現世を「苦界」と捉えられますか?


レナル・ソレル Reynal Sorel 著/脇本由佳 訳

オルフェウス教

文庫クセジュ(白水社)、2003年(原書 1995年)



 この本は衝動買いした。アメリカ南北戦争についての本を探しに書店に行ったが、目当ての本がなかなか見つからない(なぜ南北戦争かというと……まあいいじゃないですか。話せば長くなることだし)。この機会に少しでも関心のありそうなテーマの本は買っておこうと本を抱えて歩き回っていると、30分もしないうちにそういう本が5冊を超えていた。そのうちの一冊がこの本だ。

 忙しくなってヒマがなくなると、本との出会いはこういう衝動買いのパターンが増える。「いま買って読まないと、一生、この本とは縁がなくなる」という強迫観念が働いてしまうのだ。それで、そのときにはあまり関心の持てそうもない本を買ってしまう。この強迫観念がアニメショップに行ったときにDVDをまとめ買い……などという方向に発展することを考えると、ほんとうに空恐ろしいものがある! でもそんなことはどうでもいいとしよう。

 そんなわけだから、この本を買ったときにはオルフェウス教そのものにそんなに関心があったわけではない。衝動買いした本をこの本から読み始めたのも、本文のページ数が120ページ足らずという短さゆえだった。


 オルフェウス教については古代ギリシアの秘教だということだけ知っていた。

 「エレウシスの秘教」という秘密宗教の話が、だいぶ昔に読んだ古代ギリシアについての本に少しだけ出てきた。何の本だったかは覚えていない。都市国家の社会の人が広く信仰しているのに、昼間にはだれもそのことを話題にせず、そんな宗教は存在しないかのようにふるまっている。そして夜になると多くの人が集まって厳かな秘儀を執り行うという話だったと思う。ふしぎな宗教があるものだと印象に残っていた。オルフェウス教というのはその「エレウシスの秘教」のことだと思ってこの本を買ったのだが、どうやらエレウシスの秘教とオルフェウス教は別ものらしい。


 古代ヨーロッパの「あやしい宗教」というのにはずっと関心がある。ペルシアから入ってきたミトラ教とか、キリスト教と古代ギリシアの世界観が融合して独特の世界観を作っていたグノーシス主義とかには、詳しい知識はないけれど、興味はあった。

 こういう宗教はキリスト教からは「異教」として一括され、現在信じられている宗教としては残っていない。アジアの宗教が、ゾロアスター教から地域的な精霊信仰まで、メジャーな宗教の影響を受けながらも現在までいろいろ残っているのとはほんとうに対照的である。

 こういう異教がキリスト教的に解釈しなおされて復活するばあいもある。しかし、そうなるとこんどは多くのばあいには「異端」として徹底的に弾圧される。どうもキリスト教の枠内の「異端」に対する弾圧のほうが明らかな「異教」よりも厳しかったらしい。「異教」の教義はキリスト教側の言論に引用されて残ったりしているのに、「異端」については、大きな影響力を持った宗派でも具体的な教義がまったく残っていなかったりする。徹底的に「なかったこと」にされてしまうのだ。

 ただし、たとえばヨーロッパ「北方」やケルトの神々のように、キリスト教の「聖人」に姿を変えて信仰されつづけている例もある。こうなると逆にそういう聖人の非キリスト教性を暴こうとした側が教会から迫害される。

 断片的な「証拠」から元のかたちを復元していく――古代ヨーロッパの「異教」について知ることにはそういう謎解き趣味的なおもしろさがある。

 また、古代ヨーロッパの「異教」については、キリスト教側からの攻撃文書が重要資料になることも多い。したがって、その宗教がいかにあやしく奇妙な宗教かが強調されている可能性もある。

 けれども、逆に、儀式化し、学説化して合理化された大宗教では隠されてしまっているものが、古代ヨーロッパの「異教」からは隠されないまま表に出ていることがある。その部分が「あやしさ」・「奇妙さ」として強調されていることもある。したがって、その古代ヨーロッパの「異教」を知ることで、人間がどうして宗教を求めるのか、宗教は人間のどういうところに働きかけてくるのかを感じることができるかも知れない。それは、たぶん、社会の制度と結びついて人びとを信仰に引き込み、学説と理論によってその信仰を説明する大宗教では感じることの難しい部分なのだと思う。


 オルフェウスは、まだ小学校に入ってすぐだったころの私に強い印象を与えてくれた物語の主人公だった。

 オルフェウスは竪琴と歌の名手だった。そのオルフェウスにはエウリュディケという若く美しい妻がいたが、先に死んでしまう(オルフェウスは神の子、エウリュディケは自然の精霊ニンフの一人)。この『オルフェウス教』によると、結婚当日に蛇に咬まれて死んでしまったそうだ。妻の死をあきらめきれないオルフェウスは冥界に下り、冥界の番犬ケルベロスを含めて冥界の住人たちすべてを演奏と歌で魅了し尽くし、ついに冥界の王ハデスと王妃ペルセフォネ(ペルセポネ。この本では、ギリシア語のΦ=ph音を「ファ」行音で表記し、また、一部のことばを除いて母音の長音・短音の区別を無視している。Φ音を「パ」行に戻し長音を表記すれば「ハーデース」と「ペルセポネー」となる)から妻を現世に連れて帰る許しを得る。

 ただし、それには条件がついていた。冥界から現世に帰り着くまで、後ろをついてくる妻のほうを振り返らず、ずっと前を向いて歩くことだ。オルフェウスはその言いつけに忠実に従う。ところが、現世まであと少しというところまで来たときに、オルフェウスは妻がほんとうに自分についてきてくれているか疑問に思う。そこで、ここまで来たらやばいことになってもエウリュディケを抱いて強引に現世に連れ戻ればいいと思って振り返ってしまう。そのためにエウリュディケは冥界に引き戻されてしまい、オルフェウスは妻を連れ戻すことができずに嘆き悲しむ。

 この話は、子どものころ、夜更かしの癖がつきそうになった私に「本を読めば寝るだろう」と思ったからか、逆にそのころの私が本を読まない子どもだったからか、ともかく両親が買い与えてくれたギリシア神話の本(子ども向けにリライト・編集したもの)に出ていた。エウリュディケは英語読みで「ユーリディッシ」と書いてあった。ちなみにたしかに本はよく読むようになったけど、夜更かしの癖は着実に身についてしまったような……。

 このエピソードは理屈抜きに私の心に深く残った。私が生まれて初めて出会った純愛物語の一つである。

 もしかすると、古代ギリシア人たちにとっても同じだったのかも知れない。このエピソードの印象深さが、オルフェウスの「かわいそう」さを少しでも救い、またどうしてオルフェウスがこんなかわいそうな目に遭わなければならなかったかを説明しようという熱い気もちを起こさせたのだ。それがオルフェウスを中心にした宗教を形づくる原因になったのかも知れないと思う。


 同じようなエピソードは、日本の天皇神話でも、現世の成り立ちを説明する上で大きな役割を果たしている。

 『古事記』では、男神イザナキノミコト(伊邪那岐命。『日本書紀』では伊弉諾尊)と女神イザナミノミコト(伊邪那美命。『日本書紀』では伊弉冉尊)がともに国造りを行うが、イザナミノミコトが先に死んでしまう。あきらめきれないイザナキノミコトは妻を死後の世界に訪ねていくのだが、そこで、禁じられていたにもかかわらず妻の変わり果てた姿を見て追われる身となり、妻に追っ手を差し向けられる。やっとの思いで生還したイザナキノミコトから新しい世界を支配する三神(アマテラス、ツクヨミ、スサノオ)が生まれることになっている。

 男神が死んだ妻にふたたび会いに行き、そこで禁じられたことを守りきれずに災難に遭うというところはオルフェウス神話と共通している。違うのは、『古事記』では禁じられたことを破って怒るのが女神自身だが、オルフェウス神話では怒るのは冥界の支配者であるハデスとペルセフォネだという点だ。ただ、では冥界の王妃ペルセフォネとエウリュディケはまったく別人格かというと、ペルセフォネもじつは天上世界から冥界に理不尽な連れてこられかたをした神(このときのエピソードがロセッティやニコロ・デッラバーテやベルリーニ(彫刻)の画題「プロセルピナの掠奪」になっている。プロセルピナはペルセフォネのローマ名)なので、その点で共通している。もしかすると、オルフェウスの神話でも、女神が理不尽に死後の世界に連れて行かれ、それを男神が取り戻しに行くという話は一つで、あとから「怒る女神」と「悲しむ女神」に役割が分かれたのかも知れない。


 この『オルフェウス教』によると、オルフェウス教の根本的な教えは、神々は永遠の命を持つのに人間は死ぬという考えに反対し、人間の魂も神々と同じように不死性を持つということのようだ。

 古代ギリシア人は、人間の魂は死後も冥界に残るけれども、それは「影」や「鏡に映った像」のようなもので、確かなかたちを取ることはなく、二度と生き返ることはないと信じていたらしい。

 この世界観では「(エイドーロン)」は「かたちがありそうに見えて、じつはかたちのないもの」という否定的なものと考えられている。しかし、この「影」に近いことばである「エイドス」(形相)は、後のアリストテレス哲学では「かたちを持たない素材を完成させるもの」として肯定的に位置づけられる。アリストテレス哲学ではその「エイドス」が百パーセントになると神になるというのだ。

 また、「鏡に映った像」というところからは、「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろにうつったものを見ている。だがそのときには、鏡と鏡とを合わせて見ることになる」という『新約聖書』の「コリントの信徒への手紙 一」(「コリント前書」)のことばを思い出すかも知れない。というより、私は、この部分を文語訳で引用していた押井守監督の映画『攻殻機動隊』を思い出したのだ。いや、まあ、『イノセンス』について、一本、文章を書いたところだったのでWWFの新刊に載ります――という宣伝でした。「夏」も近いことだし)

 どちらにしても、古代ギリシア人の通念で「二度と生き返ることがない」ことの象徴とされていた「鏡に映った像」や「影」が、それによって人間がより完成されたものになるという肯定的なものへと読み替えられていく過程がギリシア人世界にあったわけだ。『新約聖書』はギリシア人世界のものとは思われないかも知れないが、『新約聖書』の原典はまぎれもなくギリシア語で書かれている(『旧約』はヘブライ語)

 もし古代ギリシア人の死についての通念がこういうものだったのならば、死後の世界で自分の死んだ妻に会ったオルフェウスの物語はそれへの反証になりうる。人間は、オルフェウスのように死後の世界の神や「冥界の番犬」を魅了するものを持ち、そのときに約束したことを破らなければ、死後の世界から人間を連れ帰ることができるというのだから。

 訳者の解説によると、ホメロスに代表されるギリシアの「神」観や死生観は、もともと王侯貴族のために作られたものだったようだ。だから人間の死に対して「二度と生き返ることはない」と冷たくできた。王侯貴族はこの世で十分に生を楽しむことができたし、王侯貴族のばあいには神の血が流れていることになっていたりするから、自分は例外だと思うこともできたからだろう。

 しかし一般人は「死」をそうかんたんに達観できない。王侯貴族のように好き勝手な人生を送るわけにはいかないし、自分だけは特別に死後もたのしい生活ができるとも思いこめないからだ。「死んだらそれですべて終わり」というのが通念であっても、それに抵抗したい――死んでもじつは人間はどこかの部分で生きていると信じたいのが自然の情だと思う。もしかすると、オルフェウス教の信念は、社会の「民主化」の方向に合致していたのかも知れない。


 ただし、それにしては、そのオルフェウスが教祖だというオルフェウス教の世界観はかなり陰鬱なものだ。

 ギリシア人はこの世を支配する神は三代目になっていると信じていた。最初がガイアとウラノスの世代、つぎがクロノスとその兄弟・姉妹のティタン族の世代、そしてその後がゼウスとオリュンポス(オリンポス、「オリンパス」はラテン語形の英語読み)の神々の世代だ。第三世代にあたるゼウスの世が現世である。

 最初にガイアが生まれ、ガイアからウラノスが生まれ、ウラノスとガイアのあいだに多くの子どもが生まれる。しかし、ウラノスがその生まれた子神たちをガイアのなかに詰めこんだままにするので、この二人の子の一人であるクロノスがウラノスの生殖器を切り落としてウラノス(天空)とガイア(大地)を切り離した。つぎにそのクロノスを中心とするティタン(タイタン)族が支配する時代となる。クロノスは、自分の子が自分の世界を奪うことを恐れて、妃神レイア(「レア」とも)とのあいだに生まれた子どもをぜんぶ呑みこんでしまう。しかし、一人だけその難を逃れた末弟のゼウスがクロノスと闘って勝ち、世はゼウスを中心とするオリュンポス(オリンポス、「オリンパス」はラテン語形の英語読み)の神々によって支配されるようになる。

 ゼウスの世になってから先に少し触れたペルセフォネ掠奪事件が起こる。ゼウスの兄である冥界の王ハデスが、農耕の女神デメテルの娘ペルセフォネを無理やり冥界に連れ去ってしまったのだ。

 ここまではギリシアの神話としてオルフェウス教以外の信者も含めて一般的に信じられていた神々の世界の歴史である。ここから先にオルフェウス教独特の神話が展開する。

 ハデスと冥界の王妃になったペルセフォネのあいだに子神ディオニュソスが生まれる。ディオニュソスは、一般には、快楽や陽気さやお酒(葡萄酒)の神とされている。ところが、オルフェウス教では、そのディオニュソスが幼いうちに前世代の支配者だったティタン族に体を裂かれて殺されてしまう。

 怒ったゼウスはティタン族に雷を浴びせ、直撃を食らったティタン族の身体は焼けこげる(でもティタン族は神なので死なない)。その焼けこげた煤から生まれたのが人間である。だから、人間も神の一部分から生まれたわけで、神と本質の部分で違いはない。

 しかし、人間はティタン族からこのディオニュソス殺しによってペルセフォネを悲しませたという原罪を引き継いでしまった。その罰として、その魂を「(セーマ)」としての人間の身体(ソーマ)に閉じこめられる。人間の魂は死ぬことができないので、この「身体への閉じこめ」の罰は永遠に続く。そこから離脱(仏教風にいうと「解脱(げだつ)」)するためには、ペルセフォネの悲しみをやわらげなければならない。

 そのためには肉を食わないなどのひたすら慎ましやかな生活を送らなければならない。もう一つ重要なのは生け(にえ)の禁止である。ギリシアの都市国家社会では、都市国家共同体の神に生け贄を捧げるのはその共同体の一体性を保障するための重要な儀式だった。しかし、オルフェウス教によれば、生け贄として動物を殺してその骨を焼くことは、ティタン族がディオニュソスを殺して体を解体してゆでて焼いて食べてしまったことをペルセフォネに思い出させるので、人間の罪をさらに倍増させる行いだったのだ。この点でオルフェウス教は反国家的な宗教にすらなる。肉を食わないのも同じ理由からだろう。また、自殺も殺害の一種なので禁止される。

 このようにオルフェウス教では魂は不滅だ。だが、魂が不滅だということは、魂は永遠に「墓」として人間の身体に囚われつづけるということでもある。こういう認識は仏教の「生老病死」の「苦」の世界からの「解脱」という考えかたとも似ているかも知れない。菜食主義という点でも共通だ。なお、著者にはオルフェウス教と仏教を比較するという視点はない。

 だが、オルフェウス教の教えにはもっと陰惨な調子がつけ加わる。人間の原罪の原因は冥界の王妃ペルセフォネの悲痛である。けれども、そのペルセフォネは、もともとはハデスによって無理やり冥界に連れて行かれたので、その悲痛の原因になっているディオニュソスも不義の結婚の結果として生まれた子だ。さらに、オルフェウス教には、そのペルセフォネ自身がゼウスが自分の母であるレイアと交わって生まれた不義の娘だという考えもあったらしい。つまりペルセフォネの母デメテルとレイアは同一の神だというわけだ。そういう救いがたい神々の罪の累積の上に人間が癒さなければならないペルセフォネの悲しみがあり、人間の原罪がある。このオルフェウス教の原罪にくらべれば、禁じられた木の実を取って食べて知恵がついてしまったというキリスト教の原罪のほうがずっと明るく単純なように思えてしまう。

 もう一つ、このオルフェウス教のイメージには、人肉食とか、異形の姿とかいうグロテスクなイメージがついて回っているようだ。ティタン族がディオニュソスを解体して料理して食うとか、ペルセフォネは目を二対持ち、顔も二つ持ち、角も持った異形の子どもで、後に大蛇に姿を変えたとか、ともかくグロテスクである。その生々しくそれゆえにやりきれない暗い感じと、光に溢れる清浄な世界へのあこがれの対照がほんとうに鮮やかに感じる。


 古代ギリシアには、他にもディオニュソスを祀る秘教があった。ある説では、オルフェウス自身がそのディオニュソスを祀る女たちの集団に身体をばらばらにされて殺されたという。また、最初のほうで少し触れたエレウシスの秘教ではデメテルを中心に祀る。

 ディオニュソスにしてもデメテルにしてもペルセフォネにしても、「正統」のギリシア神話のなかではあまり重要ではない神様だ。デメテルは農耕の神様として一二神のなかに名を連ねているが、ゼウスやその妃神ヘラなどの他の神様とくらべてとくにステイタスが高いわけではない。ペルセフォネはオリュンポスの主要な神には含まれていない。オルフェウス自身は神の子ではあるが基本的に人間である。そのデメテルやディオニュソスやペルセフォネを中心にした宗教が広がったのは、やはり、古代ギリシア社会が変わっていくなかで、旧来の「正統」信仰が人びとの心を支えきれなくなったからかも知れない。

 共同体国家の成立・発展とともに、系譜関係のなかに整然と位置づけられ、公的な儀式によって祀られる神は、それだけそこに住む人たちの心から離れたところに行ってしまう。それに対して、共同体国家の神の系譜や教義を利用しつつ、農耕(デメテル、ペルセフォネ)とか死(ハデス、ペルセフォネ)とか、音楽を聞いたとき(オルフェウス)や酒を飲んだとき(ディオニュソス。ただしオルフェウス教のディオニュソスは酒神ではない)の陶酔感とか高揚感とか、あとたぶん食欲とか性欲とか、そういうものを、ふだんの生活で身体で直接に感じる感覚に近くなるように説明し、よりよい生きかたを示す。そんな宗教が興ってくる。それは、やっぱり、さっきも書いたように都市社会の「民主化」の一つのかたちなのではないかと思う。

 しかし、それにしてはこのオルフェウス教はあまりに暗すぎないか? 人間とは原罪を背負った存在で、しかもその原罪は何重にも重なっており、しかも原罪を重ねたのは人間ではなく神である。人間は神の原罪を引き継ぎ、その源を取り除かなければ救われないのだ。設定を聞いただけで気が滅入るようなそんな宗教に人は引きつけられたのだろうか?

 しかも、入信すると肉が食えなくなる。禁欲主義なので、ほかにもいろいろがまんしなければいけないことが増える。さらに、生け贄儀式を拒否するので、信者は国家から反国家的な危険人物と見られてしまうかも知れない。

 そんな宗教になぜ人は入信したのだろうか?

 これはよくわからない。わからないが、禁欲的な宗教や社会運動が人びとを引きつけるというできごとは、人間の社会ではときどき起こる。

 その一つはキリスト教だ。キリスト教は、イエスを失った直後は、世界の終末が近いと本気で信じる過激な宗教だったが、ヨーロッパに広まっていくローマ帝国末期の段階ではキリスト教団は禁欲主義を特徴としていた。プロテスタントの初期の信念はやはり強い禁欲主義だった。もっと最近の例を挙げればマハトマ・ガンディーの「非暴力」運動である。長崎暢子さんの研究によれば、ガンディーの「非暴力」の基本は身体的な欲望の節制にあったという。食欲・性欲や物欲の節制である。それがインド独立運動を動かし、世界にも大きな影響を与えた。

 ガンディーの例は別として、それ以外の禁欲には「解脱」への願望がある。禁欲することで現世の苦しみから逃れたい、すくなくとも自分は「救われない人」ではないことを信じたい。そういう、この世で生きることへの恐れと、そこからもしかすると脱出できるかもという願望とが禁欲を魅力的なものにする。ガンディーのばあいにも、インド人に、一見、権利をたくさん与えながら、じつはインド人を分断して独立を不可能にするイギリスの支配からの「解脱」という方向性があり、それが人びとを動かしたのかも知れない。自分たちが心から「欲しい」と思っているものがあったときに、もしかするとその「欲しい」という思い自体が何かの仕組みで思わされているのだとしたら……? その疑いにこたえる一つの方法が禁欲なのかも知れない。

 「生きているうちがすべてで、人間は生き返らない」という公式の宗教のほうが、人間の生はじつは魂が身体という「墓」に閉じこめられている状態であるというオルフェウス教よりずっと人世肯定的な明るい宗教のように思える。しかし、いつも、だれにとってもそうなんだろうか? 現在の「生」は本来的には「死」であって、ほんとうは否定されなければならない状態なのだという、普通に考えれば危険きわまりない教義が、人間に力を与えることもある。私たちは、自分がそういう「危険」な宗教の信者になる必要はないけれども、そんな教えが人に力を与えることがあるということは認識しておかなければいけないのではないだろうか?


 もう一つ、この本で紹介されているオルフェウス教の教義で印象的だったのは、苦痛を記憶していることが救いにつながり、その記憶をごまかそうとしたり忘却したりするのは「救い」から遠ざかることだという世界観だ。

 苦痛の記憶とは、自分の子を殺されてばらばらにされた母ペルセフォネの苦痛を記憶していることである。それを忘れてしまえば人間は一時的には楽になるかも知れない。だが、その状態では、人間はいつまで経っても解脱できない。その「魂」は永遠に「墓」から「墓」へと閉じこめられつづけなければならない。もしかしたら異形の神かも知れないペルセフォネの苦痛を記憶していることが救われるための条件なのだ。

 たしかにギリシアの思想や哲学や宗教では「記憶」と「忘却」は重要なテーマになっていることがある。プラトンは、理想の世界がどんな世界だったかを人間はみんな知っているのに、みんなそれを忘れていると説き、その理想世界を知ることのできる哲人の優位を説いた(「イデア論」と「哲人支配」)。グノーシス主義では、この世の「造物主」である神は、自分自身が最高の存在ではないのに、人びとに自分が最高神だと信じさせるために最初の創造者の存在を忘れさせた。それがキリスト教と結びつくと、その最初の創造者を人間に思い出させるためにやって来たのがイエス・キリストだということになる。だから、グノーシス主義的キリスト教では、イエスを遣わした神と造物主としての神は別であり、造物主としての神はイエスによって否定されなければならない存在ということになる。また、劇場版『うる星やつら2』のDNAワールドに現れた少女は……まあその話はここではやめておきましょう……。

 そういう学術方面の話とは別に、この「苦痛を記憶していること」のたいせつさの主張はたしかに真理をついていると思う。

 たとえば、さいきんよく話題にされるトラウマとか「多重人格」とか解離とかいう現象にはこの「苦痛の記憶」という要素がいつもついて回る。たしかに一人ひとりの人間として見れば、苦痛なんかさっさと忘却してしまいたい。それはほんとうに自然な感情だと思う。けれども、一方で、多くの人が「苦痛の記憶」をともにしていることが、人が救われるためにはほんとうに重要なことなのだとも思う。この古代の宗教は私たちに救済のための真理を指し示してくれているのかも知れない。

 オルフェウス教がもし現在の私たちに問うているものがあるとすれば、私たちがこの世を「苦界」と捉えることができるかどうか、「苦界」と捉えたときにそこでどんな生きかたを選び取っていくのかという問題ではないだろうか。


 この本には、古代ギリシアの「秘教」の一つとしてピュタゴラス(ピタゴラス)教団が挙げられている。ここに出てくるピュタゴラス教団はオルフェウス教と似たような教義を持つ宗教集団だ。あの理路整然とした直角三角形の三辺の関係(「直角をはさむ二辺の長さそれぞれを2乗した値の和は斜辺の長さを2乗した値に等しい」、c 2a 2b 2の証明を行った合理主義者たちとはとても思えない!

 現在、学校で「ピタゴラスの定理」を教えたあとで、ソラマメを食べるのは大罪であるとか、奇数は善で偶数は悪だとか教えたりはしない。学校でそんなことを主張すれば、論理的でないと斥けられ、バカにされるだろう。ところが、古代ギリシア世界では三平方の定理とソラマメを食うことの罪とが同じように合理的であり、真理であったのだ。

 これはたとえばケプラーの法則などでもそうだ。惑星の軌道を計算する上で不可欠であり、しかもこの法則を知っていれば太陽系からはるかに遠い連星系の公転まで計算できてしまうという普遍的で合理的な法則を編み出したケプラーは、神秘主義的な占星術師でもあった。そのケプラーの発見にもとづいて合理的な力学の体系を生み出したニュートンだって錬金術の可能性を信じていた。私たちの「合理性」は、そういう古代や中世の宗教が――いやそれぞれの時代の「科学」が生み出した「合理性」の一部をつまみ食いして成り立っている。もしかすると、近代科学は、その源流となったピュタゴラスやケプラーやニュートンが感じていた世界の豊かさをほとんど削ぎ落とした上に成立しているのかも知れない。それは、古代ギリシアの国家化された神々にかわって多くの「秘教」が成立してきた、そんな時代の「知」(科学)の状況に似ているのかも知れない。


 この『オルフェウス教』を読んで意外な発見があった。それは、私たちの常識になっているようなギリシア語起源のことばの意味が、じつはまちがいだった、または一種の「かけことば」や混同の結果として生まれてきたということだった。

 たとえば、私たちは、「カオス」ということばを「ぐちゃぐちゃしてかたちも定まらない状態」という意味と「何かを生み出す原初の状態」という意味との両方で使う。というより、ぐちゃぐちゃしてかたちが定まらないところからいろんなものが生まれてくるというのが「カオス」のイメージであり、また、「複雑系」の方面では数学的にも「カオス」をそういう意味で使う。「カオス」は漢字表現では「混沌(こんとん)」であり、中国の古典『荘子』に「渾沌(こんとん)」からかたちのあるものを創造していく――その結果「渾沌」自身は死んでしまうのだが――というエピソードがあることからも、このイメージは補強されている。

 ところが、この本の註釈(141頁)によれば、これはまちがいなのだそうだ。もともと、「何かを生み出す原初の状態」としてのカオスは、「口が開いた状態」を意味していて、その開いた口から何かが生み出されてきたという意味だったらしい(たまごの殻の裂け目から生物が生まれるようなイメージではないかな? オルフェウス教では「宇宙たまご」のイメージがあるそうだし)。ところが、ずっとあとから出てきたストア派――これも「禁欲」を主張した一派だ――がカオスということばの語源を誤って推理し、ごちゃ混ぜ状態・混乱状態というニュアンスを持ちこんでしまった。で、だいぶ後になって、「複雑系」論者たちが、そのごちゃ混ぜ状態からこれまでどこにも存在しなかったものが生まれてくる(これを「創発」というらしい)ということを数学的に立証して、ストア派の誤解を「正解」にしてしまったわけだ。

 もう一つが、ゼウスの父神の名としての「クロノス」と時間の意味の「クロノス」の違いである。

 時間の「クロノス」の「ク」は本来はΧ=kh、神の名まえの「クロノス」はΚ=kで、綴りが違う(発音も少し違う)。オルフェウス教では原初から存在する時間のほうも時間神クロノスとして捉えるので話がややこしくなるらしい。

 しかし、いつの間にかこの両者が混同され、ゼウスの父で、ゼウスと戦って敗れたクロノスが「時間の神」とされるようになった。この世の支配を失って後ろに退いたけど、その背後の世界で時間を司っているというイメージだろうか。ゼウスの父の「クロノス」は「切り刻む者」という意味らしく、本来は自分の父ウラノスの生殖器を切り取ったからという生々しい意味だったのが、「時を刻む」という連想から時間の神になったのかも知れない。さらに、クロノスがローマに入ってサターン(ラテン語ではサトゥルヌス)になり、それがヘブライ語の「敵対者」の「サタン」に似ているためか、それともゼウスの兄や姉たちを食ったとかいう悪魔的な所業のためか、悪神・悪魔のイメージを持たれるようになってしまった。西洋占星術では、ゼウス=ジュピターの星木星がよい星の代表で生を意味し、クロノス=サターンの星土星が悪星の代表で死を意味する。

 そういえば、むかし『クロノトリガー』というゲームがあったとか、「セガサターン」というゲーム機があったとかいうことも思い出すのだけれど、あんまり関係がないのでこのへんで止めておくことにしよう。


 この本は、訳註が充実している上に、索引にそれぞれの項目についての解説がつけてあって、索引を読んでいるだけでいろいろと興味が広がる。訳者の情熱と努力に頭が下がる思いだ。なお、最初のほうで、本文が120ページくらいなので短いというようなことを書いたけれど、じつは一ページに載っている文章の分量が他の同サイズの本(新書版より少し大きめ)より多いので、そんなに内容の短い本ではない。


―― おわり ――