九三年政変とは何だったのか?

清瀬 六朗



2.

潜伏する危機――中曾根政権から竹下政権へ

 中曾根(なかそね)首相が言ったように自民党は支持基盤を拡げ、1970年代はじめからの危機を脱したかに見えた。

 だが、問題は根本的に解決されたのではなく、潜伏していただけだった。自民党が果てしない派閥抗争の悪夢から結束を保っていたのと、対抗相手の社会党が勝手にこけてくれたために、問題が表面に出てこなかっただけである。

 1970年代後半の大平内閣の時期から問題になっていた「大型間接税」の導入が、潜伏していた問題を表面化させる一つのきっかけとなった。現在の消費税である。

 中曾根内閣はこの大型間接税の導入を大きな課題として掲げながらも、そのたびに世論の反発と野党の抵抗を受けて果たせずにいた。自民党内からも大型間接税導入には抵抗があった。中曾根首相は、1986年の選挙に際して、大型間接税導入は行わないと受け取られるような発言をしていた。そのことも大型間接税導入への抵抗を強めていた。

 選挙で勝利した中曾根政権は、その勢いを駆って大型間接税導入への動きを始めた。しかし、この構想は国民からも野党からも党内からも反発が強く、けっきょく中曾根政権下での大型間接税導入は見送らなければならなかった。

 しかも、この大型間接税導入を断念したころ、中曾根内閣は長期政権化し、世論から次第に飽きられていたように思う。

 また、自民党内では、田中角栄(かくえい)・福田赳夫(たけお)・大平時代から最高指導者を支えてきた竹下登・安倍晋太郎(しんたろう)・宮沢喜一など各氏がそろそろ世代交代を求めていた。新たに派閥の指導者となった竹下・安倍・宮沢各氏は、この時点で相当に長い経歴を持ち経験を積んだ政治家だったにもかかわらず「ニューリーダー」と呼ばれていた。ちなみに、田中角栄氏は田中真紀子代議士の父親、福田赳夫氏は福田康夫官房長官の父親、安倍晋太郎氏は安倍晋三自民党幹事長の父親である。

 けっきょく、1988年、中曾根首相が「ニューリーダー」のなかから竹下氏を後継者に指名するというかたちで、中曾根氏から竹下氏へと総裁の地位が継承された。竹下派は田中派の後継派閥である。この政権委譲によって、長いあいだ総裁を出せなかった田中派・竹下派が久しぶりに総裁・首相を出すことができた。


消費税とリクルート

 その竹下首相が取り組んだのが、中曾根政権下で果たせなかった大型間接税の導入である。大型間接税、つまり現在の消費税の導入を柱とする税制改革の方針が竹下政権下でまとめられた。消費税の導入は12月に自民党が圧倒的多数を占める国会で議決された。

 ところが、このときの自民党の国会議員は、選挙当時の中曾根総裁が、一定の限定つきながら、大型間接税は導入しないと公約して選ばれてきた議員たちであった。この消費税の導入は世論から自民党の世論に対する裏切りとして受け取られた。自民党は強い非難を受けることになる。

 私の感じていた印象によると、1988年の春ごろまでは世のなかの気分は保守的だった。年の初めごろ、ファッション雑誌の広告に「今年の気分はコンサバ」というような見出しが出ているのを見て、ファッション界も保守なのかといささかうんざりしたのを覚えている。ところが、消費税の導入決定とともにその雰囲気は一変した。そしてそれを決定的にしたのがリクルート事件だった。

 リクルート事件はこの「税制改革」の決定とほぼ同時に発覚した。

 当時、リクルート社は、バブル経済の波に乗り、テレビで斬新なイメージを宣伝して、めざましい成長を続けていた。そのリクルート社の関連会社の株が公開されるまえに自民党の主要政治家に渡っていたことが発覚したのである。当時のリクルート社の勢いやバブル経済の動きを考えると、この未公開の株が上場されたとき、未公開のときよりも大幅に値上がりする可能性がかなり大きかった。少なくとも、当時の世論には、この未公開株は賄賂(わいろ)であると受け取られた。消費税導入で国民に負担を強いようとする政権を支える人たちが、自分たち自身は一般国民が手にすることのできない未公開株で儲けようとしていた。構図はあまりに単純明快だった。

 竹下首相をはじめ、安倍・宮沢両氏の周辺もこの未公開株譲渡事件にかかわっていたことがわかった。このスキャンダルで、竹下氏が首相を辞任し、安倍・宮沢両氏も政権に就けないことになってしまった。

 このスキャンダルがなければ、1990年代の自民党は、中曾根長期政権下で出番をうかがっていた竹下・安倍・宮沢各氏が政権を担当し、次の世代のリーダーの成長を待つ時期になっていたはずだった。ところがそのリーダーを一挙に失ったのである。自民党の指導体制は一挙に不安定になった。


1989年の参議院選挙

 1989年、参議院選挙が行われた。結果は当時の野党第一党の社会党の圧勝、自民党の惨敗だった。参議院では与野党の勢力が逆転した。

 この勝利では、社会党が自民党と一貫して対決してきたこと、とくに消費税問題とリクルート事件で自民党を強く批判していたことのほかに、党首(委員長)の土井たか子の果たした役割が大きい。1980年代に女性の国会議員は増えてきていたが、社会党のような大政党で女性が党首を務めるというのはまだ斬新(ざんしん)だった。また、消費税が導入され、ものの値段が上がることにいちばん敏感だったのはやはり専業主婦層だった。ただでさえバブル経済で物価が上がっていた時期である。女性の声が国政に届かなかったから消費税導入のような悪政を許してしまったという気分が社会党に有利に働いた。社会党など革新政党側は女性候補をたくさん擁立し、その女性候補がたくさん当選した。「マドンナ旋風」と呼ばれたものである。

 さらに、新しくできた労働運動の全国組織「連合」がバックアップして自民党に対立する「連合」型の候補を擁立し、それが各地で自民党候補を破った。

 自民党への支持の揺らぎは、もう一つ、農政によってもたらされた面もある。対米協調を強く推し進めた中曾根政権以降の自民党政権の下では、農産物の市場開放が避けられない情勢になっていた。1980年代後半はアメリカ経済が低迷しており、日本経済が絶好調だったことからも、アメリカの日本市場開放の要求は強いものになっていた。自民党は米だけは市場開放要求から守り抜くとしてきたが、農産物の市場開放の進展でその米も守りきれない勢いが強まっていた。農業者が自民党に不信を抱き、自民党に「お(きゅう)を据える」必要を感じるようになっていた。そんな時期にこの参議院選挙が行われたのである。

 当時、リクルート事件・消費税にこの米の市場開放問題を加えて「三点セット」などという言いかたがあった。自民党はこの「三点セット」で参議院選挙に敗れたのである。


変革への楽観

 「変革の時代」感は国外からも迫ってきていた。当時、ソ連はゴルバチョフ共産党書記長(1990年に大統領に就任)のもとで、共産党一党独裁体制を変革するという大改革を行っていた。いかにそれまでのソ連政治が閉塞(へいそく)状態に陥っていたといえ、官僚主義で硬直化した体制の象徴のような存在だったソ連共産党が、自ら主導権をとって、その権力基盤になってきた構造を大胆に変革していったのである。それに対して、ケ(とう)小平が主導する中国政府は、1989年6月、改革を求める学生たちの運動を軍隊まで動員して鎮圧し、世界じゅうから非難を浴びて孤立していた。自由化・民主化の改革を進めるソ連と、その改革を求める声を力で抑圧した中国の対照は鮮やかだった。この年、ベルリンの壁が崩され、東ヨーロッパの社会主義圏が崩壊した。自ら変革したものが生き残り、再生を果たし、変革を拒んだものは孤立し見放されやがて滅びていく。

 世界も日本もよりよい時代への変革の時機が訪れたという予感に満ちていた。変革への楽観が世界にみち満ちていたのだ。変革は難しいが決断力をもって断行すればけっして不可能ではない。それに対して変革しなければやがて衰亡することが明らかだと思われていた。

 まだソ連の変革が失敗してまもなくソ連が消滅する運命にあるとは予想されていなかった。冷戦構造の崩壊が新たな地域紛争・民族紛争を生み出すことになると予測した人も当時からいたが、まだその声は十分に重く受けとめられてはいなかった。


不発に終わった政権交代

 だが、この1989年の選挙結果は、当時の社会党以外の野党にとってはけっして嬉しいものではなかった。野党全体では圧勝だったが、自民党批判の票は社会党に集中し、他の野党は苦戦したからである。そのことが、社会党と公明党・民社党とのあいだに溝を作ることにつながった。なお、共産党は、この時期より前から社会・公明・民社の各党と明確に一線を画する立場を明らかにしていたので、この選挙結果で社会党との関係が大きく変わることはなかった。

 以前から社会党と公明・民社両党との関係はあまりよいものではなかった。公明党・民社党が自民党への接近を強めていた。

 民社党は社会党に接近していた時期もあったけれども、その結党の経緯や、民社党系労働組合と社会党系労働組合との対立関係もあって、民社党と社会党の関係は全体的によいとはいえなかった。公明党・民社党は、社会党・共産党などの「革新」勢力から一線を画した「中道」政党であることを強調するようになってきていた。

 翌1990年の衆議院総選挙では、社会党も議席を伸ばしたものの、自民党も善戦し、自民党が安定多数を確保した。割を食ったのは公明・民社などの規模の小さい野党である。自民党・公明党が善戦し民主党が躍進した2003年11月の総選挙と同じような状況が起こったのだ。

 いずれにしても、衆議院で自民党が多数を取ったことから、政権交代の可能性は失われた。


社会党の孤立と自民党の危機感

 自民党は、ものわかりのよさそうな海部総裁(首相)の下に、「剛腕」と評された小沢一郎氏を幹事長に据え、公明党・民社党との協調を進めていく。そんな矢先にイラクのサッダーム・フセインがクウェートに軍事侵攻し、一方的に併合を宣言する事件が勃発した。湾岸危機である。この湾岸危機が小沢一郎氏の指導下の自民党によって、公明党・民社党と社会党とを分断する手段として利用される。

 社会党は「非武装中立」を主張していた党であり、当時は自衛隊の存在さえ公式に認めていなかった。だからましてや自衛隊の海外派兵を容認するはずがない。しかし、当時は、今回(2003年)のイラク戦争と違って、国連とアメリカ合衆国を含む諸国との協調関係がうまく行っていた。ヨーロッパ諸国はもとより、アラブ諸国も、サッダーム・フセイン政権の脅威に対抗するために、国連の承認を受けた多国籍連合軍の側に参加していた。

 自民党は「国際協調」を掲げてこの軍事行動への何らかのかたちでの参加を模索していた。その方針に公明党が接近した。民社党も「自衛隊の海外派兵には国会の事前承認が必要」という線で抵抗し、修正を求めながらではあるが、自民党へ接近していった。イラクへの派兵自体は見送られたものの、社会党の孤立は決定的になった。

 その結果、1989年の参議院選挙で現実味を帯びたかに見えた政権交代の機運は急速に凋んでいった。

 社会党が機会を逸したのは、公明党・民社党の社会党への警戒感と、それを利用した自民党の小沢一郎幹事長の手腕によるところも大きい。しかし社会党自身にも問題はあった。

 社会党は、冷戦時代の時代状況を前提にした平和主義を、冷戦後の地域紛争多発時代に即応させて変えて行こうともしなかった。また、社会党が勢力を拡大しても、けっきょく消費税を廃止することはできなかった。与党になれなかったのだからしかたがないと言われればそれまでである。しかし、だったらせめて党の勢力をさらに拡大して与党の地位を奪うために何か手を打つ必要があった。けれども、当時の社会党は、消費税、リクルートに「平和」を訴えていればそれで支持は得られるという感覚を持っていたように思える。労働組合組織を主な支持基盤にするというあり方も変わってはいない。いったんは党勢を飛躍的に拡大した社会党だが、またも時代の流れに対応していくことに失敗したのである。

 だが、それは、自民党が世論の信頼を取り戻したということを意味しない。

 自民党内部でもそのことは理解されていた。だから「政治改革」が党内で活発に議論されていた。当時の自民党では、何より世論の批判を直接に受ける一般党員層が改革の必要を感じていたようである。この一般党員層の危機感がなかったならば、その後の政変はあり得なかっただろう。


選挙制度をめぐる議論

 この時期、自民党内部で進められていた政治制度改革論議では、選挙制度の改革が一つの大きな焦点になっていた。

 当時の衆議院の選挙制度は「中選挙区制」と呼ばれるものだった。一つの選挙区から原則として3人から5人の当選者を出すという制度である。

 なぜ「中選挙区」と呼ぶかというと、それが「小規模な大選挙区」だからである。理論上は、一つの選挙区から一人の当選者しか出さない制度を「小選挙区制」、一つの選挙区から複数の当選者を出す制度を「大選挙区制」という。この区分でいうと、この当時の日本の衆議院の制度は大選挙区制である。しかし、大選挙区としては、一選挙区の定員が少なく、小規模だった。だから「中選挙区」と呼ばれたのである。

 なお、現在の衆議院総選挙では、政党に投票する比例区と候補者名で投票する選挙区とがあり、一度の選挙で二回投票することになる。しかし、当時は、選挙区からの候補者だけで当選者のすべてが決まっていた。現在の比例区のように政党に投票する制度はなかった。

 この中選挙区制はいろいろな方面から攻撃されていた。

 制度改革を求める人びとのあいだからは、大選挙区にして比例代表制を導入するべきだとする意見と、小選挙区にするべきだという意見とが出ていた。比例代表論者も小選挙区論者も、自分たちの主張する制度にしたほうが政策本位の選挙になるからよいと主張していた。そして、その「政策本位の選挙」の実現を妨害しているのが中選挙区制だというのだ。

 逆に中選挙区制度がよいと積極的に支持する意見は少なかった。中選挙区制度は1920年代にそれ以前の変則的な小選挙区制度に替えて導入された制度で、折衷的な性格を持っていた。当時、与党が三党で構成されており(護憲三派内閣)、その三党の候補者のあいだで競争が起こらないように一選挙区の定数の最低数を三人に設定したという。だから理屈で攻撃されると弱い一面がある。どの理屈から論じても中途半端だからだ。


小選挙区制と比例代表制の優劣

 では、小選挙区制度と大選挙区の比例代表制度にはどういう特徴があるのだろうか。

 一般的に、小選挙区制度だと大政党に有利で小政党に不利であると言われる。小選挙区ではその選挙区でトップの票を集めた人しか当選しない。なるだけ多くの選挙区でなるだけ多くの票を集められるのは、人材も資金も豊富に揃えた大政党だということになる。今回の衆議院総選挙の結果を見てもそうなっている。

 なお、「小選挙区ならば二大政党制が実現する」と主張する人がいるが、必ずしもそうはならない。一つの政党の力が圧倒的に強ければ、二大政党制にはならず、その圧倒的に強い一つの政党がほとんどの選挙区で圧勝して「一大政党+小政党がいくつか」という体制になってしまう可能性もある。また、あまりあり得ないことだが、地域によって支持する政党の傾向がバラバラに分かれていたりすれば、小選挙区でも小党分立になる可能性もある。

 比例代表制だと、少数の票しか集められなかった政党でも、一定数の票を集めていれば少数であっても議会に議員を送りこめる。だから、ばあいによっては小政党が分立し、単独で過半数を取ることのできる政党が生まれない可能性がある。

 この小政党分立で議会が混乱し、政治が無力化して失敗した例としてよく挙げられるのは第一次世界大戦後のドイツ(ワイマール共和制)だろう。第一次大戦後のドイツでは、穏健社会主義の社会民主党、カトリック系の中央党、国家主義の国家人民党など、傾向の異なる有力政党が乱立し、妥協を繰り返してなんとか政局を運営していた。しかし、1930年代に入って大恐慌の波が襲ってくると政党間の対立が激化し、政党どうしが足を引っぱり合ったため、議会では何も決められなくなってしまった。何かの提案に反対するときには多くの政党の立場が一致しても、提案に賛成するほうには数が集まらず、どの党がどんな提案をしても否決されるという状況(「負の多数」という)になったからである。その隙をついて勢力を拡大し政権を奪取したのがナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)である。

 けれども比例代表制ならば必ずしも小政党乱立になり政治が崩壊するとは限らない。あまりに少ない得票しか得られなかった政党には議席を与えないという制度を設けるなどの対応策をとれば、議会に出てくる政党の数は限られてくる。現在のドイツは比例代表制だが、社会民主党(SPD)とキリスト教民主/社会同盟(CDU/CSU)の二大政党で、それより小規模の党として自由民主党(FDP)があり、さらに小さい政党がいくつも存在するという「大まかにいえば二大政党」制になっている。

 小選挙区制度を支持する人たちは、比例代表制では、小党分立になる危険があるうえ、何度選挙をやっても固定した支持層のある政党の票はあまり動かず、その結果、政治が停滞してしまうと主張した。ダイナミックな政権交代を起こすには小選挙区でなければならないというわけである。

 それに対して、比例代表制を支持する人たちは、小選挙区では少数意見が政治に反映されなくなるうえに、一つの選挙区で一人の候補者しか当選しないために、なりふり構わず選挙区の利権がらみの選挙が展開されて、かえって政策本位の選挙が展開できなくなると主張した。また、比例代表制の支持者は、小政党がたくさん生まれても、ヨーロッパの多くの国で行われているように連立政権を組めばよいのだし、連立政権の組み合わせを変えることで政治は変わると主張した。この当時、「コンソシエーショナル・デモクラシー」論というのが紹介されてもてはやされていた。小党分立でも必ずしもドイツのワイマール共和制のように議会制が崩壊するとは限らず、安定した小党分立体制もあり得るという議論である。これも比例代表制支持者を支持する議論に使われた。

 全体に、自民党など保守の側から政治改革を唱える人たちは小選挙区制を支持し、野党側の支持者は比例代表制を支持するという傾向があったように記憶している。その両方の議論は必ずしもうまくかみ合わなかった。


選挙制度改革のすれ違い

 ただ、小選挙区論者・比例代表論者の双方が中選挙区制には否定的という点で共通していた。中選挙区制では政策本位の選挙ができないうえに、自民党の派閥政治の温床にもなり、カネのかかる選挙になるというのである。

 この欠点の指摘はけっきょくのところ同じ現象のいろいろな面を指している。つまり自民党の候補者の問題だった。

 一つの中選挙区の当選者数は3〜5人だから、全選挙区の結果を合わせたときに議会で過半数を取るためには、一つの中選挙区から複数の候補者を当選させていなければならない。一選挙区一人ずつを確実に当選させたところで、3分の1から5分の1のあいだの勢力しか取れないからだ。落選する候補者がいることも考えると、小さな選挙区でも2人か3人、大きな選挙区では4人とか5人とかの候補を立てなければ過半数を制することはできない。

 そうなると、過半数を取る政党では、一つの選挙区で自分の政党の候補者どうしが争うことになってしまう。「過半数を取る政党」とは具体的には自民党である。自民党の派閥はそういう実態に合わせて生まれてきた。つまり、一つの選挙区で自民党のある候補者が田中派の支援を受けていれば、自民党の別の候補者は福田派の支援を受けて争うというかたちである。また、そういう争いかたをするから、政策で議論してもたいして違いが出ない。同じ自民党候補のあいだで議員の地位を賭けた壮絶な争いが展開されていたとしても、党の政策は決まっているので、違う政策を掲げて正面衝突するわけにはいかないからだ。だから、けっきょく、選挙区内で自分の支持者の多い地域(地盤)に国から利益を引っぱってくるというかたちで熾烈(しれつ)な争いを引き起こす。自民党候補どうしの争いでカネはかかるし、政策論争は行われないし、このころには弊害が指摘され始めていた「選挙区に利権を引っぱってくる」だけの政治の温床になるし、中選挙区制度には何もいいところがない。それが中選挙区制批判である。

 こう見れば、中選挙区制の問題点として指摘されたのは、主として政権政党である自民党の問題だということができる。まさにそのとおりである。しかし、それを「選挙制度の問題」として設定すれば、議論は自民党員や自民党の支持者を超えた広がりを持つことになる。そして、実際に、議論は自民党内や自民党支持者を超えて広がっていった。

 けれども、先に触れた伊藤惇夫(あつお)氏の本を読むと、当時の自民党自体では選挙制度改革にまじめに取り組む政治家はそれほど多くはなかったようだ。当然である。選挙制度をヘンにいじると自分が当選できなくなる可能性があるからだ。しかも、当時の自民党の政治改革論議では議員数の削減が議論されていた。議員数が減ると、その減った分で当選できなくなるのは自分かも知れない。多くの議員は中選挙区制のままのほうが居心地がいいと考えていたようだ。世間の批判が強いうちは選挙制度改革について議論をしておいて、世論が選挙制度の議論に飽きればもとの中選挙区に落ち着けばいいというふうに考えていたのかも知れない。

 野党は選挙制度改革に必ずしも反対の立場ではなかった。しかし、自民党が小選挙区制に近い案を出そうとするのに対して、小政党の多い野党側は比例代表に近い制度を主張し、まとまらなかった。とくに、野党のなかの大政党である社会党は、たとえば1989年選挙の実績からすれば小選挙区制で政権獲得を狙ってもおかしくなかったのに、比例代表制を基本にした制度(小選挙区比例代表併用制)を主張していた。

 自民党があまり本気で取り組まず、しかも自民党と野党では改革案が大きく食い違っているという状況では、選挙制度改革は実現するはずもなかった。


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