吉本隆明の『死の位相学』(1996.8.7)

吉本隆明の『死の位相学』(1996.8.7)



 吉本隆明の本は大抵買う。文庫になったものも買うことがあるから、これはもう前にも書いたように集めているといっていいかもしれない。そして、現在生存している日本の思想家では最大の人であるのは間違いないと思う。
『死の位相学』('85・潮出版社)は買ってあったが、ちょっとその主題が怖くて未読だった。父が死んでから新盆のとき、突然この本を読みたくなった。というわけで、いまこの本を読んでいる。この本は初めにかなり長い序として「触れられた死」という論文が載っている。「潮」誌上でのインタビューがあり、資料として、吉本の講演録、臨死体験の記録、参考文献とつづく。参考文献は充実しており、よく聞き手の高橋康雄や編集者が集めたな、と思わせる。もちろん吉本自身もその収集やピックアップに参加しているのだろう。
「触れられた死」では、「死」に関する重要な思想――モーリス・ブランショ、ヘーゲル、サルトル、M・フーコー、ハイデッガーを引用して考え、次のような結論的記述で終わっている。

わたしたちはこの補考でひとりでに、「生命」と「死」とが強い隣接感で「組み」をつくっているという前提にたって論議をすすめてきた。これには人間の理念がたどってきた正統の根拠と、感性的な自己同一性とが内包されている。そしてこの「生命」と「死」の概念が、亀裂を生じ、解体をうけつつある過程は、ただ「死」の近傍でだけ生じうる。このばあいに人倫体としての人間の存在の仕方は消失しているとみなされている。この過程であらわれるのは、すでに死につつある生体組織、すでに死んだ生体組織、まだ生きて機能しているわずかな生体組織のあいだの身体内反応と無反応の図表が、いわば摂動として表出する感覚的な現象の諸単位の干渉であり、そこに局限された活動だけだといえる。人倫体としての人間の最小限の存立の根拠は、ヘーゲル的な用語でいえば「直接的な理念」としての「生命」が肉体の内部に「魂」としての「概念」を産出していることである。ところでこのばあい「死」の近傍ではすでに、概念は「生命」と「死」との組みあわせの図表に拡散することで輪郭を解体してしまっている。人倫体はすでにこの状態では存在することができない。


 難しいが、現代の「死」が、既成概念ではとらえきれないところまでの幅をもたなくてはならない問題に直面していることはよく理解できる。それは脳の死や、ここに引用されているフーコーの『臨床医学の誕生』に描写された緻密な現代の「死」において展開された新しい「死」への視点から、さらに新しい視点への方向が示されている。
 この本を読みつつ、初めに恐れていたのと違って、かなり爽快な本だなという印象をもった。
 3日前ぐらいまで続いた暑さで、「天才バカボン」に出てくるおまわりさんがピストルを乱射する気分がわかる瞬間があった。もちろん表面はにこやかに汗をぬぐって「きょうも暑いですね」などと言っているわけであるが。そういうときには『中原中也詩集』を読むと不思議に波長が合う。普通は感情の図表までもが、気温や雑事に左右されて制御できないというところか。

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