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人間は不自由な世界を生きている



和田純夫

量子力学が語る世界像
――重なり合う複数の過去と未来――

講談社ブルーバックス


 この世のなかはいったい何からできているのか? それはいったいどういうふうなしくみでできているのか? そのような問いに答えを示すことが古典古代ギリシアの哲学の一つの役割だった。そのような哲学の伝統は、何度もの変容と断絶を経ながら、産業革命まで受け継がれた。科学と哲学はまだはっきりと分かれてはいなかった。科学と哲学は、そのほかのいろいろな学問分野もあわせて「総合学」という性格を強く持っていた。

 産業革命の時期を経て科学と哲学とは分離する。産業革命によって、科学は産業と深く結びつけられた。一方で、産業革命は庶民層を政治や経済や文化活動などの全社会的な活動のなかに深く巻きこんだ。哲学はそのような庶民層の生きかたにより多くの関心を払わなければならなかった。科学も哲学も扱う分野が「ビッグバン」的に広がり、一つの「総合学」ではいられなくなってしまった。そうして現代科学と現代哲学が分離していった。それはさまざまの学問分野で起こったことだと思う。いわば学問の「相転移」(根本的なあり方の激変)が起こったのである。

 さて、この本は、その現代科学の立場から、この世界がどのように成り立っているのか、それをどう考えればいいのかを解説した本である。


 この本を読んだとき、私は「思い切ったことをいう本だな」と思った。それが正直な感想だった。

 その「思い切ったこと」とは、世界は無数に存在し、私たちがいるのはその無数の世界うちの一つに過ぎないのだという考えかたである。

 世界は、無数の瞬間に、無数の世界へと分かれていく。この「世界」は、地球上の世界という意味ではなく、「全宇宙」と言ってもいい。宇宙全体をひっくるめた「世界」である。

 その無数のあり方の一つとして私たちの世界がある。だから、私たちがいまいる世界のほかに、別のあり方をした世界だって無数に存在する。ただ、私たちが、その無数のあり方のうちの一つの世界、つまり「いま私たちがいる世界」しか認識できないというだけのことである。

 このような議論を和田さんは「多世界解釈」と呼んでいる。

 この「多世界解釈」は私にとってはさして不可思議ではない。ファンタジーなどでおなじみの「異世界」や「パラレルワールド」という構想と同じである。ただ、和田さんの考えによれば、私たちは異世界やパラレルワールドに行くことはできないし、それを認識することすらできない。

 それにしても、このようなファンタジー的な「設定」が、誠実な物理学の研究者によって語られたことが私にはとても印象的だった。


 このような考えが生まれるのにはもちろん物理学的な背景がある。

 光は普通に考えるとまっすぐ進む。その光を、細いすき間(「スリット」という)が二つ開いた紙を通してやる。すると、光の出ているところとすき間とをまっすぐ結んだ線からはずれたところにも光が集まる。それも何か所にも集まる。そして縞模様をつくる。

 すき間のところで光が曲がったのだ。互いに隣のすき間を通った光の流れと影響を与え合うことで、光が曲がったのである。これを光の「干渉」といい、また、この「干渉」によって光の通り道が曲がることを「回折」と言ったりする。

 ところで、その光は「光子(こうし)」という小さな「粒」(粒子)の流れである。

 光が粒子の流れではないかということはニュートンも考えていたが、ニュートンの時代にはそれを証明する方法がなかった。その仮説を、いまから100年ほどまえにアインシュタインが論証した。

 「光電効果」という、光が当たると物質から電子がはじき出される現象がある。このはじき出されかたを説明するには、どうしても光がなにかの「粒」であると考えないと説明ができない。アインシュタインはその「光は粒子である」という考えを体系化した。アインシュタインはこの学説でノーベル賞を取り(だから相対性理論でノーベル賞を取ったのではない)、そして私たちはこの光電効果を利用してデジカメで写真を撮っている。


 さて、電子も光と同じような「粒子」である。では、電子でこの実験をやってみると結果はどうなるか。しかも、こんどは、電子を一つずつすき間の開いた紙に向けて打ち出すのである。ただし、電子は電気があるとプラスの電気のほうに曲がるから、電気を帯びていない状態で実験しなければならない。

 電子を一つずつ飛ばすのだから、それは二つのすき間の一つだけを通るはずだ。電子は一つだから、隣のすき間は何も通らない。したがって隣のすき間の影響は受けないはずである。電子は、電子を発射する装置とすき間とを結んだ直線に沿ってまっすぐに走るはずだ。

 ところが、電子一つずつをすき間の並んだ紙に向かって飛ばすと、やっぱり曲がるのである。しかも、この実験を何度も繰り返し、そのたびに電子がどこに着いたかを記録していく。すると、光を当てたときと同じように、縞模様ができるのだ。一回に一つずつしかすき間に送っていないのに、まるで隣を通った電子と互いに干渉しあっているような結果になる。

 電子はすき間があれば二つ以上に分かれ、その二つ以上が両方のすき間を通り、干渉し合い、向こう側の壁に到着するときにまた一つに合体するのだと考えれば、いちおう説明がつく。しかし、一つの電子は持っている電気の量(電荷)が決まっていて、二つに分かれることはできない。


 この現象を説明するための鍵は、電子が発射されてから、すき間を通りこして向こう側の壁に当たるまでのあいだをどう説明するかにある。

 電子が発射されるところと、電子が壁に当たるところとでは、電子がどこにあるかがはっきりしている。しかし、そのあいだは、電子がどこにあるかが観測されていない。

 では、この装置で、電子が撃ち出されてから、すき間を通り抜け、向こうの壁に当たるまでを、横から非常に感度の高いカメラか何かで監視しつづけていたらどうだろう?

 これがだめなのである。一個の電子を感知することのできるカメラかセンサーがあったとしよう。しかし、電子の存在がカメラやセンサーに伝わるためには、光の粒のようなほかの粒子が電子に当たって、それがさらにカメラやセンサーまで飛んでいく必要がある。ところが、電子は小さいので、カメラやセンサーに電子の存在を伝えるための粒子が電子に当たっただけで電子の動きが変わってしまう。電子の動きを絶えず監視することが可能だったとしても、監視していること自体が電子の動きを変えてしまうのだ。

 どうも、電子は、監視したり観測したりしているときと、していないときとで、違う姿をしているらしい。というより、電子には二つの面があって、観測されているときにはその一つの面を見せ、観測されていないときには別の一つの面を見せるのである。まるで親が見ているときだけ勉強しているふりをして、そのほかの時間はゲームか何かで遊んでいるガキのようだ(そんな殊勝なガキはいまどきいないかな?)。困ったやつである。

 しかも、さらに困ったことに、光の粒子である光子も、電子以外の小さな粒子も、基本的には同じような性格をしているらしい。


 和田さんは、この「観測されていないときに電子はどんな姿でいるか」について、「いろいろな場所で、いろんな速さと向きで運動しているという状態が共存している」という説明をする。そして、観測したとたんに、無数に共存している場所や運動の状態から一つの状態が選び出され、観測される。電子は、観測されたときには一つの場所にいるのだが、観測されないときにはいろんな場所にいる状態が共存しているというのだ。そして、二つのすき間の向こう側の縞模様は、その二つのすき間によって電子が共存していやすい場所と共存していにくい場所ができてしまうために生まれるのだという。


 これは和田さんだけが言っていることではなく、小さい粒子を扱う力学、つまり「量子力学」ではよく言われていることである。それを象徴しているのが「シュレディンガーの猫」というたとえである。そのたとえの一部分を紹介してみよう。

 完全に外から様子をうかがうことができない箱のなかに猫を一匹だけ閉じこめる。姿も見えない、声も聞こえない、箱のなかにカメラを入れておいて外で中継画面を見るということもできない。外からX線か何かで透視することもできない。実際にそんな箱があるかどうかは別として、そんな箱に猫が入っていると考える。

 そのような箱のなかで、猫は生きつづけているか、それとも死んでいるか。それは、箱の外からは中の状態がわからないのだから、箱を開けてみる以外に確かめようがない。

 では、箱を開けるまえの、絶対に確かめようのない状態では、猫はどういう状態でいると考えればいいのだろうか。

 そのときに、この「シュレディンガーの猫」のたとえ話では、「箱のなかで、猫が生きている状態と猫が死んでいる状態とが共存している」と考える。これは、「猫が生きているか死んでいるかわからないから両方の可能性を考えておく」という単純な意味ではない。箱のなかには「生きている猫」と「死んでいる猫」が同時に存在し、箱を開けたとたんにそのどちらかだけが残るというのだ。一匹しかいない猫なのに、箱のなかの状態がわからないときには、「生きている猫」と「死んでいる猫」の二匹がいるような状態になってしまうのだ。いや、もっといえば、その一匹の猫は、「箱が閉まって一分後に死んだ猫」、「箱が閉まって二分後に死んだ猫」……のような無限の数がいるような状態になる。これは、猫ぎらいのひとでなくても、あんまり想像したくないであろう状態だ。

 ともかく、それが、「電子が右のすき間を通った状態と左のすき間を通った状態とが共存している」というときの「共存」ということばの意味である。

 もちろん、実際の猫にはそんな奇妙なことは起こらず、生きているか死んでいるか、死んだとすればいつ死んだかがはっきりする(「死」の定義さえはっきりしておけば)。粒子のばあいにはそういうふうに考えるというのを、猫にたとえて言うとそうなるのだ。なぜ猫がたとえとして使われるのかはよくわからないけれども、猫というのはこういうたとえ話に使うのに便利な生き物のようだ。数学者が本業のルイス・キャロルの『ふしぎの国のアリス』だったか『鏡の国のアリス』だったかにも、「にやけ笑いだけを残して本体は消えてしまう」という「チェシャ猫」が登場する。

 猫が持つ妖しさが、抽象的思考への想像力をかき立てるのだろう。「シュレディンガーの犬」や「チェシャ犬」では、どうも想像力をかき立てないような気もする。

 ともかく、この「箱のなかでは、猫が生きている状態と猫が死んでいる状態とが共存している。箱を開けたときに、猫が生きているか死んでいるか、どちらかの状態に決まる」というあり方をどう解釈するか、が問題となる。

 小さな粒子を扱う力学、つまり「量子力学」の一つの有力な解釈は、箱を開けた時点で猫が生きているか死んでいるかが定まるとする。電子で言えば、電子が右のすき間を通っているか、左のすき間を通っているかは、観測した時点に右に観測されるか左に観測されるかで決まるというのである。粒子にはたくさんの「ありうる状態」が共存しているけれども、私たちの世界はあくまでたしかに一つだけ存在していて、私たちが観測した時点で、そのたしかな一つの世界のなかで粒子の状態が一つに決まるというわけだ。


 しかし、人間が観測すれば粒子のあり方が決まるというのは、なんとなく釈然としない。人間は、というよりも、観測者はそんなに偉いのか?

 ただし、ここで「人間が観測すれば」と言っているのは単純化した言いかたで、じつは実際に観測していなくてもいい。もし、人間が実際に観測していなければ粒子のあり方が変わるのであれば、観測する人間が緊張して取り組んでいるときととダレているときとで粒子のあり方が変わることになる。数学を基礎に据える「量子力学」がそんな世界像を主張するわけはない。

 ここで「人間が観測する」というのは、「人間が観測しようと思えば観測できる状態になる」ということを意味する。では、小さな粒子にどういうことが起これば「人間が観測しようと思えば観測できる状態」になるかというと、大量の別の粒子と反応しあって、大量の別の粒子の動きを変えてしまうばあいだ。

 たとえば、小さな粒子がただ空間を突っ切って走っただけでは、私たちは感知することができない。しかし、その粒子が飛ぶ空間に、冷えて水滴ができる寸前の水蒸気(飽和水蒸気)を入れておくとする。そこに、高いエネルギーを持った粒子が高速で飛びこんでくれば、その粒子が通った衝撃が水蒸気に伝わり、粒子の通った道に沿って細い霧の筋が発生する。通ったものの大きさは限りなく違うが、たとえて言えば、高速の粒子が飛行機雲を引いてこの箱のなかを飛ぶのである。このような観測装置を「霧箱(きりばこ)」といい、実際に微粒子の研究に使われている。

 粒子が霧箱を通ったときに人間が霧箱を見ているか見ていないかは関係がない。重要なのは、粒子が霧箱を通るときに大量の水蒸気の粒子(水の分子)と触れあってその痕跡を残してしまったことである。

 だから、「観測した時点であり方は一つに定まる」というのは、べつに露骨に人間が偉いと言っていることにはならない。しかし、一つの世界のなかで、「猫が生きていると同時に死んでいる」というような状態があっていいものだろうか。観測者はずっとたしかに生きているのに、猫は「生きていると同時に死んでいる」というへんな状態になるというのは、おかしくはないか?


 そういう状態があっていい、おかしくない、というのが、量子力学の有力な解釈である。

 しかし和田さんはこの解釈に反対している。

 和田さんは、このような疑問に、世界はたくさん重なっているのであって、観測者もその重なったうちの一つの世界にいるに過ぎないのだという解釈で答えている。

 つまり、電子が右のすき間を通る世界と左を通る世界とは同じように存在している。つまり二つの世界が共存している。観測者が電子を右のすき間に見つけ出したとすれば、それは、観測者がいる世界が電子が右を通った世界だったのだ。電子が左を通った世界も同じように存在する。ただ、私たちはその世界にいないだけなのだ。

 「シュレディンガーの猫」のたとえでいうと、一匹の猫を閉じこめた箱のなかには、猫はあくまで一匹しかいない。ただ、その一匹の猫がいる世界が無数にあるだけなのだ。そして、箱を開けたときに猫が生きていたとしよう。箱を開けたことによって、その観測者は、いや、観測者と猫とは両方とも「猫が生きている世界」にいたということが判明する。観測によって(箱を開けて猫が観測できる状態になったことで)はじめて猫が生きていたことになるのではない。

 逆に、猫が残念ながら死んでいたとすれば、それは観測者と猫とが「猫が死んでいる世界」にいたのだということになる。

 そして、猫が生きているか死んでいるかがわかった時点では、「猫が生きている世界」の観測者は「猫が死んでいる世界」のことを知ることは絶対にできない。同じように、「猫が死んでいる世界」の観測者は「猫が生きている世界」を知ることは絶対できない。


 世界は「猫」だらけである。宇宙には、この「猫」にたとえられる粒子が無数に存在する。しかも、粒子がとりうる状態は「猫が生きている」と「猫が死んでいる」の二通りだけではない。その粒子がとりうる状態がまた無数にあるのだ。

 したがって、その全宇宙の粒子の数だけ、いや、全宇宙の粒子がとることのできる状態の数だけ、世界は常に存在する。そして、ここにいまいる私たちは、そのうちの一つの世界にだけ存在しつづける。私たちがいまここにいない世界もどこかに共存はしているのだけれども、それは私たちとは絶対に関係を持つことができない世界なのだ。

 これが、和田さんが「多世界解釈」と呼ぶもので、和田さんは基本的にこの考えかたをとっている。


 この考えかただと、観測される粒子と観測する観測者や観測装置とは、同じように制約を受けている。観測される粒子がある場所に見出されたとする。一見、いろいろな場所にあることのできる粒子の状態を観測者が決めたようにも見える。粒子の状態を観測者が制約したようにも見える。しかし「多世界解釈」ではそうではないのだ。「多世界解釈」では、そのことは、同時に、観測者が「粒子がその場所にある世界」に閉じこめられ、粒子がほかの場所にある世界から切り離されたことを示す。

 観測者が粒子の状態を確定したという行いはただちに観測者自身に跳ね返るのだ。それによって、観測者自身も、自分のいる世界が無数にありうる世界の一つに確定されたことを突きつけられる。


 二つのすき間に向かって電子を一つずつ発射しても、二つ以上の電子が影響を与えあったのと同じような結果が出る。この現象も「多世界解釈」では説明がつく。

 一つの電子は、発射装置から発射されたとたんに二つ以上の世界に属するようになり、そのたくさんの世界の一つの電子が、電子が二つ以上あるようにたがいに影響を及ぼし合うのである。つまり、電子が二つ以上に分かれるのではなく、世界がまるごと二つ以上に分かれるのだ。そして、その世界どうしが感じあい、影響を及ぼし合う。そして、向こうの壁に着いて、どこに着いたかを記録されたときに、その電子に及んでいた他の世界の電子の影響は消える。そう考えるのだ。


 光子や電子などの小さな粒子は小さい。だから、粒子が同時に無数の世界に属していることを示してくれる。

 しかし、人間は、共存している他の世界と関係を持ち合うことができない。

 人間自身が無数の粒子でできている。分子や原子のレベルに分けてみたばあい、細胞一つにすでに非常に多くの分子や原子が入っている。その分子や原子は、陽子(ようし)とか中性子とか電子とか中間子とかからできているし、その陽子や中性子や中間子はクォークからできているらしいし、そのうえ、一個の電子の周囲には、じつは瞬間的に生まれたり消えたりを繰り返す無数の電子と陽電子が取り巻いている。

 そして人間はまた非常に多くの細胞でできているのだ。その人間が動くことで、これまた無数の粒子の動きに影響を与える。人間が床を歩けばごくわずかだけれども床はすり減るし、呼吸すれば空気に動きが生じる。

 そのため、人間のばあいには、人間を構成している粒子や人間が触れる粒子一つひとつが影響を及ぼし合うたびに、どの世界にいるかが確定してしまう。血が血管を一ミリだけ流れる、筋肉がほんの少しだけ縮む、何かを考えて脳内で電気信号が少し発せられる。そういうわずかな動きでも、無数の粒子が無数の瞬間で相互に影響を及ぼしあう。それによって粒子は観測することのできる状態になる。その粒子の属している世界も一つに確定する。そして、人間を構成する無数の粒子一つひとつの属している世界が確定すると同時に、人間の世界は一つに確定してしまうのだ。人間は、人間が意識することさえできない短い瞬間ごとに、自分の意思とは関係なく自分のいる世界を決められてしまう。

 共存している他の世界と共感する暇を持つことは、人間には許されていないのである。

 小さな小さな粒子が持っている「他の世界と共感し合う可能性」を、私たち人間は持っていないのだ。小さな小さな粒子は自由で、私たちはそれだけ制約を受けている。それだけ人間は不自由なのだ。この世界はそういうふうにできている。


 じつは、私がこの本を手に取ったときに期待したのは、量子力学が持つ哲学的な側面についての議論だった。量子力学(小さな粒子を扱うときに用いる力学)という科学的な方法が、人間の見る「世界像」にどのように影響するのか。その議論をとりあげた本だと思ったのだ。「世界像」よりも「世界観」を求めていたのである。

 しかし、それは、たぶん和田さんが本書を書かれた意図を超える問題意識なのだろう。

 和田さんはとても誠実な科学者である。それは、常に数学からの発想を基礎にして議論を進めておられることからも理解できる。興味を引くかわりに不正確な理解の原因にもなりがちな感覚的な説明は和田さんはなるだけ避けておられる。数学を基礎にしながら、それでも数学が苦手な人にも理解できるように、和田さんはとてもていねいに議論を進めておられる。この誠実さには心を打たれる。

 だから、あえて、そういう量子力学の世界像が、人間観や社会観、人生観というようなものにどんな影響を与えるのかを書かれなかったのだろう。


 人間の世界は、幸い、科学の世界と哲学の世界が交感し合うことは可能なようにできている。そして、その関係のあり方は多様だ。一方が他方を支配しようとすることもあるし、互いに無干渉でいようとすることもある。それによっていろいろと有害なことも起こるが、有益な関係を作ることもできるはずだ。


 量子力学的に見れば、人間は、小さな粒子一つひとつに較べて格段に不自由な存在である。小さな粒子は別の世界と感じあい影響しあうことができる。しかし人間にはそれができない。別の世界とは感じあうことが許されていないのだ。宇宙ができて以来、人間のような存在はそういうふうに運命づけられているのだ。

 しかし、たとえば、その世界の中での「人間の自由」とはいったい何なのか? そういう問いを立ててみることはできる。そして、それは、この本を読んだ者の一人ひとりが、その「哲学」的思考のなかで考えつづけるべき問いなのだろう。和田さんのこの本を読んで、いま私が感じているのはそういうことだ。

―― おわり ――




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