九三年政変とは何だったのか?

清瀬 六朗



1.

九三年政変十周年

 1993(平成5)年8月、自由民主党(自民党)政権が崩壊し、細川護煕(もりひろ)氏を首相とする非自民・非共産八党派連立政権が成立した。1955(昭和30)年以来つづいた自民党長期政権の時代の終わりのはずだった。

 ところが、現在も、公明党との連立とはいえ、自民党長期政権はつづいている。よほど大きな失政かスキャンダルでもないかぎり、自民党が政権政党の座を失うこともありそうにない。

 こんな状況で、かつて自民党が政権を失っていた時期があると言われても、どうにも現実味がない。1990年代を振り返ってみても、この非自民・非共産政権の成立という事件は、その後の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件、平成大不況などにかき消されて、薄い印象しか残っていない。私自身だって、新潮新書の伊藤惇夫『政党崩壊』を読むまで、今年がこの事件から十周年にあたることには思いいたらなかった。

 当時、「改革」側の陣営をリードした政治家の多くが、今日では政治をリードする立場から去ってしまった。党首格の立場では、民主党に合流した自由党の小沢一郎氏が残っていた程度である。現在の民主党の菅直人氏は当時はまだ第一線のリーダーではなかったし、鳩山由紀夫氏もまだ新党さきがけの一幹部でしかなかった。当時、衆議院議長だった土井たか子氏は、このあいだまで社会民主党(社民党)党首だったし、現在も衆議院議員だが、土井氏のばあいはこの「改革」の時期以前から活躍している政治家であり、九三年政変を主導した政治家とはまた違うグループに属するだろう。

 たしかに十年も経てば物故者も多くなるし、世代交代も進む。しかし、当時の自民党の側で活躍していた人たちでは、河野洋平氏が衆議院議長であり、橋本龍太郎氏が橋本派のリーダー、当時はまだ自民党にいた石原慎太郎氏が東京都知事と、いまも活躍をつづけている。それと較べればやはり「改革」側の没落ぶりのほうが目につく。

 この「九三年政変」を画期として変わったものはいろいろとあるはずだ。まず、九三年政変をきっかけに、日本政治は「連立の時代」へと移行した。自民党結党から九三年政変まで例外的にしか存在しなかった連立政権が、九三年政変以後はあたりまえのものになった。また「五五年体制」も崩壊した。五五年体制とは、自民党が議席の多数を制して常に与党になり、社会党がその半分ぐらいの議席を獲得して常に野党第一党となるという体制である。自民党は現在も大政党として存続しているが、社会党は社会民主党と名を変え、現在では衆議院でわずか6議席しか占めていない小政党である。自民党のほうは残っているけれども、資本主義を擁護する自民党と社会主義を目指す社会党という構図がなくなってしまった。「保守‐革新」という図式が通用しなくなってしまった。その境目もやはり九三年政変にあると見ることができる。

 それなのに、九三年政変の印象はどうしてこんなに薄いのか? 九三年政変が目標に掲げた「政治改革」がもう過去の課題になってしまったからなのか、それとも逆にそれがまだまだ目標に到達していないからなのか、それとも最初から九三年政変が「あだ花」のようなもので華々しいばかりで何の内実もない事件だったからなのか?

 政変から十年が経ったのを契機として、あらためて九三年政変について思うことを記しておきたいと思う。


自民党の危機感とロッキード事件

 九三年政変は「政治改革」を掲げる勢力によって起こされた。では、この「政治改革」へつながる動きはどこから始まるのだろうか。

 その兆しを遡ると1970年代まで行ってしまう。

 当時から農山漁村部や都市部の小規模企業の経営者・小商店主などに主な支持基盤を持っていた自民党は、都市化と近代化が進むとともに、都市に基盤を持つ野党第一党の社会党に逆転されるのではないかという危機感を抱いていた。都市化と近代化が進めば、農林漁業を仕事とする人は減り、町工場や小さな商店も衰退することが予想されるからだ。

 もっとも、ここでは、都市の住民の大多数が労働者であり、社会党の支持基盤である労働組合に組織されていると考えられていた。だから社会党に逆転される可能性が取りざたされたわけだ。実際には、都市の住民は会社勤めの人びとが多数を占めるようになり、社会党の支持基盤の拡大には必ずしもつながらなかった。

 その自民党の危機意識をさらに高めたのが1976(昭和51)年に発覚したロッキード事件である。

 この年の2月にアメリカ合衆国のロッキード社がその旅客機を全日空に採用させるために日本の政界に工作を行っていたことがアメリカで暴露された。田中角栄元首相がこの事件にかかわったとして逮捕・起訴された。ほかにも自民党の有力者がこの事件にかかわっているのではないかという疑惑を持たれていた。この事件で自民党は大きな打撃を受けたのである。

 ロッキード事件を契機に、自民党の金権体質を批判する一部の議員が自民党から分かれて新党「新自由クラブ」を作った。このときのリーダーが、野党期の自民党の総裁となり、現在は衆議院議長になっている河野洋平氏だ。


自民党の混迷と復活

 ロッキード事件後、自民党では激しい派閥抗争が繰り広げられることになった。

 抗争は主として福田(赳夫)派と大平(正芳)派のあいだで争われた。大派閥の田中(角栄)派が田中角栄氏を総裁候補に立てられなかったことがこの抗争の原因の一つだった。

 当時の自民党では、総裁候補になるのは派閥の最高指導者(少し古いことばでは「派閥の領袖」などという)というのがあたりまえだった。ところが、田中氏は、ロッキード・スキャンダルの中心人物であり、刑事被告人であったために、総裁候補になれなかった。そのため、田中派は総裁候補を立てることができなかったのだ。

 現在の自民党では、派閥の最高指導者が総裁候補にならなくてもかまわない。1989年に派閥の最高指導者でなかった海部俊樹氏が総裁になって以来(そのまえに宇野宗佑総裁の時代があるが、短期間で辞任したので、いちおう海部氏からとしておく)、派閥の最高指導者は自民党総裁にならず、その後見役的な存在にとどまることが多くなった。海部氏より後の自民党総裁では、宮沢喜一氏、小渕恵三氏、森喜朗氏が派閥の最高指導者だったが、河野洋平氏、橋本龍太郎氏はその当時は派閥の最高指導者ではなかった。現在の小泉純一郎氏も森(喜朗)派に属しており、派閥の最高指導者ではない。

 ロッキード事件直後にもこのような慣行があったならば、田中角栄氏が総裁になれなくても、田中派は派内の中堅議員を総裁候補を立てることができただろう。けれども、1970年代には、派閥とは何よりもその最高指導者を総裁にするための組織だった。派閥の最高指導者を差し置いて派閥のナンバー2以下を総裁候補に立てることはあり得なかったのである。

 その田中派の動向も絡んで、福田派と大平派が主導権をめぐって激しく争い、政治は混乱した。1976年と1979年の2回の衆議院議員総選挙で思うような結果が出ず、そのたびに福田・大平両派の争いが起こり、それがさらに自民党のイメージを悪化させていた。

 だが1980年の衆議院・参議院同時選挙では自民党が圧勝した。自民党のイメージもけっしてよくはなかったが、野党側の政策も新味を欠いていた。加えて大平首相が選挙戦中に亡くなったことからくる同情票が自民党に集まった結果だろうと思う。

 急死した大平首相の後継者となった鈴木善幸首相(自民党総裁)の下で派閥抗争は停止され、全派閥が政権に参加する挙党態勢が作られた。自民党はとりあえず危機を脱したことになる。けれども、そのぶん、ロッキード事件で明らかになった「政治とカネ」の問題から来る危機意識は薄らいでいったようだ。


自民党の強さ

 自民党は、内部の対立も激しいけれど、まとまるときの結集力も大きい。それはこの時代も現在も変わっていないようだ。

 それは、自民党が「族議員」を通じて社会のいろいろな領域の権益と結びついていることにも関係があるのだろう。自民党の議員(べつに自民党に限らないが)は、自分の親しい業界や自分の地元に政治力で補助金や道路整備、産業基盤整備などの利益をもたらすことでその権力を保持してきた。党内対立で党が崩壊してしまえば、その構造も維持できなくなってしまう。そのため、自民党の議員たちは、「これ以上やったら党が崩壊しかねない」というところまで行くと一転して対立を回避する「勘どころ」を心得ているようだ。

 先回りして言えば、九三年政変では、この「危機になったらまとまることができる」という機能がうまく働かなかった。現在の自民党はこの「危機になったらまとまることができる」機能を取り戻しているようだ。その九三年政変での失敗が身にしみているからかも知れない。

 自民党は内部対立も激しいがまとまるときには一つのまとまることができる。これは、自民党が組織として優れている点なのではないかとも思う。内部対立を繰り返すなかでさまざまな意見が主張され、党内に出されている意見の幅が広がる。そのことで、一つにまとまるときに、そのさまざまな意見のなかからよりよい選択肢を選ぶことができる。それが組織としての生命力の強さやしぶとさにつながっている。

 こう書けば自民党を理想化しすぎていると言われるかも知れない。ほんとうにさまざまな意見が出されて討論され、討論の結果としていちばん優れた意見が生き残るのならいいが、自民党のばあい、必ずしもそうでもなさそうである。討論はされるかも知れないが、けっきょく利権とか派閥の思惑がらみとかで決着する。理路整然とした討論の結果ではなく、利権とか派閥に属する議員の数とかいう「力」が結論を決める。

 だから、自民党内部の決定過程が理想的なものとは言えないかも知れない。しかし、たとえば、党内で最初から正しい意見が一つに決められていて、それに対する異論が出るのを抑圧してしまうとか、逆に、議論がいろいろと出ていつまで経ってもまとまらないとかいう事態に較べればずっとましだろう。

 自民党のように、さまざまな意見を力関係で決めてしまえば、理論的・思想的な一貫性はなくなるかも知れない。けれども、理論的・思想的に一貫していることがいつも政治的によいことだとは限らない。理論的・思想的に一貫していることによって、その理論や思想で説明できる一部の人たちの特定の利益しか考えないことになれば、その理論・思想では捉えきれない人びとの利害が政治の過程のなかで無視されることになる。それはけっしてよい政治ではないはずだ。

 1970年代後半、自民党は党が分裂しかねないような激しい抗争を繰り広げたが、抗争の一方の当事者だった大平首相の死去と選挙での圧勝を契機に一転して結束に向かった。この背後に、勢力を急速に拡張しつつあった田中派の動きがあるのは確かだろう。けれども、この抗争から和解へという過程は、自民党が1980年代の社会に対応する体制を整えるための準備期間と捉えることもできる。一方では、福田‐大平抗争のなかで模索された政策の方向性が1980年代の自民党の政策に活かされることになった。他方で、この激烈な抗争の記憶は、派閥争いへの恐怖感として、次世代の指導者たちに引き継がれていくことになる。


自民党の圧勝

 一方で、都市化・近代化から来る党勢衰退の危機感も、中曾根内閣下の1986年選挙で薄らいだように見える。

 このときの衆参同時選挙では自民党は衆議院の議席を300議席に載せる圧勝だった。この選挙結果について、中曾根(康弘)首相(自民党総裁)は「自民党はウィングを左に伸ばした」とコメントした。従来なら社会党・公明党・共産党・民社党などを支持していた層を自民党が支持層として取りこんだということだ。

 なお、民社党は、1959年に社会党の右派の一部が脱党して1960年に結成した党である。激しい階級闘争に反対し、資本主義体制内部で穏健な社会主義的改革を目指す勢力である。当初は「民主社会党」と名のっていたが、1969年に「民社党」を正式名称にした。結成当初のリーダーは、戦前から活動してきた右派社会主義者の西尾末広氏である。私は、1980年代の選挙の際の新聞記事で、多くの民社党の候補者が「尊敬する人物」として西尾末広氏の名を挙げていたことに強い印象を受けたのを覚えている。当時の民社党員にとって西尾末広氏の存在はそれだけ大きなものだったのだろう。

 公明党は、九三年政変の後、一部は新進党に参加し、一部は「公明」という組織を作って分かれた。新進党の崩壊後、公明党系の党員がふたたび「公明」と合流し、現在の公明党になっている。

 このとき、自民党は、大型間接税の導入や農産物の市場開放問題などの難しい問題についてあいまいな立場をとり、それが争点になるのを回避した。大勝利はそのためにもたらされた面がある。しかしけっしてそれだけではない。

 1980年代は、日本の都会が、いま私たちが慣れ親しんでいる都会へと変わってきた時代にあたる。1970年代までは、いちおう便利に快適に暮らせるようになることが都会の人びとの主な関心事だった。だが、大都会ではその「いちおう便利で快適な生活」は1980年代はじめに達成された。より楽しく、豊かさを実感して生きることを、この時代の都会の人たちは求めはじめた。

 都市社会は、たんに都市に人口が集中しているということだけでなく、多くの情報がその都市から発信されるという意味でも重要である。大きな放送局や大手新聞社、大きな出版社は都市にある。日本のばあい、それがとくに東京に集中している。東京のメディアが、東京以外の地方の情報を伝えないというわけではない。しかし、東京以外の地方の情報よりも東京からの情報が量的にも質的にも上回ってしまう。さらに、地方のメディアで活躍する人たちも、教育や研修は東京で受けていたりするから、地方の情報を伝えるうえでも東京をはじめとする都市の価値観が基準になりがちである。1980年代にはテレビや雑誌の伝える情報が多様化した。しかし、その多くが都市の価値観に基づいて都市から発信されたものだったから、それとともに、都市社会の価値観が日本全体を動かす傾向が強くなっていった。

 自民党がそれに十分に応えたかどうかはわからない。けれども、少なくとも、当時の野党よりは、都市の人びとのその気分の変化に敏感だったように思う。


社会党の失敗

 とくに、野党第一党の社会党がその気分の変化についていくことができなかった。

 資本主義の発展が豊かさをもたらし、その豊かさの分け前を多くの人が手にすることができれるようになれば、社会主義は別にいらなくなる。社会の大多数を占める労働者から富を(しぼ)り上げ搾取(さくしゅ)し)、社会の一部に過ぎない資本家だけを潤しているという社会主義の社会観は成り立たなくなっていた。

 また、1970年代後半、世界の社会主義圏の混乱が覆い隠しきれなくなっていた。

 中国では、1976年にカリスマ的な指導者だった毛沢東が死去し、1970年代後半にかけて、毛沢東がリードしてきた「文化大革命」の実態が明らかになってきた。それは暴力と無秩序の支配にほかならなかった。しかも、中国の社会主義政権自身がその惨憺たる実態を認めたのである。ソ連ではブレジネフの長期政権がつづいており、官僚制支配の下で経済は低迷していた。そのソ連がアフガニスタンに介入し、アフガニスタンの人びとやイスラム圏から結集した義勇兵の抵抗戦争に遭遇するのが1979年である。同じ年、ベトナムがカンボジアに侵攻してポル・ポト政権を首都プノンペンから追放し、中国がそのベトナムに「懲罰」という戦争目的を掲げて侵攻した。中国、ソ連はもちろん、ベトナムもカンボジアも社会主義国だったし、アフガニスタンも社会主義化政策を進めるなかでソ連の介入を招いた。これでは社会主義に希望を持てと言われても無理だろう。

 社会主義をめぐる状況は国の内でも外でも大きく変わっていた。それまでの社会主義は通用しにくくなっていた。資本主義社会の存在を前提にした社会主義へと理論を組み替える必要があったのに、当時の社会党はその転換ができなかった。それが1980年選挙の大敗の大きな原因だった。

 1980年の大敗後の社会党は、「ニュー社会党」と称して、西ヨーロッパの社会主義政党のイメージを借り、「イメージチェンジ」を図ろうとしていた。しかし、主張している政策は「非武装中立」など旧来の社会党と何ら変わるものではなかった。べつに非武装中立の平和主義が悪いと言っているわけではない。ただ、内容がとくに変わったわけではないのに、イメージだけ変えてみたところで、当時の都市の住民たちにはかんたんに見抜かれてしまう。バカにしているのかと思われる。そのことに当時の社会党は十分に気づいていなかったように思う。

 私は社会党の主張する「資本主義と社会主義の対決」という図式が全面的に無意味だったとは思わない。社会党の年来の主張だった「非武装中立」の理念も、日本の人びとが共有する「平和主義」の心情を形づくるうえでは大きな役割を果たしたと思う。けれども、それだけでは有権者の心を引きつけられない時代が来たのである。そのことに社会党はあまりに鈍感だった。

 この1980年代に社会党が西ヨーロッパの社会主義政党に倣った政策の全面的刷新を行っていれば、その後の展開は少しは違ったかも知れない。けれどもいま言ってもそれは後知恵にすぎない。

 当時の社会党支持者はそんなことを求めてはいなかった。逆に社会党のいっそうの急進化を求めていたのではないかと思う。ただ、そういう社会党支持者の層が徐々に狭まっていたのだ。当時の社会党はその事態に対して十分な手を打つことができなかった。

 1986年の自民党の圧勝は、その社会党の衰退と一体をなすものだった。


つづき