地球がまるごと凍ってた


川上紳一

全地球凍結

集英社新書、2003年


ようやく暖かくなってきたというのに寒いお話

 タイトルは地球温暖化問題に鋭く斬り込むアニメ『十兵衛ちゃん2』ふうにつけてみました……。

 というわけで、ようやく立春寒波も去って暖かさが感じられる時節となりました。

 が、そんな時節に、ずっと昔に地球の表面全部がまるごと凍りついていたのではないかというけっこう寒いお話である。

 ずっと昔というのはだいたい8億年から6億年前だ。地球上にいまのように多様な生物が現れる「古生代」の始まりが5億4千万年ほど前だから、それより前ということになる。

 ところで、「古生代」より前の「太古代」と「原生代」にも生物はいた。とくに27億年ほど前に出現したシアノバクテリア(藍色細菌)という微生物は地球環境を大きく変化させた。このシアノバクテリアが当時の浅い海で巨大な毬藻(まりも)みたいな球体を作り、活発に光合成して、大気中の二酸化炭素のほとんどを酸素に変えてしまったのである。いま酸素を呼吸して生きている生命はこの「古生代」の前に繁栄したシアノバクテリアのおかげで生きていられる。人間が地球環境を破壊しているというけれど、このシアノバクテリアが十億年以上かけて環境を変えたのに較べればまだ小さい。だから、多様な生物が現れる前だからといって、生物の活動が重要でなかった時代というわけではない。

 しかし原生代までの生物はほとんどが微生物だった。シアノバクテリアは巨大の毬藻ようなものを作っていたけれど、それは微生物が無数に集まって巨大になっていただけで、生物の一つひとつはごく小さい。原生代の末期になってようやく1メートルぐらいのびろーんとしたマット状の動物を含む大型の生物(エディアカラ生物群)が現れる。

 いまから8億〜6億年前というとこの大型の生物が出現する直前にあたる。その時代に何度か地球の表面全体が凍りついたらしい。ということは、この地球の表面全体が凍りついたというできごとが、いまのような多様な大型生命を生み出す一つのきっかけになったことも考えられるわけだ。

 この「地球の表面全体が凍りついた」というできごとを「全球凍結事件」というらしい。「全球」というのは英語でいう global の訳で、ここ数年よく言われている「グローバル化」とかいうときの「グローバル」と同じ「地球全部」という意味だ。この「全球凍結事件」に第一線で取り組んでいる日本人研究者が書き下ろしたのがこの本である。

 いっぽうで「全球凍結事件」の「〜事件」というのは英語の event の訳で、つまりは「できごと」の意味だ。ほかにも地球史上には「海中酸素欠乏事件」などというのもあり、これは「海中の酸素が欠乏したというできごと」である。だから、6500万年前に小天体が地球にぶつかってきたのは「小天体落下事件」だろうし、現在起こっているのも「地球温暖化事件」と表現できる。だからといって「イベント」をぜんぶ「事件」と訳すると「ブロッコリーの声優イベント」が「ブロッコリー声優事件」になってしまってなんか物騒である。そんなことはここではどうでもいい。


二酸化炭素が決めてきた地球の暖かさ

 この全球凍結事件にも、現在の地球温暖化と同じように、大気中の二酸化炭素濃度が深く関わっているらしい。二酸化炭素が多い大気は熱を蓄えて熱をこもらせてしまうし、二酸化炭素が少ない大気は熱を蓄えられない。

 地球の大気にはもともと二酸化炭素がいっぱいあって、酸素はほとんどなかった。ところが、シアノバクテリアの巨大毬藻が10億年以上も二酸化炭素を取りこんで地道に酸素を排出しつづけたために、地球の大気には逆に酸素が増えて二酸化炭素が少なくなってしまった。でも二酸化炭素はぜんぜんなくなってしまったわけではない。比率は少なくなってしまったけれども二酸化炭素はずっと含まれている。その二酸化炭素の比率が地球の気候を決めているのだ。

 では、その二酸化炭素は何が生み出してきたのか? 人間!――というのはここ200年ほどのあいだは明らかにそうだけれど、それまでは人間は石炭や石油を大量に燃やしていたわけではない。だったら何が空気中に二酸化炭素を供給していたかというと、火山活動だった。火山活動で地球の内部から噴き上がってくる二酸化炭素が多いと大気の二酸化炭素比率が増える。

 また、その二酸化炭素の量がどうやって減るかというと、一つはシアノバクテリアや植物の光合成がある。しかし、二酸化炭素の量が増えると植物がいきなり急速に繁栄し始めるわけでもないので、急速に二酸化炭素を減らすには別のしくみが必要だ。では、それはどういうしくみか? 地上の岩が削れて海に流れこみ、海水に地上の岩の成分が溶けこんでそれが二酸化炭素と結合するというものである。

 二酸化炭素は水に溶けるので、大気中の二酸化炭素は雨に溶けて海水に混じりこむ。しかし海水中にはあまりたくさんの二酸化炭素は溶けていられない。二酸化炭素の溶けた水というとソーダ水とかビールとかがある。で、ソーダ水やビールを気温と同じぐらいに温めてしまうと気が抜けてしまう。それは、少なくともいまの地球ぐらいの気温では二酸化炭素はあまりたくさんは水に溶けられないからだ。同じように海水に二酸化炭素の溶けられる量も限られている。

 けれども、海水に溶けた二酸化炭素が海水から空気に戻らないで別のかたちに変わってしまえば、海水はいつでも二酸化炭素を溶けこませる余裕がある状態でいられる。ところで二酸化炭素の溶けた水は弱い酸なので金属と結びつきやすい。金属のなかでもナトリウムやカルシウムとはとくに結びつきやすい(カルシウムが足りないと気分がいらいらするといわれるあのカルシウムである)。その二酸化炭素がカルシウムと結びついたのが石灰岩とか大理石とかだ。

 陸地の岩が削れて海のなかに流れこむと、岩のなかに含まれているカルシウムが海水中の二酸化炭素と結びついて石灰になる。石灰は水に溶けずに海底に沈んでいくので、二酸化炭素は空気中にも戻らない。海水中の二酸化炭素も石灰ができることで消費されるので、空気中から雨といっしょに二酸化炭素が降り注いできても海水には溶かしこむ余裕がある。そこで、陸地の岩が削れて海に流れこむと空気中の二酸化炭素は減っていく。

 だからといって、いまの地球で乱開発をして岩を削った泥を大量に海に流しこめば逆効果である。いまの地球では、海水中の二酸化炭素を石灰に変える働きの大きな部分を珊瑚が担っている。珊瑚には藻類が住みついているので、珊瑚は光合成によって二酸化炭素を酸素に変える上でも大きな働きをしている。ところが、乱開発の泥が大量に海に流れこめば、沿岸部の珊瑚礁が全滅してしまう。そのために海水中の二酸化炭素を石灰に変える働きはかえってダメージを受けてしまう。地球というのは複雑な性格をしていて、人間にとってはなかなかつき合いづらい部分があるのだ。

 全球凍結事件のときには、地球上の火山活動が低調になって二酸化炭素の量が減り、地球が寒冷化してしまった。なぜ火山活動が低調になったかというと、そのころ「ロディニア」という巨大大陸ができていたことと関係があるらしい。このロディニアというのは、アフリカの一部分とシベリアと北欧と南アメリカの一部分とが北アメリカ大陸の周りに集まってできていた巨大大陸である。ただ巨大大陸ができるとどうして火山活動が低調になるのかは私にはよくわからなかった。

 いったん地球が寒冷化して氷河が発達すると、地球の寒冷化は加速する。雪や氷はキラキラしているので、太陽の光をはね返してしまうからだ。光をはね返せば熱もはね返ってしまう。それだけ地球が太陽から受け取る熱の量が減る。しかも大気中には二酸化炭素が少ないので大気が熱を蓄えられない。地球の気候はどんどん寒くなり、氷河はますます発達し、ついに地球は赤道直下まで凍りついてしまうことになる。そうなると地球全体が太陽の光をはね返してしまうので地球表面には熱がたまらない。だからいったん凍りついた地球表面はなかなか融けない。

 それが融けるようになるためきっかけは、やはり、火山活動の結果、徐々に空気中の二酸化炭素が増えたことだったのだろう。しかし、凍りついた地球の表面が太陽の熱をはね返すものだから、二酸化炭素が増えてもなかなか凍った地球表面は融けない。大気中の二酸化炭素がどんどん増えて、地球表面の雪や氷がはね返してしまう熱分を大気が蓄えられるようになり、地球の温度が上がらなければ地球表面の雪や氷は解けない。しかし、地球が温かくなり、陸上の雪や氷が解けると、地球の土や岩の表面が見えてくる。土や岩は雪や氷よりも太陽の熱をたくさん吸収して温まりやすい。雪や氷の地球でも熱を蓄えられるほどの二酸化炭素があるので、土や岩の地面が見えてそこが温まり始めると、その温まった陸地の熱を大気がどんどん蓄えてしまう。その結果、温度はどんどん上がり、雪や氷はどんどん解け、熱を吸う陸地がどんどん表面に現れ、その熱を大気が閉じこめるのでさらに温度が上がる。それでたちまち地球は「温暖化」を通り越して「酷暑化」の時代に突入する。平均気温50度という。私がときどき行く「横浜スカイスパ」の古代地中海風低温サウナのほうの温度が40〜50度のあいだぐらいだから、平均で低温サウナ並みである。暑い場所で暑い季節には低温ではない普通のサウナぐらいの暑さはあったかも知れない。

 酷暑化して高温多湿になった地球では、全世界で猛烈な豪雨が降り注ぐことになり、その豪雨が陸地を削って、陸地に含まれていた金属を海に流しこむ。海といっても私たちがふだん入る風呂よりも熱いお湯の海だし、降ってくる雨もたぶんふだん浴びているシャワーのように湯気のもうもうと立ち上る熱い雨だろう。サウナ部屋の巨大浴槽にお湯のシャワーの雨が降る。そんな世界の海の中で、金属が海水中の二酸化炭素と結びついて石灰になる。豪雨はまた空気中の二酸化炭素を溶かして海に流しこむ。海水のなかでは二酸化炭素がつぎつぎに金属と結びついて石灰になってしまうので、海水はいくらでも二酸化炭素を溶かしこむことができる。

 そうやって酷暑化の時代が終わると、地球は温暖な気候を取り戻す。しかし、火山活動が低調で二酸化炭素があまり増えないので、また大気が二酸化炭素不足になって地球の表面が凍りつき始める。

 いまから8億年から6億年前の時代というのはそういう時期だったようだ。やがてロディニア大陸が、いまの北アメリカと、ブラジルやアフリカのコンゴ地方と、北欧とシベリアへと分かれていく大陸分裂の時代になる。火山活動が活発になって二酸化炭素不足が解消されるので、全地球凍結の超氷河時代は終わりを告げる。


「全球凍結」をめぐる論争

 この「全球凍結事件」のしくみや事件が起こった流れを知るだけでもけっこうおもしろいが、この本のおもしろさはほかのところにもある。というより、たぶん作者が伝えたいのはそちらのおもしろさのほうだろうと思う。

 それは、「全球凍結」という奇想天外な着想が学界に受け入れられていく過程だ。

 かつて「全球凍結」という事態は絶対に起こらないと考えられていた。先に書いたように、地球表面の全体が凍結してしまうと、太陽からの熱をはね返してどんどん寒くなってしまう。だから、いったん地球表面がぜんぶ凍結してしまえば二度と解けることなく、したがっていまも地球は凍ったままのはずだ。現実にはそうなっていないのだから、地球が凍りつくなどということは起こらなかったというのが通説だったらしい。

 それでも「全球凍結」というできごとがあったとされるようになったのは、そのころ赤道直下だったはずの場所に氷河の痕跡が残っていたからである。赤道直下の陸地が氷河で覆われていたのなら、温帯地方や極地方がさらに分厚い氷河に覆われていたのはいうまでもない。したがって地球の表面全部が凍りついていたのではないかという考えに到達したわけだ。

 しかし、それに対して、やっぱり「全球凍結」などということは起こらなかったという説を唱える学者もいる。この本の特徴は、そういう批判論もていねいに紹介し、「全球凍結」論がどのように反対説を生み出し、「全球凍結」論がどのようにその反対説に対応していったかという過程を描いているところにあると思う。

 この「全球凍結」仮説は1990年代になってようやく確立したものだ。だから、それが正しいかどうかという検証はいまもつづけられている。もしかするとこれから「全球凍結」仮説を覆すような証拠が現れて、けっきょくこの説は否定されてしまうかもしれない。だから私たちは「全球凍結」仮説ができあがっていくようすを同時代の「事件」として見ることができるのだ。あとから「学説史」として整理されたものでは感じることのできない緊張感や生き生きした感じをこの「全球凍結」仮説をめぐる論争からは感じることができる。それを伝えるのがたぶん著者の目的なのだろう。


地球が横に倒れてた?

 「全球凍結」を否定する仮説の一つが、はるか昔には地球が横倒しになって自転していたのではないかという説である。いまでも天王星は横倒しになって自転している。それと同じように地球も昔は横倒しになったまま自転していたのではないかというのだ。

 横倒しになって地球が太陽の周りを公転していれば、北極や南極よりも赤道周辺のほうが太陽から熱を受ける量が全体として少ない。だから、もしそんな状態で氷河ができるとしたら、現在の地球とは逆に赤道付近からできてくるはずだ。当時の赤道付近に氷河の痕跡が見つかるのはそのためであって、「全球凍結」のせいではない。

 「全球凍結」という奇想天外な仮説を、地軸が90度近く傾いていたというさらに奇想天外な仮説で覆すのがこの説だが、こちらの説にも難点があって「全球凍結」説を覆せていないのが現状のようである。

 とくに、90度近く傾いていた地軸が現在の23.4度まで「立ち直った」とすると、その急速な「立ち直り」の原因は何なのかがよくわからない。しかも、「全球凍結」仮説では6億年ほど前まで地球の全表面が凍結していたとしているのだから、それにかわるこの仮説でもそれと同じ時期まで地軸の傾きは90度近かったことにしないとつじつまが合わない(この仮説では54度以上としているようだが、それにしても相当なものだ)。ところが、5億4千万年前から始まる古生代には極地方のほうが寒かったことがわかっている。6億年前には地軸は横倒しになっていて、5億4千万年前には地軸はいまと同じぐらいの傾きになっていなければならない。つまり6千万年で地球は急速に「立ち直り」を果たさなければならないのだ。その原因についての仮説も説明されているが、地球表面の雪や氷の分布で表面の重さの偏りが変化し、それが地軸を動かしたとか、地球の中心の核と、その周りをつつむマントルとの摩擦とかいう説明では、私には説得力に欠けるように感じられる。気候変動や地球の核とマントルとの摩擦でそうかんたんに地軸が動いてしまうならば、この6千万年間以外の時代にも地軸は大きく変動したはずだ。

 また、地軸が傾いていたとする仮説では、月はいまと同じ面を回っていて、地軸だけが大きく傾いていたとするようだが、衛星の軌道と惑星の自転軸がこんなにズレている例は太陽系の惑星ではほかにない(冥王星についてはまだよくわかっていないが)。自転軸が大きく傾いている天王星では衛星の回る軌道も大きく傾いている。

 地球は自転しているため、赤道のほうが振り回されてわずかながら遠心力が働き、赤道のほうが直径で40キロあまり膨らんでいる。40キロというとたいしたことがないと思うかも知れないが、東京から戸塚や蘇我や桶川のあたりまでぐらい、大阪からならば京都や須磨や岸和田のあたりまでぐらいある。そう考えれば違いはけっこう大きい。月はその出っ張っている側をより強く引っぱるので、地球の赤道は月の回転しているほうに引っぱられていくはずである。しかも月は衛星としてはかなり大きい。その月の引っぱる力に地球が何十億年も抵抗しつづけて地軸を寝かせたままにしておいて、6億年前を過ぎてからいきなり立ち直りましたと言っても、それはちょっと無理じゃないかと思う。

 天王星が横倒しになっているのははるか昔に巨大な惑星が天王星にぶつかったからだという。また、金星の自転がほかの惑星とは逆なのも、やはりはるか昔にほかの惑星がぶつかって金星を南北さかさまにしてしまったからだという(ほかの惑星がぶつかって自転の向きを逆にしたという説明もできる)。それだったら、むしろ、この「地軸横倒し」仮説を採るならば、8億年ちょっと前に地球に巨大小惑星がぶつかって地軸が横倒しになり、6億年前を過ぎたあたりでもういちど巨大小惑星がぶつかって地軸が立ち直ったと説明するほうが自然ではないだろうか。そうすれば、8億年前から6億年前にかけてだけ、当時の赤道地方に氷河が存在したことの説明もいちおうつく。ただ、6500万年前の白亜紀/第三紀(K/T)境界事件――恐竜が絶滅したときの「事件」である――のばあいのように、地球外起源らしい元素が世界じゅうに堆積しているというような証拠がなければ立証は難しいだろうけど。


メタンハイドレート噴出による急速な温暖化?

 また、「全球凍結」仮説では凍結後に発生した酷暑状態と急速な石灰の沈澱(ちんでん)を説明するものとされていた石灰岩(炭酸塩岩)の存在は、メタンハイドレートの噴出によって説明できるという説もあるらしい。

 メタンハイドレートというのは、高い水圧のかかる海底でメタンガスが水に溶けかかった状態でシャーベット状に堆積しているというものらしい。日本近海にもこのメタンハイドレートは堆積しているので、それを汲み上げて燃料電池で使えば二酸化炭素もほとんど排出されず、二酸化炭素排出量は減るしイラクとかイランとか湾岸諸国とかに石油を依存せずにすむしで万々歳なエネルギー源として注目されている。ただし、石油と違って自分から湧き上がってきてくれず、深海の底まで採りに行かなければいけなくて、そのためにエネルギーが必要なのが頭の痛いところらしい。

 しかし、このメタンハイドレートが、何かの拍子にぶくぶくと大量に溶け出してしまうという事件が起こるらしい。いまから5500万年前にはそういうメタンハイドレート大量溶け出し事件が発生し、数万年間気候が温暖化したことがあったという。

 このメタンハイドレート溶け出し事件は現在でも起こるかも知れず、そうなれば二酸化炭素排出規制なんか吹っ飛んでしまうほどの急速な温暖化が起こる可能性がある。もし1999年7月以前ならば「これが恐怖の大王の正体だ」と言われたことであろう。1999年7月が過ぎて「恐怖の大王」というインパクトのある表現が使えなくなったのはけっこうつらい。

 恐怖の大王はともかく、これと同じことが起こったとすれば、「赤道地方の氷河」のほうは説明できないが、酷暑状態と急速な石灰の沈澱のほうは説明がつく。メタンガス自体が二酸化炭素以上の温暖化ガスだし、メタンが空気中の酸素と結びつくと二酸化炭素と水になるので、二酸化炭素濃度が上昇する。だから、温暖化もするし、二酸化炭素がカルシウムなどと結合してできる石灰も大量に発生するというわけだ。「赤道地方の氷河」のほうを地軸の傾きで説明してしまえば、石灰大量沈澱「事件」はこちらの説明で対応できる。「全球凍結」を想定する必要はなくなるというわけだ。

 ただ、メタンハイドレートは海底の微生物の活動でできたとされているようだ。最近ではあまり見ないけれど、昔は公害で汚れた川の底の汚泥からぶくぶくとメタンガスが湧き上がっているという、いま考えればおぞましい風景を目にしたものである。汚泥のなかの微生物がメタンガスを発生させていたわけだ。同じように、深海底に住む微生物が発生させたメタンが高い水圧で閉じこめられればメタンハイドレートになる。

 しかし、その微生物はいつからいたのだろうか? 原生代にその微生物がもしまだ存在しなかったとすれば、メタンハイドレートは8億年前から6億年前には存在しなかったことになる。同じ「人間にとってのエネルギー源」という視点で比較するのもおかしいかも知れないが、端的に言えばこの8億年前から6億年前という時代には石炭も石油もなかったのだ。石炭も石油もないのにメタンハイドレートだけはそんな昔からあったのだろうか。もっとも、生命は海底の熱水噴出口で最初に生まれたらしいから、海底微生物ははるか昔からいてメタンを吹き出していたとしてもふしぎではないけれども。

 この論争史を述べるなかで著者がところどころで強調しているのが編集者の役割である。「全球凍結」の最初のアイデアが書かれた論文はいわば思いつきを文章にしたようなものにすぎなかった。当然、そんな思いつきは当時はほとんど反響を巻き起こさなかった。しかし、それがもとになって1998年に本格的な全球凍結仮説が提唱されることになる。著者はその最初の論文を載せた編集者を「先見の明があった」とたたえている。また、全球凍結仮説に対する否定論でもある有毒な深層海水の湧き出し仮説が勢いを失った理由として、著者は、学説自体の未熟な点とともに、それを擁護する学説が学会誌に載らなくなったことが大きいと指摘している。学術発展史のなかで、学会誌や専門書の編集者というのは意外と大きな役割を担っているのだ。


科学と人間のつきあいかた

 地球のあちこちに氷河が残したらしい堆積物がある。しかも、氷河が残した堆積物の上には、温暖な気候で堆積したらしい石灰などの鉱物がある。その地層のある場所の大陸が昔どこにあったかを復元してみると当時の赤道あたりだったらしい。赤道に氷河があったとはどういうことか? しかも、その氷河時代につづいて温暖な気候がもたらした石灰の堆積があるとはどういうことなのか?

 それをたどりなおしてみる作業から地球の表面全部が凍っていたらしいという仮説が立てられる。それに対して、いくらなんでもそれはおかしいと、地球が横倒しに自転していたとかメタンハイドレートが湧き上がったとかいう仮説が立てられる。その仮説に答えるなかで「全地球凍結」仮説が成長していく。それが「科学」というものの過程なんだということを伝えるのが著者の意図なのだろう。

 科学とは「客観的に正しい答え」を一つだけ決める学問だという思いこみがある。そしてその「客観的に正しい一つの答え」はかんたんに見つかると思われている。しかし実際には違う。

 たしかに、科学の営みに従事する人たちは「客観的に正しい答えを一つ見つけ出す」ということを目標にはしている。だが、同時に、絶対的に「客観的に正しいただ一つの答え」には到達できないこともたぶん知っている。

 科学の「客観的に正しい答え」とは、その時点でほかのものごととなるだけ矛盾せず、そしてできればその範囲内でなるだけむだなことを説明せずにすむような「答え」に過ぎない。新しいことがわかって、その新しいことがそれまでの「客観的に正しい答え」と決定的に矛盾し、「客観的に正しい答え」が一瞬で「正しくない答え」に変わってしまうこともある。また、何も新しいことは見つからなくても、説明のしかたが変わっただけでそれまでの「客観的に正しい答え」がその説明のしかたに合わなくなってしまい、別の「正しい答え」が見出されることもある。科学の「客観性」や「正しさ」とは、そんなものがあったとしても「とりあえず現状ではそうだと考えられているもの」に過ぎない。

 しかも、科学のたいていの問題ではその程度の「客観的に正しい答え」を見つけ出す段階であーでもないこーでもないとみんなで議論している状態なのである。このばあいだと「全球凍結が起こったのか、それとも地球が横倒しになっていたのか」という議論である。その議論のなかで単なる思いつきが「客観的に正しい答え」に近づいていく。その営みそのものが「科学」なのである。

 だから、「これが科学的に正しい」ということを一方的に押しつけたり、「科学的に正しいこと」が確実に存在するという前提を疑いもしないで議論したりするのは、けっして「科学的」な態度ではない。

 地球温暖化とか環境破壊とか化学物質の人体への影響とかに私たちは無関心ではいられない時代になってしまった。けれども、そういうものを考えるときに、「科学的に客観的に正しい答え」がすでに決まっているという前提で議論することには危なさがつきまとう。科学が出してくる結論というのは、現時点で人間が知っていることのなかではいちばん矛盾が少なそうな結論なのであって、それが覆されてしまう可能性もつねに考えに入れておかなければならない。このことは養老孟司氏も『バカの壁』で書いていた。

 そういう科学の「現場」の姿を、しかも二酸化炭素排出規制も関係して現代の緊要な問題になっている地球の気候変動の分野について伝えるのが、この本の目的の一つなのだろうと思う。


生命の強靱さと平和の貴重さ

 この全球凍結事件の過程を見ると――全球凍結が実際に起こったとしてだが――、地球とか生命とかいうものの強靱(きょうじん)さにも驚かされる。

 何しろ地球の表面全体が凍りついていたのである。北極や南極はもちろん、赤道直下まで見渡すかぎりまっ白けの雪と氷の世界が広がっていたのだ。

 しかしその時代にも生物は絶滅してしまうことなく生きつづけていた。しかも、この全地球凍結が終わった後には急激に気温が上昇し、平均気温が50度にも達した。その極端な気候でも生命は生きつづけた。そして、この全地球凍結が何度か繰り返された地球史上最悪の超氷河時代を乗り切った後、生命は大型化し、つづいて爆発的進化を遂げていまにつながる多様な生物が生まれてくる(ところで就職「超氷河期」というのはどうなったのだろう?)

 地球そのものは表面がぜんぶ凍りついてもサウナになってもびくともしない。生命は大きな影響を受けたかも知れないが、そんな苛酷な環境でもともかくも生き抜いてきた。それどころか、生命は、この全球凍結事件を乗り切ることで大型化し、複雑な身体を持つようになったのかも知れないという。生命全体の生命力というのは相当なものである。

 いま、人間がやっている自然環境の破壊は、たしかに小天体が衝突したぐらいの勢いで生物を絶滅させていっているらしいけれども、地球上の生命はそれよりはるかに苛酷な環境を何度もくぐり抜けている。その最大のものがこの全球凍結事件とその全球凍結後の地球の酷暑化である。

 ただし、人間自身がもたらした環境変化で人間自身が絶滅してしまってはどうにも格好がつかない。人間が絶滅すれば、人間を絶滅させた環境を乗り越えてさらに進化した生物が地上の覇権を握るだろうし、酸素濃度が現在と変わらなければその生物は大量の酸素を消費する脳を持った知的生物になるかも知れない。地球にとっては人間なんかさっさといなくなってその新しい知的生物が出てきたほうがいいのかも知れない。でも、人間としてはそれでは困る。

 もう一つ、この本を読んで感じたことは、世界が平和だということの意味だ。著者が「全球凍結事件」を研究しているフィールドというのはナミビアである。私が世界地図ではじめてナミビアという地名を知ったころ、ナミビアは内戦の地であった。そこで何億年か前に地球が凍りついた「事件」の調査ができる。

 せめてそうやって豊かになった知識を「科学」的な方法できちんと活用して、私たちは平和で豊かな世界を作っていくように努めなければいけないのだなぁ――というのが、月並みだけれども、「全地球凍結」のドラマを読んだあとの私の感想ではある。


―― おわり ――