インターネットと「好奇心の爆発」(1996.6.22)

インターネットと「好奇心」の爆発(1996.6.12)



「週刊読書人」にマーク・ポスターという人へのインタビューが載っている。題は「インターネットと情報様式」。ポスト構造主義を考える歴史学者である。僕はこの人の本を読んでいないが、ポストモダンの主体性の様相、ということで次のようなことを言っている(日本でいわれるポストモダンには雑多な概念が入りこんでいて、なにか雑な感触があるが)。『情報様式論』(岩波書店、'91年)という翻訳が読めるらしい。
《ポストモダンの主体性がどのような様相を帯びるのか定かではありませんが、基本的にインコヒーレント(首尾一貫性のない、支離滅裂な)なものとなるでしょう。この長期に及ぶ移行期においては、さまざまな事態が、あるときには暴力的な形態で出現したりしますが、近代の設定した境界が崩壊して新しいグローバリズムが生じつつあることに間違いはないのです。》
 インターネット上の情報を見始めてまだ半年というところであるが、上記のような言い方にはなにかフィットするような考えを持っていた。極私のところから(たとえば机上から)情報を発信できるということの濃度がこれほど高い媒体はいまだかつてないのではないかと思う。ここにはいわゆる日本的な韜晦とかまやかしはすぐさまむき出しにされる、安心感がある。支離滅裂というとスキゾキッズというような、大分まえにはやった言葉を思い浮かべるが、この点からいえば、まず地球大にデータベースが広がり、現在はたとえばHTMLの定義タブのようなものが、こまめに丹念に収集されていくことも間違いない、ということからいえば、事態は「支離滅裂」とは少し違っている。これは引用の後段の「新しいグローバリズム」には一致するけれども。
 むしろ言語や国境を越えるときの、軋みや困難と同時に、それぞれが今まで受け入れてきたポストモダンの実態を「極私」的に触れられることが、爆発的な好奇心の渦を作り始めているという比喩はどうだろうか。ここの基底には今なら技術的なHTMLの世界的な扱いについての思想や、新しいJavaなどのテクノロジーがある。これらは洗練されつつ、また新しい技術に取って代わられるかもしれないけれども、好奇心の渦を止めることはもう決してできないような事態となっている。


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