「源氏」から見た日本の最高権力の歴史


岡野友彦

源氏と日本国王

講談社現代新書、2003年



1.


 江戸時代の徳川将軍家は、ペリー来航によってその権威が揺らぐまで、日本の政治・外交・軍事上の最高権力を握っていた。

 将軍なのだから、軍事上の最高権力を握っているのは当然だろう。しかし、政治・外交的な最高権力まで、どうして「将軍」が握っていたのか? 将軍――正式には「征夷大将軍」――には、政治や外交の最高権力を揮う役割など割り振られていないのに。

 その問いに答えるのがこの『源氏と日本国王』の目的である。


なぜ将軍が最高権力を握るのか?

 この問いには、しかし、簡単な答えがありそうな感じがする。

 この問いに対する答えとして、まず考えられるのは、本来は政治・外交の最高権力を握っている天皇が、その最高権力を将軍に委ねたからというものだろう。将軍は、もともとは政治・外交の最高権力を握っているわけではない。しかし、天皇がその権力を将軍に委ねたので、将軍は政治・外交の最高権力まで握っていたのだという答えだ。

 では、どうして、天皇はその最高権力を将軍に委ねたのか? なぜ、摂政・関白ではなく、太政(だいじょう)大臣にでもなく、将軍に委ねたのだろう? また、たんに委ねただけならば、気に入らなければいつでも取り返すことができるはずなのに、どうして幕末の動乱の時期まで天皇はその最高権力を取り返そうとしなかったのか?

 その問いには、こんどは「将軍が日本でいちばん強い武力を握っていたから」という答えが考えられる。

 徳川将軍家を開いた徳川家康(1542〜1616年、1603〜1605年将軍在任)が将軍になった経緯を考えてみよう。そのきっかけは、徳川家康が関が原の戦いに勝利したことだった(1600年)。この勝利で家康は日本でいちばん強い武力を動かせる地位を獲得した。家康に対抗して自分の下に武士たちを集め、その武士たちを動かすことのできる有力者はいなくなった。その「日本全国の武士の統率者」の地位があって、あとから将軍に任命され、幕府を開いている(1603年)

 天皇や朝廷(天皇の政府)としては、いちばん大きな武力を動かせる人を怒らせるわけにはいかない。その人が怒って反抗してきたとき、天皇自身がその人の反抗を抑えられる武力を動員できるわけではないからだ。だから、将軍に任命して、軍事上の最高権力を譲るしかなかった。そして、同じ理由で、その徳川将軍家の望むままに政治や外交の最高権力まで譲り渡さなければならなかったのだ。

 だいたいこんな理由づけである。

 つまり、かたちの上では、天皇が徳川家の者に将軍の職を与えて軍事上の最高権力を委ね、さらに政治・外交の最高権力まで同じ徳川将軍に委ねたことになっている。しかし、実際には、天皇は徳川家の者に軍事上の最高権力も政治・外交の最高権力も委ねなければならなかった。そうする以外に、日本でいちばん強い武力を握っている徳川家と共存していく方法がなかったからだ。要するに、身も蓋もない言いかたをすれば、徳川家は、武力を背景にして、政治・外交・軍事の最高権力を天皇から脅し取っていたのだ。

 これで説明になるだろうか?


これでは説明にならない

関連年表(1)
1192(建久3)年 源頼朝、征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開く。
1221(承久3)年 承久の乱(承久の変)。後鳥羽上皇、鎌倉幕府打倒を図り、敗北。
1333(元弘3)年 鎌倉幕府滅亡。翌年、後醍醐天皇を中心とする建武の新政が開始される(「建武の中興」)。
1336(北朝:建武3、
南朝:延元元)年
足利尊氏、京都に光厳上皇(院政)・光明天皇を擁立し、南北朝の対立始まる。
1338(北朝:暦応元、
南朝:延元3)年
足利尊氏、征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開く。
1392(北朝:暦応3、
南朝:元中9)年
南北朝の合一。
1573(天正元)年 室町幕府滅亡。
1600(慶長5)年 関ヶ原の戦い。
1603(慶長8)年 徳川家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。
1615(元和元)年 大坂夏の陣で豊臣家滅亡。
1853(嘉永6)年 ペリー来航。
1867(慶応3)年 大政奉還。その後、王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府の支配終わる。

 ならない――というのが岡野さんの答えである。

 徳川将軍は、なぜ政治・外交・軍事の最高権力を握っておきながら、自ら天皇にならなかったのかという問いに答えられないからだ。

 この説明では、徳川家は、天皇に武力を背景に威圧をかけて最高権力を奪い取るぐらいには無遠慮で野心的でありながら、自らは天皇になろうとせずに形式的には天皇の臣下の地位に満足するぐらいにはつつしみ深いということになる。

 そういう微妙な状態が200年も続くのだろうか? しかも「泰平」と言われるような安定した関係が?

 普通に考えれば、鎌倉時代に鎌倉幕府を打倒しようとして失敗した後鳥羽上皇(1180〜1239年、1183〜1198年在位、1198〜1221年院政)や、鎌倉幕府を倒して「建武の新政」を始めた後醍醐天皇(1288〜1339年、1318〜1339年在位)のように、そういう現状に満足しない天皇が出現して最高権力の奪回を企てるかも知れない。逆に、無力な天皇の臣下でいることに満足しない将軍が出現して、天皇の地位を奪おうとするかも知れない。どちらかの事件は起こりそうなものだ。後鳥羽上皇や後醍醐天皇のような天皇が現れなかったのは、そういう天皇が現れないように徳川幕府が厳しく天皇家をコントロールしたからだという説明ができる。しかし、では、徳川将軍のほうはどうして自分で天皇になろうとしなかったのだろう?

 徳川の「泰平」が、果たして、17世紀の最初に豊臣政権に止めを刺してから、19世紀半ば(1853年)のペリー来航までずっと続いたのかという疑問はたしかにある。その「泰平」イメージはペリー来航後に作られたものではなかったか? 現実の江戸時代には、さまざまな動乱もあり、政変もあり、それほど「泰平」でもなかった。でも、ペリー来航事件が起こってみると、それはペリー来航後の動乱と較べればたいしたことがなかった。だから2世紀半の「泰平」イメージが強調されたのではなかったか。そんなことも考える。しかしその疑問はここでは追究しないことにしよう。

 実質的には将軍家が武力で威圧して日本の最高権力を奪い、それを天皇による委任という形式で繕っているだけという説明では、その中途半端な関係が安定して続いた理由が説明できない。


天皇の「神聖さ」

 もっとも、答えがないわけでもない。

 天皇は神聖なもので、実力で政治・外交・軍事の最高権力を奪っても、その神聖さだけは奪えなかったという説明はできる。

 たしかに、7世紀後半の天武天皇(631?〜686年、673(672)〜686年在位)の時代から奈良時代を経て、明治憲法の時代まで、天皇に格別の「神聖さ」があると認められてきた――その「神聖さ」として考えられる内容はもしかすると時代によって違っていたかも知れないけれど。

 天武天皇 名は大海人(おおあま)皇子。「大化の改新」を実現した中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)の弟。672年の壬申(じんしん)の乱で近江朝廷軍を撃破し、即位する。万葉集に「おおきみは神にしませば……」と歌われ、神格化されたと考えられる。その後、養老律令の制定(718年)で、朝廷の公式文書上での天皇の神格化表現が確定した。なお、天武天皇の後、奈良時代の称徳(しょうとく)天皇孝謙(こうけん)天皇の重祚(ちょうそ)=再即位)までの天皇は、基本的に天武天皇の子孫である(ただし、持統(じとう)天皇は天武天皇の皇后、元明()天皇は文武天皇の母)

 けれども、では、その神聖さは、他の血筋の者には奪えないものだと一貫して認識されていたかどうかが重要な点である。たとえば、中国の皇帝も「天子」として神聖さを認められてきた。けれども、中国では、よく知られているように、王朝の交替は認められてきたし、実際にも王朝交替は何度も起こっているのだ。

 「神聖さ」について なお、この「神聖さ」についての論点については、岡野さんは、最初の「最高権力の委任」という議論と変わらないと論じているだけで、「神聖さ」が別の家系に移りうるものなのかどうかという議論はここでは展開していない。だが、「神聖さは別の家系に譲れないけれど、最高権力は譲ることができる」として、「だから徳川将軍も最高権力だけで満足せざるを得なかったのだ」という議論を立てるならば、少なくとも論理的には一貫しているように私には感じられる。そして、この「神聖さ」(貴種(きしゅ)性)の問題は、この問いに対してこの本が出している答えにも関係してくる。そのことは後に触れることにしたい。


「将軍」として最高権力を手にしたのではない!

 岡野さんは、ここまで書いてきたような説を検討したうえで、「将軍が天皇から政治・外交・軍事の最高権力を委任されていた」という正面から否定する。

 また、将軍が最高権力を握れたのは、日本で最大の武力を動かせる立場にいたからだという説明も否定する。

 「権力は武力だけでは握れない」というのが岡野さんが頑として譲らない仮説だ。たしかに、武力で一時的に大きな権力を手に入れることはできる。だが、それをいつまでも続けるためには、「なぜ大きな権力を握りつづけているのか」という説明が必要になる。硬いことばで言うと、「権力の正統性」を説明しなければならなくなる。正統性(なぜ権力を握りつづけられるか)の説明ができない権力は、一時的には強くても、すぐに脆さをさらして崩壊してしまうものだ。それが岡野さんの基本的な考えである。

 では、いったい徳川将軍の権力をどう説明するのか?

 岡野さんは、徳川将軍は「将軍」としてその最高権力を手にしたのではないと考える。

 徳川将軍は、将軍ではなく、「源氏長者」という資格で最高権力を手にしていたと考えるのだ。

 源氏長者の最高権力は、江戸時代になってから天皇から与えられたり譲られたり委任されたりしたものではない。江戸幕府ができる前から源氏長者が持っていたものだ。また、徳川家はたんに武力だけでその最高権力を手にしたわけではない。もちろん、日本中の武士を動かすことのできる力は重要な要素だ。だが、源氏長者の権力は武力だけで手にできるというものではなかった。

 この説明を読んで、いきなりすんなりと岡野説に納得するひとは、おそらくあまり多くないだろう。というより、納得する、しないという以前に浮かぶ疑問があるのではないだろうか?

 ――いきなり何の脈絡もなく登場した「源氏長者」っていったい何


「源氏長者」とは?

 「源氏長者」とは、「源氏(げんじ)」――つまり「源氏(みなもとし)」という「氏」の代表者であり、総まとめ役である。

 朝廷が与える官位のランクで「五位」以上がいちおう「貴族」として優遇される。この官位のランクで見て、「源氏」のなかでいちばん上にランクされる人が「源氏」の総まとめ役となる。これが「源氏長者」だ。

 官位 一位が最高で、以下、二位、三位……とつづく。実際にはさらに細分化されていて、三位までが「(しょう)」と「(じゅ)」に分かれ、四位以下は「正」・「従」に分かれた上でさらに「上」・「下」に分かれる。正一位、従一位、……従三位、正四位上、正四位下、従四位上、従四位下、正五位上、正五位下……とつづくわけだ。なお、この官位を読む場合、「三位」は「さんみ」と読む。現在、「三位一体改革」というばあい、「三位」を「さんみ」と読むのは、この名残りである。

 だが、どうして徳川将軍家が「源氏長者」になることができたのだろう? 徳川将軍家は「徳川氏」であって、「源氏」ではないのではないか? そのうえ、徳川将軍は朝廷貴族でもないのではないか? その徳川将軍が「源氏長者」として最高権力を握ることができるなんて、何かおかしいのではないだろうか。


徳川家は源氏である

 おかしくない。

 まず、徳川将軍は江戸にいて、たしかに実際に朝廷で仕事はしていないけれど、官位はちゃんと朝廷からもらっていた。

 江戸時代になると、奈良・平安時代にできあがった律令(りつりょう)制度は形だけのものになっていた。でも、逆に言うと形だけはがんこに残っていた。徳川将軍だけでなく、大名や幕府の閣僚たち(老中など)も朝廷からちゃんと官位をもらっていた。しかも朝廷の官位としてトップクラスの官位をもらっている。たとえば、徳川家康は正一位、秀忠は従一位まで進んでいる。

 だが、朝廷貴族の官位はあっても、徳川氏は源氏ではないのだから、「源氏長者」の資格はないのではないか?

 ところが、じつは徳川氏は源氏の一員なのである。

 というより、岡野さんがこの本で使っている厳密な区別に従えば、「徳川氏」というものは存在しない。あくまで「徳川家」である。そして、「徳川家」というのは「源氏」という「(うじ)」に属するひとつの「家」なのだ。

 現在の制度では、ある家族の名まえ(family name)が「氏」である。だから、現在では「氏」集団と「家」集団の区別はとくにない。

 だが、これはもともとまったく違う集団を指す概念だった。「氏」とは血筋の名まえで、「家」とは社会組織の名まえだった。

 「氏」というのは、その人が社会のなかでどんな役割を果たしているか、だれといっしょに生活をしているかなどということとは関係なく、父親から子へと受け継がれていく血筋にだけ関係する。

 それに対して、「家」とは、いっしょに生活し、社会のなかで一定の役割を果たしている集団の名まえだ。


「家」と「氏」

 中世や近世には、上流の人びとのあいだでは、特定の「家」が特定の役割を代々受け継いでいくという制度が定着していた。現在も一部に残っている「家元」制度のようなものだ。「家元」に実子がいなかったり、実子がいても適性がなかったりしたら、養子を取ってその「家」を継がせる。この場合、先代と次の代とのあいだで血筋はつながっていない。しかし、それでも「家」は断絶せずにつながっていき、社会のなかでそれまでと同じ役割を果たすことになる。

 だが、「氏」は血筋なので、養子を取っても普通は継がせることができない。しかも父から子へしか継がせることができない。だから、女の子しかいない「家」が婿養子を取って跡継ぎにすれば、「家」はつづいても「氏」が変わってしまう可能性がある。その女の子までは父の「氏」だが、女の子が生んだ子は、男であっても女であっても、婿養子――つまり女の子の夫の「氏」になる。だから、同じ「氏」から婿養子を取ればその「家」の「氏」は変わらないが、違う「氏」から婿養子を取れば、その「家」の「氏」は変わってしまう。

 中世・近世では、この「家元」のような制度が、朝廷の官職や幕府の役割分担にまで適用されていたと考えればよい。朝廷で陰陽道をつかさどるのは安倍晴明(せいめい)の後継者にあたる家(土御門(つちみかど)家)、朝廷の書記官を担当するのは小槻(おづき)氏に属する特定の家(壬生(みぶ)家と大宮家)というふうに役割分担が決まっていた。藤原氏のなかでも摂政・関白を出せる家(「摂家」という)は決まっていた。

 この区別は、戦国時代に「下克上(げこくじょう)」が盛んになり、「氏」を名のれるほどの由緒のない人物が社会の指導層にたくさん登場してくるころには崩れ始めた。江戸時代の社会はもっぱら「家」をたいせつにする社会となった。だから、このころになると、「氏」と「家」の境界はあいまいになり、「氏」と「家」を混同した議論も出てくるようになった。

 けれども、朝廷や幕府上層部など、官位の高い人たちの間では「氏」と「家」の区別は生き残った。だから、「源氏長者」という「氏」の総まとめ役の権威も生き残り、それが徳川将軍の最高権力を裏づけたわけだ。


子羊たちの休暇的な話題

 なお、一般的に言うと、「氏」の範囲の広がりが「家」の広がりよりが大きい。ある「氏」を持つ男性の子孫はすべてその「氏」になるからである。それに対して、「家」は、生活を共にしているか、社会のなかで一定の役割を果たしているかの集団なので、その広がりに限界がある。だから、普通は、「氏」集団のなかに「家」集団がいくつも存在することになる。

 たとえば、藤原氏のなかに二条家や西園寺(さいおんじ)家や佐藤家があり、宇多(うだ)源氏(宇多天皇の子孫で「源」を姓とする「氏」)のなかに綾小路(あやのこうじ)家や京極(きょうごく)家があり、清和源氏(清和天皇の子孫で「源」を姓とする「氏」)のなかに小笠原家があったりする。島津家は本来は惟宗(これむね)氏だが後に清和源氏を名のった。ところで拙宅の辞典ではかんじんの藤堂家はよくわからんかった(ところで福沢家はいいのか?!)。

 ところで、「家」は受け継がれても「氏」が変わる可能性があると書いたが、朝廷貴族や上層の武士のあいだではそれは例外的なできごとのようだ。普通は「家」も血筋で受け継がれる。だから、ある「家」が属する「氏」は一つに決まっているほうが普通である。


もういちど整理

 ここでもういちど「氏」と「家」の区別について整理しておこう。

 岡野さんによれば:


 ポイントの一つは、氏は天皇によってのみ与えられるという点だ。だから、天皇から「氏」を与えられる機会のある貴族でなければ「氏」は持てない。

 もちろん、朝廷とは縁のない生活をしている地方の有力者や、それどころか、その日の暮らしにも困る庶民が「氏」を持っていることもあるかも知れない。だが、それは、どんなに遠い祖先かわからないけれど、ともかくその人の父方の祖先に朝廷に仕えていた人がいたからである。

 また、天皇の一族は「氏」を与える側なので、自分たちは姓(氏の名)を持っていない。現在も皇族に「氏」がないのはその伝統を引き継いでいるからだ。

 「氏」と「姓」 なお、もともと「氏」と「姓」とは違ったものだった。「姓」はもともと「かばね」と読み、大和時代の朝廷に仕える豪族のランクづけに用いられた称号だった。この豪族のランクづけが、天武天皇の時代(683年)に新しい朝廷の貴族のランクづけに再編される(八色(やくさ)(かばね))。奈良時代には、まだ「氏」の名を「かばね」とつづけて使っていた(藤原(ふじわらの)朝臣(あそん)大伴(おおともの)宿禰(すくね)など)が、平安時代に入って「かばね」が使われなくなり、「氏」の名が「姓」になったらしい。このことは『源氏と日本国王』の23ページに説明がある。ただし、ここの説明では、「かばね」がいきなり「八色の姓」から説明されているが、「かばね」の仕組みは「八色の姓」よりずっと前からあった。少なくとも、ここに「八色の姓」の「朝臣」・「宿禰」と並べられている「(おみ)」、「(むらじ)」については、「八色の姓」が制定される前の「臣」・「連」と、「八色の姓」の下での「臣」・「連」とはまったく別の存在である(「八色の姓」の「朝臣」・「宿禰」が「八色の姓」より前の「臣」・「連」に相当する)。また、ここで岡野さんが「かばね」の例として挙げている「蘇我(そがの)大臣(おおおみ)」・「物部(もののべの)大連(おおむらじ)」は、蘇我氏や物部氏の族長にあたる人個人が任じられる地位なのであって、蘇我氏・物部氏全体の「かばね」は蘇我臣(そがのおみ)物部連(もののべのむらじ)である。


北条家、足利家、織田家、徳川家などを「氏」で呼ぶと?

 源頼朝(1147〜1199年、1192〜1199年将軍在任)とか源義経(1159〜1189年)とかの「源」は「氏」である。また、平将門(まさかど)(?〜940年)や平清盛(1118〜1181年)の「平」も「氏」である。

 だが、源頼朝の子孫が実朝(さねとも)(1192〜1219年)暗殺で断絶した後、鎌倉幕府の主導権を握った北条一族の「北条」は、この厳密な区別を適用するならば、「氏」ではなくて「家」である。北条一族を滅亡に追いこんだ新田義貞(よしさだ)(?〜1338年)の「新田」も、その新田義貞と争って征夷大将軍の地位を手にした足利一族の「足利」も「氏」ではなくて「家」である。戦国大名として有名な武田信玄(1521〜1573年)の「武田」も、織田信長(1534〜1582年)の「織田」も、徳川家康の「徳川」も「氏」ではなくて「家」の名だ。

 では「氏」で呼べばどうなるか? 北条家は平氏、新田家は源氏、足利家も源氏、武田家も源氏、織田家は平氏、徳川家は源氏である。だから、新田義貞は源義貞、足利尊氏(1305〜1358年、1338〜1358年将軍在任)は源尊氏、武田信玄(本名は晴信(はるのぶ)は源晴信、織田信長は平信長、徳川家康は源家康である。


清和天皇─貞純親王─源経基……頼義┬義家┬義親……頼朝┬頼家
                 │  │      └実朝
                 │  └義国┬新田家
                 │     └足利家
                 └義光─武田家


―― つづく ――