カオス(1996.8.21)

カオス(1996.8.21)



「中央公論」に連載されている田原総一朗のインタビュー「科学はどこへ行く」は今年の9月号で9回目になるが、立花隆の先端科学への関わりと興味の方向が一致しているところがある(僕のホームページの東大駒場サーバ・ホームページリストにも立花隆のホームページがある)。9月号はカオス研究の合原一幸氏である。このインタビューでは、後段に実用方面への利用にも触れているが、カオス理論は文学にとっても新鮮な見方を提供するといってもいいのではないだろうか。柄谷行人が『隠喩としての建築』で、ゲーデルの不完全性定理から触発(?)された批評を展開して、「憂鬱」な感じの結論にたどりついていたと思うが、あの楽しい本、ダグラス・R・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』を読んだところから始まっているのは意外だった。あんな楽しい本から「憂鬱」な雰囲気になるところが意外なのだった。
 合田一幸氏の話はローレンツ・アトラクタの話から始まって、簡単な歴史、人間や生物に見られるカオスの話がでてくる。カオスに関する科学読み物は数冊読んだが、ジェイムズ・グリック『カオス――新しい科学をつくる』(新潮文庫)が科学史の読み物としてはまとまってカラーの図版も楽しい。マンデルブロ集合のCGはまったく壁に貼り付けておきたいように美しい。
 たとえば、森の写真の葉群れの一部を切り取る。そして、別の葉群れの任意の位置にそれを置くと自然に初めの葉群れは区別できなくなり、任意の位置の映像に融合する。小さな初期値が後で大きな違いを作っていくというのが「バタフライ効果」だが、言葉がもともと記号としての種は「恣意的」なものであるとはソシュールがその言語論の基盤に据えているところである。ソシュールは人間の口の構造、声帯の図解までしてその初めの「恣意」の基盤を明らかにした。そうすると、自然言語は生物のカオスに一致していく、といっていいのではないだろうか。いちばん情報が豊富なのは定義されていない乱数である。そうすると、ソシュールが晩年にアナグラムを研究したことの意味もわかるような気がしてくる。
 ちなみにウチの犬はChaos(カオス)という。たまたま、家族がカオスの本を読んだ時期にカオスは生まれて、ウチに来た。

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