロから学ぶ必要などは全く無い。パソコンを道具として使う人間にとっては動作原理などどうでも良い場合が殆どだろう。

 もしパソコンの動作原理をゼロから学ぼうとしたら,それは各種算数と物理、電気の基礎と半導体の動作原理からトランジスタを学び,その組み合わせによってデジタルの論理回路を構成できることを知り、論理回路が演算器や記憶回路を構成でき、そして記憶回路内に記録された数値からそれに対応する演算(つまり機械語)を逐次実施する回路群がCPUだということを学ぶところから始まるのだろうか。
 続いて機械語列はこれに対応するニーモニックで記述することができ,それによってプログラミングが可能だとか、更に人間が理解し易い“高級言語”をコンパイラによって機械語に翻訳して実行可能にすることでソフトウェアが構成され、そのソフトウェアが各種ハードウェアを同じ手続きで利用できる環境としてのOS(というソフトウェア)があり…云々,…。とやっていては、とてもパソコンを使うところには辿り着けそうにないし、そんなことまでとてもじゃないが教えていられない。昨今の風潮だと、教わる方だって最初の30秒でキレるかもしれない。専門家でもない限り、普通そんな知識は必要にはならないだろう。

 「ん、矛盾ではないか?」と思ったあなたは鋭い。これまでに筆者は「考え方や動作原理の理解」の方が「やり方」よりも重要だと主張しているのに、「動作原理などどうでもよいだとか「教えていられない」とは何事か、と。その部分のギャップは何なのだろうか。そのことを考えていて辿り着いた推論の一つが、“学習の順序”と“学習のゼロ点”(スタート地点,何が基礎か、ということ)の問題がそのギャップの根源ではないかということだ。

 世間の“初心者向け”と称せられるパソコン講座のカリキュラムを覗いてみると、当然の如く「やり方」のオンパレードである。もちろん学習のゼロ点は「電源の入れ方」であって、それがカリキュラムの標榜する“基礎”のようだ。そして講座は「キーボードの打ち方、マウスの操作、ソフトの起動…」という順序で進んでいくようだ。もちろん、パソコンに初めて触れるという方々に対しては大変優しい方法で、適切だと思う。
 ところが中級者の講座になると,「Office マスター」とか称してどんどん複雑な使用方法を学んでいくようで、それが“パソコンの応用”ということになっているようだ。したがって、この道を歩んでいくと「多種多様のソフトや機能の使い方」を覚えることにはなるが、この方法で幾ら学んでも決してパソコンの動作原理なんぞに辿り着くことは無い。そして、記憶力の限界が習得できる範囲を決定し、習得したソフトの数と複雑さが初心者・上級者を分けることになるようだ。だったらパソコンの上級者というのは沢山のソフトの操作方法に精通した人のことを指すのだろうか。筆者はこれに強い違和感を覚える。

パソコン習得の順序イメージ  反対に専門教育機関のカリキュラムを見ると、まさしく基礎学問が基礎であるようで、例えば数学や物理学といったところが学習のゼロ点であるようだ。そのこと自体は間違いではないと思う。そのような学習の方向とゼロ点について筆者のイメージを図示してみたのが右のような図である(あまり適切ではないかもしれないが)。本当の基礎である数学や物理学から学んでいると、普通の人なら「パソコンの電源投入」までを理解するのに数年を要しそうなことは想像に難くない。
 だが、だからといって「Maxwellの方程式を理解しないと電源が入らない」ということは無いし、「論理回路や演算器の動作と機械語を理解しないとパソコンが起動しない」ということもない。電源ボタンを押せばよいのである。一般に、「基礎になるほど難解であり、応用になるほど操作は簡便になるが,応用操作に必要な記憶力は基礎の理解度に反比例する」ものだ。そのため基礎の理解が不足すると応用の操作は脈絡無く覚えるしかなくなり、記憶力勝負に突入してしまう。パソコンでいうならば、より低級な部分を理解することで、操作が楽なより高級な部分を記憶力に頼らずに“使いこなす”ことができるようになる。

 では筆者のように「専門家でもないし、記憶力も足りないし、理解力も不足している」というような場合はどうしたらよいのだろうか。基礎が重要だと言いながら、その道のりが大変長い上に難しいのでは手も足も出ないのだろうか。
 そこで筆者は、習得の方向を逆転してはどうかということを提案したい。つまり、パソコンなら「電源の入れ方」と「簡単な操作方法」を原点にして始めること自体は悪くないと思う。だが、その後の学習の方向を複雑な操作のやり方学習ではなく,少しずつプリミティブな方面に向かってはどうか、ということである。現在利用しているアプリなりOSなりハードウェア機器に関して幾重ものブラックボックスになっている部分を「一段階ずつ」原始的な部分(基礎)を知ることで応用が利かせ易くなり、学習も容易になる。
 その一方で、基礎とは言っても,必ずしも本当の学問的な基礎まで立ち返る必要はなく、「知りたくなったら勉強すれば良い」程度に構えておけば良い。勿論、専門家で無いならば理解できなかったからと言って何ら弊害は無く、特に筆者のように単なる趣味でやっている人間には向いていると思う。そして、“上級者になるほど基礎を理解している”というのが自然な状態だと思うのだが、いかがなものだろうか。(21. May, 2005)

雑感へ

PC処世術トップページへ