壁はあってあたりまえだ、残念だけど


養老孟司

バカの壁

新潮新書、2003年



 いまさらながら『バカの壁』の評である。

 去年、喫茶店で一人で食事をしていたとき、隣の席の二人連れが「『バカの壁』読んだ? あれはアメリカ批判の本なんだよ」などと話しているのを聞いた。養老さんの専門である解剖学にはあんまり興味がないが、アメリカ批判になら興味はある。それで帰りに本屋で平積みの山積みになっていたこの本を買った。この本が評判を集め始めたころだったと思う。読んでみて、細かいところでは――いや、細かくないところでもいろいろと異論はあったけれど、全体として言っていることは十分に納得できるように思った。

 どんな人間にも「ここから先は理解できない」という「壁」があるのだから、そんな人間がつくる世界に唯一絶対の正解などはあり得ない。それがこの本の基本的な主張だろう。だから、そういう「理解できることの限界」があることを意識して、自分以外の人間や世界のことを理解していくようにしよう。最初から自分のたどり着いた「正解」を絶対のものとして人や世界を理解したつもりになるのはやめよう。それが著者の提案だと思う。

 ところが、同じ新潮新書で養老さんが書いた続編『死の壁』の冒頭の部分によると、その「正解はない」ということについて納得できない思いを抱いた読者が多かったという。それはなぜなのか? その疑問がこの評を書こうと思った動機だ。

 なお、養老さんはこれまでも多作なひとだったが、『バカの壁』がヒットしてからはさらに多作になり、この一年間でかなりの本を上梓されたはずだ。そのなかで私が読んだのは『死の壁』一冊だけである。ここで私が出した疑問について他の本で解答が出されていたり、他の本を読むと私の疑問の出しかたがじつは的はずれなことがわかったりということはあるかも知れない。その点はご容赦願いたいと思う。


 その前に、この本の「細かいところ」や「細かくないところ」に感じた疑問点について書いておこう。「刮目という言葉はもう一種の死語になっている」(58ページ)と著者は書くけれど『げまげま』でぷちこが使ってるぞ――というようなことはどうでもいいとして、あまり「細かくないところ」について2点だけ書いておく。

 一つは、著者は一神教と一元論を結びつけ、一元論を原理主義に結びつけているが、ほんとうにそうなんだろうかという疑問である。もっとも、よく読めば、カトリックは多神教的であるとか、「八百万(やおよろず)の神」を信仰してきた日本にも一神教的な面はあるとか書いてあって(197〜198ページ)、宗教自体が定めた神の数の問題ではないことはわかる。著者の理解では、都市宗教が一神教、自然宗教が多神教だということらしい。都市の人間は一神教的で、唯一絶対の確かなものに寄りかかろうとするから、一神教から一元論に陥り、原理主義に走りやすいという議論である。本筋はたぶんそこにあるのだろうと思う。

 しかし、たとえば、「公平・客観・中立」をモットーとするNHKに「あなたはイスラム教徒かキリスト教徒かユダヤ教徒なのか」と食ってかかるのはやっぱりへんじゃないですか? べつにイスラム教徒やキリスト教徒やユダヤ教徒がNHKに入局しちゃいかんという規則があるわけでもなし(あるのかなぁ?)。で、それでNHKが養老さんを出入り禁止にでもするのかと思っていたら、1時間を超える『バカの壁』の特集番組なんか放送していたし――本だけ読むよりも養老さんの主張のいろんな面がわかっておもしろかったですけどね。

 でも、イスラム教徒でも、モスクでお祈りしているときに思い浮かべている神様と、あとで約束を守らなかったときのための言いわけに「もし神がお望みなら」(→もし約束が守れなかったとしても、それは神が望まれなかったのだから自分は知らないよ)と言うときの神様とは、果たして同じなのだろうか? もちろんイスラム教徒の人に正面からきけば「同じだ」と言うに決まっている。しかし実態は違うのではないかと思う。キリスト教の神にも厳しく選別する神と優しく包容してなぐさめる神の両方の面があるという。生活のすみずみにまで同じ神様が入りこんでいるということは、そのときどきの状況や気もちに応じた神様像がまず思い浮かべられ、それが同じ神様であるとあとから理解されているのではないかと思う。

 一方で、現在の日本人が神社やお寺にお参りするときに、お祈りしている相手の神様がどんな神様かをどれぐらい意識しているだろうか? 合格祈願で天神様にお参りするときには、天神様は学問の神様だというぐらいは意識しているかも知れない。阿弥陀(あみだ)様は浄土の仏様で、お地蔵さんは子どもを救う仏様だということももしかすると意識するかも知れない。けれども、そういう有名な例を除けば、神社やお寺に着いて説明を読むまで自分が拝んでいるのがどんな神様・仏様か知らないことも多いと思う。

 有名な神社仏閣に参拝して帰ってきても、自分が拝んだ神様や仏様がどんな神様や仏様かまったく知らない、知ろうともしない。たとえば奈良の大仏は毘盧遮那(びるしゃな)盧遮那(るしゃな)仏とも)という仏様だけれど、奈良の大仏殿にお参りした人で毘盧遮那仏がどんな仏様か知っている人はそんなに多くないに違いない。こんなことを書いている私も、奈良の大仏が毘盧遮那仏であることはかろうじて知っていても、鎌倉の大仏がなに仏なのかはまったく知らない。

 神社やお寺にお参りするときには、どんな神様や仏様であっても、お祈りすればご加護が得られたり御利益(りやく)があったりするはずだと感じている面があるのではないか。神道や仏教にある程度の造詣のある人でなければ、ただ漠然と「神様」と「仏様」がいるだけなのだ。それが一神教の信仰と本質的に違っていると言えるだろうか?

 だから、私は一神教と多神教の区別はそんなに厳格なものではないと思っている。

 また、一神教と都市社会という理解にしたところで、一神教を信じているのは都市社会の人とは限らない。イスラム教(イスラーム)は本書に出てくるように7世紀のアラビア半島の都市で生まれた。その意味では都市的宗教である。しかし、現在、多くのイスラム教徒はまた農村や草原にも住んでいる。キリスト教原理主義者だってべつにニューヨークのような大都市に多いわけではない。

 都市の文化が一神教的で、一元論的になりやすく、他方で自然宗教が多神教的だという理論は、なるほどそうかなとも思うけれど、一方では宗教をあまりに社会の関数(函数)として説明しすぎだとも思う。宗教とか神とかいうものにはもっと底知れぬ複雑な構造があるように私は感じている。

 なお、この本は、アラブ地域にはイスラム教徒しかいないという前提で書かれているようだし、しかもそのアラブのイスラム教徒はみんな他の宗教のいうことなんかまるで受けつけない原理主義者のように書かれている。これは事実に反する。アラブ地域にもユダヤ人もいればキリスト教徒もいるし、いちおうイスラム教シーア派の一派とされるけれど人世肯定的なアレヴィー教徒もけっこう大きな影響力を持っている。昼間から酒を飲んでいるふまじめなイスラム教徒にも会ったことがある。また、イスラム教徒が、イスラムの教えを至高のものとしながらも、他宗教と不平等な関係ながら共存してきたのも確かである。イスラムというといつも紛争を起こしているようなとらえ方はおかしい。それに、日本だって、中世が始まって以来、徳川の世になるまでは、戦国時代に限らず日本のあちこちで戦乱が起こっていたけれども、その時代の日本人は一神教徒ではない。


 もう一点は個性についてである。「個性を伸ばす」教育なんて欺瞞(ぎまん)であり、逆立ちしているという著者の考え自体には私は基本的には反対ではない。都市社会では、そうやって「個」性ばかり強調するから、自分は孤立していてただ神とだけつながっていると信じる一神教的な文化が出てきて、衝突とか紛争とかが起こるんだというのが著者の主張だろう。これにも「じゃあ農村社会は平和か?」という疑問を感じるのだけれど、まあ著者の話の運びかたそのものは理解できる。

 ただ、個性というのはあらかじめ身体に与えられているものであるという議論には異論がある。たしかにそういう面はある。けれども、本文で引かれている例でいえば(50〜51ページ)、松井秀喜がイチローのようなプレーを目指して練習を重ねてもけっしてイチローのようにはなれなかっただろうし、イチローが松井秀喜のような選手になりたいと練習してもそうはなれなかっただろう。身体にはいろいろな可能性がある。その身体の可能性のなかから傑出した特性を引き出すには適した教育の方法がやはりあるわけで、そこで別の教育を施したらその身体の特性は引き出されずに終わってしまう(もちろん別の特性が出てくるかも知れないが)。その意味では「個性を伸ばす」教育と「個性を伸ばさない」教育があるのは確かなことだ。

 また、たとえば、往年の名指揮者のフルトヴェングラーとトスカニーニは対照的な指揮をした。それぞれ個性的な指揮ぶりである。フルトヴェングラーは、オーケストラの楽員にことばでいちいち指示を出すのではなく、自分の持つ雰囲気のようなもので心服させ、最後にはオーケストラと一体になって音楽の情熱に身を委ねるような指揮をした(もちろんうまく行っていないこともある)。トスカニーニはとにかく口うるさくオーケストラを訓練し、自分に逆らう者はどんなにすぐれた楽員でも容赦せず、もうほんとうに端整にぴたっと合った美しさの音楽を作り出す(こちらは録音されたものに関するかぎりはだいたいうまく行っている)。この二人の指揮者の「個性」の違いも、詳しく見ていけば身体の違いとかシナプスの構造の違いとかにもしかすると還元できるのかも知れない(演奏家のほうは演奏の個性がある程度またはかなりの程度まで身体の条件に制約される)。少なくとも、音楽が始まる前に指揮棒をきっちり止めるのが苦手だったらしいフルトヴェングラーの身体的条件ではトスカニーニのような指揮はできなかっただろう。しかし、やっぱり、その指揮の「個性」を理解するには、どんな経歴をたどったかとか、どんな教育を受けたかとか、二人の指揮者が受け継いだ文化的伝統の違いとか、フルトヴェングラーはほんとうは作曲家になりたかったのだとか、そういうことに注目したほうがやっぱりよほどわかりやすいように思う。


 「一神教→一元論→原理主義」という発想や「個性は身体に宿っているもの」という考えかたは私はものごとを単純化しすぎた見かただと思う。でも、もしかすると「自分が理解している範囲でできるだけ単純化しておく」というのは「バカの壁」に対する著者の対処法なのかも知れない。世界には自分の理解できないことがいくらでもある。いま理解できていないこと――つまり「バカの壁」の向こう側にあるものごとへと理解を進めるためには、いつでも使える単純な道具立てを自分のなかで持っておいたほうがいい。それが著者の「科学」観なのだろうと思う。


 『バカの壁』の言いたいことは近代科学の初歩的な原理だと思う。けれども、著者が書いている読者の反応などから考えると、その近代科学の初歩的な原理は少なくとも現在の日本の社会では共有されているとは言えないようだ。

 奇妙なことだ。いまの日本の学校教育の水準は高い。少なくとも学歴水準は高い――大学を卒業したり大学院を修了したりするのを「高い」学歴だとするならば、だが。そして、その教育のなかで、この科学の初歩は何度も繰り返し教えられているはずだからだ。

 なのに、どうしてそれが「世間の常識」になっていないのだろう?

 それが都市社会の特性だというのが著者の答えだろう。

 都市社会に住む人は何についても唯一絶対の正しい答えを求める。だから世界にはただ一つの「正解」があると信じて、その「正解」を基準にしなければものごとを考えることができない。身体を通じて自然に接していれば、自然の多様さが、身体がもともと持っているさまざまな感覚を通して感じ取れるわけだから、世界にはただ一つの正解しかないなどという発想は出てこない。都市社会では自然の多様さにはなかなか出会えないし、身体の持つ感覚も十分に機能する余地がない。

 豊かな自然に近い社会ならば、脳は「世界‐自然‐身体‐脳」という道筋を経て世界を認識する。しかし都市社会ではその道筋から「自然‐身体」という部分が抜け落ちてしまい、「世界‐脳」という認識のしかたしかできなくなってしまう。

 こうなると、世界とはどんなものなのかを脳のなかの思考と判断だけで理解しなければならない。そのために、世界についての唯一絶対の正解があることを仮定しなければ何も考えたり判断したりすることができなくなってしまう。

 著者の言いたいのはたぶんそういうことなのだろう。私も基本的にそう思う。著者の見かたは農村社会を理想化しすぎているようには感じるが、それも単純な道具立ての一つだと割り切ればいいのだろう。

 だから、著者の主張は、その「自然‐身体」の道筋を入れた教育を取り戻さないとそろそろやばいんじゃないということにつながる。また、世界の多数は一神教徒なのだから、世界の多数の教育を日本に導入することでは教育をめぐる問題は何も解決しないと著者は言いたいのだろう。

 これはそのとおりだと思う。小学校から英語を教えることなんかよりもっと先に、体を動かしてさまざまな種類のいっぱいの「知」を身につけていくことを考えなければいけないと思う。もっとも、私自身が子どものころから身体を動かすのが大きらいな子どもだったし、いまだに自分で自分の身体をコントロールするのが苦手だ。そういう身でこういうことを言うのは気が引けなくもないのだけれども。ちなみに私は小学校のころから英語のレッスンを受けていたけれども、いま何の役にも立っていない。ただし、その体験を通じて知ったこと・学んだことはいろいろあって、だから小学校のころに英語を習ったことはむだだったとも思っていない。でも小学生みんなが英語を習うべきだとはちっとも思わない。

 で、著者の説明を認めて終わりにしてもいいんだが――もう原稿用紙15枚ぶんも書いたのだし――、せっかくなので、話の焦点を日本の第二次大戦後の社会において、もう少しつづけてみよう。


 「個性を伸ばす」教育というのはどこで始まったのか? 大学からではないかと思う。

 大学での研究は個性的でなければならない。なぜかというと研究には社会の資源が必要だからだ。具体的には、研究者に大学が支払う給料とか、研究者が研究を発表する雑誌の誌面とかだ。高価な実験装置が必要なこともある。そんな条件下でまったく同じ研究を何人もの人がやるとその資源がむだになってしまう。そのむだを避けるために、だれかとまったく同じ材料や資料で同じ方法で同じテーマに取り組むのは研究業績として評価しない。そういう仕組みが大学の知識界でできあがった。だれかと同じ材料や資料で同じ方法で同じテーマに取り組むのは「検証」である(それを自分が最初にやったように偽って発表すれば盗作で、もっと悪質だ)。検証は検証で必要なことだが、それは第一級の研究としては評価されない。

 研究に使われる社会的な資源を知識界全体で有効に活用するために研究には「個性」が必要とされるようになった。大学とは、もともと、少なくともたてまえは研究者を育てるための機関だったから、大学での教育でも「研究者の個性を伸ばす」ことが必要とされるようになった。

 もちろん、それは個性ならば何でもいいというわけではない。研究に役立つ個性である。研究者養成機関としての大学ではそれ以外の個性はどんどんつぶしていく。論証を省略して結論を出す個性、おおもとの資料にあたらずに人の引用した資料をさらに引用してすませる(これを「孫引き」という)個性、一つの論文のなかに矛盾することを並べて平気な個性、厳密さに欠ける感覚的な表現を学術論文で多用する個性――こんな個性は研究者養成の過程で容赦なく叩きつぶされる。それで残った「個性」がその研究者の独特の個性として学界で評価されることになるのだ。それで「個性」が一つも残らなかったらその人は研究者をやめるしかない。

 ところで、日本の教育の仕組みはけっきょく大学の都合で組み立てられている(これが日本だけの特徴なのかどうかはよくわからない)。大学の先生たちが「受験勉強で詰めこんだ知識しかない学生ばかり来て困る」と思えば、詰めこみ教育廃止でゆとり教育とかいうことになる。で、こんどは大学の先生が「ゆとり教育で何も知らない学生しか来ないから授業が成り立たない」と悲鳴を上げればこんどは「学力低下」論で詰めこみ教育復活だ。大学の都合で小学校からの教育を振り回すのはいい加減にやめるべきだと思う。

 ともかく、大学教育のなかで「教育では個性を尊重するべきだ」という雰囲気が生まれ、さらにそこに第二次世界大戦後の個人の「基本的人権」尊重のたてまえなんかが合わさって、「個性」の育成が突出した教育理念ができていったのだろう。


 そういう社会では、高校までの教育は基本的に大学の先生たちが生み出した知識を教えこまれる場所だ。大学の学部でも基本的にそうだ。大学在学中に起業して大もうけする学生の話はたまに聞くけれども、学部生のあいだに博士級の研究をして博士学位を授与された学生の話は聞いたことがない(課程を修了していなくても論文だけで博士を取る制度はあるから不可能ではないはずだ)。自分の「個性」を十分に発揮してオリジナルな研究を展開できるようになるのは大学院に入ってからである。

 ただ、個性を発揮してオリジナルな業績を展開できるようになってから、いきなり個性的な研究をしろと言われても対応できない。だから大学に入る前からその練習をさせる。自分で自分だけの答えを見つけ出し、それを検証する訓練を学校でやる。

 ただし、それはあくまで訓練だから、正解は先に決まっている。ただそれが伏せられているだけだ。

 たとえば、塩酸を石灰石にかけると二酸化炭素が発生するが、同じ塩酸を鉄にかけると水素が発生する。二酸化炭素のなかに火のついたものを入れると火が消えてしまうが、少量の水素に火を近づけるとぽんという音を立てて小爆発を起こす(大量の水素に火を近づけると大爆発する。たいへん危険である)。で、小学校や中学校で理科実験をやる。正解を教えないで塩酸を石灰石と鉄にそれぞれかけて、どんな気体が出るかを確かめさせる。もし、石灰石のほうから出た気体で火が消え、鉄のほうから出た気体が小爆発を起こせば、よくできましたということになる。でも、石灰石のほうから出た気体が小爆発し、鉄のほうから出た気体で火が消えれば、「おかしいからもういちどやってみなさい」ということになるだろう。まちがっても「よくできました。塩酸を石灰石にかけて水素が出ることが世界ではじめて発見されましたね〜すごいですね〜」なんて話にはならない。

 結論はわからないから実験してみるんだというたてまえで実験をやって、でも教える側はすでに「正解」を知っているのだ。そういうことを学校教育のなかで何度も何度も繰り返していると、何にでも疑問を持って自分で検証してみるという科学的態度を身につける以前に、「正解はあるのだ、ただ先生や試験の出題者がそれを教えずに伏せているだけなのだ」という仕組みを学んでしまう。だから、自分で仮説を立てて検証してみるよりも、「伏せられている正解」をなんとか先回りして知ろうとする。

 しかも、高校まででは――たぶん大学の学部生の段階でも――、きちんと手順を踏んで仮説を立てて検証した生徒よりも、先に正解を知っていた生徒のほうが、「よくできる生徒」として高く評価されるのだ。教える側は知識の多い生徒のほうを好むものだし(そんな生徒のほうが手間がかからないし、そこそこものを知っているという点で自分に似ているので安心できる)、そうでなくても、手順を検証するのには手間と時間がかかる。「正しい結論が出てきたということは手順も正しかったのだ、そうでなければ正しい結論が出るはずがない」といきなり仮定してかかれば評価する手間が大きく省ける(試験というのは、いろいろと工夫する余地はあるけれど、基本的にはそういうシステムである)。そういう評価をされていると、なんとか先回りして「伏せられている正解」を手にしようという態度が身についてしまう。

 そういうところで育った人間は「唯一絶対の正解は必ずある」と思いこんで当然だ。養老先生のような大学者が世のなかに唯一絶対の正解はないなどと言っても、「いや、学校の先生がそんなことを言うときには、その先生が唯一絶対の正解を知っているのに、わざと隠して伏せているのだ。養老先生のような大学者のことだから、先生はバカの壁の超えかたを知っているのにわざと伏せているに違いない」と反応してしまう。養老先生流に言うなら、そういう「出力」が出てくるように脳が育ってしまっているのだ。だから、養老先生に「ではバカの壁を超えるにはどうしたらいいんでしょう?」と質問に行く。で、養老先生が「それは私にもわかりません」などと答えようものなら、「養老先生はバカの壁の超えかたを知っているのだ。それなのに正解を教えてくれないなんて、きっと養老先生は私をバカにしているにちがいない」という反応が自然に出てきてしまう。

 気の毒な養老先生!


 けっきょく、大学の研究者を養成するための教育の都合で小学校からの教育を組み立ててしまうからそうなるのだ。大学院まで行って「だれも正解を知らない問題」に取り組むときに役立つ方法を身につけさせようとして、しかもそういう教育を受けた人を途中でほうり出してしまうから、「どこかに正解があり、だれかがそれをわざと隠している」という感覚が世のなか全体に定着してしまうのである。

 また、世のなかでもそれでよかったのだろうと思う。会社の会議でだって、社員にほんとうに独創的なアイデアを求めたりはしていない。社員が、きちんと仮説を立て、よ〜く調査した上で斬新なアイデアを出しても、残念ながら大半のばあいには上司がそのアイデアについていけない。けっきょくは、上司が出した答えが、どんなにまずい答えであっても正しい答えなのだ。それでうまく行けば上司の答えが正しかったのだし、うまく行かなければ部下がちゃんと働かなかったからだということになる(そんなことを平然と言って物議をカモしたIT産業界大手の社長さんがいましたっけ)。どっちにしても上司が全面的にまちがっていたと認めることはそんなにない。だから会社の会議でも「上司が正解を知っていて、ただそれを伏せているだけ」という感覚で対応可能なのである(ここの上司論は、橋本治『上司は思いつきでものを言う』集英社新書 を参照しました)

 会社のばあい、上司が知っている「正解」にいち早くたどり着くと昇進とか出世とかいう特典がついていたりする。上司の知っている「正解」の「正解」性に疑問を持ったらこんどはリストラとか左遷とかいう特典がついてくる。官僚のばあいは会社間のように競争原理が働かないからもっとはなはだしいに違いない。学校教育で「偉い人は正解を知っていて、ただそれを伏せているだけ」という「常識」を身につけておいて、会社社会や官僚世界では大正解ということになるのだ。

 「個性」だってそういう「正解」の一つなのである。「個性を伸ばす教育」と言っても、著者に指摘されるまでもなく、教育現場でどんな個性でも歓迎されるわけではない。むしろ集団生活に不必要な個性の芽を摘み、徹底して叩きつぶしていくのが教育の実態だ。教育の場で歓迎される個性とは「先生が喜ぶ個性」、「先生が認めてくれる個性」なのである。だから、要領のいい生徒は、その先生が喜ぶ個性を演出しようとする。これは会社や役所でも同じだろう。「個性」尊重と言ったって、教育の場でも社会の場でも受け入れられる「個性」の幅はけっこう狭いのだ。

 だったら最初っから「個性尊重」なんて言わなければいいんだというのが私の考えである。叩かれたってつぶしにかかられたってどうしたって残るのが個性だと考えておけばいい。そうなんだろうと私は思っている。


 それに、唯一絶対の正解がどこかにあると考えるほうが気が楽なのである。「わけのわからない世界」に向き合うのは不安だ。自分はそのすべての正解を知らない。しかしだれかその正解を知っている人がいるに違いない。だから、自分がその答えを知らなければならなくなれば、その知っている人に聞けばいい。かんたんに教えてもらえるだろう。そう思っておけばその不安に襲われなくてすむ。

 それで不都合があるかといえば、ある。

 まず、一人ひとりの知っていること・考えていることがさまざまな人から取り寄せた「正解」の集合体だから、そのあいだに論理的つながりがない。ほかから取り寄せたものをどう位置づけるかは自分で考えなければならないという発想自体がない。論理的に判断する能力や常識が身につかないのだ。

 そういう状態だから、自分の気分に合った考えかたやそのときに触れる機会の多い考え、目立つ主張、声高な主張や感情に訴えかけるもの言いを無批判に「正解」として受け入れてしまう。その結果、そのときどきの雰囲気に流された場当たり的な判断が積み重ねられる。そういう場当たり的な判断の集積で世論ってものが形成されてしまうようになったら、社会がいつどういう方向に走り出すかわからない。気分や情緒の動きに弱い社会ができてしまう。それはとても危なっかしい状態である。

 どこかから「正解」を取り寄せればいいと考えていれば、他の人との対話して共通認識を生み出すこともできない。自分の論理で自分に都合のいい「正解」だけを集めてきて、相手を攻撃することまではできるだろう。けれども、相手がどういう論理や心情で自分にものを言っているかを理解することができない。だから、論争はできても、対話を通じて自分の認識や考えかたを先に進めることができない。あいかわらずどこかから「正解」を引っぱってきて自分の立場を補強することしか考えない。

 それでは多様な人と接触しながら社会で生きていくことができなくなってしまう。「バカの壁」がないことにしてしまう社会では、だから紛争や衝突が頻発するのだ。


 『バカの壁』はバカの壁のなくしかたを説いた本ではない。『バカの壁』は、世のなかにはバカの壁が満ちあふれていることを前提にものを言ったり行動したりしようという提案の書である。どうものを言ったり行動したりするかというと、それはいろいろあるだろう。たとえば、壁に気づいても、その壁をなくすために慌てて「正解」を求めるのではなく、壁の向こうからこっちを見ればどう見えるかを考えるというやり方もある。壁のこちら側のものごとを整理して、壁の向こうのものごとにもたぶん適用できるだろうというものの見かたを組み立ててみるのもいいかも知れない。

 それに、何よりも、壁の向こうにいる人を見つけたときに、その相手をかわいそうだと思って、なんとか自分の知っている正解を壁をぶち抜いてでも壁の向こうに届けなければなどという正義感や義務感を持たないことが大切だと私は思う。

 まあ、みんながそれができるようなら、こんな本が世に出る必要はなかったんでしょうけどね。


―― おわり ――