移築なった旧伊藤博文邸の玄関で伊藤家の方々
明倫小学校 右手は武道場明倫館

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No16 建築家の仕事 「萩で考えたこと
つくるだけが建築家の仕事だとは言いたくない、が
1998年1月15日号
Bulletin〈JIA機関誌)

  文建協(文化財建造物保存技術協会)のKさんから「兼松さんの伊藤博文邸は萩のどこに移築されたの?」とメールがきたのが昨年の9月たった。椿東公園らしいよ、と返信したが、萩に行ったことのない僕は、椿東公園がどんな公園でどこにあるのかも知らなかった。
 11月、萩市教育委員会の柏本さんから「旧吉田五十八自邸の保存成功おめでとう」とメールがきて、東京品川区大井から移築された博文別邸は基準法適用の検討などに手間取り、やっと着工し来春3月には竣工できそうだと書いてあった。(社)日本ナショナルトラストの会報に「五十八邸が残った」という保存の経緯を書いた、僕のエッセイを読んで送ってくれたのである。
 そしてこの3月、25日に竣工式をやるので僕にきてもらいたいが、予算が組めないのでJIAに依頼すれば派遣してもらえるか?と相談があり、無理だと思いながら事務局の原田さんに相談したら、やはり駄目というつれない返事、う一んでも行きたいなあ。しかし昨年の内子の全国大会も運賃節約のためMさんKさんと、もう年だしこれが最後だなあといいながら12時間かけて夜行バスで行ったくらいだし……と考えたものの、博文邸の有様を見たいという思いに勝てず自費(とゴシックで書いてみたくなる)で出かけた。

萩へ
 「とにかく出かけること」という僕の信条は、今回も衰切られず面白いこと山積みだった。前日の24日柏本さんに案内してもらった重文苑屋家住宅の道路の向かいで修復工事をやっている旧久保田家住宅「」で、文建協のKさんの名前を聞くことになる。
 萩市はこの大邸宅をKさんの指導を受けながら改修し,昔土間だったと思われる部分の増築の検討をしている。図面や資料が見つからず、旧所有者からの聞き取りなどしながらの想定復元になるようだ。柏本さんとオーセンティシティ談義になったが、その部分が想定復元だと明示することが大切だということで考えが一致した。
 ベニス憲章はヨーロッパのこの種の問題の規範であり必ずしも日本やアジアには適合しないといわれているが、オーセンティシティに関して述べられているこういう事項は、好い事いっているなあと思う。そういえば日本イコモス国内委員会から各国の憲章を収録し「文化遺産保護憲章」としてつい先ごろ冊子が出されたが、その中心的役割を束たされた文化庁から東京芸大教授に転出された益田さんが萩の出身だと聞いた。益田さんとも親しい僕は、萩が急に身近になったような気がした。 旧久保田家の一部を増築復元することになったのは、かつて数千石の屋敷の修復をしたとき、調査を進めていくと当初の部分はほんの一部だと判明したので、後年増設した部分を撤去してしまったところ、観光客から、どうして家老の家が、数十石の武士の屋敷より小さいのかと聞かれ、説明に苦慮したことがあったからだという。
 修復した木戸孝允邸も、後年増築された2階部分や便所を残したが、それがよかったかどうか悩んでいるようだが、増設した部分も歴史を刻んでおり、僕はそれを残して良かったと思うと答えた。しかしその時代区分を明確に後年のものであるという表示をしていくシステムが必要だし、その修復の経緯や資料、いわゆるアーカイブのための資料館(地味な分野だが)が必要だと思った。
 ここにもオーセンティシティ(原初性)とは何か、どの時代のものをどのように残すのか、さらにそれを誰が判断するのかというという命題が問われている。これは着工された丸の内の「日本工業倶楽部会館」のあり方に対する問いかけと同質である。
 柏本さんはなかなかいい。青木周弼邸といういずれ修復する予定の邸宅に案内してもらったが,畳が少々ぶかぶか、柱や鴨居なども汚れており、天丼に新建材が張られている部屋などあるが、なにか人の気配が色濃くあり、綺麗になった木戸邸とは違う趣がある。彼はこれはこれでとっても良いと思い、どういう修復をするべきかと思い悩んでいるようだが、,埋蔵の出(考古学)でありながらこういう悩みを持つ係長さんがいる限り(今春から文建協から一人転職してくるそうだし)僕が言うのもおこましいことだが、萩市の今後の在り方は心配ないだろう。
 それにしても萩は面白い。 この小さな山陰の海辺の城下町から博文、山形有朋、桂太郎、田中義一と4人の総理大臣が出ているし、木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作、田中義一は同じ町内会の生誕、伊藤博文も学んだ松下村塾の吉田松陰の存在なくしては語れないのだが……毛利の殿様の萩城は、日本海に突き出た指月山に大きな見事な石で組んだ石垣が残されているが、お城は明治維新後窮乏した藩士の生活を支えるため、解体して部材を売り払ったそうだ。時折復元の話が出るそうだが,このままにしておくことも、萩の歴史を物語っているように思う。
 市街地に入ると情景は一変し、シャープな美術館があると思ったら丹下事務所の作品。おやっと目を引いたのは菊竹さんの萩市民会館、僕が建築を志したころ作品集で見た、菊竹さんが萩の歴史を現代に表現しようと腐心した建築が(でもこうは書いてない)ここにあったのか。我ながら良く覚えていると感心したものの,隣のコルテン鋼の錆で覆われた市役所が同じ設計者の作品であることを知り、市民会館との整合性がなく唖然とする。
 萩市はこれではいけないと新しい施設は和風でやろうと考え、その隣の建物は土蔵を模した瓦屋根と白壁で作ったが、僕に言わせればこれも変。と言うと柏本さんは苦笑した。歴史を捏造しているとまでは言わないまでも、歴史つまり時間に負けている。僕はこれから僕たちが作る建築は、時間のファクターを考えなくてはいけないと思っているのだが,こういう例を見ると時間のファクターってなんだろうと考え込んでしまう。近くに建つ郵便局の、シンプルなデザインがむしろ心地よい。街並みを構成する建築の役割の大きさを改めて実感する。
 

萩は興味尽きないが、僕が感銘を受けたのは、市役所の前に建つ明治時代に建てられた「明倫小学校」の存在である。橋本川と松本川に囲まれた一帯(香港島とか新潟に似ている)ここに住む小学生は、全員南京下見板張りの2階建てのこの木造校舎で学び中学生になると2校に分かれていくのだという。
 四棟に分かれている校舎の奥の三棟は、アルミサッシュに取り替えられたが、OBから痛烈な批判があり、玄関のある手前の一棟は木製建具のままである。
 僕は保存問題委員会委員長として幾つかの木造校舎の保存に取り組んだが、すべてアウト。こだわるのは僕が小学、中学生時代に木造校舎で学んだ経験があるからでもあるのだが、勿論それだけではない。(それは別の機会に
 校門を入った右手に国の史跡として指定されている武道場明備館か建っていて萩の観光案内でも紹介されているが、それより時間を経た校舎で学ぶ子供たちや先生方が、ここで学ぶことの意義やこの建物をどう思っているか聞いてみたいと思った。僕は建築の面白さや街のあり方勉強する時間をカリキュラムの中に組込んでもらい,子供だちと一緒に考える事が大切だと事ある毎に言い続けている。今度萩を訪れるときは実現したい。
 さて萩の夜、ビジネスホテルの女将さんに教えられた「末益」という夫婦でやっている居酒屋で、萩沖でとれたうまい魚を食いながら地酒を飲んだ。店の名前まで書くのは、この旦那の笑顔の素晴らしさと夫婦のチームワークに惚れた事もあるが、小さな奥座敷の宴会の料理をどんどんサービスで出してくれたから。嬉しくなって二人の写真を撮って送る約束をした。写真は飛行機に乗るとスチュワーデスを撮るのもそうだが、僕にとってコミュニケーションの道具である。(閑話休題)

伊藤博文別邸移築工事竣工式
 翌朝椿東公園、つまり松下村塾のある松陰神社の近く、旧伊藤博文邸の隣地に建てられた別邸で竣工式が行われた。
野村市長、伊藤家の当主や、旧所有者ニコンの方々と並んで、テープカットや記念植樹にも来賓として参列させていただいたのは光栄である。テープカットの金色に輝く鋏の切れ昧の感触が今でも残っている。
 旧伊藤博文別邸は、明治39年大井に建てられ,子息の邦博公が住まわれた後、上杉家を経てニコンが昭和19年に取得したが、老朽化のため維持することができなくなった。ニコンや品川区に保存要望をしたが財源がなく取り壊されることになり、お別れの見学会や茶会を行った。
 その折建文の福田さんが萩市への連絡の労を取ってくれ,市長が飛んできて和館の一部移築を英断してくれた。このいきさつは世田谷から深谷市に移築になった、誠之堂・清風亭のケースと似ている。
 萩市教育委員会の柏本さんとはそのとき以来のお付き合い。五十八邸もそうだが僕がいたから残った(勿論一緒に動いた仲開か沢山いるのだが)と言う誇りや喜びがあるが、市長から感謝の言葉をいただく前に、僕のほうから御礼を申し上げたい。ともあれこの別邸は茶会や集会に使えるよう市民に開放されるが、これから萩の責重な文化遺産として大切に使われながら、観光客にも喜ばれていく。嬉しいことだ。

建築家の仕事? 
 この一ケ月ほどはいつになく(まあ何時ものことだが)慌しかった。
 2月1フ/18日と保存問題山梨大会に参画。 24/25日と新潟。僕の撮った新潟下町(しもまち)の40枚の写真を、
美術評論家の大倉さんが気に入ってくれ、「絵屋」という町屋を改装した画廊に展示され、そこでのギャラリートークのパネラーとして参加のため。その折り鶴の友という造り酒屋にお邪魔したら、その建物が登録文化財になっており、お茶をいただきながら古伊万里や東北の民窯の収集家でもある当主と2時間も話し込む。今後終生の友となる予感あり 28日鈴木博之教授達と共に、岡田信一郎設計の大阪中ノ島中央公会堂免震レトロフィットの現場見学。清水建設技研の松波さんに案内されて綿業会館も見学。ここに入居しているJIA近畿支部に、鈴木教授をさそって表敬訪問する。 

 3月3日横浜の「旧三菱銀行」の見学会とシンポジウムに、コーディネーターとして参画。パネラーは吉田鋼、鈴木博之両教授、横浜市都市デザイン室の国吉氏、そしてJIA神奈川の副代表の設計者の池永さん。 JIAの仲間が改築の設計をするという難しい状況の中での司会で進行に苦心したが、鈴木教授の鋭い指摘に、会場に詰め掛けた200名を超える参加者から拍手が沸くなど刺激的な会になった。そのとき鈴木教授に戴いた「日本における近代建築保存の理論的研究」は,今の問題を抽出した共感するところが多い隠れたる名著である。
 6日、東大生研の保存要望書を文化庁に提出。午後から建築学会で関西から石田潤一郎、足立祐司先生を迎えてDOCOMOMOの関西巡回展などについて会合(DO-COMOMO WG委員会は今月2回行われた)。8日菅原さんと銀座ライオンにこのビヤホールのインテリアの保存問題打ち合わせに行く。 10日、写真家の飯田鉄さん、造形大の大竹誠さんや生活工房の大宮さん達と9人で街を歩きハーフサイズカメラで写真を撮る三茶ペン倶楽部の仲間と青梅歩き。 14日稲垣栄三先生の葬儀。教えていただきたい事が沢山あるのに残念で仕方がない。
 20日春分の日。前野芸大名誉教授,窪東大名誉教授,大川三雄日大講師に作家の森まゆみさんを迎えて、またも僕の司会により「旧東方文化学院の建物を生かす会」のシンポジウム。このアカデミックで神秘的な内田祥三博士の設計による建築が浮かび上がってきた。
 萩行きの翌日、深谷市「渋沢栄一’中の家’活用検討委員会」に出席。この建築群の活用はまさしく町(街ではない)づくりだと思うので市民の声を聞くために、ワークショップ的なヒヤリングをやりたいと提案した。 27日僕の設計しているSRCIO階建てのワンルームマンションの地鎮祭が、新横浜で行われた。僕も仕事をしているのだ。
 その夜運営委員をやっている「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」の委員会に参加。山□肩先生や益田兼房先生の復元談義に耳を傾ける。とクダクダ書いたのは、つくるだけが建築家の仕事ではない……と言ってみたいからだ。
 日本民芸館の尾久彰三さんと飲んだとき、兼松さん僕達のやっているのは職業ではなくて仕事ですよと言われた。建築の保存問題に関わることは、お金をもらっているわけでもないので職業とは言えないが、建築家としてやらなくてはいけない仕事だと思う……ことにしている。松波さんから学会のシンポジウムの案内をもらったとき、現場で打ち合わせがあるので無理と返信したら、ああ良かった、兼松さんも仕事してんだ、とメールがきた。ううーん、なんと答えれば良いのか。忙しくても人恋しく、断れない症候群。

建築家写真倶楽部
 実は林昌二さんや加藤宏之さん達と近々建築と写真のあり方を考える「建築家写真倶楽部」をJIAの中で立ち上げようと準備している。これも建築家の仕事だと思う
から……。
                 

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