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声高に主張しない野心作?



竹松舞

コンチェルト・セレナータ

デンオン


 ハーピスト竹松舞の四枚めのアルバム(DVDは除く)は、ロドリーゴとピエルネのハープ協奏曲を収めた作である。

 前作『月の光/竹松舞 in パリ』でヘンデルの協奏曲をとりあげていたけれども、協奏曲だけのアルバムははじめてだ。


 ハープは音の美しい楽器だ。

 ピアノと同じように張った弦を鳴らす楽器だが、ピアノのようなハンマー装置でたたくのではなく、人間の手で直接にはじくのだから、もっと優しい音が出る。奏者が抱えるようにして弾くので目立たないけれども、大きな共鳴胴も持っている。だから音が豊かにふくらむ。

 しかもハープ奏者には女性が多い。指揮者の岩城宏之氏によると、日本ではとくに女性の比率が高いそうである。そうなると、社会的性差(「ジェンダー」)意識からしても、ハープは「優美な音の楽器」という評価がより強く持たれてしまいそうな感じがする。

 でも、いまどきこんなことを書くとハープ奏者の大半の反感を買いそうだ。

 そのような美しい音を持ちながら、というより、美しい音を持つために、ハープはクラシックの「本流」である19世紀ドイツ・オーストリア音楽では常に脇役の地位に置かれてきた。「オーケストラの美しい音担当」の役割に固定されてきたのである。その役割からなんとか脱出しようというのが、少なくとも現在、ハーピストとして活躍する人たちの共通の悲願なのではないかと思う。


 私が最初にハープのアルバムを買ったのはクラシック音楽に興味を持つだいぶ前である。

 当時はまだ学生だったハーピスト吉野直子のインタビューを新聞で読んだのがきっかけだった。その記事が載っていたのも音楽欄ではなかったと思う。そのインタビューで、吉野直子は「ハープというのはお上品で優美なだけの楽器ではない」というようなことを語っていた。それで興味を持って吉野直子のアルバムを買ったのである。

 その主張は、吉野直子の最初のアルバム『アラベスク』を聴いて、なるほどと理解できた。たしかにハープの音色そのものが美しい。しかし、それだけに収まらない強靱さや雄弁さ、孤独な凄絶さまでをハープは語ることができる。それを吉野直子のアルバムは主張していた。


 しかし、ハープの独奏者として活動していると、次に曲の不足に直面する。

 ハープのレパートリーがそんなに少ないわけではない。しかし、先に書いたように、クラシックの「本流」である19世紀〜20世紀初頭のドイツ・オーストリアの作曲家のレパートリーには、ハープが独奏楽器として目立つ作品がほとんどないのだ。それより前の作品か、それより後の20世紀の作品か、19世紀でもドイツ・オーストリア以外の作曲家の作品がほとんどである。私の知るかぎりでは、1778年に書かれたモーツァルトの「フルートとハープのための協奏曲」以来、ドイツ・オーストリアで活躍した作曲家による作品は、やはり18世紀のクルムフォルツの作品と、19世紀のライネッケの作品ぐらいしかない。

 ところが、19世紀〜20世紀初頭のドイツ・オーストリア音楽は、ピアノでもヴァイオリンでもチェロでも、舞台に上げても聴衆の受けがよく、レコード(CD)も売れる貴重な分野である。その分野を大きく欠くのは、独奏者として活躍するハープ奏者にとっては不利な要素である。

 吉野直子が最初のアルバムで採りあげ、竹松舞も同じくデビューアルバムの第一曲に持っていったドビュッシーの「アラベスク」はピアノ曲からの編曲である。リストの「愛の夢」(第三番)もそうだ。ハープ奏者の吉野直子は、その後、現代音楽の分野でもアルバムを残しているし、現在も多くの斬新な企画のコーディネーター役を務めて多方面で活躍している。これは、吉野直子の資質もあろうけれど、ハープ曲のレパートリーがそんなに多くないことも関係しているのだろうと思う。曲が少ないのであれば、演奏機会の少ない曲であってもどんどん紹介し、新しい企画にも次々に手をつけていこうという積極策なのだろう。

 オーケストラ音楽の優美さ担当という固定された役割、そして決して多くはない曲という条件を逆手にとって積極策に出ることが、現在、ハーピストとして活躍するための条件なのかも知れないと思う。


 デビューアルバムの『ファイヤー・ダンス』では、竹松舞はロックのエアロスミスの曲を採りあげている。次の『妖精伝説』ではビートルズとジョン・レノンの曲を採りあげていた。曲が少ないのであれば、他の「ジャンル」とされている曲をアレンジして持ってくればいい。私自身は、1980年代には、聴く範囲は狭かったけれども、ともかくロックもよく聴いていたので、この選曲には親近感を感じた。

 ただ、同時に、物足りなさを感じたのもたしかだ。

 ロックを含むポピュラー音楽を採りあげるのはいいのだが、エアロスミスとビートルズとジョン・レノンというのは、あまりにメジャーすぎる。また、当時高校生だった竹松舞が「いかにも採りあげそうなジャンル」という気もした。

 エアロスミスやビートルズをとりあげたのはもちろん本人の意思なのだろう。けれども、同時に、クラシックにはあまり関心のない若い層にアルバムを買ってほしいというレコード会社の意図が見えているような気もして、それが不満でもあった。

 これが、エルヴィス・コステロの初期の曲とかトッド・ラングレンとか、ジョン・レノンでも「イマジン」ではなく「マザー」だったとかいうのならば、私は手放しに喜んだだろうけれど。「マザー」の最初の鐘の音がハープの低音弦の不協和音で弾奏されたところなんか想像してみると背中がぞくっとする。まぁ、この曲、家庭崩壊の歌なので、健全な高校生の弾くもんじゃないかも知れないけど。


 さて、次の『月の光』は、パリ録音ということもあり、前半でラヴェルとドビュッシーの曲を採りあげていた。私が待望していたラヴェルの「序奏とアレグロ」も収録されている。できれば「亡き王女のためのパヴァーヌ」や「フォーレの名による子守歌」も聴きたかったけれど、これはオリジナルがハープ曲ではないので、あんまり強く望むわけにもいかない。

 「亡き王女のためのパヴァーヌ」など、いかにも甘美な曲であり、いかにも「優美さ担当」のハープ向きの曲という気がする。しかし作曲者のラヴェル自身がそういう甘美・優美なだけのアプローチに満足するとは思えない。ラヴェルはこの曲には満足していないというようなことを述べているけれども、皮肉屋のラヴェルの発言だから、ほんとうは奏者(ピアニスト)のこの曲へのアプローチに不満だったのだろう。それだけに、この曲をハーピストがどう演奏するか、聴いてみたいと思うのである。

 「亡き王女のためのパヴァーヌ」のハープ版は私はサバレタの録音で聴いた(『フランスとスペインのハープ音楽』グラモフォン)。思い入れを排除した、モノトーンの、端正な演奏で、坦々と曲が進み、曲の持つ厳しさとともに情感があふれてくる演奏である。サバレタの録音はあまり多く聴いていないので、どのような音作りをする演奏家かよく理解しているわけではない。けれども、同じアルバムの他の曲での技巧の華やかさと較べると、この演奏でのモノトーンさが際立つ。ラヴェルが求めたのは、このような、一見そっけない演奏だったのかも知れない。

 竹松舞ならばこれをどう弾くのだろうか、などと想像してみたのである。

 後半は、ハープ協奏曲の「古典」に属するヘンデルのハープ協奏曲で、最後に現代ハープ奏法の確立者アッセルマンの「五月の歌」が置かれている。「五月」はフランス語で"mai"だから、これは奏者自身の歌という意味で最後に置いたのだろう。


 前作はそれでも「ハープのレパートリー」としてはよく知られた曲を収録していた。

 ところが、今回は、あまり知られていない二協奏曲である。広く知られていない曲を世に知らしめたいという奏者の意気込みを感じる。その点で20歳代前半のハーピストが世に問うた野心作とも言えるだろう。


 ロドリーゴは「アランフエス協奏曲」で有名なスペインの作曲家だ。ギター協奏曲では、この「アランフエス協奏曲」のほかに、「ある貴紳のための幻想曲」などの作品もあるけれども(全部で五曲ある由である)、ロドリーゴ自身は必ずしもギター作曲家ではなかった。本人はギターも弾かなかったらしい。そのことは知っていたけれども、ハープ協奏曲があることは、この竹松舞のアルバムではじめて知った。

 ピエルネのほうは、恥ずかしながら、作曲家の名まえ自体、これまで知らなかった。あとで、リリー・ラスキーヌの10枚組CD(リリー・ラスキーヌ『エラート録音集大成』エラート、ワーナーミュージック・ジャパン)を買ってきて、この協奏曲以外にもいくつかハープのために曲を書いているのを知った。


 前作でラヴェルとドビュッシーをとりあげた竹松舞が、今回、ロドリーゴとピエルネの作品に向かった「流れ」は、わかる。

 ピエルネはほぼドビュッシーとラヴェルと同時代の作曲家であるらしい。

 また、ラヴェルは、スペインの血も受け継いでいたはずで、スペインへの関心を常に抱きつづけていたようだ。だから、竹松舞が、ラヴェルの次に、スペインの作曲家ロドリーゴに向かったのは、私には自然に感じられた。

 「あ、ラヴェル〜ロドリーゴという流れもアリなのか」
と発見させてもらえた気がした。ラヴェルは私の好きな作曲家の一人だし、ロドリーゴのギター協奏曲も好きだったけれど、いままでその二人をつなぐ流れを考えたことはなかった。一つには、アンセルメやデュトワなど、ドビュッシーやラヴェルを積極的に採りあげる指揮者がロドリーゴの曲をとりあげるのをあまり聴いていなかったからかも知れない(デュトワさんN響でやってくれませんかね?)。


 当然、どちらの曲も私ははじめて聴いたので、他の演奏との比較はできない。貧弱な聴取力ゆえ、調性まではとても聴き取ることができないし、構成もごく大まかな説明しかできないこともお断りしておかなければなるまい。


 ロドリーゴのハープ協奏曲「セレナータ協奏曲」(これがこのアルバムのタイトルになっている)は1952年の作ということだから、作曲年代は、ギター協奏曲でいえば、有名な「アランフエス協奏曲」(1940年初演)よりも「ある貴紳のための幻想曲」(1954年初演)のほうに近い。ただ、曲の感じには、独奏弦楽器の序奏で始まる始まりかたなども含めて、「アランフエス協奏曲」にも通じるものがある。

 曲は、古典派以来の協奏曲の定石にしたがって、「速い‐遅い‐速い」の三楽章構成である。各楽章も、基本的に、これも古典派以来の形式にしたがって、広い意味での三部形式(最初と最後が似た感じで、中間にちょっと違った感じの部分が入る)で構成されている。


 第一楽章は、独奏ハープによる短い序奏のあと、ハープと楽団のさまざまな楽器とのあいだで主要なメロディー(主題)がやりとりされながら進む。軽妙さにあふれた楽章である。その主要なメロディーをさまざまに変奏していくというよりは、さまざまな楽器の彩り豊かな音色でメロディーを繰り返し演奏していくことで、曲が進められる。さまざまな音で色彩感を演出するため、オーケストラでは管楽器に重要な役割が割り振られている。これはこの曲全体に言えることだ。

 ハープには協奏曲の独奏楽器にとどまらないさまざまな役割が与えられる。ハープだけで目立つメロディーを弾いて存在を際立たせる部分(「カデンツァ」)もあれば、ハープの独奏曲のように、ハープ自身で伴奏をつけながらメロディーを奏でる部分もある。オーケストラの楽器を目立たないようにサポートする部分もある。しかもハープにはほとんど休みがない。オーケストラのほうが休みが多いんじゃないだろうか? そのあいだ、そのめまぐるしく変化する役割を意識しながら、ハーピストはこのテンポの速い楽章を弾いていかなければならない。


 第二楽章は「うた(アリア)のある間奏曲」ということで、ゆったりした速さの中間楽章だ。ハープの、これもかなり長い独奏で始まったあと、オーケストラがフーガ(同じようなメロディーによる追っかけっこ)ふうの流れを奏でる。ここでやっとハープは一息つける。もういちどハープ独奏のパートが入ったあと、フルートがソロをとるのに、ハープがあまり目立たない音域の音で伴奏をつける。

 次に、やや躍動する感じのメロディーが弦楽器の低音から入ってくる。スケルツォ的な部分であり、また、第一楽章の主なメロディーを思い起こしている部分と言えるかも知れない。それを、ハープとオーケストラの各楽器が引き継ぎつつ演奏する。ハープは主旋律を担当したり伴奏を担当したり、またメロディーと伴奏を独りで担当したりと、例によってめまぐるしくその役割を変化させる。

 つづいて、ふたたびゆったりした、スペイン風のメロディーが戻ってくる。オーケストラが音を重ね、それにハープがけっこう技巧的な伴奏をつける。最後は、第一楽章に引きつづいてハープの目立つ独奏部分がかなり長くあり、オーケストラがちょっとだけ加わって終わる。

 全体に「アランフエス協奏曲」の中間楽章(というか、この協奏曲で飛び抜けて有名な部分)をも思わせるような哀愁を感じさせる楽章だ。また、ロドリーゴが、古典派・ロマン派の、あえていえばブラームスがたいせつにしていたような技法をきちんと押さえて作曲していることがよく伝わってくる。これはギターとオーケストラ向けに書かれた「ある貴紳のための幻想曲」でも感じられることだ。


 第三楽章は舞曲である。全曲のなかではオーケストラのパートがいちばん目立つ曲である。とくにここまで押さえ気味だった弦楽パートがいきなり元気になり、スペインを扱った曲らしい祝典的雰囲気を盛り上げる。ヴァイオリンが単調な伴奏を長くつづけてハープと絡み合う部分が長くつづいたりもする。もちろん管楽器群もこれまで以上に活躍する。

 最初に舞曲の主要メロディーが出て、それがこの楽章のなかで何度も至るところで繰り返される。中間部はやや翳りに覆われた旋律がつづくが、徐々に前にも増して祝典的な雰囲気に戻っていき、最初の主要メロディーが戻ってくる。

 そのなかで、流れのなかに埋め込まれているのでわかりにくいが、他の楽章と同じで、ハープがほぼ単独で伴奏もメロディーも担当する部分もある。目立つ独奏部分(「カデンツァ」)もある。終結部でオーケストラが勢いよく音楽を奏でるあいだも、ハープはずっと伴奏をつけている。

 全体に、フランス風の「エスプリ」の軽妙さと、「アランフエス協奏曲」に通じるスペイン風哀愁を感じさせる佳曲である。ただ、ハープは、ほとんど休む暇もなく弾きつづけなければいけないし、独りで目立つ演奏をしたり、自分で伴奏をつけつつメロディーを歌ったり、さらにはオーケストラの伴奏に回ったりと、さまざまな役割を担わなければならない。こんなに独奏者の疲れる協奏曲ってあるだろうかと思う。ピアノ協奏曲にもそういう性格はあるけれども、ピアノは音が目立つだけまだ報われる気がする。


 ピエルネの小協奏曲(コンチェルトシュトゥック)は、落ちついた速さの導入部をまずオーケストラが奏で、それにハープが優美に絡んで始まる。


 一つの楽章で構成された曲のうち、第一部の速さの指定は「アレグロ・モデラート」、つまり「おとなしく、心地よい速さで」である。この演奏では、たしかにそれなりの快速さは確保しながらも、「おとなしい(モデラート)」のほうに重点が置かれているようだ。

 導入部から、なだらかに、ハープが伴奏も自分でつけつつ独奏で主要部分へと入っていく。息の長い旋律をオーケストラの楽器が演奏し、それにハープがいわばハープらしい旋律で絡んでいく。

 第一部の終わりを受けるように弦楽合奏が厚い音による旋律を奏でて第二部に入る。ハープはそれに従うように登場し、独奏でメロディーを弾く。その後は、オーケストラの演奏にハープが絡んでいく。曲全体も、ハープの担当部分も、優美さを失わないで一貫している。そのなかで、ハープの歯切れのよい演奏が、大見得を切ることはないけれど、オーケストラとよい対照をなしている。

 管楽器とハープによる軽妙な旋律から結びの第三部に入る。ハープが主役を務めたあと、オーケストラを主体とする落ちついた旋律に入り、再びハープが主役を務める背後からオーケストラが音量を増してきて盛り上がりを見せる。それが落ちついたあと、ハープによる目立つ独奏部分(カデンツァ)ふうの部分があり、ハープに主役を譲ったあとに、オーケストラが曲を締めくくる。


 どちらの曲も、もちろん協奏曲だからハープが前面に出て目立つ部分は多いのだが、目立たないのに弾きつづけなければならない部分も多い。とくにロドリーゴのほうはハープの役割の幅が広く、しかも、伴奏に回っていたと思うととつぜん目立つ部分が来たりして、一瞬も気を抜けない曲である。竹松舞はその役割をほんとうに忠実に果たしつつ、全体としてハープのさまざまな表情を見せることに成功していると思う。

 また、ピエルネの曲は、全体に「オーケストラの優美さ担当」の楽器を独奏に立てたという感じの美しい曲だ。竹松舞は、その基本線を守りつつ、思い切りよく弾くところは思い切りよく弾いて、オーケストラとぶつからないようにしながらきちんと自己主張している。

 この演奏、作曲者が聴くとどう思っただろうか、ということには興味がある。まったく答えが予想できないからだ。

 ハープが「オーケストラの優美さ担当」にとどまらないことを、あえて強く主張することなく、あまり演奏される機会のない曲を着実に演奏することで、ハープの持つさまざまな表情を聴かせてくれたアルバムだったと思う。

 この奏者はこれからどんなふうにこの楽器とつきあっていくのだろう?


 ただ、飯森範親の指揮する日フィル(日本フィルハーモニー交響楽団)の伴奏は、もちろん巧いし伴奏としても質が高いのだけど、私には、おとなしすぎ、優等生的すぎるように感じられた。

 あまりのおとなしさに「たしか、ここって小林研一郎さんの楽団だよなぁ?」とホームページを確認しにいったぐらいだ。まあ、トスカニーニやフルトヴェングラーの時代でもあるまいし、首席指揮者の色に楽団が染まる時代でもないだろうから、常任指揮者の小林研一郎の情熱的なスタイルがこのアルバムから少しもうかがえなくてもべつに不思議はない。だから、これは私の偏見と片づけてもかまわないかも知れない。

 もう一つ、竹松舞の前のアルバムでヘンデルの協奏曲に伴奏をつけているパイヤール室内管弦楽団がオーケストラをよく鳴らしていることの印象も残っていた。この演奏では、オーケストラが少しも遠慮せずに十分に音を鳴らし、それに大して竹松舞もハープの音を十分に響かせていて、明朗闊達な演奏になっている。

 もちろん、ヘンデルとは曲の性格も違うから、単純な比較はできない。たぶん、ロマン派時代を経たピエルネや、現代音楽の時代からロマン派以前を回顧したロドリーゴの曲に、曇りのない明朗なアプローチは似合わない。そこまではわかる。

 あるいは、竹松舞が、元気な高校生ハーピストから、様々な表情を演じ分けられる大人のハーピストに成長した姿を、この、強く自己主張はしないけれども、じつはさまざまな表情に富んだ演奏から聴きとるべきなのかも知れない。演奏者はそれを望んでいるのだろう。

 それは理解しているつもりだ。ただ、今回のアルバムは、この飯森範親の伴奏が、いかにも「音の小さい楽器に伴奏をつけてます」という感じで、それに合わせて竹松舞の演奏も小さくまとまっていくように聞こえる。それが競合しあって、「まとまりはよいが小さい協奏曲」という印象がいかにも強くなってしまった。細部まで聴くと必ずしもそういう曲ではないようなので、その点は私には物足りなく感じられた。

 先に触れたリリー・ラスキーヌの全集では、ラスキーヌのハープにマルティノン指揮のフランス国立管弦楽団が伴奏をつけている。甘美なところは甘美に、盛り上がるところは出し惜しみせずに壮大に盛り上げているという感じがした。いかにもロマンチックなアプローチである。竹松舞と飯森範親はそれとは違うアプローチをしたかったのだろう。しかし、「いかにもロマンチック」ではないどういう曲として演出したかったのかは、私には未だにつかめていない。

 また、ロドリーゴの曲でフーガふうに書かれた部分などは、他の部分と同じようになめらかに流れるように演奏されているが、もっと古典派的に意味を持たせて演奏したほうが、私はより好ましいのではないかと思う。

―― おわり ――




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