ゼビウス(1996.7.3)

ゼビウス(1996.7.3)



 もう15年以上前になるが、仕事の帰りにゲームセンターで毎日のように「ゼビウス」をやっていた。仕事先から家へまっすぐ帰らずに、ちょっと気分転換したほうがいい、というような話を聞いたこともあるが、このゲームの面白さにのめりこんだこともある。
 だんだん上手になって20分から30分、50円でつぶせるようになった。そのうちファミリーコンピューターが売り出され、さっそくゼビウスを買った。しかし、これはジョイスティックがなく、勝手が違ううえに映像も粗い。そのうえ、いちばん大きなキャラクターである「アンドア・ジェネシス」が飛ばない。そういう不満もあったが息子といっしょによくやった。
 それからしばらくするともうゲームセンターからは姿を消してしまった。きっと、飽きられてあまり人気がなくなり儲けがとれなくなったのだろう。たまの旅行などで、宿に古い機械が設置されていることなどあって、懐かしくやる程度になった。
「現代思想」という雑誌に中沢新一がたしか「ゲームフリークはバグと戯れる」という後に『雪片曲線論』という本に収録される「ゼビウス論」が載った。簡単に言ってしまえば、(このゲームをやったことのない人はわからないかもしれないが)ときどき現れるバグに神秘性を感じるというようなテーマだったと思う。具体的にはゲームの空間が先にワープしたり、グロブターという戦車(?)が破壊された焼けた跡の下を通るとか、ゲームのステージとステージの間の「森」に建造物が出てくる、というようなバグである。
 中沢新一については『チベットのモーツァルト』の最後のほうの文章で、頭の穴に草の穂を入れたというような記述があり、「ほほう」という感じで、彼の批評はエンタテインメントという捕らえかたをして、部分的には真剣に読んだがのめりこんで読んだ記憶はない。しかし、「ゼビウス」を捕らえた目の付け方はやはり、宗教学のほうにも及んでいるのであろう、それぞれに面白く読んでしまう。
 そしてまた、プレイステーションでアーケード版ゼビウス復活である。これも、息子が買ってきたプレイステーションにジョイスティックを買ってきてつなぎ、また盛んにやるようになった。これは「ナムコ博物館」の中に入っているというぐらい、化石みたいなゲームということなのかもしれないが、ちゃんとバグもそのままになっている。先の中沢の文章にはたしかゲーム発達史のようなものが、まくらに書いてあったが、「スーパーマリオ」そして「バーチャ・ファイター」の登場は映像ではまた一時代を記したろう。そしてまた、3Dのゲームですばらしいのが出てくる可能性もある。
 たぶん息子の世代は一生ビデオゲームをやり続けるだろうし、遅れてきたゲームおじさんもやり続けるだろう。ところで妻は今日、血圧計を買ってきてもう何度も夫婦で測った。僕にはふと犬の血圧を測りたいという考えがよぎる。たぶん、彼は測らせてくれないだろう。

|
清水鱗造 連続コラム 目次| 前頁(辞書 その1(1996.7.10))| 次頁(インターネットと「好奇心の爆発」(1996.6.22))|
ホームページへ