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路面電車は海の向こうから帰ってくるか



今尾恵介

路面電車
――未来型都市交通への提言――

ちくま新書


 最近、東京の地下鉄大江戸線が全面開通した。私の家の近くにも新駅ができた。

 たしかに便利になった。それまで、別の路線を使って大回りしなければならなかったところや、あまり本数の多くないバスを使う以外に行きようのなかったところに、地下鉄で直行できるようになった。友人からは「あんな地下鉄、不便で使えない」という酷評も聞くが、私は重宝している。

 ただ、「不便で使えない」と言われることもわからないではない。私の家から大江戸線の最寄り駅まで10分足らずである。ただし、それは、駅の入り口までたどり着く時間だ。そこからホームにたどり着くまでさらに数分かかる。それで、駅のホームに降りてみたら電車が出た直後で、10分近く電車を待たなければならないとすれば、目的地によっては、少し遠回りでも別の路線を使ったほうが早かったりもするのだ。


 一方で、私が仕事で通っている町では、バスが主要な交通機関である。職場まで駅から歩いて20分ぐらいだ。余裕があるときには歩くようにしているが、時間がないときにはバスを、バスでも時間が足りなさそうなときにはタクシーを利用する。

 道がすいていたらそれでよい。ところが、道が渋滞していると、図体の大きなバスはもちろん、タクシーでも先に進まなくなってしまう。しかも、駅前は、繁華街の商店の荷物の積み卸しでトラックなどが停車していることが多いし、駅前の繁華街を抜けてからも片側一車線の交通量の多い道路を通るので、どこかで工事をしていたり、沿道で何か作業していたりすると、てきめんに渋滞する。実際、バスに乗って歩くよりも時間がかかったことは何度もあるし、タクシーでも、1000円近く取られて、しかも歩いたほうが速かったという実に腹の立つ実例があった。


 こういう経験をすると、この国の交通機関はどうなっているんだと呪いのことばを発する機会も多くなる。まあ余裕のない生活をしている私が悪いのかも知れないけれど、私以上に余裕のない生活を強いられている人はいくらでもいそうである。


 このような交通事情のなかでは路面電車が活躍する余地は残されていないようにも思える。大江戸線が時間がかかると言っても、同じ路線を路面電車で走ったとしたらもっと時間がかかるだろう。路面電車ならば、バス並みとはいわなくても、それに近いぐらいに停留所を増やさなければならないだろうから、速度をそんなに上げることができず、遅くなる。また、混雑時には、バスと同じように、乗り降り客の料金の支払いで列ができてしまって、ますます遅くなる。渋滞の道路に路面電車を走らせれば、渋滞に巻きこまれれば時間がかかるし、だいいち、混雑道路に路面電車を走らせたりしたら、自動車の渋滞はますます激しくなるだろう。

 けれども、ものは考えようである。逆転の発想で、自動車交通の利便性を切り捨て、都市部の路面交通のぜんぶを路面電車の都合に合わせてしまえばよいのだ。

 路面電車を幹線道路のまんなかに走らせ、信号をぜんぶ路面電車の都合に合わせる。電車が赤信号で停まることのないように、電車が近づけば、電車が通る方向の信号が電車の通過するときに青になるように信号の時間を調整する。路面電車の乗客が乗り降りする時間には、電車の正面の信号を赤にして、道の両側と電車の停留所とのあいだの乗客の行き来の安全を確保する。加速・減速性能のよい電車は開発されているから、停留所に頻繁に停まっても、全体の運転速度がそれほど落ちることはない。追い越し可能な停留所か信号所を造れば、停車駅の少ない急行や快速を走らせることもできるだろう。料金の支払いについてはもっとかんたんで、停留所に自動販売機を置いて、切符はそこで買い、車内では料金の支払いはいっさいしないことにする。そうすれば無賃乗車が発生する可能性があるが、定期的に検札をやって、無賃乗車がバレれば、通常運賃の10倍を徴収することにすればよい。

 そうした上で、路面電車が走っている一定地域への自家用車の乗り入れを厳しく規制するか、乗り入れを有料にして、自動車の通行量自体を減らす。


 いかにも路面電車にばかり都合のいい考えのように思えるが、この今尾恵介『路面電車』によると、そのほとんどは、部分的であれ、実現されているようだ。「路面電車先進国」のドイツでは、路面電車を停めないような信号が設置されているという。日本でも、路面電車の活躍している都市では、電車優先の信号は、電車が停まらなくてもよいほどではないにしても、採用されているらしい。ヨーロッパの路面電車では、いま書いたように、切符を買って乗るのは利用者の自主性に任せ、そのかわり、ときおりすごく厳しい検札をやっているそうだ。

 バスや路面電車は乗ったときにおカネを払うというのが子どものころからあたりまえになっていた私には、切符を買うのは利用者の自主性に任せるという方法には、かなり驚いた。というより、路面電車やバスの乗り降りで料金を支払うのが、電車やバスの遅れる原因だということにはあまり思い当たらなかった。言われてみればそうである。バスに乗るときに、料金の支払いが遅い客がいて、後ろに待っている客がなかなか乗れず、もたもたしているあいだに前の信号が変わってしまってバスが遅れるということはよく経験する(と書いたらさっそく私自身がやってしまった。だって暗くて100円玉と50円玉の区別がつかなかったんだも〜ん!!)。しかも、道の狭いところでは、前のバスがそれをやると、後ろには渋滞の列が生まれ、後ろのバスまで影響してしまう。


 この本で紹介されているドイツの路面電車の例でさらにびっくりしたのは、都市部の路面電車がドイツの旧国鉄線(ドイツ鉄道株式会社線、DB線)に乗り入れているということである。日本でいえばジェイアール線(旅客鉄道会社線)である。それに路面電車が乗り入れているというわけだ。著者が用いているたとえでいえば、総武線の電車が神田神保町の古書店街の裏道や銀座の歩行者天国にそのまま乗り入れているようなものらしい。

 でも、それはドイツの都市交通で進んでいることの一面にすぎないようだ。ドイツの新しい路面電車は、路面以外の専用の線路も走るし、地下鉄になったり、高架を走ったりと、場所に合わせてさまざまなところを走っているらしい。路面電車も、日本のように、一両だけで走ったり、せいぜい二両連結というというわけでもなく、一両は短い車両ながら、7両とか9両とか連結して走っているようだ。つまり、「普通の電車」と「路面電車」の区別がなくなってきているのである。そういう電車であれば、都市のなかは路面電車として走り、都市の中心部から出た部分では旧国鉄線を走っても、少しもおかしくない。

 もちろん、日本のばあい、ジェイアール線は低床車に対応していないし、ジェイアール線とは線路の幅の違う路面電車も多いから、そのまま実現することはできない。しかし、本書によれば、そういう問題は、ドイツやフランスでも最初はあって、それを克服して現在のような「路面電車先進国」になってきたわけだ。日本でまったくできないことでもないだろう。


 私は鉄道好きであるから、路面電車には情緒的な思い入れがある。また、基本的にアメリカ合衆国よりはヨーロッパびいきであるから、ヨーロッパで成功しているやり方を日本はもっと見習うべきだと思わないでもない。

 けれども、私は「路面電車原理主義者」ではないつもりである。路面電車を導入してうまく行けばそれでいいし、うまく行かなければべつに路面電車を無理して導入する必要はないと思う。


 では、路面電車を導入するメリットは何かというと、まず、環境対策があり、「交通弱者」や「移動弱者」の利便ということがある。

 電車だからといって環境に負荷をかけないわけではないが、一台ごとに化石燃料エンジンを積んでいる自動車よりは、全体として見ればエネルギー効率はよいだろう。とくに、渋滞したばあい、自動車のエンジンは環境汚染物質を多く発生させるという問題点がある。交通の便がよくないので自家用車を使っている人たちを路面電車に誘導し、都市中心部に乗り入れる自家用車の数を減らし、渋滞をなくせば、自動車から排出される汚染物質は相当に削減できるはずである。渋滞をなくしてガソリンエンジンの稼働時間を短くすれば懸案の二酸化炭素排出量だって減らせるだろう。

 また、最初に触れた東京の地下鉄大江戸線などは、全駅にエレベーターを設置しているし、少なくとも一つの出口は階段を一段も上らないで駅の外に出られるようにしているはずだ。だから、「移動弱者」への対応には多大な努力が払われている。そのことを無視するわけではないが、それでも、エレベーターだと特定の出口にしか出られないなど、路面電車のばあいと較べた不便はなお大きい。


 他方で、路面電車にはデメリットもいろいろと考えられる。なんといっても、道路のなかの少なくない部分を路面電車の線路が占領してしまうのだから、そのぶん、自動車の走れる部分が狭くなる。路面電車の線路の上に自動車が入れるようにすれば、その問題はいちおう緩和されるが、こんどは逆に路面電車が渋滞に巻きこまれてしまう。また、鉄道は、走行本数が少なくてもメンテナンスには一定以上の手間がかかるので、利用者が少ないとコスト高の交通機関になってしまう。現に、全国各地の路面電車は、自動車の走行の妨げになるという理由で、また、自動車の渋滞に巻きこまれて遅くなり、その結果として利用者が減少することで赤字を抱え、廃止されていった。


 こうやって考えると、路面電車をめぐる問題は、自動車をめぐる問題と表裏一体になっているのがわかる。大切なのは、その両方を、都市交通をどう設計するかという観点から考えて判断することではないかと思う。


 こういう面は戦後日本の地方行政が長いあいだ不得手にしてきた分野だと思う。

 これが乱暴な言いかたなのを承知で言えば、戦後日本は、日本全体としてはアメリカ合衆国のような国になることを目指し、日本の各地方都市は東京のような都市になることを目指してきた。

 アメリカ合衆国のような広大な国土を持つ国では、自動車化(モータリゼーション)を推進するのは当然である。しかし、日本でそれと同様の自動車化を進めることが、日本社会自体の要請として自然に出てきたのだろうか? もちろん自動車化が不要だったなどと言いたいわけではないが、山がちで平地面積の少ない国に適した自動車化のあり方がどれだけ総合的に検討されただろうか?

 同じように、中規模都市にはどういう交通機関が適切かということが検討されて、その結果として中規模都市で路面電車を廃止してきたのだろうか? 本書を読むと、必ずしもそうとは思えない。

 たとえば、広島市は、日本で最大の路面電車網を誇る都市である。本書によると、その要因は、全国で「路面電車は古い交通機関だから廃止せよ」という議論が盛んだった時期に、広島県警の幹部がヨーロッパに研修に行き、路面電車が近代化しながら立派に活躍しているのを自分の目で見てきたからだという。それ以外の都市では、ニューヨークやロサンゼルスのような欧米の先進都市には路面電車はないという理由で、路面電車廃止論が正当化されたのだそうだ。高度成長期の日本の都市と、当時のニューヨークやロサンゼルスとは、まったく都市の条件が違ったはずなのに、そういう議論が通ってしまったのだ。

 日本全国の地方都市は「横並び」で東京のようになる。そして、東京はやがてニューヨークやロサンゼルスのような都市になる。だから、日本の地方都市も、ぜんで「横並び」でニューヨークやロサンゼルスのような都市に成長するのだ。そういう発想が「暗黙の前提」として共有されていたのではないか。

 また、高度成長からバブル期までの日本では、それが通用した時代だったのかも知れない。「いまある資源を活用してどんな将来の都市像を描くか」を詳細に検討するのではなく、拡大していく「パイ」のおこぼれに与りつつ、「先進」国や「先進」都市のモデルをよく検討もしないでまねしていく。それが戦後日本の地方自治の実際ではなかったのか(だから、もしいまドイツが「路面電車先進国」や「環境対策先進国」だからと言って、そのやり方をよく考えもしないで導入してしまうならば、同じような弊害が起こってしまうだろう)。そういう流れによって性急に姿を消さされてしまったのが路面電車だったということができる。

 その結果が、日本全国の自治体がバブル時代に同じような「開発」計画を推進し、その結果として、全国の自治体財政が破綻に瀕し、国から公共事業を割り振ってもらえてもそれを自前で実行する体力も残っていないという事態なのではないだろうか。


 過去のことはしようがない。ともかく、ここまで来てしまった以上、日本のそれぞれの都市は、これまでのように、よく検討しもせずに「成功したモデル」を移入するという粗っぽい発展計画は作れなくなっている。自分の都市はどういう都市かという性格づけを考えながら、それぞれの発展計画を作成していくしかなくなっている。

 また、将来のことが勘でしか描けなかった時代とは異なり、現在は、デジタルシステムが発達して、さまざまなばあいを想定したシミュレーションが可能になっている。それを適切に使えば、他の都市の成功例を移入するのではなく、その都市独特の条件を生かした将来像を描く大きな助けにすることができるのではないだろうか。そのうえで、近隣の都市や農山漁村地域、さらには海外も含む遠い地域との連携を模索し、ばあいによっては他の都市や農山漁村や海外に共同のまち作りの提案を出していくというようなことも出てくるだろう。

 ただし、将来像を決めて都市を発展させていくということは、ある可能性を採り、ある可能性を捨てることであるから、摩擦なしには進まない。業界から住民の感情まで、さまざまな局面でさまざまな摩擦が生じるだろう。そして、行政だけではなく、業界も住民もその摩擦や対立に巻きこまれていくだろう。

 けれども、本来、政治の本質の一つは、摩擦や対立を解決することのはずだ。その摩擦を、情報を取捨選択し、異なる意見と自分の意見を対比させて、巧みに解決していくなかで、日本国民は、ほんらい求められるはずの政治的な感覚を身につけていくのではないかと思う。そうすれば、繰り返し繰り返し食傷するまで官僚や政治家の不祥事が報道されるというような政治のあり方は、あるいは変わっていくかも知れない。


 無制限な成長が可能だと想定し、しかも、それにしては成長のモデルがアメリカ合衆国の都市に限定されていたという状況からすると、はるかに多様性のある日本の「くに」の姿が見えてくるかも知れない。

 そして、そういう多様性の一部に、その都市らしい路面電車を導入することも(もちろん、路面電車を導入しないことも)あっていいはずだと思うのだ。

―― おわり ――




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