九三年政変とは何だったのか?

清瀬 六朗



3.

小沢一郎氏の役割

 ところが、自民党の内部にも、中選挙区制に安住するという「守り」の発想ではなく、小選挙区制に制度を変えて、その小選挙区制の下で選挙を勝ち抜こうという「攻め」の発想をする幹部がいた。海部内閣の下で途中まで幹事長を務めた小沢一郎氏である。のちに小沢氏と対立する羽田孜氏は、当時はその小沢氏の改革の「同志」だった。さらに、小沢氏や羽田氏に近いグループがこの考えを支持していた。

 小沢氏は選挙に強い政治家と言われていた。それは必ずしも小沢氏自身が主張していたような政策本位の選挙で強いというだけではなさそうだ。当時、小沢氏の支持基盤と地方的な利権の結びつきを丹念に調べた本も出ていた。

 また、小沢氏は政界操作の手腕にも長けていた。消費税とリクルート事件で社会党が優位に立ちかけた状況を、公明党・民社党を自民党の側に引きこむことで逆転し、社会党を孤立に追いこんだのはその例である。1989年の参議院選挙で歴史的大敗を喫し、自民党が海部氏を総裁に選んだとき、自民党がその前途に希望を持っていたとはあまり思えない。海部総裁の選出自体が「窮余の一策」のようなものだった。このとき、小沢氏が幹事長でなければ、自民党は1991年にかけて復活を遂げることができたかどうか疑問である。

 けれども、日本の政治風土ではこのような策略家は歓迎されない。べつに策略家がいなかったわけではない。けれども、そういう策略は、裏で、国民や一般党員の見えないところでやるものだった。日本の世論は、裏で策略めいたものが行われていそうだと感じていても、それが明るみに出るまではわりと寛容である。しかし策略めいたことが堂々と行われることには強い嫌悪感を持つ。小沢氏はそういう政治風土と衝突する性格を持っていた。しかもそれを日本の政治風土に合わせて変えていこうとはしなかった。

 小沢氏が強烈な権力志向の持ち主であったのは確かだろう。だからといって理念も展望も持たない政治家だったわけではない。ところが、日本の政治風土では、理念を持つ政治家は策略など弄しないものだし、策略を弄する政治家は理念など持たないと決めつけられる傾向がある。別に小沢氏の肩を持つつもりはないが、そのことで小沢氏が損をしてきたのは確かだと思う。

 また、その政治風土が、時代の流れに即応しようとせず原理原則ばかりにこだわって失敗を繰り返す社会党が支持された理由の一つでもあるだろう。党勢拡大のために工夫を凝らすよりは、愚直に理念を主張しつづけるのが「正しい政治家」であり「正しい政党」のあり方だ――そういう信念が社会党を支えていたように思う。他人ごとのように書いているが、じつは私自身が1980年代にはそういう社会党支持者の一人だった。


「マキャヴェリスト」としての小沢一郎氏

 一方で、策略を使いこなす政治家は、「マキャヴェリスト」などと呼ばれて、自分が権力を握るためには何でもする政治家であり、政治に理念など持っていないと考えられがちだった。

 だが、本来のマキャヴェリズムとは、自分の理念を実現するために適切に策略を使いこなす政治のことである。このことばは、15〜16世紀、ちょうど日本の戦国時代前半のころに生きたイタリアの政治思想家・歴史家マキャヴェリに由来する。マキャヴェリはたしかに政治には策略が必要であるというようなことを言った。しかし、それは、理念が正しくてもそれを実行に移すための策略を全面否定してしまえば、けっきょく策略に富んだ「まちがった権力」の横行を許してしまい、「正しい理念」から見てマイナスの結果を招いてしまうからである。マキャヴェリが説いたのは、理念なんかどうでもいいから策略で政治権力を奪ってしまえなどということではない。

 私は、消費税・リクルート後の自民党にあって、小沢一郎氏は、自民党の党勢衰退の現状から目をそむけず、将来に向かって展望を持って政治を行おうとした理念政治家の一面があると思う。そうであることと、小沢氏が策謀に長けた権力政治家であるということは、べつに矛盾しないのだ。

 小沢氏の構想は、小選挙区制度を実現したうえで、自民党は公明党・民社党と組み、小選挙区制度の下で多数党となるという構想だったようだ。

 公明党・民社党との連携をどの程度の幅で考えていたのかはわからない。消費税・リクルート事件の打撃から自民党が回復するまでの一時的なパートナーと考えていたのか、それとももっと長期間にわたる連携を考えていたのかはわからない。

 政治的な主張から言えば、小沢氏は新保守主義者であった。新保守主義というのは1980年代のアメリカ合衆国のレーガン政権や同じ時期のイギリス(連合王国)のサッチャー政権の保守的改革の立場のことである。小沢氏は、急進的な市場経済主義者であり、国家主義者であり、国際社会に対する軍事的貢献推進論者だった。

 これらの点で公明党や民社党と主張が一致したわけではない。それを考えると一時的な提携相手と考えていたようにも思える。けれども、そのような政策上の対立は表面上のもので、ずっと連携してやっていけると考えたのかも知れない。九三年政変後の小沢氏の動きを見ているとそちらの可能性が大きいように私は思う。

 ともかく、当時の小沢氏は、自民党を分裂させることを考えていたわけではなく、あくまで自民党を主体とした変革を考えていたようである。その小沢氏は、1991年の東京都知事選挙で東京都の自民党組織の意向に反して公明党・民社党との連立候補の擁立を強行し、敗れたことなどから、海部政権の途中で幹事長の職を辞した。このとき小沢氏が辞任していなければ、小沢氏の意図した改革は自民党を中心に進められ、九三年政変はなかっただろう。


宮沢政権

 1991年10月末、宮沢喜一氏が自民党総裁に当選し、11月、海部氏にかわって首相になる。リクルート事件で自民党の中心から離れていた中曾根政権下での「ニューリーダー」の復帰である。

 宮沢氏は高度成長期から自民党の運営に携わり、大臣を歴任してきたれっきとした古参政治家である。政策通であり、また国際感覚を身につけた政治家として、宮沢氏は期待されていた。

 だが、一面ではまだリクルート事件の記憶が消えていなかった。それだけに宮沢政権には廉潔さが求められていた。宮沢政権下でさらに汚職事件が暴露されれば、それは自民党にとって大打撃になりかねない雰囲気があった。宮沢氏には、それ以前に、中曾根内閣期の大蔵(現在の財務)大臣として金融政策の判断を誤り、バブル経済を引き起こした責任者という面があるのだが、当時はそのことはあまり問題にされなかったように記憶している。

 また、宮沢氏は大平派の流れを引く宏池会系派閥の最高指導者だった。宏池会系は伝統的に「ハト派」である。だから宮沢首相は自衛隊の海外派兵には積極的ではない立場だった。

 さらに、宮沢氏は、政策通であるだけに、中曾根氏のように目立つ「パフォーマンス」をあまり好まず、ものごとを割り切って考えすぎる一面があった。選挙制度改革を中心とする「政治改革」についても、あまり大きな制度改変はできないし、また必要ないと考えていたようである。もしかするとそのとおりだったのかも知れない。しかし、当時の自民党が置かれた立場では、たとえ本音の部分で反対の議員が多くても、また制度を大きくいじくってもあまり効果が期待できないとわかっていても、やはり「改革」に前向きな姿勢を見せておくことは必要だった。策略家であることを隠さない小沢氏とは逆に、宮沢氏は人に見せているとおりに実直な政治家で、政治には策略的な要素があることを基本的に認めない人だった。

 宮沢首相は、どのような面でも小沢氏とは対蹠的な立場にいる政治家だったのである。

 この総裁選挙で宮沢氏と争った渡辺美智雄氏(副総理に就任)が当選していれば、やはり九三年政変はなかった可能性がある。渡辺氏ならば小沢氏と協調していける傾向を持った政治家だったからだ。もっとも、この時点で渡辺‐小沢コンビが日本を引っぱる立場になっていたならば、日本はいまの日本とはずいぶん違う国になっていた可能性がある。そうなったほうがよかったのか、どうか。


九三年政変への道

 果たして宮沢氏は就任直後から汚職事件のスキャンダルに襲われ、支持率を落とした。とくに決定的だったのは1992年8月に発覚した佐川急便事件だった。東京佐川急便から、当時の経世会(竹下派)の会長であり、自民党副総裁だった金丸信氏に5億円が渡っていたことが発覚したのである。

 この後の経世会内部の動きは、先に触れた伊藤惇夫氏の『政党崩壊』に記されている。私はこの本を読むまで知らなかったことなので、詳細な事情はこの本に譲りたい。

 ともかく、小沢氏も羽田氏もこの経世会に属していたから、この事件は当然ながら小沢氏や羽田氏にとっても打撃になったはずだ。しかしこのとき小沢氏は党の要職から離れており、自由に動ける立場だった。羽田氏はこの時点ではまだ党を動かすような大物政治家にはなっていない。その身軽さが小沢氏や羽田氏を動きやすくしたという面があるだろう。小沢氏や羽田氏と二人に近いグループは経世会を飛び出し、政治改革の推進を掲げて新たに羽田派(改革フォーラム21)を結成した。

 当時、宮沢総裁の下で幹事長として自民党組織を支えていたのは経世会の実力者梶山静六氏だった。この小沢氏と羽田氏の行動は梶山氏にとっては裏切り行為に映っただろう。小沢氏や羽田氏は、自分の派閥のトップが贈収賄事件で世論の厳しい批判にさらされているのに、それを守るどころか、国民の批判を追い風にして派閥を飛び出し自分たちの派閥を立ち上げたのだ。なお、このとき、梶山氏に同調した経世会(竹下派)の幹部が小渕恵三氏や橋本龍太郎氏などで、現在の自民党橋本派(橋本派になる以前は小渕派)につながる流れがここで形づくられている。

 この梶山氏と小沢氏・羽田氏の確執も九三年政変を生む大きな契機になったようだ。この梶山氏との確執がなければ、これまた九三年政変は起こっていなかった可能性がある。九三年政変があのようなかたちで起こった背後にはさまざまな偶然があったのだ。そして、その動きの中心には常に小沢一郎氏がいた。


小沢氏‐羽田氏以外の改革への動き

 これとは別に、武村正義氏らが政治改革を目指す議員グループ「ユートピア政治研究会」を形成して活動を続けていた。のちに「新党さきがけ」となるグループである。1988年、当時の竹下首相が「税制改革」を終わらせて次は「政治改革」だとスローガンを打ち出したとき、「政治改革委員会」の事務局次長(会長は後藤田正晴氏)を務めたのがこの武村氏である。武村氏には政治改革に携わったのは小沢氏・羽田氏より自分たちのほうが先だという自負と矜恃があっただろうと思う。

 武村氏は滋賀県知事を長く務めた政治家だった。私が子どものころ、関西に住んでいて、武村氏の選挙運動がニュースで流れたのを記憶していた。そのときには自民党候補に対立する立場だったはずだ。だから、武村氏が自民党内で改革派グループを結成したと聞いて、「おや?」と思ったのを覚えている。滋賀県知事時代に自民党を含む「相乗り」型の知事になり、やがて自民党から国政選挙に立候補して当選したということのようだ。

 小沢氏がレーガン政権やサッチャー政権をモデルとする新保守主義者なのに対して、武村氏はヨーロッパ流の社会改革を目指していた。それは八日市市長をしていた時期に町作りを担当した経験などによるのだろう。武村氏にはたしかに「バルカン政治家」(小勢力を率いて無節操に政界を巧みに泳ぎ渡るリーダーという意味)の一面があり、小沢氏と同じかそれ以上の策謀家としての性格があった。小沢氏に好意的な政治論者は、小沢氏の策謀には理念があったけれど武村氏の策謀には理念がなかったと批判する傾向がある。けれども、党員を民主党に奪われて新党さきがけが失墜する前夜に「環境主義」を掲げたことも含めて、武村氏に大陸ヨーロッパ的な社会を目指すという理想が一貫してあったのは確かなようである。

 一方で、自民党の外でも改革の動きは始まっていた。東京から学生新聞の記者を集めてパーティーを開いたり、スキー競技に参加したり、ともかく派手なパフォーマンスを繰り広げて全国から注目を集めていた熊本県知事の細川護煕氏が、知事を辞めたあと、「日本新党」という新しい保守政党を立ち上げていたのである。

 とはいえ、「海のものとも山のものともわからぬ集団」というのが政党活動を開始した当初の日本新党のイメージだった。1992年の秋ごろ、都心のほうに出向くと「日本新党」の名を連呼している宣伝カーによく出会った。「なんだこれは?」というのが正直な感想だった。いかにも「名まえだけが先行していて内容のない集団」のように思えたものである。


何かが起こりそうな予感

 1992年の冬から翌年春にかけて、「政治改革」をめぐって何かが起こりそうな予感はあったように思う。自民党政権は、スキャンダルの連発によって嫌悪される以前に、飽きられていた。自民党支配の閉塞感に風穴を開ける「新しい」動きを人びとは待望していたように思う。

 伊藤氏の本によると、小沢氏は、そのあいだに連合や公明党と連絡をつけ、党を割って政権を奪取できるように準備を進めていたようだ。佐川急便事件で高まった「政治改革」への期待と、それと一体になった自民党政権への失望感という雰囲気が残っているうちに、羽田氏・小沢氏は敏捷に巧く動いた。

 もし、あと一年待ってから羽田派が動き、内閣不信任案可決と総選挙という事態になっていたとしても、「改革」勢力がそれほど議席を取ることができず、政権交代は起こらなかったかも知れない。1993年の逆風の中でも自民党は改選議席を一議席上回る223議席を取っているのだ。

 何かのタイミングが少しでも狂っていれば、この政変は起こらなかった可能性が大きい。1991年春の段階で小沢氏が自民党の要職から離れていなければ、また、その年の総裁選挙で渡辺美智雄氏が勝っていれば、さらに、梶山幹事長が小沢氏に対して宥和策を採っていれば、羽田氏・小沢氏は党を割ることはなかったかも知れない。武村グループと日本新党だけでは政変を起こすには力不足だった。羽田氏・小沢氏が党を割らなければ、武村グループは従来どおりの党内改革の道を選んだに違いない。そうなれば、「政治改革」は、自民党政権が維持されたままもっと漸進的なかたちで起こっていただろう。日本新党が改革に関わるとしても、それは自民党政権を前提にした協力になっていただろう。

 もしそうなっていれば――という仮想の話は実際に起こったことを辿(たど)ってから述べるとしよう。ともかく、実際にはそうはならなかった。九三年政変は起こった。そして、多くの人が、閉塞感が打破され、新しい政治の時代が始まると期待を抱いた。


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