東京市民活動コンサルタントArco Iris 緊急情報コーナー


2001年入管法改定案の政治性
(執筆:古屋哲)


  
今国会で、入管法の改定が審議されています。
来年のサッカーワールドカップをにらみ、「フーリガン」入国拒否にかこつけて、
国際会議に働きかけるNGO/NPOの活動家なども排除できる内容になっています。
大阪で外国人労働者への連帯運動を続けてきた古屋哲さんの分析です。
   
 今回もまた、治安を目的にした法改定である。
 「密航対策」の九七年改定、「不法滞在者対策」の九九年改定もそうだった。ただし、これまでの二回が入管法違反者を取り締まりの対象としていのに対して、今回は社会性をもった大衆行動への参加者を対象としており、その露骨な政治的意図がきわだっている。
 あえて論点を絞り込めば、法案の重大な問題点はつぎの二点である。

国際的な民衆運動ネットワークを抑制

 ひとつはサミットなど国際会議への抗議行動に参加した者の上陸を拒否する条項、そして国内で同様の抗議行動に参加した者を退去強制に処する条項である。
 上陸拒否の対象となるのは、抗議行動のなかで「人を殺傷し、人に暴行を加え、人を脅迫し、又は建造物その他の物を損壊したことにより」刑罰もしくは退去強制に処せられた経歴をもつ者が、入国後に同様の不法行為を行うおそれがある場合である。この「おそれ」は入国時期と国際会議の開催時期の近接性など三つの要素を中心に「総合的に判断する」という(十一月一日の参議院法務委員会、法務省入国管理局長中尾巧氏の答弁)が、これでは恣意的、政治的な判断を可能にするほとんど無制限の裁量権をあたえることにしかならない。
 また退去強制の対象となるのは、短期滞在資格で日本に在留中、上記のような不法行為を当局に現認された者、たとえば警察に逮捕された者である。この場合には不起訴処分であっても退去強制が実施されうる。法務省入管局の説明によれば、退去強制の判断は、警察・検察当局が作成した報告書、実況見分調書あるいは関係者の供述調書等の関係資料を踏まえて行われるという(参議院法務委員会)。警察、検察との協働のもとで、一種の保安処分として運用されるということだ。
 ここで想定されているのはG8サミットや国際機関(IMF・国際通貨基金やWTO・世界貿易機構)などの会議とそれに対する抗議行動であり、法案の根拠はその警備上の要請である。したがって、これまでの国際会議とその警備がどのようなものだったか、そして反対者を排除して「円滑な実施」を保障することが妥当性なのかについて、十分に検討されるべきである。
 一九九九年末から今年にかけて、欧米やアジアで開催されたサミットなど十数の国際会議には毎回、数千人から数万人の抗議行動が行われ、今年七月のイタリア・ジェノバのG8サミットへの抗議行動には十五万人から三〇万人といわれる人びとが参加した。その結果いくつかの国際会議で日程の一部が中止された。(小倉英敬「シアトル、ジェノバで何が起こったか」『世界』二〇〇一年十一月号)
 こうした大動員を実現したのは、各国のNGO・市民運動をはじめ、労働組合や農民運動、政党、教会組織、知識人など各界の運動を幅広く集めた国際的なネットワークである。その中心を担う民衆団体は貧困、債務、環境、人権などの問題を討議する独自の国際市民フォーラムを開催し、あるいは今年の南アフリカ人種差別撤廃世界会議など関連テーマの国連や政府間の動きにも参加してきた。中心課題のひとつが移住者問題であることは、ここに特筆しておくべきだろう。
 したがって国際会議への抗議行動は、当然ながら会議の妨害を目的にしているわけではなく、弱者を犠牲にする新自由主義経済政策の世界への押しつけ(グローバリゼーション)を批判しているのであり、世界的な影響をもつ政策をごく少数の為政者が決定することに反対しているのであり、野放図な資本移動の制限や第三世界の債務帳消しなどの具体的な要求を提出しているのである。
 その一方で抗議行動のなかでは、是非は別としていくつかのグループが実力行動を呼びかけ実行していたことや、それとの関係ははっきりしないが、車両や銀行施設の破壊などの騒擾状態があったことは事実である。
 だが、国際会議の主催国政府が市民運動の批判と要求に耳を傾けず、対話を拒否し、暴力的なデモ規制と催涙ガス弾の発射で対処してきたことも指摘しておかなければならない。そして、騒擾状態があったかなかったか、実力行動をとなえるグループのメンバーかあるいはむしろそれを抑制する主催者団体であるかを問わず、多くの行動参加者を逮捕した。これは、通常の警備の範囲を超えた、批判と反対意見を会議から遠ざけるための政治的な規制だと言わねばならない。
 日本政府の入管法改定案は、こうした欧米諸国の政府・治安機関の規制方針に歩調を合わせたものである。
 この間、欧州連合EUは、「国際組織犯罪対策」として各国の治安機関の連携を強めてきたが、その目的のひとつは明らかに国際会議への抗議行動の抑制だった。そして九月十一日の事件ののちには「テロリズムとの闘い」と名前を換え、方針策定と実施を進めているが、じつはそこで挙げられている「テロ行為」の定義は、日本政府の入管法改定案に挙げられている不法行為とほぼ重なるのである。
 さらに米国では十月に反テロ法(USA-PATRIOT法)が成立し、米国務省の査証発給用の外国人情報が他の国の政府にも提供されることになった。米国の入管法(移民国籍法)には「反テロ条項」があるので、国務省は「テロリスト」情報を保有している。日本の入管は、欧米の政府からこうした情報を受け取ってブラックリストとして利用し、「刑や退去強制に処せられた者」をあらかじめ知り、上陸を拒否できるのである。
 このように、今回の入管法改定案は、欧米諸国を中心とする世界大の治安機関ネットワークの中に日本の入管が参入していく一歩だと考えられる。
 なお、「テロ関係者」の入国阻止あるいは退去強制に関しては、法務省入管局は現行の入管法で対処できると認識している(参議院法務委員会)。既存の上陸拒否事由(「日本国の利益又は公安を害する行為を行うおそれ」があると認められる者)、および退去強制事由(同行為を「行った者」)を指しているかとも思われるが、不明である。

外国人労働者の異議申し立てを抑制

 法案のもうひとつの重要ポイントは、いわゆる「外国人犯罪」に関わって、懲役または禁固刑に処せられた在日外国人を退去強制に処する条項である。執行猶予判決を受けても退去強制事由に該当することになるが、法務省入管局は、「犯罪組織に戻って再び同じような犯罪を繰り返す再犯のおそれもあるので、速やかに退去させる合理的な必要がある」と説明している(参議院法務委員会)。これも保安処分の考え方である。
 これまで退去強制となるのは日本国内で一年以上の刑に処せられた場合だったが、今回の法改定によって、指定された二十の罪名のいずれかで有罪となると、たとえ犯行の態様が軽微であることや情状が判決で認められても退去強制に処せられることになる。「外国人犯罪対策」という治安政策のために特定の犯罪について刑事罰に上乗せして不利益が課せられることには重大な疑問が、たとえば罪刑法定主義に違反する疑いがあることを、まずは指摘しておく。
 二十の罪名は、通貨偽造など市場と金融秩序に対する犯罪、殺人と傷害、誘拐、窃盗と強盗などであり、これらは「外国人犯罪の現状にかんがみ」選択されたのだとしている。だがそこには、大衆運動の弾圧にしばしば用いられる「住居を侵す罪(建造物侵入)」と、そもそも弾圧を目的にしてつくられた「暴力行為等処罰に関する法律(集団的暴行・脅迫など)」が挿入されていることに注意しなくてはならない。この「暴力行為等処罰に関する法律」とは、「デモクラシー」高揚後の反動期にあたる一九二六年、あるいは治安維持法制定の翌年に制定された法律だと言えば、その性格を理解しやすいだろう。
 具体的な場面を想定すれば、研修生として来日した労働者が不当な待遇に抗議して雇用企業の責任者に面会を求めた場合、あるいは戦争被害や日本企業の海外活動の被害を被った在外の当事者が来日して日本の当局や企業に抗議行動を行った場合が相当する。
 対象となる在日外国人の範囲からは、「永住者」「定住者」「日本人の配偶者等」などの在留資格をもついわゆる定住外国人が除かれている。このことは、『出入国管理第二次基本計画』が示している法的地位と権利の階層化に応じたものである(拙稿「第二次出入国管理第二次基本計画が示す“多民族社会の将来像”」Mネット30号参照)。つまり、今後大量の導入が図られている外国人労働者が深刻な人権侵害状況におかれることを見越して、彼らから異議申し立ての権利を奪い、従順な労働者の地位に押し込めることで、紛争を回避しようということである。
 あらかじめ釘を刺しておくと、定住外国人が除かれていることを肯定的に評価する考え方は受け容れられない。そのような論法でいけば、日本国籍保有者が国外に追放されないのは日本国民の大勝利であり、米国民は米軍機が自らの頭上に爆弾を落とさないことを感謝すべきだろう。欠けているのは普遍的人権と反差別、反人種主義の思想であり、人間的な想像力にもとづく連帯の思想である。

「テロリズムとの戦争」と私たちの連帯

 九月十一日の事件の後、米国、EUを中心にして、人権を侵害し既存の法原則をないがしろにした捜査、逮捕・拘束、そして治安関連の法改定が行われている。アラブ系やイスラム系とみなされた人びとが各国で拘束されており、米国では六〇〇人が検挙されたと言われている。先述の「USA-PATRIOT法」はこうした外国人の予防拘禁を合法化し、制度化するものである。
 日本では十月三日に難民申請中のアフガニスタン人九名が入管に収容された。これが「テロ組織関係者とつながりのある疑いのある不法滞在者等の取締り」(十月十二日「国内テロ対策等に関する関係省庁会議」決定『国内テロ対策等における重点推進事項』)として、あるいは「三八カ国の警察当局によるテロリスト検挙」(十月八日ブッシュ米大統領の演説)として行われたことには、ほとんど疑いない。
 「テロリズムとの戦争」のもとで部分的だが紛うことなき有事態勢が実現しつつある。それが各国で外国人と民族的少数者を対象に行われていることは、この「戦争」の人種主義的性格を明らかにするものである。
 日本では、七三年の新ガイドライン以来、外国人の予防拘禁が準備されてきており、石原都知事の差別発言はそのおぞましいひとこまであった。
 こうした事態に至る契機となった戦争が、もちろん大国間の戦争ではないばかりか、「朝鮮半島有事」でもなく、日本では市民運動をふくめた世論がほとんど意識することもなかった「辺境」のアフガニスタンへの介入戦争だったことは、認識の根本的な再検討を私たちに迫っている。私たちの連帯の質が問われているのである。
 その意味で、わずかながら報道からも聞こえてくる在日アフガニスタン人、在日パキスタン人の声に耳を傾けることは重要である。そして、在日アフガニスタン人の難民申請を支援してきた関西の二つの団体(大阪大司教区カトリック国際協力委員会と外国人労働者奈良保証人バンク)が、九月二十四日に反戦市民デモを呼びかけたことには一筋の希望が見いだせると、私は思う。
 

 
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