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海から見た日本列島の歴史



沖浦和光(かずてる)

瀬戸内の民族誌
――海民史の深層をたずねて――

岩波新書


 「瀬戸内の民族誌」という控えめなタイトルがついているが、実際は、瀬戸内海とそこに住む人たちの視点から見た日本列島の歴史の本である。むしろ「海民史の深層をたずねて」という副題がこの本の構想の大きさを語っている。この本の叙述は、2万年前に存在して、いまは東南アジアの多島海に姿を消した「スンダランド」の民の行方から、いまから50年ほど前に姿を消した遊女たちの船「おちょろ船」にまで及んでいる。


 日本は海に囲まれた島国である。しかし、その長い歴史のなかで、海に暮らす人びとは社会の周辺に置かれてきた。

 7世紀から8世紀にかけて、それまでの「ヤマト」(倭)の国が正式に「日本」と名乗り、国家体制を本格的に整えた。その際に日本の王朝は大陸文明である中国の政治体制と政治思想を受け入れた。陸上に定住して農業に従事する人たちを基礎として王朝体制の骨組みは形づくられた。「班田収受」の法や戸籍の法など、まとめて「律令制」と呼ばれているものである。

 「海の民」は、その体系のなかで、社会の「正統」からははずれた存在として位置づけられたのである。

 それは明治になっても基本的に変わらない。明治国家の法典も、その多くは、大陸国家であるドイツやフランスのものを継承したものだった。明治国家は、課税も徴兵も教育も、国民が陸上に定住していることを前提として制度を組み立てた。

 けれども、海に囲まれ、海と深い関わりを持ちながら生きてきた人たちが日本列島に住み続けてきたことに変わりはない。2000年近く、いやたぶんそのずっと前から、「海の民」は日本列島で活動してきた。魚や海藻を採り、海上交易に従事し、ときには武装して「海賊」として活動し、大きな戦争の折りには国家の軍事行動に参加してきた。

 しかし、歴史を記録する文字は、日本のばあい、中国文明の一部としてやってきた。文字で記録された「海の民」の歴史は断片的なものでしかない。「海の民」自身が文字史料を残したわずかな例外を除けば、文字を持つ人びとと接触したばあいにだけ「海の民」の活動は記録されてきたのである。

 それでも、日本列島に住んでいた「海の民」の活動は、現在につづく日本列島の歴史に、そして日本国家の歴史にも、深い影響を残していることがうかがい知れる。


 本書の著者 沖浦氏の、日本列島に住む人びとの歴史についての見かたは、気宇壮大なものであり、独特のものである。

 2万年前の氷期の終わりごろ、東南アジアの多島海は、現在「スンダランド」と呼ばれる陸地だった。氷期が終わって海が陸を侵し始めると、そこに住んでいた人たちは、現在の東南アジアから中国の華南地方に広がった。その一派が築いたのが「長江文明」であり、春秋・戦国時代の()国・(えつ)国に連なる呉・越の文明であった。ここで「倭人」の原型が形成される。この呉・越の文明が、後に「漢民族」の中核となる中国北方の文明人たち(沖浦氏は使っていないが「華夏(えつ)族」などと呼ぶ)の攻勢にあって劣勢に立たされ、再び分散するなかで、一部の人たちが日本に渡ってきて「倭人」となったのではないかというのが、沖浦氏の説である。一方で、沖浦氏は、「スンダランド」からフィリピン、台湾から南西諸島経由で入ってきたのが、8世紀の日本国家確立期まで九州南部に独自の文化と政権を築いていた隼人であろうとする。

 沖浦氏は、伝承などの分析から、瀬戸内の海民は、「阿曇(あずみ)」系・「宗像(むなかた)」系・「住吉」系に「隼人(はやと)」系を加えたものであろうとしている。そして、この「隼人」系は、倭国の時代に入ってからも中国南方の「越」地域との交流があった。それが、村上水軍の河野氏の祖先にまつわる伝説に反映しているという。つまり、中世の瀬戸内海を支配した有力な「海賊」村上水軍の起源には、8世紀に日本国家に征服されて姿を消したことになっている隼人系勢力が入っていたのではないかというのである。また、10世紀、平将門(たいらのまさかど)と同時期に瀬戸内で反乱を起こした藤原純友(すみとも)の勢力には、この隼人系の勢力も参加していたらしいと沖浦氏は推定する。


 この沖浦氏の歴史像は、現在の東南アジアの海村に残っている風俗習慣に、中国・日本の歴史書の記録、海民社会に伝わる文書や神話・伝承を重ね合わせて推定したものである。だから、そのすべてが厳密に「正しい」と言うには、まだまだ考古学的な史料や文書史料に基づいた実証の手続きが必要ではないかと思う。

 けれども、歴史学の厳密な文献による実証が、現地を訪ねてまわって獲得した歴史の見かたよりも優位に立つものだと考えるのもまた誤りである。そのことをあらためて私が思い知ったのは、鶴間和幸氏の『秦漢帝国史へのアプローチ』(山川出版社「世界史リブレット」 6)を読んだときだった。鶴間氏は、秦の始皇帝を生んだ戦国時代の秦から、その秦を受け継いだ漢までのさまざまな歴史の舞台を中国に訪ね、秦漢帝国史に対する独自の見かたを作り上げていったという。秦の「統一」は、征服された東方六か国((えん)(せい)(かん)()(ちょう)())との関係では何を意味するのか。現場に立てば必ず印象に残るはずのことなのに、歴史書『史記』はそれを記していない。それはなぜか。秦の始皇帝がたびたび行った旧東方六か国領の視察は何を意味するのか。その意味を鶴間氏は旅のなかから考察し、文献だけを追っていたのではわからない疑問点を、現場に立つことによって見出していく。

 なお、秦漢帝国とは、中国史で、秦の始皇帝の統一後の秦から、後漢王朝の崩壊までの期間と、その王朝のことをいう。時期でいうと紀元前3世紀末から紀元3世紀初めまでである。日本の「弥生時代」がほぼこの時期に重なる。

 で、沖浦氏も、自ら瀬戸内の「海の民」の歴史の現場を訪ね歩いたひとである。そこに住んでいた人たちが住むのをやめた場所まで訪ねている。だいいち、沖浦氏自身がその瀬戸内の出身者なのだ。そこから沖浦氏が見いだしたものを、文献や資料とうまくかみ合わないからと一方的に切り捨てることはできないと私は思う。これは、私が徹底した「机上派」であるだけに、いつも自戒していたいことでもあるが。


 沖浦氏の提示するこの歴史像は魅力的だと私は思う。少なくとも、沖浦氏が提示している可能性を考える必要はあるだろう。

 たとえば、中国の「越」地域の独立性は、あんがい後の時代まで残存していた可能性がある。平勢(ひらせ)隆郎氏(勢の字は流用)によると、『史記』の正統暦法は、「越」を称する、南中国に存在したいくつかの政権の暦法を「なかったことにする」ように書かれているという(『中国古代の予言書』講談社現代新書、『『史記』二二〇〇年の虚実』講談社)。逆に言うと、漢(前漢)の時代には、南中国の沿岸では、漢王朝とは無縁の場所で、「越」の人びとは、独自の世界を持ちつづけ、あいかわらず活動しつづけていた可能性があるのだ。

 漢王朝に「越」の独立性を隠蔽する意図がなかったとしても、漢王朝は大陸文明である。皇帝家の劉家は、現在の河南省、つまり黄河文明の中心地の出身地であり、先行する王朝の「秦」は今日の西安周辺に根拠地を持つ。「漢」の名まえも今日の四川省北部あたりの地名だ。いずれにしても典型的な大陸の王朝なのである。

 その漢王朝が文字をもって記録したものが今日に伝わっている。だから、漢王朝が中国の沿岸の「海の民」の活動を捕捉し切れていなかった可能性は大きい。その古代中国の「海の民」と、琉球列島や日本列島の古代の「海の民」とが連絡を持っていた可能性も考えるべきであろう。

 ついでながら、その漢王朝の始祖 劉邦 と争った名将軍 項羽 は長江流域に拠点を持っていた。「越」の民とは、漢王朝の皇帝家よりは親しみをもって接していたかもしれない。だから、項羽と劉邦の争いで項羽が勝っていれば、中国王朝と「海の民」との関係も違っていたかも知れず、その後の中国文化も少しは違ったものになっていたかも知れない。


 西洋の海では、フェニキア人やギリシア人が海に乗り出して、古くから海洋文明を築いている。イタリアのシラクサやナポリ、フランスのマルセイユなどの都市は、「海の民」として活動していたギリシア人たちが基礎をつくった町なのだ。その「海の民」としてのギリシア人の繁栄がギリシアの古典文化を支え、そのギリシアの古典文化が今日に至る近代ヨーロッパの文化を支える大きな柱になっている。

 もちろん、地中海と東シナ海では地理的条件が違う。けれども、それにしても大陸の東側の海でまったく「海の民」の活動がなかったと考えるのは不自然だ。相当、活発な活動があったと考えるほうが自然ではないだろうか。

 ただ、フェニキアやギリシアの「海の民」にはオリエントの文字が伝わってそれを自分たちの文字にした。しかし東方の「海の民」は文字を持つことなく消えた。だから西の「海の民」のつくり出した文化は、「古典古代」の文化として今日のヨーロッパにまで影響を及ぼしつづけているのに対して、東方の「海の民」は歴史の闇に消えた。そんな可能性はないだろうか。

 私はそんなことも妄想してみる。


 もっとも、沖浦氏によれば、中世の瀬戸内の海運は「地文航法」であったという。つまり、沿岸の地勢を手がかりに自分の位置を判断するような航法だったというわけだ。だから、瀬戸内海でも、沿岸の地形がはっきり判別できないほどの沖合を航行する航法は中世にはまだ開発されておらず、沿岸の地形が見えない夜や悪天候の日の航行は行われなかったという。

 しかし、中国沿海の「海の民」と連絡するには、この「地文航法」だけでは不十分である。瀬戸内海でも沖合を航行するのがおぼつかないのであれば、たとえ南西諸島づたいであっても、中国から日本まで渡るのは不可能だからだ。もし中国沿海の「海の民」が「隼人」系の「海の民」と連絡があったとすれば、「隼人」系が進出していた瀬戸内海の「海の民」が地文航法を超える航海法を発達させなかったのはやや不自然な気もする。

 また、縄文文化と「海の民」の文化の関連には本書はほとんど触れていない。私は縄文文化の独自性を過度に重視し、それを情緒的に「日本人」のアイデンティティーと関連させることには慎重でいたいと思っている。けれども、縄文文化を持っていた人たちが「海」と無関係に生きていたはずはない。その縄文文化の持ち主たちと、中国大陸や南西諸島経由でやってきた「倭」の人たちとの関係はどういうものなのだろうかという疑問も残るように思う。


 瀬戸内に生活してきた「海の民」にとっては、ヤマト王権による日本国家の成立も、織豊政権による日本統一も、受難と屈従の契機であった。

 日本国家は、中国式の戸籍制度と中国式仏教とを受け入れ、それを支配原理とした。「海の民」のうち定住地を持たない者は戸籍制度の原理から漏れてしまう。また、仏教は殺生を禁じている。しかし「海の民」は魚をとることを仕事にしているわけで、「殺生」しなければ生きていくことができない。そのため、魚をとって「殺生」の罪を犯し、王朝国家の戸籍制度から漏れ落ちてしまう「海の民」は、王朝国家の身分秩序のなかで賤民と見なされるようになっていったという。

 その「海の民」の生きかたを、仏教の視点から見て「間違いではない」と保証したのが鎌倉新仏教であった。本書は、日蓮が「海の民」の出身であったことを重視している。沖浦氏は、日蓮が使った「せんだら」ということばが、インドでカースト制の外に追いやられた部族民を指すことばであることを示し、当時の日本で「海の民」が賤民と見なされていたことを示唆している。

 また、瀬戸内海の「海の民」は、親鸞の「悪人正機」の教えに帰依していたという。織田信長による本願寺戦争の背後にはそのことがあったというのである。瀬戸内海の「海の民」は、村上水軍に参加して、本願寺勢力を支持し、織田信長と戦った。この戦争に破れた後、その一部は、不利な条件の陸地に住み着くことを余儀なくされ、漁業権も与えられず、周囲の町や漁村の人たちから賤民と見なされつつ近代まで生きのびたのだと沖浦氏は考えている。


 しかし、「海の民」は、ヤマト国家・日本国家や近世日本の政治体制に黙って屈従していただけではない。自分たちの社会の立場を強化するために、ヤマト国家の王朝神話さえ積極的に採り入れていったのである。

 神野志(こうのし)隆光氏によれば、8世紀に編纂された『古事記』・『日本書紀』に描かれた「神話」は、無媒介に「日本神話」と同じものと考えることのできないもののようだ。それはヤマト王朝の神話なのであり、「天皇」の神話なのである。逆に言えば、「日本」の神話はもっと多様なものであったかも知れず、そのなかから天皇制度を正当化するために選ばれ、アレンジされ、創作されたのが、『古事記』・『日本書紀』の神話だと言えるだろう。

 けれども、いったん文章とされ、多くの人に知られるようになると、こんどはそれが「日本」の神話になっていくことになる。そして、瀬戸内海の「海の民」は、『古事記』・『日本書紀』の神話部分や歴史部分を利用して自分たちの系譜づけを試みる文書を作っていくのである。それは村上水軍の由緒を記す文書であったり、本来は漁業権を持たない船上生活者が自分たちの漁業権の正当性を主張する文書であったりする。「海の民」の軍事勢力だった村上水軍は、『古事記』・『日本書紀』に記された神話や歴史を素材の一部に使って自分たちの系譜を描いた。また、船上生活者たちは、その漁業権の起源を、記紀に歴史として描かれている「神功(じんぐう)皇后の新羅遠征」の際の故事に託した。

 日本国家の枠組みからはみ出た「海の民」と、日本国家の正統性を主張するものとの、微妙な関わりあいの一例がここに示されている。

 このような部分は、国家や「中央」や「正統」にのみ視点を据えた歴史からは、決して見えてこない歴史像である。もちろん国家史や中央政権史が不要だというのではない。それはやはり必要である。

 けれども、国家や中央政権と日本列島各地に生きたさまざまな人びとの集団とがどのように関係を持ち合ってきたかということも重要である。また、国家や中央政権が「正統」と認めた文化と、国家や中央政権が認知しなかった列島各地のさまざまな文化とが、実際にどのように関係を持ち合ってきたかも重要である。そういう関係の総体として、日本の歴史は成立していると言えるのではないだろうか。もちろん、これは日本の歴史に限らないことだと思う。


 沖浦氏は、この本の最初と最後で、そのような瀬戸内海の「海の民」の歴史世界が消え去ろうとしている様子を描いている。

 明治以降、海の人たちや島の人たちの多様な生活は徐々に消されていった。そして、現在は、文化が消えるだけではなく、人が島からいなくなってしまう無人島化が進んでいるという。高速艇が海を走り、大規模な橋が建設され、交通が便利になったことが、かえって島での生活を成り立たなくしてしまったのだ。

 考えてみれば、大規模な橋で海をつなぐことで、陸と陸とのあいだの海はなかったことになるし、高速艇は陸と陸とのあいだの海を通過する時間を最小限のものにしてしまう。どちらも陸上文明の強い味方であって、「海の民」の生きかたの味方ではない。

 瀬戸内海の「海の民」の世界は、私たちが歴史を文字によって記録することをはじめてから一貫してその「周辺」に置かれつづけた。そして、その世界は、文字で記録された世界でいちども主役にならないまま、いま「近代化」の歴史のなかに消えていこうとしている。

 だとしたら、そのことは、今日、日本列島に生きている私たちにとって、どういう意味を持つのだろうか。

 それが完全に消えてしまう前に、少し立ち止まって考えてみたいことではある。

―― おわり ――




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